「………鉄砲では範囲……防がれ…」
「……なれば…月輪隊…弓矢で………」
話し声に脳を揺さぶり起こされた安奈門は、夢と現の境目にある意識に声の主を探らせた。聞き覚えのある三人の声が途切れ途切れに聞こえている。声の主に見当がついたので、心臓を下にした体勢から短い両腕に力を入れ上半身を起こした。
横を向けば、輪になって座る雑渡と山本と高坂が此方へ一斉に顔を向けた。帰宅してそう時間も経っていないのか、三人とも忍び装束を纏ったままだ。複数の視線と絡み合う安奈門の目は蕩けていた。だらける瞼を擦った後、口元を片手で覆い、大きく欠伸をする起き抜けの安奈門に雑渡が問いかける。
「硝石を増すと?」
「火が強くなる」
「馬糞は?」
「火持ちがよくなる」
「硫黄は?」
「勢いよく青色に燃える」
「目は?」
「覚めました!」
そう言って安奈門は床を軋ませる事なく、小袖の裾を床に擦り付けながら四つん這いで雑渡に這い寄る。雑渡と高坂の間に割り込んで、こじんまりと正座をした。加わった輪の中心には三つの湯呑が盆に乗せられ床に置かれていた。安奈門には未だ価値のわからぬ、雑渡が殿から賜った唐物の湯呑である。
「飲んでもいいですか」
雑渡の前に置かれていた湯呑を指さしお伺いを立てた。高坂の眉間に苛立ちが上る。その苛立ちなど、かさつく喉の渇きの前には知った事ではない安奈門は雑渡の顔を見上げた。それに雑渡は包帯の巻かれていない、鋭く抜けた眦をした右目の下にある、薄い目袋を弓形にしならせ許可を出した。
温もりが残る湯呑の側面を両手で持ち、静かに茶を胃へ流し込む安奈門の柔らかな髪に雑渡は五指を通した。腰付障子を介し、差し込む淡い日光が安奈門の絹髪に反射している。
面皰も爛れた傷跡も存在しない、程よく付いた肉を覆うまろい玉肌に映える、自分と同じ色をした美しい髪である。自毛では味わえないするりとした感触を堪能しながら、雑渡は「お前は目玉が動くだけでも可愛いね」と口角を緩ませた。
「何の話をされていたのですか?」
喉を潤わせた安奈門は音を立てず湯呑を元の位置に戻した。斜め上にある雑渡の顔を見つめ小首をかしげる。
「陣形の話だよ」
「孫子も碌に活用できない子供には難しい話だ」
高坂の煽りに丸い頬を更に丸くし睨みつける安奈門を、雑渡は膝を軽く叩いて呼び寄せた。横座りから胡坐に足を組み換えれば、安奈門はおずおずと手足を丸めその上へ乗った。
今と同じように膝の上へ乗せた雑渡が安奈門の手を掴み「お前は手足が大きいのだからとんでもなく背が伸びるだろうね」と言ってから何年経ったか。そう追懐の情に胸を満たされる。
女児ではあるが、安奈門は同年代の子供と比べると背が高く、齢九つで雑渡の臍辺りに頭が来る程になった。里の年近い女子と遊ばせれば抜きん出た背が存在感を放った。それは忍術や体術を会得する際にも発揮された。上背がある安奈門は、背丈の力で相手を捩じ伏せてしまうのである。
これでは術理が身に付かないと考えた雑渡が、年上や同じ背丈の男子と稽古させた程であった。それによって安奈門は力押しで誤魔化す事なく術理を身に付けそれを重んじた。時には大人を相手取る事もあり雑渡も直々に稽古をつけた。
そうして男なりせばと落胆する周囲を尻目に、人知れずほっと胸を撫で下ろしたのは記憶に新しい。これが男であったなら、安奈門は雑渡の跡取りとして担ぎ上げられていたかも知れなかった。心血を注いででも回避したい事態である。
火傷から回復したばかりの体を刺激しすぎないよう、慎重に体重を預けた安奈門の表情はむくれたままである。それに高坂は眉間の皺を深め小さく鼻を鳴らした。
「悔しければ早く鎖帷子を脱がせてみろ」
「素っ裸にひん剥いてやる」
「こら、安奈門。口が悪いよ」
右手で掬い上げるように、柔滑な頬を優しく摘ままれた安奈門は抗議の声を上げた。あと四か五年もすれば、いじらしく尖る唇に美しい紅を乗せ汚い言葉は鳴りを潜める。大人を駆り立てる加護欲から異性を誑かす情欲を醸し出すようになるのである。
そうなれば、里の者へ嫁がせると雑渡は決めていた。まかり間違っても武家には決してやらぬ腹積もりであった。嫁へやるなら自分の目が届く、忍び里の忍者として活動していない者か、医者もしくは薬師か商家の人間に限ると思っている。
「陣内、陣左、また私に何かあったら安奈門を頼むよ」
頬を摘まんだまま雑渡は、顎下にある安奈門の旋毛から山本と高坂へ視線を滑らせた。発した言葉の重みとは裏腹に声音は非常に軽く申し訳なさも感じられなかった。少しだけ前のめりになりながら山本は語気強く諫言する。
「やめてくださいそのような縁起でもない話」
「例え私が死んでも、私が伝えた忍術をお前たちが里の者へ伝えて行けば、私は死んでいないのと同義だ…私は術理となって生き続けるんだよ」
「…もし組頭がお亡くなりになられたら、私は尼になって菩提を弔います」
「そうするなら僧名をつけなさい。間違っても尼名をつけないように。安奈門、返事」
はいと素直に返事をする安奈門の脳裏に、布団の上に横たわり死人に縛られるなと弱々しく此方に告げる雑渡の姿が浮かんだ。包帯の隙間から覗く目と口の茶色い皮膚に、水練の最中に生じるあぶくのような水膨れが潜んでいた。悪寒が背筋をなぞり顔を土色に変えた光景は、寝つきの悪い日に夢となって表れる。
血の繋がった母が早逝してしまい、父もいない安奈門は育ての親である雑渡に、見返りを求めず、全てを投げ打ち庇護をしてくれる確かな父性を求めていた。血の結びつきによってその強度が違うのではないかと不安を煽るのに「組頭」と呼んでいる事が一役買っていた。
一度、山本の長子を真似して父上と呼んだ事がある。それに「私は安奈門の父親じゃないからね。組頭と呼びなさい」と素っ気なく返されたのである。
稽古以外では父親のように接してくれているものの、血という隔たりに喉から手が出るほど欲している父性を阻まれた。嘘でも父と呼ばせてもらえない、体内に通う液体を構成する小粒の壁がどうしようもなく大きかった。それを永劫、手中に納められぬまま遺される恐怖を誰も知る由はない。
目を伏せ空になった湯呑みを眺めながら物思いに耽る安奈門の耳に、遠方から響く鐘の音が飛び込んだ。弾かれたように顔を上げる安奈門を雑渡は膝から退かし立ち上がる。そして山本と高坂を伴い早足で玄関の方へ向かっていった。
「私が声をかけるまで隠れておけ。少しでも危ないと思ったら迷わず隠し通路を使え」
荒々しく開閉した引き戸の音と湯呑を残し、鐘に呼ばれた三人は外へ出て行った。安奈門は早足で湯呑を横切り、襖の引手に指をかける。中にはどんでん返しがある。ぐっと腕に力を籠めようとして、思いとどまった。
敵襲を知らせる鐘が鳴る事は滅多になく、経験したのは片手で数える程度である。加えて雑渡が加勢しに出て行き、外でどういった戦闘が行われているのか好奇心が首をもたげた。
引手から指を離し、離れた場所にある敷居の際まで駆け寄り、床板の一部を剝がした。中には忍刀が窮屈そうに納められている。それを手に取って蓋を元通りにすれば、先ほど横切った湯呑の先にある玄関に向かって裾を乱れさせ走った。
引き戸に指をかけ、そろっと小指程の隙間を開け外を窺った。ふと遠くを走る自分より少し年上の、緑色の小袖に紺の袴を身に纏った少年の姿が見える。真正面を走り去ろうとしているその横顔に見覚えはなかった。侵入者だと目を見開いた瞬間、顔が此方へ向き視線が絡まった。
けたたましく引き戸を閉め、大急ぎで襖まで引き返した。忍刀を握る手に力が入り汗が籠る。引手に指をかける直前、玄関から「安奈門」と呼名された。ぴたりと伸ばした指を空中で留める。しかし次には勢いよく振り返り、その場で静止して、玄関先の引き戸を観察する。そこには大きな影が浮かんでいた。耳に溶ける低く落ち着いた声が、もう一度「安奈門」と呼名する。
「組頭?」
「帰ったよ。ちょっと手が塞がっているから、扉を開けて欲しいな」
「っはい!今開けます!」
軽く足裏を床に叩きつけ踏み鳴らす安奈門は玄関に着くと、嬉々として引き戸を開けた。雑渡を迎えるべく携えた笑顔は、困惑へと様変わりした。
眼前に、先ほど目が合った少年の襟首を左手で掴んだ雑渡が佇んでいる。
「間違っていると思うか?」
びちゃびちゃと粘着性のある音が雑渡の声に覆い被さって聞こえる。首から地面に鮮血が滴り落ち、血の池を産み出していた。雑渡は右手に握っていた苦無を地面に落とし、首に真一文字の傷を施された少年の髪を掴み上げた。
「ほらよく見てごらん」
苦悶に歪んだ顔を見せつけられる。半開きの口からがひゅがひゅ血とともに漏れる呼吸に、限界まで見開かれた瞼の、中央にあるはずの黒目は上瞼に食い込んでいた。裏返しにされた虫のように四肢を藻掻かせる少年に、二の句を告げず頬を引き攣らせる。
そしてこれを正しい行いであると思わねば、この先は生きて行けぬと悟った。いかに年近い少年とはいえ見逃せず、同情も共感もしてはならない。仄かに漂う甘い香りが鼻腔に纏わり付き、眦を痙攣させる。肺にまで染み付く匂いから逃れるため、片手で鼻を押さえた。
「お前、忍者に向いてないかもねぇ」
それを眺める雑渡はにんまりと頬骨の上に薄い肉を盛る。心底から嬉しそうに笑っていた。いつの間にか動かなくなった少年と同等に気持ちの悪い笑みだった。