不意に髪を揺らしたその風に、首元の汗を乾かす冷たさと少しの火薬の匂いを感じた。近くで祭りでもあったのだろう。住み慣れた町は、どこか浮き足だった気配。左腕に目を落とすと、思ったよりもまだ早いその時間。子供の頃は、祭りの終わりには随分と夜更かしをした気になっていたというのに。珍しく少し早めの退社が叶った日。このまま家に帰るには物寂しいけれど、誰と連絡を取り合っている訳でもなく、一人で祭りを巡るほどの熱量もない。ならば、奇跡とでも思える偶然があればいいのに。そんなことをぼんやりと思っていつもよりもゆっくり歩いていたら、もう二度と聞くことは無いと思っていた声が、わたしの名前を呼んだ。

「久しぶりだね。少し、痩せたかな」

 夏油傑。懐かしき学友。確か、呪詛師になったんだっけ?

「案外普通に会えるもんなんだね」
「フフ、それってどういう意味だい?」
「いやだってアレでしょ。夏油って今、わたしたちのところで言う指名手配犯みたいなもんでしょ」

 キャア、コワ〜イ。オクターブ音を上げて白々しく言ってみれば、彼はわたしの知っている顔で笑うから。ぎゅっと眉間に力を込めた。

「夏油は髪が伸びた」
「うん。それもそうだけど、私も痩せたよ?」
「へえ。でも昔の夏油覚えてないからわかんない」

 なぁんて。嘘。痩せたと言うよりも、やつれたに近いと思う。だって、全部覚えてるもの。夏油の全部。少し低めの体温とか。安心を覚える心地いい声色とか。幸薄な顔に似合わない福耳とか。最後に会った日の爪の長さまで。

「今日は胡散臭い袈裟服じゃないんだ」
「流石に四六時中着ている訳じゃないよ」
「まぁでも、ちょうどいいや」

 ちょっと、付き合ってよ。
 不思議そうに首を傾げる夏油は、少し幼かった。
 
 
 
 焼きそば。たこ焼き。じゃがバター。イカ焼き。お好み焼き。ソースせんべい。ベビーカステラ。林檎飴。こう考えると屋台の食べ物って『焼き』が付くものが多いんだな。目に付いたもの、気になったもの、全部買えるのが大人の特典。どれだけ食べる気なんだ? とでも言いたいのか、目を丸くした夏油を無視してどんどん屋台を巡る。そうして夏油の両手がもう食べ物を抱えきれなくなった頃、最後にビールを二つ。それだけはわたしが持って、小走りに神社の階段を駆け上がる。おあつらえ向きなその境内にはチラホラと人がいて。そのほとんどがカップルと思われる人々だったことに一人で勝手に気まずさを感じながら、奥の方、少しでも人が少ない場所を選んだ。

「はい。乾杯」

 水滴を身に纏った紙コップを夏油の眼前に突き出す。すると夏油は少し逡巡する様子を見せた後、仕方なしにとでも言うように彼の分の紙コップを私と同じ高さに合わせた。はい。乾杯。

「一人だと色んなのは食べられないからさ。夏油に会えて本当ちょうどよかった」

 写真を撮る時みたいに力強く屋台のおじさんにピースサインを見せたので、お箸はちゃんと二膳ある。地面にフードパックに入ったそれらを置いていく。行儀が悪いと言われようとも、これが祭りの醍醐味。林檎飴はちゃんと持っていてね。キツく言えば夏油は呆れたように笑った。その顔も、わたしは知ってるよ。

 豪華屋台飯のフルコースを二人分にそれぞれ分けながら、一人でぱくぱくと食べ進める。夏油はというと、付き合いで一口ビールに口を付けた後、頬張るわたしをただ静かに見つめていた。正直、食べる姿を見られるのは得意ではない。それでも、久しぶりに会った夏油と改めてキチンと会話をするよりは随分とマシだと思えた。

 ああでもコレ、明日は胃もたれ必須だなぁ。

「ごめん、お腹空いてなかった?」
「……いや、私のことは気にしなくていいよ」

 綺麗に半分残った品々を見て、夏油に問う。そう言えば、夏油って底抜けに優しかったな。彼の言い淀む様子を見て、そんなことを思い出した。

「そう? 夏油って割とたくさん食べるイメージあったけど。食が細くなったんだね。あ、だから痩せたの?」

 これは、もちろん嫌味。だって知っていたから。夏油が非術師を憎悪していて、それらの力を借りずして生きようとしていること。

「……君って、そんなに意地悪だったっけ?」
「まぁ、あの頃は夏油に良い顔しようとしていたからね。本当のわたしはこんなものよ」

 たっぷりと残った夏油のビールを奪ってぐびりと飲む。すっかり温くなったそれに、なんでかわたしがさっきまで飲んでいたものよりもずっと酔いを覚えた。疲れた身体には背の高い紙コップ一杯分のビールが十分にシミるのよ。だって、さっきよりもずっとフワッとした気分。でもね、酔いと言うのは子供は知らない大人の無敵装備。

 そう。つまり今のわたしは無敵なの。ずっと胸に秘めていて、怖くて言えなかったことも言えてしまうの。

「ねぇ。呪術師であることから逃げた、そんなわたしは夏油にとって淘汰するべき存在?」

 再会してから初めて、目を真っ直ぐに見たのかもしれない。人を寄せ付けないように思わせる、涼しげな目元。それでもずっと見てきたわたしにはわかる。今、その瞳が微かに揺れているのは、不安。本当は認めて欲しくて、寂しくて、誰かを求めているからだって。そして願わくば、その誰かはどうかわたしであって欲しい。

「本当に。君がそんな意地悪だとは知らなかった」

 戸惑う大きな手を、自ら手繰る。久しぶりに頬を寄せたその手はやはり少し冷たい。手が冷たい人は心が温かいとかいう、なんの根拠もない通説があるよね。そんなことをふと思い出した。

「わたしを置いてったんだもの。少しの意地悪くらい言わせて」
「でも君は私たちの世界から離れたじゃないか」
「それだって夏油の所為よ。だって、だって」

 貴方がいなくっちゃ。あんな世界で頑張れない。

「傑が一緒なら、どこだってよかったのに」

 いつの間にか、落ち着かない町の空気も声を潜めて話していた男女の姿もなくなっていた。足元に広がるのはすっかり放置された祭りの余韻。ほら、傑が食べないから。気が付けばおぞましい数の蟻が集っている。

 ああ、もう。残っているのは、傑が大事に持っている林檎飴だけじゃない。

「それ、ちょうだい」

 右手をずいと差し出せば、従うように林檎飴は手渡された。ガブリと齧りつく。風が秋をはらんでいても、依然として残る蒸し暑さの中で放っておいていたからだろう。ベタリとまとわりつく飴は、不愉快。それでも求めてしまうのは、その魅惑的な甘さの所為なのか。指の腹で口元を拭う。林檎を綺麗にコーティングしていたはずのそれは今では溶け出して、てらてらと境内の灯りを受けていやらしく光っている。その輝きをぼんやりと見つめていると、不意にその手を掴まれた。弾かれたように行き先を見れば、眉根を寄せた傑がいる。苦悩なのか、欲なのか。いずれにせよ強い何かを抱えて、わたしに訴えかけていた。

「それ、私にちょうだい」

 ぬるりと、傑の舌がわたしの指に絡まる。飴の甘さなんてすぐに無くなるはずなのに、爪の形まで確かめるよう執拗に。吸い付く唇は柔らかくて、やさしく歯を立てられてしまえば指先から全身にビリビリと電気が走るようだった。

 ちゅ、とわざと音を立てて離れていく。刺すような鋭い視線がわたしを捕らえて、息を呑んだ。

 どうしよう。だってもう、目を逸らせるわけがない。

「……まだ、全然足りない」

 もう片方の手首も掴まれて、林檎飴がボタリと落ちた。地面に転がる傑のと、わたしの林檎飴。ツルリと輝く美しい二つの赤。きっとそれも、やがて蟻に喰い散らかされて共々醜くなっていくのだろう。それでも、貴方と一緒なら例え地獄でも。
 
 初めてのその口付けは甘くて、罪のような味がした。こんな甘美な罪なら、いくらでも重ねよう。


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