隣人は朝が早く、夜が遅い。平日だろうが休日だろうが関係なく、お隣さんは必ず朝5時に起きる。わたしは壁を越えて聞こえる料理の音で目覚める。夜は何時に帰ってきているのかわからない。わたしが仕事を終えて帰宅するのはだいたい20時から21時の間だけど、ときどき壁の向こう側からかすかな音が漏れ聞こえることもあれば、まるで気配のしない日もある。一ヶ月に一度か二度、夜明け頃に隣のドアが開いて閉まる、きぃっというわずかな音を耳にすることもある。
 表札もなく、郵便受けにも名前を書いていないお隣さんについて、引っ越してきた当初はいろいろな考えを巡らせた。このアパートは普段使いではなく、なにか後ろめたいことをしたときに帰ってくる場所なんじゃないかとか、世界中飛び回っているような商社マンなのかなとか、ほんとうに様々な想像をした。でも、数ヶ月も経てば、不思議な隣人もただの隣人になり、気にならなくなる。今となっては、隣の住民はただの目覚まし代わりの存在だった。
 久しぶりにお酒をいっぱい飲んだせいでぐるぐるする視界を落ち着けようと、ドアにもたれてしゃがみ込んだ。会社近くの飲み屋から駅まで、駅から家まで、よくがんばって歩いてきたと思う。あとは、鞄から鍵を取り出して扉を開き、ベッドに直行するだけなのに、わたしはへとへとに疲れていた。電池残量はゼロです、今すぐ交換してください、という声が右から左に流れる。ぐわんぐわんと揺れる蛍光灯をぼうっと見上げた。もはや指の1本も動かせそうになかった。床からスカートで覆われた臀部に直接、昼間コンクリートが蓄えた熱がじんわりと伝わってきた。このまま、眠ってしまえそうだ。わたしはまぶたを下ろした。目の前の世界がたちまち暗闇のなかに消えた。コツコツと規則的な足音が遠くから聞こえている。
 そっと首元になにかが押し当てられた。海の底のような不鮮明とした場所に漂っていたわたしの意識が大慌てで首の皮膚に駆けつけた。それは数秒間、首元に当てられていたが、小さな声と共に離れていった。ほっと安心して肩の力を抜く。
「もしもし、起きてください」
 ぐらぐらと脳みそが揺れた。何度か左右に揺らされると、次は前後に揺さぶられた。なんだなんだ、何が起きている、と布団に潜り込んで寝ようとしていた意識がパッと飛び起きた。接着剤でくっつけられたかのように動かないまぶたを無理矢理押し上げる。
「起きましたか?」
 そこにいたのは、正真正銘のイケメンだった。風が金色の前髪をさらさらと揺る。真夏の青空のような色の瞳がわたしをのぞき込んでいた。髪といい、目といい、褐色の肌といい、まるで夏の神様に愛されてきているような見た目をした、顔立ちの整った男がいた。
「302号室の方ですか?」
 彼は焦点の合わないわたしの前で手をひらひらと振った。頭の中にかかっていた靄が徐々に晴れる。302号室という言葉が耳に入って、わたしはほとんど無意識のうちに首を縦に振った。胸のあたりがムカムカとして自然と顔をしかめた。
「大丈夫ですか? ここがどこだかわかりますか?」
「……はい、だいじょうぶです……」
 だんだんとわたしは、自分の部屋の前で力尽きて座り込んだことを思い出した。鞄のどこかにある鍵を探すのが億劫で、同じくらい立っていることも面倒で、腰を下ろしてしまったのだ。目の前の人は扉の前で死んだような女が見えて心配してきてくれたのだろう。大事になる前に起こしてくれた彼に、ありがたいような、恥ずかしいような、申し訳ないような、いろんな感情がないまぜになった気持ちがわき上がってきた。
 床に手をついて立ち上がる。多少ふらつくと、すぐに男性は手を差し伸べてくれた。わたしは彼に向かって深々と頭を下げた。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。声をかけてくださってありがとうございます、助かりました」
「どういたしまして。よかったです、なにかが起きる前で。どこも危ないですから今度からは気をつけてくださいね」
 彼は、頭を上げてください、と笑った。そして、わたしの右隣の部屋を指さす。
「僕、303号室の者です。助けが必要だったら呼んでください」
 瞬間、眠気とか疲労とか、体の中で渦巻いていたものが一気に吹っ飛んだ。前日の就寝時間に関わらず、毎朝5時に必ず起きる、郵便受けにも名前がない謎多き隣人がそこに立っていた。


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