ナマエの通う海南大付属高校から電車で三十分程のこの辺りは、目の前に海、そしてそれを背に少し坂を登れば、海に映える新築物件が多く立ち並ぶ。ここ数年は県内外を含めた他所からの移住者も増えているような場所だった。
 かくいうナマエの家族も、彼女の海南への進学が決まったことを機にこの辺りへと引っ越して来た。元々サーフィン好きの父の意向もあったのだが、当初ナマエは、あまり乗り気ではなかった。地元には小学校からの友人も数多くいる。そこから離れてしまうということは、友人らとも疎遠になってしまうのではと思ったからだ。
 しかし実際蓋を開けてみたところ、そんな心配は皆無だったことをナマエは知る。そもそも高校と中学では、誰しもが生活内容ががらりと変わるもので。ナマエも新しくできた友人らのおかげで、当初感じていた心配事は数ヶ月後にはすっかりなくなっていた。
 そんなこんなで、張り詰めていた緊張の糸は三年経った今ではすっかり緩くなり。休日には歩いて数分で海へと行けるこの場所は、今ではナマエのお気に入りとなっていた。
 そして今日は日曜日。海南バスケ部にとっては、週に一日しかない休日だ。
 ナマエは今日も一人、いそいそと海へ向かっていた。


 海に付いた瞬間ビーチサンダルを脱ぎ捨てると、ナマエは迷うことなく海へ入っていく。脛の半分くらいまで浸かると、たった数分歩いただけで熱を持った身体が、一気に冷やされていく感覚がした。
 昼間の強い日差しを避け少しだけ光が柔らかくなる夕方に海を見に来るのは、ナマエにとって日曜日のルーティンワークとなっていた。
 海沿いに住んでいるのだから海など見慣れているだろうと言われることが時々あるが、その度ナマエは、そんなことないと返事をする。海は毎日毎秒、魅せる顔を変えていく。特にナマエは、人影が少なくなり始める夕方の海が、いっとう好きだった。
 足の上をさらさらと流れていく砂の感触に心地良さを覚えながら、波を横切るサーファーたちをぼんやり眺める。いくつかの黒いシルエットが夕陽を背に沖からこちらへ戻ってきているところを見るに、そろそろ終わりの時間らしい。
 今日はここへ来るの自体いつもより少し遅い時間だったからか、少しぼんやりしている間にも辺りは暗くなり始めていた。いくら夏で日が長いとはいえ、のんびりしているとあっという間に暗くなる。その前に帰らなければ。
 その時、湿った砂にやや埋まりつつある足を見下ろし、「そういえばタオル忘れたな」と軽い後悔をするナマエの耳に、不意に「すみません」という声が響いた。

「はい?…あれ、牧じゃん」
「お、やっぱりナマエだったか」

 視線を上げると、そこには見知った顔があった。サーフボードと焼けた肌が、まるで本業かのように似合う。夕焼けの元歩いてきたその男は、ナマエがマネージャーを務める男子バスケ部主将、牧伸一だった。
 乱れた髪を無造作にかき上げたところを見るに、たった今波に乗ってきたところなのだろう。

「驚いたな。家この辺りなのか?」
「うん。ここから歩いて十分もないかな。よく散歩に来るんだよね」
「へえ、それはいいな。ここは波が穏やかだから乗りやすいし」
「あーやっぱりそうなんだ。どうりで最近サーファーが増えたわけだ…なに、今日は一人で来てるの?」
「あー…今日は三人だ」
「へえ。友達?」
「いや、清田と…」
「俺ですよ」

 牧の言葉を遮るように、自らの背後から聞こえた声に、ナマエは分かりやすく身体を強張らせた。目の前にいる牧が「しまった」という顔になる。

「神…」
「奇遇ですね。ナマエさん」

 ゆっくり、ぎこちなく振り向いたナマエとは裏腹に、爽やかな笑顔の神。その手にはペットボトルが三本。どうやら飲み物を買いに行っていたらしい。
 先ほど一人で来たのかと聞いた時、牧が一瞬迷ったような顔をした理由が分かった。今更分かったところでどうしようもないのだが。

「牧さん待ってくださいよ〜!…あれ、ナマエさんだ!お疲れ様っす!」
「はは…お疲れ清田……」

 慣れない海に足腰が疲れ切っているのか、おぼつかない足取りでやって来た清田は、ナマエを見るなり勢いよく頭を下げた。

「ナマエさんもサーフィンしに来たんすか?」
「いや、まあ…ちょっと散歩に…」
「じゃあこの辺りが家なんすね。いいな〜海近くて」
「そうね…うん……」

 なんて暢気な会話だろうと思いつつも、いつも元気で騒がしい清田の性格が、若干気まずい空気が流れていたこの場においては非常にありがたかった。
 引きつった笑いを浮かべるナマエは、少し後ろに立っているであろう神の顔を見ることができないでいた。背中に感じる痛いほどの視線に、夏にもかかわらず身体がどんどん冷えていく。

「…おい清田、お前まだもう一本乗れるだろ。行くぞ」
「え、あ、ハイっす!」
「ちょ、っ牧!」
「悪いな、ナマエ」

 この薄情者!そう心の中で叫ぶも、それが牧に伝わることは当たり前だがない。どうやら神はもう海には入らないらしく、「俺ここで待ってます」と、どこか弾んだ声で返事をしていて。牧は疲れた様子の清田を連れると、逃げるように海の方へとかけて行ってしまった。
 ぽつんと残された二人。ナマエがもっとも避けたかった状況ができあがってしまう。

「…じゃあ、私はそろそろ帰……」

 それでもなんとか逃げ出せるのではないかと、ナマエは熱い砂浜に構うことなく海から出ると、脱ぎ捨てたビーチサンダルを探す。
 ところが、なぜか見当たらない。波に攫われぬよう少し離れた所に置いていたはずだから、海にもっていかれたということはない。いくら急いで帰りたいとはいえ、流石にこの灼熱のアスファルトを裸足で帰る勇気は出てこず、きょろきょろと視線を彷徨わせる。

「探してるの、これですか?」

 神は買ってきたペットボトルを片手で抱え、代わりに右手に、今まさにナマエが探していたビーチサンダルを、まるで見せつけるように掲げていた。
 大きく骨ばった手に、白い小花が付いた可愛らしいサンダルは、どうにもちぐはぐに見えナマエは頬を引き攣らせる。

「…返してくれない?」
「嫌です。だってナマエさん、これ返したら帰るでしょう」
「それは、まあ…」
「なので返しません」

 はっきりと、ばっさりと。躊躇なく返された言葉に、何故こうも自信満々なのかと逆にナマエがたじろいでしまう。
 敏い神のことだ。ナマエが醸し出す気まずさ全開のオーラに気が付かないわけがない。それでもなおそんな行動を取るということは、何か狙いがあるのだろう。
 少し悔し気なナマエの視線とは裏腹に、神はあの大きな黒い瞳をすっと細め、どこか楽し気に笑う。それは一見すると、普段清田ら後輩に見せている"優しい神先輩"の顔なのだが、どうしてもナマエにはそう思えなかった。

「この間の返事、してもらえたら返します」

 やはりそうだったか、とナマエは内心呟く。予想していた通りの答えは、彼女が今もっとも避けたい話題だった。
 神の言葉に一瞬にして蘇る記憶。それは部活も終わり、その後各自で行う自主練さえも終わり。それでもなおシュート練習をする神に付き合い、ボール出しをしていた時。400本を打った辺りで、突然神が動きを止めた。どうしたの、と声をかけたナマエを、まるで試合の時のような瞳でじっと見つめると、「ナマエさんが好きなんです」と。淡々と、けれどしっかりとした声色で、神はそう言った。
 まさしく晴天の霹靂。文字通りよく晴れ、星が綺麗な、春の日のことだった。
 その時は結局、ナマエが返事をする前に、静まり返った空気を切り裂くように体育館の扉が開き。「お前らまだやってたのか」という牧の言葉に慌てるナマエを見て、「俺はもう少しやっていくんで。牧さん、ナマエさん送って行くの、頼んでもいいですか?」などと、先ほどまでの空気など微塵も感じさせない、普段通りの雰囲気に戻った神に、なにも言えなかったのだ。
 それからというもの、ナマエは神の行動を意識するようになる。好意を示されたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、いざそういう目を持ち彼を見ると、"ナマエだけに対して特別な部分"というのが分かるようになった。
 例えば、部活前の準備の際には、一年生がいるにもかかわらず必ずナマエの手伝いをし。練習後は、シュート練習に付き合ってくれないかと変わらず頼んでくる。また学校内でも、ナマエを見掛ければ必ず声をかけてくる…等々。
 とはいえこれら全ては、それこそ覚えていないほど以前から、神が日常的にナマエに対して取っていた行動でもあった。好意を聞く前であれば「あいかわらず神は良い子だなあ」「よくできた後輩だわ、本当」などと呑気なことを考えていただろうぐらいには、当たり前となっているものだった。
 しかし今はそれらがナマエを当惑させ、気恥ずかしさを生み、たいして強いわけでもない心臓を何度も跳ね上げさせている。
 ただ一点、"好意"というものを向けられるだけで、日常だったものの感じ方がこうも変わってしまうものなのか。なによりも、神宗一郎という男は、ここまで自身に好意を寄せていたのか。
 牧や高砂などの同級生らにそう話したところ、皆に口を揃えて「今更何言ってんだ、お前」とまで言われてしまったが、気付かなかったものは仕方がない。
 これら全てが、約二ヶ月前のこと。ナマエはあの時以来、神から一切返事の催促をされていない。
 もちろんナマエが、気まずさからなんとなく二人にならないようにしているというのもあるが、なにより「好きなんです」と告げられた以外、なにも言われていないからだ。それこそ直接的な「付き合ってほしい」「恋人になりたい」といったものは、なに一つ。
 だからこそナマエは思った。思ってしまったのだ。
 ──これなら、全部無かったことにもできるのではないか、と。今思えば最低な発想ではあるが、当時のナマエには現状最も縋れる案でもあった。
 そうして意識しないよう努めていた罰が、まさか今になって回ってくるとは。しかも避けていた分の気まずさも携えて。
 普段通りにこにこ笑う神も、今回ばかりはどうにも恐ろしかった。

「…こんなこと聞くのも、あれなんだけど、」
「はい」
「神は、その…私と付き合いたいの……?」

 ついに聞いてしまったと思いつつも、ナマエは確信を持って尋ねる。こんなことを自ら聞くのはいささか恥ずかしさもあるが、これだけ時が経っても返事を要求するということは、つまりそういうことなのだろう。
 その考えはどうやら間違っていなかったようで。神は照れる様子もなくあっさりと、「そうです」と答えた。

「一年の時からずっと、ナマエさんが好きでした。今更諦めるなんてしませんよ」

 "できない"、ではなく、"しない"と。まるでそれが当たり前かのような力強い声色で告げられた言葉は、絶え間ない波の音の中でも、ナマエの耳にしっかりと届いていた。
 あの日以来必死に堰き止めていた感情が、もう限界だと脳内で訴えている。背中に冷や汗が流れる感覚に、ナマエはぞくりと身体を震わせる。

「あ、あの…神、私…」

 あの時と変わらず、神はこれ以上ないほど真っ直ぐ気持ちを伝えてくれた。ナマエも、いつまでも逃げてはいけない。気付かないふりをしていた答えを、言葉にしなければ。そう分かっているのに、言葉はなおも喉でつっかえてしまう。未だ捨てられぬ羞恥心が彼女の足を引っ張っていた。
 ナマエは神の瞳から逃げるように目を逸らし、逃げるようにぐっと身体を引いてしまう。無意識の防衛本能だろうか。けれどそれを、神は見逃してくれなかった。
 足元へ落とした視線の端。波が打ち寄せる砂浜にどさりと落とされたペットボトルに「あ、」と思った時には、ナマエの身体は神の腕の中へと閉じ込められていた。

「え、あ、じ、神っ、待って…!」
「嫌です」

 思わず胸を押して抵抗するも、許さないとでもいいたげに神の力が強くなる。
 より密着したことで感じる体温と、白いTシャツ越しに香る海と汗の匂い。耳元でどくどくと、うるさいくらい鳴り響く、心臓の音。

「…もう待ちたくない」

 聞いたことのない神の弱々しい声に、ナマエはついに全身から力が抜けていくのを感じた。
 もはや委ねるだけとなったナマエの身体を支えると、神はその柔らかな頬に手を添え、ゆっくりと顔を上げさせる。今度こそ抵抗なく向かい合うと、ナマエの顔は、夕陽に照らされただけとは思えないほど真っ赤になっていた。

「はは、ナマエさん顔真っ赤」
「言わないでよ…」
「…俺のこと好きですか?」
「わっ、分かってるくせに今さら聞く!?」
「ナマエさんの口から聞きたいんです。…ね、言って」

 返事を催促しながらも、神の顔はゆっくりとナマエに近付いていく。答えは聞きたい、けれどもう触れることを我慢できない。そんな様子だった。
 そしてナマエも、近付く距離になんの抵抗もせず。鳴り響く心臓の音に背中を押されるように、砂に沈んでいた踵をわずかに持ち上げた。
 ──ああ、ずっと前から思っていたけど、やっぱり神ってまつ毛長いな……、

「…お前ら、俺達がいること忘れてないか?」
「!」
「あれ、良いところだったのに。残念」

 重なる直前だった唇はあっさり離れていき。呆れる牧と、気まずそうに目線を逸らす清田に構うことなく、神は軽い口調でそう言った。
 雰囲気にのまれ浮足立っていたナマエの意識が、一気に現実に戻される。これ以上同期と後輩にラブシーンなんて見せてたまるかと先ほどより必死にもがくが、神はどこ吹く風。涼し顔でナマエを抑え込むところを見るに、どうやら二人が近づいて来ていたことにも気付いていたようだった。

「…とりあえず俺達はシャワー浴びてくるから、待っててくれ」
「分かりました」
「ほら、清田行くぞ」
「はい…」

 遠ざかる二つの足音に、たった数十分の間で再び気まずさを覚えることになろうとは。
 ようやく緩まった力に、ナマエは今度こそ勢いよく距離を取る。それでも未だ腰に回された腕のせいでそれなりに近いが、唇が触れそうなほどではないのでこの際良しとしよう。

「っ二人が来てるの分かってたなら離しなさいよ…!」
「すみません、つい」
「ついっ、て…あんたね、っ」

 ナマエが抗議の声を上げた、その瞬間。神はぐっと身を屈めると、今度は躊躇することなく、ナマエの唇を塞いだ。
 逃げる間も、なにが起きたかを理解する間も無く。一瞬で目の前に迫った神の顔と、唇に触れた柔らかな感触に、いよいよ言葉を失ったナマエを見て神は小さく微笑んだ。

「俺って、ものすごく諦め悪いんですよ」

 知ってたわよそんなこと。それこそあの時から、ずっと。


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