その日は、まるで奇跡のような偶然が重なった日だった。
 ナマエの通う湘北では、前日の練習試合で疲れた身体を休めて下さいという安西のお達しにより丸一日のオフとなり。また、仙道の通う陵南では、設備メンテナンスで体育館自体が一日中使用不可のため、同じくオフとなり。
 そんな諸々により生まれた、数ヶ月ぶりに重なった休日。朝早くナマエからその連絡を貰った仙道は、訪れていた朝釣りを早々に切り上げると、せっかくなので家来ませんかと、逸る気持ちを抑えながら返信したのだった。
 そうして、毎回冷蔵庫の中が寂しいことになりがちな仙道のためにスーパーでいくつか食材を購入したナマエが彼の自宅を訪れたのは、時計の針が11を少し過ぎた頃。
 休日のスタイルである下ろした前髪と同じようにあの平行眉をへにゃりとさせながら、「遅いですよ」「俺も一緒に買い物行きたかった」と背後にぴったりくっ付き不満を言う仙道を無視しいそいそと冷蔵庫へ食材を詰めていく。すると聞いていなかったことに少し怒ったのか口を小さく尖らせながら、「ナマエさん聞いてます?」と、服の中へ手を滑り込ませてきた。
 さすがにこれは咎めたナマエだったが、振り向いたすぐ先、自らの肩に顎を乗せながらこちらをじっと見つめるその目に、うっかり胸をときめかせてしまい。
 わずかに緩んだ抵抗を仙道は見逃さず。力の抜けたナマエの身体を軽々持ち上げると、数歩の場所にあるベッドへと、躊躇することなく雪崩れ込んだ。
 そのままベッドの中で過ごし、気が付けば時刻は十六時過ぎ。シャワーを浴び一度眠りにつき、少し遅い昼食を終えてもなおベッドへと連れ戻されたりしながらも、ようやくのんびり会話ができるようになった頃でもあった。
 ぐったりと力なく寝転ぶナマエの頭を撫でながら、時折指にくるくると髪を巻き付け遊ぶ仙道は、誰の目から見てもご機嫌そのもので。休憩をはさんだとはいえ約4時間近くも行為に及んでいたというのに、この余裕はいったい何なのか。
 ろくに動けないことへの恨みを若干込めながら仙道を見上げると、通じているのかいないのか。へらっと笑い「そうだ、ナマエさん」と、ヘッドボードに置かれた携帯を取り、予定がまばらに書かれているカレンダーを見せてきた。

「俺、再来週の日曜休みなんですよ。そこで会えません?」
「…陵南が日曜休み?」
「土曜が練習試合なんで。今回のナマエさんと一緒」
「ああ…そっかなるほど」
「信用ないなあ」
「疑ったのはごめん。でもそれは仕方ない」
「まあそうっすね」
「…で、なんだっけ、再来週?大丈夫だけど…私午後から練習だよ」
「うん、だから午前中に。なんだったら前日の夜からでもいいけど」
「…また泊まるってこと?」
「うん」
「それは…遠慮しておく」
「ええー、残念」

 断られることは最初から分かっていたのだろう。ナマエの答えに唇を尖らせながらも、納得はしているように見えた。

「というかそんなに警戒しなくても、今日は俺のわがままでずっと家だったんで、その日は外に出るつもりでしたよ。まあ近場にはなりますけど」
「近場でもそれはそれで楽しいから全然いいんだけど…釣りでも行く?」
「それじゃ俺の趣味に付き合うだけになっちゃうじゃないですか。そうじゃなくて、ナマエさんが行きたい所に行こう?」
「私が行きたい所…」
「うん。どこかある?」
「うーん…」

 ナマエとしては仙道との釣りが楽しいのも事実なので釣りでも構わないのだが、どうやら望む答えはそうではなかったらしい。
 確かに、普段のデートではマイペースな仙道にナマエが付き合うことが多い。だからこそ次はナマエの行きたい所に行きたい。仙道としてはそんなところなのだろう。
 とはいえナマエ自身は午後から練習だ。自宅と学校から程よい距離で、最悪片方が制服のままでもあまり違和感がない場所。なおかつ練習前だから少しのんびりできるとなれば…。
 近所の地図と、これまで仙道と訪れた近場の情報を脳内で検索していくと、漆喰の白い壁と、藍色の皿に乗ったシフォンケーキが、ナマエの脳内を過ぎった。そうだ、ここにしよう。

「それなら前に一度行った、いつもの釣り場から少し路地入った所にあるカフェ。覚えてる?」
「ああ、あのでかいケーキの所」
「シフォンケーキね…。それすごく美味しかったから、よければまたそこに食べに行きたいかなあ」

 仙道が訪れるいくつかの防波堤のうち、特にお気に入りの場所。そこから道路を横切り住宅街の脇道を歩いていくとある、年配のご夫婦が経営するそのカフェは、二ヶ月ほど前に仙道との釣りデートの帰り道で見つけたお店だった。
 その時は休憩がてらにたまたま入ったのだが、ナマエはその際食べた紅茶のシフォンケーキをいたく気に入り。どこかの機会にまた行けたらと考えていたところに、先ほどの仙道のお誘いで。そこなら湘北からも近く、また、一度行ったことのある場所ならば、仙道もその後の予定を決めやすいだろう。お互いちょうどいいはずだ。
 ナマエの提案に仙道も同じことを考えたのか、「じゃあそうしましょ」と、どこか嬉しそうに予定を書き込んでいた。その文言が『ナマエさんと会う♡』とわざとらしくなっていたことは、とりあえず見なかったことにする。

「…この前のプレーンも美味しかったけど、どうせなら季節限定とかやってないかなあ」
「ずいぶんお気に入りなんすね」
「だって美味しかったし」
「ああ、確かにあの時ナマエさん、口にクリームくっ付けてるの気付いてないぐらいだったもんね」
「え、やだ何それ知らないんだけど」
「写真見ます?」
「しかも写真撮ってたの?嘘でしょ…」

 勘弁してよと言いつつも、ナマエもその写真が気になるのだろう。写真アプリを起動させ、似たような写真が並ぶフォルダを勢いよく下へスクロールしていく仙道の手元を、恐る恐るといった様子で覗き込んでいる。
 もっとも彼女の場合、変な写真だったら消さなければという気持ちで見ているのかもしれないが。

「んーたしかこの辺…あー、あったあった」

 何枚かそれらしいものを表示しながら日付を確認していくと、いつもの釣り場でバケツの中の魚を眺めている様子のナマエから、ケーキを嬉しそうな顔で頬張るものに切り替わる。食べるのに夢中になっている間に数枚撮っていたらしく、まるでコマ送りのように少しづつ減るシフォンケーキと、同時に頬にクリームを付けながら、恥ずかしそうにフォークとケーキを差し出す姿も写っている。
 こんな子供のような姿で仙道の目に映っていたのかと、知りたくもない自身の一面を知ってしまったことにナマエがとんでもない羞恥を覚えている間も、仙道は「やっぱり可愛いっすね」などと言っている。それがますますナマエを煽っているとも知らず。

「ほらこれ。このあと海行ったでしょ?その時ナマエさん海入ったら転んで、服水浸しにしてましたよね」
「ああ…そういえばそうだったね…」

 仙道の言葉通り、画面はカフェから夕方の海へと切り替わり、形式も写真から動画へと切り替わる。波打ち際で「冷たくて気持ちいいねー」などと笑いながら歩くナマエを後ろから撮影したらしく、聞き慣れた風と波の音が響いている。
 動画の中のナマエは先ほど仙道が言った通り。数歩ほど歩いたところで、水を含んだ重たい砂に足を取られたらしく膝から転んでいた。「大丈夫っすか?」と仙道の声と同時に画面がブレたことで、彼も慌てていたと知る。
 ──そうだ、思い出した。このあとお礼と共に仙道の手を掴もうとした瞬間、やって来た波を被り、ナマエの服はあっという間に水浸しになってしまい。
 夏とはいえさすがにびしょ濡れで帰るわけにはいかず、結局そこから近い仙道の自宅へ、シャワーを浴びに向かったのだ。
 そのあとは若干思い出すのも憚られるが、服も乾きそろそろ帰ろうかな言うと「もう少しいいじゃないっすか。ね?」とごねる仙道に流され結局泊ることになってしまい、あれよあれよという間にベッドに連れ込まれ…。
 夕方に仙道宅へ行ったにもかかわらず、ナマエが帰宅したのは翌日の早朝だった。それも、互いに午前から練習があったからであって、なければそのまま家から出してもらえなかっただろう。

「…そういえば陵南も練習あったけど、私が帰ったあと寝ないでちゃんと行ったんでしょうね?まさかまた遅刻したとか……」
「うん?んー…まあそれはいいじゃないっすか」
「まったく君は…」
「あはは、このナマエさんびしょ濡れなのにめっちゃ笑ってる」
「………」

 呆れたナマエの言葉に一瞬考えるような素振りを見せたものの、へらりと笑って誤魔化すと、「あ、俺の服着てるこのナマエさんも可愛い」と言いながら再び携帯を操作している。どうやら聞く気はないらしい。いつものことだが。
 とにかく今は何を言っても誤魔化すばかりだろうと、ナマエは視線を携帯に戻す。髪を乾かしている後ろ姿、お茶を飲んだり、テレビを見ている横顔、台所で食事を作っている姿。よくもまあこんなに撮ったものだなと感心していると、仙道の親指が次の写真へ画面を送った瞬間、それまでとは毛色のまったく違う写真が表示された。
 そこに写っていたのは、今まさしく寝ている仙道のベッドと思わしき紺色のシーツの上で、髪を散らばし頬を赤く染めながら、どこか物欲しげに瞳を潤ませカメラを見上げる──ナマエの姿だった。

「あ、やべ」
「…ちょっと待って今のなに!?」

 これまで、写っている本人に嬉々として写真を見せていた仙道だったが、さすがにこれはまずいと思ったのだろう。それが表示されると一瞬で携帯の電源を落とし、それ以上ナマエが確認できないようにしてしまった。
 とはいえそれを気のせいとするのは、さすがに無理というもので。身体中が悲鳴をあげていることも、何も身に着けていないことすらも頭から飛んでいったのか。ナマエは勢い良く起き上がると、仙道が持つ携帯を奪おうと手を伸ばした。
 しかしそこは仙道。咄嗟に腕を伸ばし、携帯をナマエから遠ざけてしまう。リーチの長さばかりは叶うわけもなく、ナマエの手は虚しく空を切るばかりである。

「いっ、つの間にとったのよそんなの!?」
「ナマエさんがぼんやりしてる時。可愛かったから、つい」
「今すぐ消して!」
「えー…でもこれ一番お気に入りだしなあ…色々お世話になってるし」
「ちょっ、い、いろいろって何…」
「そりゃあ、まあ……色々?」
「なおさら消して!」
「うーん…」

 "一番お気に入り"という口ぶりから察するに、どうやら写真は複数あるらしい。今さらなことは重々承知しているが、それでも自分でさえ知らない恥をこれ以上晒したくはない。
 とにかく携帯を取り上げようとナマエは必死に腕を伸ばすが、その度仙道の身体に伸し掛かるようになり、柔らかな胸が胸筋の上で弾んでいる。
 予想していなかった棚ぼた状態に内心感謝しつつも、さすがにこれ以上やられると色々な意味でもたない。自身の限界ぎりぎりを察した仙道は携帯画面が傷付かぬよう脱ぎ捨てた衣服の山へ軽く放り投げると、左腕をナマエの腰に回し、押さえ付けるように抱き締めた。

「あっ!携帯貸しなさいよ!」
「駄目。貸したら消すでしょ」
「当たり前じゃない」
「じゃあなおさら駄目。ナマエさん滅多に写真撮らせてくれないんすから、これは大切に撮っておきたいんですよ」
「…いやいや、しょっちゅう撮ってたでしょ。アルバムにあったじゃない。しかも動画まで」
「違う違う。俺が言ってるのは、してる時の写真」
「………」
「あれ、引いてる?」
「いや引くでしょ普通…そんな発言されたら……」
「だって俺、ナマエさんと付き合い始めてからナマエさん以外じゃ勃たなくなっちゃって、AVも観てないんすよ?でもやっぱそういう気分のときもあるし、そうなったら何も無いと困るんだよね」
「そんなこと言われても……」

 だからといって、はいそうですかとあの写真を了承するわけにはいかない。そもそも何の理由にもなっていないのだから。
 とはいえ思春期真っ盛りの男子高校生。下世話な話だが、出すもの出さなければ精神的にも肉体的にも辛いのだろう。特に男性は、何もしなさすぎるのも良くないというし。
 しかし何枚もあるであろう写真を見て見ぬふりをするというのも、こうして知ってしまった以上難しい。というより、これから携帯を出される度意識してしまい、今度はナマエの情緒が死ぬことになる。むしろその携帯を何事もなく使っていた仙道の精神状態の方が気になるところではあるが、それは今さら言っても仕方のないことだ。
 こんな事態に直面すると思っていなかったナマエは脳みそをフル回転させ必死に解決策を出そうとするが、こればかりはいくら勉強が得意でも導き出せる類のものではない。眉間にしわを寄せうんうんと唸るナマエを見て、仙道は「…まあ俺としては、」と続ける。

「ナマエさんが会う度、この写真がいらなくなるぐらい沢山してくれるなら…それが一番なんすけどね」

 にっこり。先ほどからとんでもない発言を繰り返してはいるはずなのに、この笑顔は人畜無害。人懐っこさを感じさせるぐらいには爽やかなもので。彫りの深い目元が少し影を落としながら、答えを求めるようにじっとナマエを見つめている。
 この仙道の言葉は冗談などではなく、半分…いやほとんど本気だろう。とんでもない提案ではあるが、ナマエがすぐに拒否できないのには理由があった。といってもそれは大したことではなく。ただ単純に『会える時間が少ない』の一言に尽きるからだ。
 互いに強豪校に通う二人。一週間のうちほぼ全てが練習に充てられ、思いつく休日などは試験期間や、今日のような偶然が起きた場合だけ。平日時間を作ろうにも、自主練や掃除、その他諸々が起きれば、放課後でも会うことすら叶わないこともある。
 もし本当に仙道が言った通り、"会う度、写真がいらなくなるぐらいする"となったとしても、そもそも会う頻度が少ない以上、体力が底をつくほど辛くなることはないはずだ。

「…まあ、写真残されるよりは、別にいいけど……」

 色々と考えはしたが、結局のところ。例え一度の密度が濃くなり身体が若干の影響を受けようとも、記録として写真を残されるぐらいなら、まだ時と共に消えていくことが確実である記憶と、寝れば回復する体力を天秤にかけた方がマシなはずだ。
 そう結論を出したナマエは、全て納得したわけではないと思いつつも渋々その妥協案を了承をする。

「え、マジ?」
「え、う、うん…」

 ナマエの反応が予想外だったのか、珍しく勢いよく食いつく仙道に若干引きながらも、再び肯定する。
 二度も肯定したことでそれが間違いではないことを理解した仙道は、数秒固まったあと、「はあぁあ…」とわざとらしく、大きなため息をついた。

「…なによそのため息は」
「…ナマエさん、変な男に付き纏われたり、友達にからかわれたりとかしてない?」
「え、なに突然。そんなことないけど」
「俺、すごく心配…」
「ええ…なにいきなり……」

 心外だとでも言いたげに眉を顰めるナマエだが、この心配は付き合い始めた当初から仙道が感じていたことでもあった。
 練習試合で見た彼女は、一言で言えば凛とした人、だったのだが。連絡先を交換し交流を深めていくうち仙道は、彼女が実は少し単純で、後輩のおねだりに弱く、なおかつ考えすぎると少し予想外の、斜め上の結論を出してしまう、ということを知った。成績は良いと以前いっていたが、これはそういうものとは全く別物なのだろう。
 良くいえば天然、悪くいえば単純。ナマエの長所でもあり短所でもあった。
 とはいえ、この状況においてはその単純さも少し有難いことであるのは確かだ。これを逃すほど、仙道は優しい男ではない。

「まあナマエさんがそう言うなら、甘えさせてもらいます」

 ナマエを片腕に抱いたまま、くるりと身体を反転させる。上下が入れ替わり、数十分前と変わらない光景が仙道の目の前に広がった。
 あっという間に組み敷かれたナマエは、信じられないものを見るような目つきで仙道を見上げる。

「え、またするの…?」
「だって、沢山してもいいんでしょ?」
「そうだけど、今すぐだとは…」
「次いつ予定合うかも分からないし、時間は大切にしないと」
「う…で、でも、明日朝から練習あるし、遅くなりすぎると……」
「泊まってけば大丈夫。それに、朝練始まる前には家に送るんで」
「………」
「他には?もう無い?」

 じゃあいいっすよね、と。ナマエ言い訳を全て論破すると、仙道は彼女の頬に唇を落とし、そのまま肌の上を滑り首筋に吸い付いた。
 流れるような動作にナマエの脳内は未だついていけていないものの、身体はしっかりと反応していて。ぴくりと跳ね甘い声を漏らすナマエに気を良くした仙道は、「ほんと可愛いっすね」と、とろりと瞳を垂らし微笑んだ。

 結局その後、"いらなくなるぐらい"の言葉通り。ベッドから少しでも出ようものなら引きずり戻され、唾液が溢れるぐらい唇を何度も重ね、嫌という言葉さえ聞いてもらえず。
 それこそ、四時間近くにも及んだ今日の行為全てが可愛く感じるほどの快感と羞恥の海に放り込まれることになるのだが…この時のナマエは、それをまだ知らないのだった。


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