日もとっぷり暮れ、校内に人の気配も無くなった頃。ナマエは静かな部室で一人、部誌を書いていた。
 普段ならばもう一人のマネージャーである彩子と共に、片付けや部室の鍵閉め等の仕事を分担するためもう少し早く帰路につけるのだが、今日は彼女がどうしても外せない家の用事があるとのことで少し早く帰宅したため、それら全てをナマエ一人で行っていたのだ。
それにより片付けもいつもより遅い時間までかかってしまい、気付けば時刻は十二十二時間際。それでもまだ、ようやく部誌の記入が終わるという頃だった。
 とはいえ十分ほど前に見回りに来た守衛によると、体育館にはまだ一人、残って自主練をしている者がいるらしく。黒髪で高身長、声をかけたら低く小さい声で「うす…」と小さく返事をしたという特徴から察するに、おそらく流川が残っているのだろうというのは、簡単に予想ができた。
 さすがは自主練の鬼というべきか、それともオーバーワークをマネージャーとして少したしなめるべきなのか。どちらにせよそろそろ帰宅せねば、また明日寝ぼけて授業を受けることになるだろう。
 さっさと部誌を書き終え、流川にもそろそろ帰るよう呼びに行くかと考えていた、まさにその時。中を確認するかのように静かに扉を開く音がして、ナマエはぱっと顔を上げた。

「あ、お疲れ流川」
「…先輩、まだ残ってたんすか」
「うん。部誌書いてた」

 現れたのは予想通り。流れる汗を拭いながら、少し驚いた様子の流川だった。どうやらナマエがいるとは思っていなかったらしく、まるで珍獣でも見たような顔をしている。

「今日はもう帰るでしょ?」
「はい」
「でさ、着替えるところ悪いんだけど…私ここにいてもいいかな。最後に鍵閉めなきゃだし、さすがにこの時間に廊下で待つのは怖くて」
「ああ……別に、平気っすけど」
「あはは、ありがと」

 幽霊の類を信じているわけではないが、暗い学校の廊下で一人待たされるのは、たとえ数分といえど若干の恐怖心が浮かんでくるのだ。
 とはいえ当たり前のように着替える場にいるのも申し訳ないと思いそう尋ねたところ、流川は若干迷ったような素振りを見せながらも、ナマエの問いに頷いた。
 お礼の言葉と共に部誌の記入を再開するナマエに背を向け、流川は自身のロッカーを開ける。無造作に詰め込んだ鞄の中からタオルを取り出し顔を拭こうとした、その時。ピンッ、と右薬指の先が何かに引っ張られ、思わず手を止めた。
 見ると、わずかに割れた爪先が糸を一本引きずり出していた。どうやらひっかけてしまったらしい。
 いつの間に欠けたのだと内心舌打ちをしながら剥こうとするも、元々爪が短いだけに、このままでは確実に深爪になってしまうだろう。数日痛むことが容易に予想でき、それもまた面倒だと、流川は欠けた爪先を見つめしばし思案する。

「…先輩」
「んー?」
「ハサミとか、なんか切れるもんありますか」

 結局出した結論は、剥かずに切ればいいという、当たり前のものだった。ただ爪切りなど持ち合わせているはずもなく。仮に持っているかもしれないナマエの邪魔するのもいかがなものかと、何となくその選択肢を避けていただけなのだ。
 流川の言葉に、ナマエは走らせていたペンを止め顔を上げる。

「鋏?筆箱にならあるけど…なにに使うの」
「爪割れたから切る」
「え、嘘やだ。まさか鋏で爪切るつもり?」
「先端が少し割れただけだから。ちょっとだけだし問題ねー」
「いや大問題よ。そこからさらに割れたらどうするの……ちょっと待ってて」

 そう言うとナマエは立ち上がり、自身のロッカーを開け鞄を漁り始める。数冊の教科書やノートをかき分けシンプルな黒いポーチを取り出すと、その中からさらに爪切りを一つ取り出し、流川へと手渡した。

「ほら、これ貸してあげるから。もう少し自分の爪大切にしなさいよ」

 持ち運び用であろうその爪切りは、流川が普段自宅で使っているものよりもうんと小さく。爪切りにこんな、下手をすれば自身の人差し指の長さよりも小さなサイズがあることも知らなかった。
 ヤスリの裏部分に小花が描かれており、なんとも乙女チックなそれが、大きな手にはどうにもチグハグに見えた。

「………」

 とはいえせっかく貸してもらったのだからと有り難く使おうとするも、どうにもやり辛い。子供の頃読んだ、巨人が小さなものを傷つけてしまいそうというあの感覚が、今の流川には分かる気がした。
 利き手ではない左で切ろうとしているのだからそれも当たり前なのだが、ナマエから借りたものというのが、さらにやり辛さを倍増させていて。四苦八苦する流川の様子にそれを察したのか、ナマエは納得したように「ああ、」と声を漏らし、右手を差し出した。

「利き手だとやり辛いよね。切ってあげるから、手貸して」
「いや…」

 思ってもいない申し出に、流川の動きが止まる。正直二つ返事でお願いしたいところではあったが、いくらなんでも先輩にそんなことをさせるのは申し訳ないという感覚が、まったく無いわけでもない。それに、まるで子ども扱いされているようなのもまた、少し気に食わないのだ。
 しかしどうやらナマエは先ほどの鋏で切る発言から、あまり流川を信用していないらしく。「早く手貸して」と、依然掌を向けたままである。引く気はまったくないようだ。

「…お願いします」

 ここは大人しくしたがった方がいいだろう。そう判断した流川は、ナマエと向かい合うようにベンチをまたぎ腰を下ろした。そうして躾された犬が大人しくお手をするかのごとく小さな掌へ自身の右手を乗せると、細い指が件の指を掴む。
 ナマエは素直に預けられた手をじっと見つめ「ボールが当たったのかな」と原因を考えながら、パチンパチンとゆっくり爪を切っていく。慎重すぎるくらい丁寧な扱いをするナマエに、もう少し雑でもいいのにと思いながらも、誰にも邪魔されず触れられるのならこれはこれで役得だと思い直し、流川はここぞとばかりにナマエを眺める。
 頬に影を落とす長い睫毛。その奥にある真っ黒い瞳は、自身の手に熱を注いでいる。艶のある髪がさらりと落ち、その生え際部分に小さなほくろがあるのが見えて。
 触れたい、と。流川は無意識のうちに、左手を伸ばしていた。

「…ねえ、流川」

 あと少しで頭に触れる、その瞬間。まるで咎めるかの様なタイミングで名前を呼ばれた。
 あまりに絶妙なそのタイミングに邪な考えがバレたのかと流川は一瞬焦るが、相変わらず神妙な面持ちでの爪先をじっと見つめるナマエの様子からするに、どうやらそうではないらしい。流川はわずかに跳ねる心臓を抑えながら、落ち着いた声色を装い返事をする。

「…なんすか」
「嫌だったら断ってくれて全然いいんだけどさ…」
「………」
「他の爪も切っていい?というか、ヤスリがけしていい?」
「……別に、いいっすけど」
「ありがとう」

 なんとも拍子抜けする内容に、妙に身構えていた自分が少し馬鹿らしくなる。小さい爪切りに付属されてるヤスリじゃ満足いく仕上がりにならなかったのか、流川が返事をするや否や、ナマエはポーチから新たに平たい板のようなものを二枚取り出した。よく見ると袋に入っており、『爪ヤスリ』と書かれていて。
 爪切りといいヤスリといい、何でも入っているポーチだな、と。某国民的アニメの不思議なポケットを思い出しながら、ヤスリをかけるナマエの手元を再び見つめる。

「ごめんね疲れてるのに」
「別に平気っす」
「私、爪に関しては一度気になると駄目で…他人のもやりたくなっちゃうのよね」
「そういうもんすか」
「そういうものよ」

 流川にとって爪とはそこまで気にする対象ではないのだが、ナマエは真逆で。爪の掛かり具合一つでボールの投げ具合も変わる。ほんの一瞬でシュートの精度が決まる世界なのだから、その辺りも気を使うのは重要だというのが、彼女の持論であった。木暮や三井にも同じように爪磨きを教えたところ、「入りやすくなった気がする」とのお声をいただいているのだから、間違ってはいないと思いたい。
 節くれだった指先を掴み、ナマエはゆっくりとヤスリをかけていく。わずかにガタついた部分もあることから、噛む癖が少しあるのかもしれない。こんなところで流川の癖を発見するとは思っておらず、ナマエは少し得をした気分になった。

「…うまいっすね」
「本当?よかった。中学の時の監督に、"ボールへの爪のかかり具合は、シュートの精度も関係するからしっかり手入れしろ"って言われて以来、丁寧にやるようになったんだよね」
「え…」
「うん?」
「先輩、バスケやってたんすか」
「うん。でも中三の初め頃に怪我しちゃって、高校では辞めたんだけどね。…あれ、話したことなかったっけ?」
「初耳っす…」

 これまでの口振りやサポートの仕方から経験者なのではと薄々感じてはいたが、ナマエの口から聞くのは初めてだった。彼女は元々自身のことを多く話すタイプではなく、また流川も、積極的に他人の過去に踏み込むタイプではなかったからだ。
 まさかこんな偶然知れるとは。ナマエには悪いが遅くまで残ってくれていて良かったと、流川は信じてもいない神に内心お礼を言った。

「それって、皆知ってるんすか」
「なにが?」
「先輩がバスケしてたこと」
「ああ…いや誰にも話したことないよ。知ってるのは剛と…あと多分グレが、なんとなく知ってるくらい」
「……なんで先輩たち?」
「そりゃ剛は幼馴染だし…あとグレも、中学同じだし」

 ナマエの言葉に、それまで浮かれていた気分は一気に急降下する。
 普段の口振りから、赤木やナマエが親しい仲だというのは流川もなんとなく気付いていたが、まさか幼馴染とは思ってもいなかった。
 ナマエについて新しいことを知れた反面、それを知っていたのが赤木や小暮だけだったということは、仕方ないとはいえ、正直気に食わない。けれどそれを言ったところで現状が変わるわけでもなし、なによりナマエを困らせることが分かっているだけに、流川は唇を尖らせる以外なにもできなかった。

「あ、ここ深爪になってるじゃん。少し短く切りすぎだよ」
「………」
「……流川?」

 それまで、されるがままに力なく開いていた流川の手が、不意にナマエの手を握り返した。大きさの違うナマエの手はすっぽり覆われ、まるで手錠のように拘束されてしまう。

「ちょっと流川、手離さないとできないでしょ」
「………」
「ねえ、聞いてる?おーい」
「…先輩、手ぇ小さいっすね」
「あんたに比べたら皆小さいわよ」
「………」
「………」
「…ねえ、流川」
「好きだ」

 勢いよく顔を上げたナマエの目の前、拳一つ分程度の距離に、嫌味なくらい整った流川の顔が近付く。徐々に見開かれる瞳とは正反対にゆっくり閉じていく瞳を見たナマエの脳裏に一瞬浮かんだのは、幼馴染みで、目の前の男に好意を寄せている、妹のように大切な存在で。
 けれどそんな考えは、かさついた唇の感覚によってすぐに消え失せ。次に浮かんだのは「流川って一重なんだ」などという、取るに足らないことだった。

「っるか、わ、」

 わずかに離れ、けれどまたすぐに重ねられ。言葉を紡ぐ暇もない性急さに、ようやく動いた身体が離れようと力を込めるも、いつの間にか流川の左手がナマエの後頭部へと回っておりそれも叶わない。持っていた爪切りとヤスリが手から落ち、床を滑る音がやけに遠くに聞こえた。
 小鳥が啄むようなキスを何度も重ね、いよいよ苦しくなってきた頃。それを察したのかは分からないが、手を掴んでいた力は弱まり、ナマエの身体はあっさり解放されていった。
 離れる瞬間名残惜しげにべろりと下唇を舐めた舌に肩を跳ねさせると、いつも飄々とかわしてしまうナマエを翻弄できたことが嬉しかったのか。流川の瞳はどこか楽しそうに細められた。

「なにすんの…っ!」
「したかったから」
「は、はあ…?」

 その言葉を聞いた瞬間ナマエの中に生まれたのは、怒りではなく、呆れにも似た感情だった。
 流川という男がなにを考えているのか分からないというのはもはや当たり前のことであったが、まさかこんな状況で、あんな事をしていてもなお『したかったから』などという、理由のようで理由にもなっていないことを述べるとは。その綺麗な顔に一発入れられても文句は言えない案件だ。

「あ、あのねえ流川…したかったからするとか、そういうのは違うでしょ……」
「なんで」
「なんでって…こういうのは、好きな人とするもので…」
「先輩が好きって、さっき言った」

 言ってないでしょ、と誤魔化すにはさすがに出来事が直近すぎる。言葉を詰まらせたナマエに観念したと思ったのか、流川は顔を近付け再び唇を重ねようとしてきた。
 が、今度は寸前の所で止めることができ。触れるはずだった唇はナマエの手を隔てることとなった。ムッと唇を尖らせる流川に、ナマエはようやく言葉を発する。

「なにもう一度しようとしてんのよ…!?」
「さっき好きって言ったろ」
「いっ、言ったけど!言えばいいってもんじゃないしっ!そもそも言ってからキスまでが早すぎる!」
「…じゃあもう一回言えばいいんすか」
「なんでそうなるの!?そういう問題じゃな、っ!」

 抵抗されることにしびれを切らしたのか、突っぱねるナマエの頬ごと顎を掴むと、流川はやや乱暴に唇を重ねた。
 言葉全てを飲み込んでしまうようなその口付けは、いくら否定しようとも彼女の答えなど全て分かっているとでも言いたげで。
 離れた唇から漏れる吐息の熱さに悔しそうに顔をしかめたナマエが、もう抵抗しないと悟ったのだろう。まるで子供のような顔で、流川は笑った。

「先輩が好きだ。だから俺と付き合って」

 色気もなく顎を掴んでいた手がするりと滑り、綺麗に揃った爪先が、静かにナマエの頬を撫でた。


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