「リョータ、こんな本読むタイプだったっけ」
心地良い春の陽気も徐々に形を潜め、肌に触れる空気が少し湿り始めた頃。
宮城の部活が終わった後、共に彼の部屋を訪れていたナマエが、敷きっぱなしの布団に寝転び雑誌を読んでいる宮城の横に置かれた一冊の本を手に取りそう言った。
それは、雑誌や教科書といった様々な本が粗雑に積まれた山の中腹に置かれた──というより、挟まっていて。ハードカバーで、どこか雪国の風景を思わせる抽象的な絵に白い文字でタイトルが書かれただけの、いたって普通の本だった。
「あ、あー…少しぐらい本読めって、親が言うもんで。適当に買ってきたんすよ」
「なんだ、言ってくれれば貸したのに。これけっこう人選ぶ話だから、軽く内容見てからでもよかったんじゃない?」
ナマエが「こんな本」と言ったのは、別に宮城を貶したわけではなく。ただこの本の内容と宮城の性格が、彼女の中でどうにも結び付かなかったがゆえの言葉だった。
それもそのはずだ。なにせその本は、宮城自身興味が湧いたわけでも、純粋に読書を目的として購入したわけでもなく。他でもない──ナマエのことを少しでも知りたいと想い、購入したものだったからだ。
なぜ本を購入することがナマエを知ることに繋がるのか。それは宮城自身も柄ではないと感じる、人に言えば確実に笑われるような。けれど彼にとってはこの上なく重大な、ある問題を抱えていたからで。それを隠したという心理が働き、つい咄嗟に嘘をついてしまったのだ。
──インターハイ後。秋、冬、春と、目まぐるしく過ぎた季節と共に、ナマエは大学へ進学、宮城は三年生となり新キャプテンとなっていた。
そうして始まった新生活は、互いに高校生だったそれまでの二年間とはがらりと変わり。二人が恋人としてゆっくりと過ごせる時間は、月に数度あればいい程度までめっきり減ってしまったのだ。
それはどうしようもない事であると宮城も頭では理解していた。例え同い年であったとしても、結局進学が異なれば生まれてしまう。遅かれ早かれ訪れるものなのだから、と。
けれど心がそれを理解できるかどうかは、また別だ。
月に一度、長ければ二ヶ月に一度。会う度大人の女性へと変わっていくナマエに、宮城が焦りを覚えるのは、ある意味自然なことだった。
加えて、元々社交的で大人びた性格だったナマエは大学でもすぐに友人ができたらしく。当たり前だが宮城が見たことも聞いたこともない名前と共に日々のことを語るものだから、焦りはさらに加速してしまい。
けれどそんな考えを抱えたところで、常に彼女を把握できるわけでもない。
そんなやり場のない気持ちを抱えていた宮城がある日見付けたのが、まさしく今ナマエが持っているその本だった。
最新刊が出たという雑誌を買いに本屋へ行った際見つけたそれは、新刊として目立つ場所に積まれていたわけでも、有名な作家が帯を書いたわけでもない。背の高い本棚でも下の方、少し屈まなければ見えない場所に置かれていた一冊だった。
けれどその本に、宮城は嫌というほど見覚えがあった。以前ナマエが、何度も読み返しているぐらいお気に入りだと言っていた本だったからだ。待ち合わせの度、先に到着していたナマエが読んでいる姿を何度も見ていたから、よく覚えていた。
だからこそ、宮城は思った。お気に入りだと言って何度も読まれた本の中身はいわば、ナマエの考えや気持ちにも影響を及ぼしていると言っても過言ではないもので。
同じものを買えば、少しでも感じられるのではないか。物理的にも、時間的にも離れてしまった恋人の存在を。そして、その考えを。
今にしてみれば、ものすごく恥ずかしい思考回路だったと宮城は思う。そんなものでいったい、相手の何を理解できるというのか。
案の定、普段読書などしない宮城にその本に出てくる人物たちの心情を理解するのは難しく。辞書を片手にしなければ意味も理解できないような単語や表現の並びに、早々に根を上げたのは記憶に新しい。
ただ、恋愛や複雑な人間関係を含む分、どこか陰気臭いというのだけは、宮城にもなんとなくは理解できたが。
一ヶ月以上かけてなんとか全て読み終えたものの、結局ナマエの存在を近くに感じられることも、彼女の思考も、宮城は何一つ、自身の中に入れ込むことはできなかったのだ。
そうして半分投げやりになって置きっぱなしにしていた本を、よりにもよって本人に見つけられてしまうとは。自身の注意力の無さに、宮城は内心ため息をついた。
「で?面白かった?」
「あー…いや、実はまだそんなに読めてなくて…」
「あれ、そうなの?たしかに栞、まだ最初の方だもんね」
ナマエはくすくすと小さく笑いながら、宮城が栞代わりにと適当に挟んでいたどこかの店のDMを見ている。
──本当は全て読み終えて、何一つ理解できなかったくせに。それでもまだ分かるのではと、未練がましく読み返していることを隠したいという宮城の小さな意地など、ナマエはまったく気付いていないようだった。
「…ナマエさん、」
「ん?」
「こっち」
西陽が、その華奢な輪郭をなぞっている。逆光でわずかに見にくくなったナマエは、宮城の言葉に少しも迷うことなく。「なぁに?」と柔らかい声で微笑むと、ずりずりと膝が畳を滑るわずかな音と共に、宮城の元へ近付いた。
横臥していた宮城は軽く身体を起こすとそのままナマエの膝へ頭を乗せ、顔を隠すように薄い腹へと顔を埋めた。
「どうしたのリョータ」
「…別に」
「なに、今日のリョータくんは甘えたなのかなー」
「………」
突然の甘えに驚きつつも、ナマエも宮城を退かすことはせず。触り心地が好きだと言っていた刈り上げを、細い指先が楽しむように撫でている。
そのこそばゆさが妙に心地よくて。宮城は腹に埋めていた顔を、片目だけで見上げるようにちらりと向ける。するとナマエは、「リョータの眉毛、困ってて可愛い」と小さく笑いながら、今度は宮城の眉尻に触れた。どこぞの先輩に、歪んでいて見ると腹が立つと言われたそこは、どうやらナマエはお気に入りらしい。
無理やり聞き出すことはしない。あくまで本人が話したくなるような優しい声色は、ナマエの魅力の一つだ。彼女が、宮城を含めた多くの後輩に慕われる理由でもあり、宮城が彼女を好きになった理由でもあった。
今日は久しぶりに会えたからだろうか。ナマエの言う通り甘えたいわけではないが、それでもこの心情を吐露して、彼女にすっかり受け止めてもらえたいという気持ちがある。
そうすれば気楽になれると、宮城も性根では分かっていたのだ。
「…あの本」
「ん?」
「本当は、全部読んでた」
「そうなんだ」
「…あれ読んだら、さ」
「うん」
「ナマエさんのこと、少しは分かるのかなって思ったんだ」
「私のこと?」
「うん」
「…どうしてそう思ったの?」
宮城の中にあるナマエへの信頼が、結局のところ恥ずかしいと避けていた本音を溢していく。もう恥ずかしさなど、何処かへ消え失せてしまった。
「…ナマエさん、いつもあの本読んでただろ」
「そうだね、お気に入りだし」
「だから、ナマエさんの思考というか、考えに合ってるんだろうなって思って」
「うん」
「…最近、会う度ナマエさんから聞く大学の話とか…俺のいないところの話が、なんか、少し………」
「………」
「…寂しくて」
「……うん」
「…ナマエさんの好きな本読めば、ナマエさんの考えてることが分かって、こんな不安になることも、ないんじゃないか、って……」
「うん」
「でも…結局よく分からなくて」
「……」
「嘘ついちまった。すんません」
宮城が抱えていたものが、まさか自身に関することだとは思っていなかったようで。「そっか」と考えるような声色に、やはり言うべきではなかったかと、宮城の心に一瞬靄がかかる。
「リョータ、私のこと分からなくて不安だったんだ?」
「……」
「…んふふ」
けれどそんな靄は、小さな笑い声にかき消された。驚いて身体を起こした宮城の瞳に、こらえきれないといった風に笑みを浮かべたナマエが映る。
吐露したことで、てっきりどことなく重い雰囲気になると思っていただけに、小さく響いた笑い声に宮城は拍子抜けすると同時に、拗ねたように唇を尖らせた。
「なに笑ってんすか…」
「いやごめん。だって、嬉しくなっちゃって」
「嬉しいって…俺は悩んでんすけど」
「そうだよね、うん。でも…前の私と同じように、リョータも悩んでくれてたんだなって思ったら、つい」
「……同じような?」
「うん」
「同じようなって、なに…」
「なにって…うーん……」
長い睫毛を伏せわずかに視線を落とすナマエは、理由を言いあぐねているようだった。
宮城がそう感じたのは、おそらくナマエが人の目を見て話すタイプの人間だからだろう。会話をするときは常に合っていた視線が合わないのは、彼女がどこか後ろめたさを感じているからだ。
それでも知りたいと、追及するように見つめる宮城に観念したのだろう。普段よりわずかに覇気のない声で、ナマエはぽつぽつと話し始めた。
「リョータ、私が告白したとき、"俺も好きです"って、言ってくれたでしょ」
「はい」
「…でも、本当にそうなのかって、どうしても信じられなかったの」
どうして、とは聞けなかった。なぜなら宮城自身すぐにその理由が思い浮かんだからで。そしてそれは宮城にとって、ある意味ナマエに一番触れて欲しくない話題でもあった。
けれど避けるには、彼女──彩子の存在は、宮城にとっても、そしてナマエにとっても、ひどく大きなものだった。
──約二年間。見事なまでの三角を描いていたその関係は、今にしてみれば、ナマエの健気さで持っていたようなものだった。なにせナマエが宮城に好意を寄せていると知る人物は一人もおらず。ただ毎日、彩子にアプローチする宮城を、悲しみを溢すでもなく、見続けていたのだから。
けれど誰も気付かず、ひっそりと出来上がっていたその三角を壊したのは意外にも、それまで心を殺しながらも平穏を保とうとしていたナマエ自身だった。「リョータのことが好きなの。もう、ずっと前から」強い意志を持った声色で言ったナマエの瞳は、そう言いながらもどこか諦めを含んでいたことを、宮城は今でもはっきり覚えている。おそらく、というよりもほぼ確実に断られると思っていたのだろう。
それもそのはずだ。なにせ宮城は入部初日の挨拶ですぐさま、マネージャーとして共に入部してきた彩子の元に自らの存在をアピールしに行き、なおかつその後も好意を包み隠さず接していたのだから。それこそナマエに、目を呉れることもなく。
しかし、吹っ切るために告げられたであろうその告白を宮城が受け入れたのは、もちろん彩子への想いが届かないことへの、自暴自棄からではない。
全て信じてもらえるとは、もちろん今でも思っているわけではない。けれどそのとき確かに宮城の心は、ナマエたった一人に向けられていたのだ。ナマエが好き。だから受け入れた。ただそれだけのことだった。
驚くことに宮城本人よりもずっと早くそれに気付いていたのは、他でもない彩子で。
学校中に知れ渡るほど彩子に好意を伝えていた自分が、今更ナマエに気持ちを伝えていいのか。乗り換えたと思われ、軽蔑されるのではないか。そんな想いを抱えていた宮城に、「周りを気にしてどうするの」「大切な気持ちっていうのは、ちゃんと伝えないと後悔するわよ」強い言葉でそう、背中を押してくれたのだ。
しかしその後は結局、宮城が想いを伝えるより先に、諦めるために告白をしたナマエによって二人は交際を開始することとなったため、そんな葛藤を宮城がしていたことを、当たり前だがナマエは知ることもなく。故になぜ了承されたのかと、ずっと不安を感じていたのだという。
宮城自身も、まさかナマエが自らに好意を寄せていたとは思っておらず。想いが伝わったことと、叶ったこと。それでいっぱいになっていただけに、ナマエのそんな考えに気付けていなかったのだ。
まさかの事実に言葉を失う宮城に気付いていないらしく。ナマエは一度言い始めたことで吹っ切れたのか、先ほど言い淀んだ様子など感じさせないほど、しっかりとした声で続ける。
「でもよく考えたら、リョ−タは本気で伝えてきた相手に、手っ取り早いから、とか、なんとなくで返事する、とか…そういう酷いことする人じゃないって思って。
……私、リョータのこと好きって言ってたくせに信じられなかったなんて。ひどい奴だなって、反省したの」
そんなことない、と言いかけて、宮城は言葉を飲み込んだ。きっと立場が逆なら自分自身も、一瞬でも相手をそう思ってしまったことを、同じように後悔していただろうからだ。
「…だから、"今"をちゃんと見ようって思った。"今"のリョータは、私の想いを受け取ってくれた。それで十分じゃないかって」
それは決して諦めなどではなく。心の底からそう思っているのだと理解できる、そんな顔と声色だった。
驚く宮城の頬を小さく温かな手が包み込む。揺れる瞳とは対照的に、黒い宝石のような瞳がきゅっと細められた。
「リョータは私に好きって言ってくれるし、抱き締めてくれるし、キスだって、その先だってしてくれる。
そう考えたら、不安なんてどっかいっちゃった。…だから今は、すごく幸せ」
そういう意味で、同じような不安を感じてくれてたんだなって、そう思ったの。
今なにかを言っても、何ひとつ伝わらない気がした。ただ目の前の存在が、こんな情けない自分を、傷付きながらも健気に好きでい続けていてくれたということが。そして過去、他の人に好意を寄せていたとしても、それでも今を信じて、幸せだと言ってくれたことが。どうしようなく宮城の心を締め付けた。
自分だけが好きで必死なのだと悩んで、勝手に不安になって、もどかしさに少し苛立っていたことが、馬鹿らしくさえ感じて。
──なんだよ。すげえ愛されてんじゃん、俺。
そんな言葉が無意識のうちに頭をよぎった瞬間、絡まっていた糸が勝手に解けていくような解放感に背中を押され、宮城はナマエを強く抱き締めた。
労りも何もない。力加減なんてすっかり忘れ勢いのままのその行為は、案の定ナマエを押し倒すこととなってしまい。二人して崩れるように布団へと倒れ込んだ。
「わあっ、」
おそらく少し背中を打っただろうに、ナマエは驚きつつも、やってしまったとばかりに背中を撫でる宮城の手に、「痛いよリョータ」とどこか嬉しそうにくすくすと笑っている。
「…すんません」
「ごめん、うそ。全然平気だよ」
気にしないでと細い腕が首に回る。隙間なく密着したことで感じる体温に胸がいっぱいになりながらも、今はナマエの顔が見たいと思い、宮城はわずかに上体を起こす。
ナマエの顔の横に手を着くと、長いまつげに縁取られた瞳が、離れたことに少しだけ寂しさを感じているように見えた。
「…するの?」
「いや…」
「じゃあしない?」
「…………」
「………」
「…ほんとうは、」
「うん」
「めっ…………ちゃしたい」
「あはは、そんな溜めて言うほどなんだ」
「そりゃ、全然会えてなかったし」
ぽろりと溢した本音も、やっぱりナマエはからかったりなんてしない。
「…でもそれより今は、こうしてたい」
言ってから、これじゃ先ほどナマエに言われた通りただの甘えただ、と気付き。おそらくほんのり赤くなっているであろう顔を隠すように、宮城はナマエの胸に顔を埋める。
ぱふんっ、と揺れて自身を受け止めた柔らかさに若干の下心が首を擡げるも、「そっか」とどこか嬉しそうな声と共に再び頭を撫でる手に、そんな気持ちは何処かへいってしまった。
「…ナマエさん」
「ん?」
「好き」
「うん」
「すっげぇ好き」
「…うん」
「…なんか、もう…よく分かんねえくらい……好き」
「…んふふ。やっぱり今日のリョータは、すごい甘えただね」
あんたにだけだよ。そんな言葉は飲み込んで。「そうっすね」と小さく返す。
その声色が自分でも驚くぐらい柔らかかったことに内心驚きながら、宮城は久方ぶりに感じられたこの心地よさに浸りたいと、静かに目を閉じた。
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