「ここって景色良いよね」

 睡魔に船を漕ぎかけていたナマエの耳に、どこかゆったりとした宮城の声が響く。独り言のような、けれど返事を待っているような。そんな声音に気付いたナマエは、「んー…?」と気の抜けた声を出しながら、手放しかけていた意識をなんとか手繰り寄せ。のろのろとした動作で横臥していた身体を起こした。
 立てた片膝に肘をつきぼんやりと外を眺めていた宮城は、起き上がろうとするナマエに気付き、シーツに落ちる髪が邪魔にならぬようにと耳にかけてやる。

「眠かったら寝てていいよ」
「ん…へいき。それよりもリョータ、こっち…」

 乱れたシーツを手繰り寄せ自身に巻き付けながら、ナマエは余った部分を宮城に向けて広げる。おそらく、裸に近い状態で窓辺にいては風邪を引くからここに入れと。そういうことだろう。
 といっても宮城からしてみれば下着だけは身に着けている自分より、広げられたシーツのおかげで裸体が丸見えとなっているナマエの方が寒そうなのだが。そこは目の保養なので黙っておこう。
 宮城は「はいはい」と誘われるまま素直にその中へ収まると、後ろから抱えるようにナマエを抱き締める。胸元にぐったり頭を預け満足そうに首元へと擦り寄ってくる様子が猫のようだとぼんやり思いながら、ナマエのこめかみへと唇を落とした。

 ナマエの家は湘北を出てしばらく坂を上がった、南向きの窓から海が一望できるような高台に建っている。元々はそこから数十分ほど歩いた場所にあるマンションに住んでいたのだが、趣味でサーフィンをしていた父の『いつか海が見える場所に住みたい』という願いから、ナマエの高校進学を期に引っ越してきた場所だった。
 特に一階の、バルコニーを携えたリビングと、その上にあるナマエの部屋からの眺望は最高らしく。こうして窓際に置かれたベッドの上で肌を晒しても、誰かに見られるということはまず無いと断言できるような所で。おかげで今となっては情事の後、もっぱらその風に身を任せられるお気に入りの場所となっていた。
 頬を撫でる風に初夏の香りを感じながら、いつ来てもいい所だなと宮城は息をつく。ナマエの部屋というのがそもそも居心地が良いの大前提ではあるのだが、それにしてもこの辺りでこの景色の場所に住めるというのは、海を身近に育ってきた身としては単純に羨ましくもあった。

「…景色、そんなに良い?」
「うん。すげえ良い。俺ん家団地だから、窓開けても隣の棟が見えるだけだし」
「もう慣れちゃったから、あんまり何とも思ってなかった」
「もったいねー。朝とか夕方とか、見たりしないんすか?」
「うーん…まあ見るけど、ほんとに時々かな…。というかここから海見るのって、リョータとえっちした後ぐらいかも」
「なにそれ。親父さんにめっちゃ申し訳ないわ」

 ふわりと髪をさらう風が生え際を冷やす感覚の心地良さに、確かにここは良いのかもしれないと、ナマエはぼんやり思う。けれど同時に、「毎日見てるからなあ」といった感情が生まれるのもまた事実で。
 贅沢なことを言っているのは承知しているが、もはや日常の一部となってしまっているこれらに宮城ほど感動できるかと聞かれれば、やはりそれは難しいことだった。何故ならナマエにはここよりもずっと好きな風景があるからだ。

「…私ね、」
「うん」
「ここよりもっと良いところ知ってる」
「え、そんな所ある?」
「うん。リョータの家」
「…なんで?」

 ナマエの言葉に、宮城はきょと、としながらそう返す。まさかそこで自身の家が出されるとは思っておらず。思わず声がもれたといった様子だった。

「うーん…具体的にどこっていうよりかは…なんていうか、皆がちょうどいい距離にいてくれる感じ…かなあ」
「それ、狭いってだけじゃない?」
「そういう物理的なことじゃなくて。カオルさんが料理作ってる音と匂いがすぐ分かるとことか、アンナちゃんの笑い声とか…とにかく色々身近に感じられるのが好き」
「ええ…?」
「あ。あとリョータの部屋から、団地の中の公園見えるでしょ」
「ああ…あの小せえ所?」
「うん。私、夕方になったら、あそこの遊具の影がぐーっと伸びてるの見るのも好き。バスケゴールもあるし。遊んでる子達の声も楽しそうで」

 その光景を思い出しているのか、口角をゆるりと上げながら話すナマエの横顔は、心の底からそれを愛おしく思っている。そんな表情だった。
 これはおそらく、宮城が美しいと思っているこの景色を、ナマエがあまりそう思わないのと同じなのだろう。言い方は少し悪いのかもしれないが、そこを日常としている人間にとっては何てことないものになってしまうからだ。
 とはいえ、景色も含め自身の日常の雰囲気までも好きだと言ってもらえるのならば、それはもちろん嬉しいことなわけで。宮城は「そっか」と素っ気ない返事をしながらも、口角がわずかに上がるのを抑えきれなかった。

「…あ、でもね」

 内緒話でもするように両手で口元を覆ったナマエが、ゆっくりと宮城の耳元へ顔を近付ける。促されるように耳を傾ければ、くすくす笑う吐息が耳をくすぐり。そのこそばゆさに宮城は小さく肩を跳ねさせた。思わず反応してしまった気恥ずかしさを誤魔化すように「くすぐってえ」と笑う宮城に、ナマエは「ごめんごめん」と言いながらも、笑みを止めることはできないようだった。

「ナマエさん、くすぐったいって」
「んふふ…あのね、」
「うん」
「あの布団の中だと、リョータとずっとくっついてられるでしょ?」
「…だから好き?」
「うん。そう」

 うっすら頬を色づかせながら、んふふ、と抑えきれないといった様子で笑みをこぼすナマエは、続いて小さく「もしかしたらそれが一番の理由かも」とも呟いた。
 その言葉に、宮城は思わずぽかんと口を開けてしまう。同時に脳内を埋めたのは、何この可愛い生き物、というなんとも頭の悪い感情だった。

「…じゃあ今度は俺の家来てもらわなきゃじゃん」
「この前行ったばかりなのに?」
「アンナたちもまた来てねって言ってたし、別にいいの」
「そっかあ、別にいいのかあ」
「あと普通に俺の部屋でもしたい」
「あ、本心そっちでしょ」
「うん。少し」
「あはは、素直」

 くすくす笑う唇はけれど呆れた様子もなく。むしろ仕方ないなと受け入れる様相さえ含んでいた。ああやっぱりこの人、めっちゃ可愛いな。
 桃色の唇に誘われるように、宮城は同じものを重ねる。ナマエは少し驚いたように目を開いた後、すぐに目尻をふにゃりと下げ。もっととばかりに顔を寄せ鼻を擦り合わせた。
 ピロンッ。再び唇が重なろうとした、そのとき。ローテーブルに置かれていた宮城の携帯から着信を知らせる音が響いた。反射的に意識がそちらへ向き二人の動きが止まるものの、宮城はすぐに構わんとばかりにキスを続ける。

「んっ、リョータ、携帯」
「いいよ。どうせメルマガだろうし」
「いやカオルさんだよ」
「…なんで分かんの」
「ちらっと見えた」
「………」

 だから早く見て、と続けるナマエの視線に観念したのか。宮城は名残惜し気にシーツを抜け出すと、ローテーブルに置かれた携帯を手に取った。
 残されたナマエはベッドの端に追いやられた下着類を手繰り寄せのろのろと身に着けていく。その音を聞きながらメッセージを確認していた宮城は、添付されていた画像を見たとき「お、まじか」と小さく声を漏らした。

「どうしたの?」
「ナマエさん、今度うちおいでって言ったけどさあ」
「? うん」
「予定変更。今日すぐおいで」
「え、今から?」
「うん」

 にっ、と歯を見せながら笑う宮城は「ほら」と画面をナマエへ見せる。そこには見慣れた宮城家の台所と、料理の写真が表示されていて。彼の母であるカオルの後ろ姿が写っていることから、どうやらこれは妹のアンナが送っているようだった。

「ご飯?」
「そう。今日ナマエさんち行くってメールしといたら、『夜ご飯用意してるから二人で帰ってきな』って」
「え!私も行っていいの?」
「むしろ来てもらわないと。ナマエさん用にラフテー作ったって言ってるから」
「やった!」

 それなら早くとばかりにナマエはベッドから飛び降りると、部屋の隅に置かれた白いテーブルドレッサーの前で髪を梳かし始めた。「カオルさんのご飯久しぶりだなー」語尾に音符でも付きそうなほど浮かれた様子に、「それより先に服でしょ」と宮城は小さく笑いながら、散らばった制服を集めていく。

「あ、待ってリョータ。また制服着るの面倒だからパーカーで行く」
「クローゼットの中?」
「うん。短い白いやつ。あとパンツも何か取ってほしい」
「下着の方?」
「そっちじゃないよ、もう。リョータ分かってるでしょ」
「はは、うん」

 宮城は勝手知ったるとばかりにクローゼットの中からを漁り、ショート丈のパーカーと、ついでに薄いグレーのスカートを取り出す。
 ちょうど髪を整え終えたらしいナマエは「ありがとう」と受け取ると、手早くそれらを身に着けていった。そして「リョータも早く服着て」と、今度は宮城の制服をかき集めていく。

「そんな急がなくても夕飯は逃げないっすよ」
「分かってるけど。なんか、気持ちの問題」
「あと食欲の問題?」
「うん」

 宮城の言葉に小さく笑うナマエの髪を、開けたままの窓から吹き込んだ風が揺らしている。ほんの少しの汗の匂いと、彼女の香りだろう。わずかな甘さが宮城の鼻をくすぐった。
 渡された制服を着ながら、宮城は窓を閉めるナマエの後ろ姿を眺める。──この心地よい海風も、匂いも。輝く太陽も、沈む夕陽も。そしてそこで笑うナマエも。その全てを、良い意味でなんとも思わなくなるときが宮城自身にもくるのだろうか。ナマエが宮城の家のありふれた光景を、当たり前にあるから好きだと言ってくれたように。
 そしてそう思えたのなら、もしかしたらそれは悪いことなんかじゃなく。むしろとても幸せなことなんじゃないだろうか。

「…ナマエさん」
「んー?」
「また来ていいかな」

 ぽつりと呟かれた宮城の言葉に、ナマエはきょとん、として。それからすぐに「当たり前じゃん」と嬉しそうに笑った。


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