つい先日、長きに渡り行われていた青い監獄プロジェクトは、ついに一つの終わりを迎えた。
それは完全な終着点ではないものの、それぞれ抱えていたものがわずかにでも取れたのか、選手たちの表情はとても晴れ晴れとしていて。彼らが選手として大きく成長できたことに、ナマエもまた大きな満足感を得ていた。
 そしてそれに伴い、新英雄大戦へと参加していた各国のプレイヤーたちも、自国へと帰ることとなり。ナマエは今日その見送りとして、潔ら選手陣と、絵心や帝襟たちといった、指揮の中心を担っていた人物たちと共に、空港へと彼らの見送りに来ていた。
 新たな絆を生んだ者、よきライバルとなりえた者、目標を見つけた者。様々な思いが交差する中、握手をし抱擁したり、苦労を労ったり。各々が一時の別れを惜しんでいた。
 そんな中、一人、ドイツメンバーが集まる場所へふらりと近寄る人物がいた。

「…カイザーさん」

 小さな声で名前を呼ばれたその男──ミヒャエル・カイザーは、耳に響いた心地良いソプラノに誘われ、携帯へと落としていた視線を上げた。

「ああ、ナマエか」

 なにやら難しい顔で携帯を眺めていたカイザーは、ナマエの姿を確認するとすぐにその表情をいつもの笑みへと戻し。電源を落とした携帯をポケットにしまうと、ナマエの顔が見えるようにわずかに顔を傾ける。
 普段は相手を見下し話すことの多いカイザーが、わざわざ身を小さくしナマエの言葉を聞こうとしているのだ。自身にしか見せないであろうその優しさに気付き、ナマエは「またこの人はこういうことを…」と身を固くする。彼に甘い言動をされて身構えてしまうのは、もはや癖のようなものだった。

「その…お疲れ様でした。今回あなたに来ていただけて、うちの選手達にもいい刺激になりました」
「俺が来てるんだから当然だな」
「カイザーさんは、どうでしたか。…楽しんでいただけたなら嬉しいんですけど」
「まあ、そこそこ楽しめた。それに…ナマエにも会えたしな」

 柔らかな言葉と共に、ナマエを見下ろすカイザーの瞳はきゅっと細められる。そこに込められた情愛を一瞬にして深く感じ取ったナマエは、それから逃げるように俯いてしまった。「そ、そうですか…」となんとか返したものの、その言葉には明らかな動揺が含まれていて。
 言うべきか、それともやはり止めるべきか。昨晩あれほど悩みようやく結論が出たと思っていたのに、いざ彼を目の前にするとまた尻込みしてしまうなんて。情けない。
 脳内を駆け巡る思考はまとまらず、ナマエは言葉を詰まらせる。黙ってしまったナマエを見つめるカイザーは、いつものように言い返さない彼女の様子に、不思議そうな顔を浮かべた。

「どうしたナマエ。やっぱり俺と離れるのが寂しいのか?」
「………」
「…ナマエ?」

 カイザーの揶揄うような問いかけにも、ナマエは相変わらず何も言い返さず。代わりに小さく唇を噛み締め、ひどく難しい顔をしていた。
 普段と違いどこか思いつめたその様子に、さすがのカイザーも揶揄う気持ちは消えたのだろう。上がっていた口角は下がり、どこか真剣な面持ちになると「なにかあったのか」と、ナマエの頭を撫で始める。
 優しく触れるその手付きに、ナマエはますます眉間にしわを寄せながらも、すぐに決心したような表情へと変わり。ポケットを漁りなにかを取り出すと、無言でそれをカイザーへと差し出した。

「なんだそれは…何かのメモか?」
「まあ…」

 差し出されたのは、四つに折り畳まれた白い紙で。おそらくノートかなにかの切れ端なのだろう。紙の外側が一部ガタついていた。
 別れの餞別なのだろうか。それにしてはナマエらしくなく雑なように思える。真面目な彼女ならば、別れの手紙とくれば、きちんとした便箋でも使いそうなものだからだ。
 内容について皆目見当もつかなかったものの、ナマエならば変なものではないという確信だけはあるため、カイザーはそれを受け取ろうと同じように手を差し出す。カイザーの指先が紙に触れる、まさにそのとき。ナマエが口早に小さく呟いた。

「…これ、私の連絡先です。もし不要なら捨ててください」

 それはともすれば、空港の喧騒に飲まれてしまいそうなほどか細い声で。けれど目の前のカイザーには、はっきりと聞こえていた。
 その紙に書かれているのは、ナマエの私用携帯の連絡アプリのIDと、電話番号。そしてメールのアドレス。この帰国までの間、カイザーが幾度となく聞き出そうとしていたものだった。
 驚き見開かれたカイザーの瞳に、紙を持つナマエの手がわずかに震えているのが映る。そこでようやく、彼は理解することができた。
 ──これまで、カイザーは幾度となくナマエへとその好意を伝えていた。けれどその度「冗談は止めてください」と眉を下げ、ひどく困ったような、それでいて悲しい顔をしていることに、彼も薄々ではあるが気が付いていた。それはまるで、これ以上踏み込まないでくれ。傷付きたくないのだ、と叫んでいるようにも感じられて。
 羨望や好意を含んだ眼差しを向けられることは、立場的にも慣れていた。だからこそ分かる。ナマエが自らに向けていた視線には、明らかな好意が含まれていたことに。そして自身も同じ感情だったからこそ、彼女にアプローチをしていたのだ。
 けれど彼女は、いち職員として必要以上に踏み込んでくることは決してしなかった。そして同時に、カイザーから手を伸ばそうとも、その手を掴むことをしなかった。まるで傷付くことを恐れているかのように。
 そう考えるのも無理はない。そもそも住む国も違ければ、言葉も違う。イヤホンがなければまともに会話もできない。そしていつかは必ずカイザーは国に帰ってしまう。そんな不安定な関係を受け入れろというのは酷だろう。ましてやナマエは職員とはいえ十七歳の高校生。仮に付き合ったとして、できることなどない。普通はそう思うのだ。
 けれどカイザーは違う。手に入れたいと思ったなら確実に手に入れる。たとえナマエがどんなに不安を感じようと、それを包み込み打ち消すぐらいの愛を与えられると、彼は自負しているのだ。
 そしてその想いは、こうして最後の日を迎えたときにようやく通じることとなった。ナマエが拒み続けていた、連絡先という名の"今後の繋がり"を、自らの手でカイザーへ渡したことによって。

「………」
「……カイザーさん…?」

 そんなカイザーの思考を知らぬナマエは、受け取る直前で手を止め無言のままの様子に、段々と不安が募っていく。
 渡した瞬間、てっきり「俺と離れるのが寂しかったのか?」と言われると思っていただけに、この反応は悪い意味で予想外だった。これならいっそ、笑ってくれた方がマシだったかもしれない。
 ──やはり、ただ揶揄っていただけなのだろう。そうでもなければ、いくら青い監獄の職員とはいえこんな一介の高校生が、彼のような人に気に入られるはずがない。
 ナマエの思考はどんどんとネガティブな方向へと突き進んでいく。思い上がり連絡先まで渡そうとしていたことを恥ずかしく思い、差し出したメモを手の中で握り潰す。くしゃりと空しく潰れたそれが、まるで自分の心のようだとナマエは思った。

「…やっぱりいらないですよね。変なこと言ってすみませ、っ…!?」

 けれど、自惚れたその行動を謝罪しようと発した言葉は、最後まで言い終わる前に喉の奥へと消え失せた。いや、飲み込まれたの方が正しいのかもしれない。
 なにせ会話のために開かれていたはずのナマエの唇は、カイザーによって塞がれていたからだ。
 ナマエが自身の状況を理解する前に、ちゅっと可愛らしい音を立て触れながら、唇はすぐに離される。けれどいつの間にか腰を抱いていた腕と、後頭部を乱暴に引き寄せた手はそのままだ。

「…は?」

 間抜けに漏れたナマエの声に、周囲の人々もカイザーの突然の奇行にぽかんと口を開け。特にナマエの少し後ろで様子を見ていた潔は、その眼を大きく見開いていた。なんだ、なにが起きた。
 唇に一瞬触れた柔らかな感触と、腰の辺りに感じる腕の強さ。後頭部を覆う大きな手。鼻に感じるわずかなローズシトラスに、こちらを見下ろす青いと薔薇の花。先ほどつけたばかりのリップのカラーが、その整った唇にうっすらと乗っていて──、
 目に映る全てが脳内を駆け巡り、自身の身に何が起きたのか。ようやくナマエが理解した、まさにその瞬間。強く身体を引かれ、足元が浮く感覚がナマエを襲った。

「は、…!?」

 ようやく追いついてきた思考を再び置いていくようなカイザーの行動に、ナマエは目を見開く。急に高くなった視線と、目の前にいたはずのカイザーが視界から消えていて。
 どこに行ったんだと一瞬思うものの、眼下に見えた金色と青のグラデーションと、こちらを見上げ困惑する見慣れた顔たちに、自身が今どんな状況なのか今度はすぐに気が付くことができた。

「!?!!?」

 ──抱き上げられているのだ。その逞しい左腕に腰掛けるように、彼の腕の中に。
 人という生き物は驚きすぎると言葉を失うのだということを、ナマエは初めて理解した。いや、正しくは初めてではない。怪我を宣告された時も同じだったが、これは全く意味が違う。他者の突飛な行動に、驚き戸惑っているがゆえだ。
 そしてその他者というのが、今まさしくナマエを抱き上げ、無言で歩き出している、ミヒャエル・カイザーなのである。
 呆気に取られるナマエと周囲を余所に、カイザーはすたすたと歩いて行く。それなりにお喋りなはずのカイザーが、無言のままというのがまた恐ろしかった。短い期間での付き合いだがよく分かる。これは彼が、なんとか正気を保とうと真顔でいるときなのだ。
 ちなみにカイザーがその状態になるのは、たいていナマエに不意打ちをくらったときだというのを、彼女はまだ知らない。

「…おいカイザー、何やってんだ」

 数メートルほど歩き足を止めたそこは、どうやら出発ゲートの目の前のようで。ドイツチームのメンバーが複数名集まっていた中、突然ナマエを連れ現れたカイザーに、ノアは呆れたように問いかけた。カイザーの大胆不敵さには慣れているはずの彼であっても、人を抱き上げたままやって来たことについてはさすがに理由を聞きたいらしい。

「このままドイツに連れて帰る」

 その問いかけに、淡々とカイザーは答える。まるでそれが当たり前かのようにな声色に、これまで散々二人の様子を見てきたがゆえに全てを察したノアは、数度瞬きした後「…それは止めておいてやれ」となんとか返した。冷静な彼には珍しく、考えを絞り出すような声だった。

「おい!何やってんだバカイザー!」

 そんな空気を切り裂くように、潔の声が響く。声を上げこちらに近付いてくる潔の姿にカイザーは分かりやすく眉間にしわを寄せると、大きく舌打ちし、くるりと潔へと向き直った。

「ナマエが困ってんだろ。離してやれよ」
「オイオイ、なんだ。クソ世一はナマエの騎士気取りかぁ?」
「違えよ。ただ嫌がることしてんじゃねえって話だ」
「嫌がってる?ナマエがそう言ってるわけでもねえのに、ずいぶんと分かってるんだなぁ?」
「てめぇ…っ」
「あの!私挟んで言い争い止めてもらえません…!?」

 一触即発の雰囲気に、飛んでいた意識がようやく戻ってきたナマエは、慌てて抗議の声を上げる。カイザーが潔と対峙したことで、抱えられていたナマエは向きを変え、先ほどからドイツメンバーと目を合わせることとなり。同情を含んだ瞳で見つめられる居たたまれなさに、ついに耐え切れなくなったのだ。

「かっ、カイザーさん…とりあえず下してもらえますか…」
「………」
「おい、ナマエがそう言ってんだろ。下せよ」
「ちっ…」

 さすがに本人に言われたとなっては従うしかないようで。カイザーは渋々といった様子でナマエを地面へと下した。けれど左腕は相変わらずナマエの腰を抱いたままである。
 近いままの距離をなんとか離そうと藻掻くも、それは叶わない。もういっそ潔に手を伸ばし助けを求めようかとも思ったが、それをすればカイザーの怒りを別の意味で買いかねないので、出そうになった手を止めておく。さすがにここで火に油を注ぎたくはない。

「…おいカイザー、そろそろ時間だぞ」

 もういっそ二人でやり合ってもらおうかとも諦めかけていたところに、ノアの声がカイザーを呼ぶ。つられてナマエも腕時計を確認すると、彼の言葉通り、そろそろ飛行機の搭乗時刻になろうとしていた。

「……本当は連れて行きたいが仕方ない。またな、ナマエ」
「えっ、…!?」

 すると先ほどまでの攻防が嘘のように、カイザーはあっさりとナマエを解放した。
 ここまで大事にしておいてやけに素直だな、とナマエだけでなく潔すらも呆気に取られていた、そのとき。カイザーは再びナマエへと顔を近付けると、解放されたことですっかり油断していたその頬に、小さく音を立てて口付けた。

「な、え…え……?」
「最後に素直になれたご褒美だ。…必ず連絡してやるから、いい子で待ってろよ?」

 真っ赤に染まる耳元で楽しそうにそう囁くと、カイザーはナマエへと背を向け、先を行ったチームメイトを追うように搭乗口へと消えていった。
 その手には先ほどナマエが握り潰したはずのメモが握られており。抱き上げられるまでの一連の出来事に驚いて落としたと思っていたが、どうやらしっかり拾っていたようだ。抜かりない。

「大丈夫か?ナマエ」
「う、うん…」

 ナマエはすっかり力の抜けた身体を潔に支えられながら、最後の最後まで嵐のように色々と起こしていった男の背中を、呆気にとられたまま見送ることしかできず。
 ただ最後に向けられた、強い欲を孕んだ青色の瞳を思い出し、身体を震わせるのだった。



「…お前にしてはずいぶんあっさり帰したな。よかったのか?」

 数歩前を歩くノアが、振り返りながらカイザーに問いかける。その言葉はナマエを気遣うというよりは、カイザーの行動に単純に驚いている、そんなもので。冷静に見えるこの男も、稀代のエゴイストなのだ。手に入れたいと思ったのならばどんな手段でも使うというカイザーの考えが、全く理解できないというわけでもなかった。だからこそこうして問いかけたのだ。
 連れて帰るというあの言葉が実は半分以上本気だったことに気付いていたのは、きっとノアくらいなものだろう。いや、もしかしたら潔も気付いていたのかもしれない。だからこそあそこで必死に止めたのだ。
 ノアの問いかけにカイザーは少し考えるような素振りを見せたあと、スッと口角を上げ、得意げに笑う。

「"今"は、とりあえずいいんだよ。…もう手に入れたからな」

 確かな確信と、余裕。それらを含んだカイザーの声音に、ノアは期間中、自らを含めメンバーたちを手厚くサポートしてくれたあの健気な存在が彼に巻き込まれ、おそらく今後の人生が大きく変わってしまうであろうことを、心の片隅でわずかに憂うのだった。


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