「お前がミヒャの彼女?今のお気に入りでOK?」
唐突に投げかけられたその言葉の意味をナマエが理解するのに時間がかかったのは、たった数日前に言われた「あいつには近付くな」の言葉が、無意識のうちにストッパーになっていたからなのだろう。
目の前に立ちはだかり壁のような威圧感を感じさせる男──ドン・ロレンツォは、ぽかんと自身を見上げるナマエの姿に、その金歯を見せるように、にやりと笑った。
練習も終わり、選手陣は夕飯を食べている時刻。誰もいないこの合間に片付けをしてしまおうと、ナマエは気合を入れるために腕まくりをし、広いフィールドを端から端へと駆け回っていた。
普段は人の声が飛び交うこの場所も、誰もいなければ当たり前だが静かなもので。常に誰かがいる状況がほとんどだった毎日の中で、ある意味一人で落ち着ける場でもあった。
けれどそれは、音もなく表れたロレンツォによってあっさり壊されてしまう。
職員である以上ナマエは一方的に彼の名を知ってはいたものの、直接会話をしたことはなく。さらにいえば挨拶を交わしたことすらない。これがほぼ初対面であるにもかかわらずとんでもない発言をぶちかましてきた男に、ナマエは胸中溜め息を吐く。
「ええ、まあそうみたいですね」
「なんだか珍しいタイプだなぁ。今までと全然違う」
「そうなんですか」
「あれ、さして気にしてない感じ?無関心OK?」
「…というか、いちいち気にしてたらきりがないので」
わざとらしく"今の"、という部分を強調する辺り、彼がナマエを揶揄うつもりで話しかけたというのはすぐに理解できた。ならばまともに相手にするだけ無駄だろう。精神がすり減る以外の結末が見えない。とはいえあくまで相手は選手。明らかに適当な対応はしないものの、それでもなるべく、わずかな動揺さえも悟られぬよう努めて淡々と返事をする。
なにより、気にしていないというのも嘘ではない。いや少しは気にしているかもしれないけれど、カイザーのような男の過去に女性の影が全くないなんてことは有り得ないというのは、一緒になる時点で分かり切っていたことだ。言った通り、いちいち気にしていたらきりがないという意味での、気にしていない、だ。
過去がどうであれカイザーが今愛を囁いてくれるのは自分だけだというのなら、それで充分じゃないか。もっとも、ナマエが心の底からそう思えるようになったのも、カイザーが彼らしからぬほどの愛をこれでもかというぐらい与え続けたがゆえの、努力の結果なのだが。
ナマエのそんな冷静な反応が予想外だったのか、ロレンツォは一瞬きょとん、とした後「それは確かに」と再び小馬鹿にしたような顔で笑う。
「じゃあ教えてやろうか。あいつの過去の女がどんなだったか」
「はあ…いや、いいですかね別に」
「遠慮?」
「いえ別に遠慮してるわけでは…」
それでもなおちょっかいを掛けようとしてくるロレンツォに、この時点で、ずいぶん面倒な人に絡まれたなとナマエは内心感じていた。そもそも彼が何故カイザーの過去の恋人を知っているのかという点は疑問が残るが、それについては昔馴染みという感じなのだろう。少なくともナマエがカイザーと出会うよりもずっと前からの知り合いなのは確かなのだから。
それよりも、ロレンツォに限らず冴といいカイザーといい、新世代世界11傑の面々は皆こうなのだろうか。こうというのは言わずもがな、性格が悪いという点である。むしろ今はそっちの方が気になる。
まだ三人としか会ったことがないにもかかわらずもはやほぼ確実であろうその事実を、ナマエはぼんやりと考える。決して口には出さないが、今でこそ優しいカイザーも初対面では相当失礼な対応をされたからだ。
いまだいやらしく笑いながらこちらを見下ろしてくるロレンツォに、さてどう対応したものかと思案していると、不意に目の前に壁が立ちふさがった。
「え…、」
「何してんだ」
ナマエの視界からロレンツォを隠すように。そしてロレンツォからも、ナマエが見えなくなるように。二人の間へ割って入ったその人物がカイザーだと気が付いたのは、目の前で揺れる金と青のグラデーションと、隠しきれていない怒気を含んでいながらも聞き慣れた声音が響いたからだった。
「か、カイザーさん…」
「よぉ、ミヒャ」
「…おいナマエ、部屋に戻るぞ」
「え、あ、でも…、」
「いいから。戻れ」
まるで来ることが分かっていたとでも言いたげな様子で、ロレンツォはカイザーの名を呼ぶ。てっきり潔と睨み合ったいつものように激しいレスポンスバトルにでもなってしまうと思っていたのだが、その予想は見事に裏切られ。ロレンツォを無視し一見穏やかにも感じられる様子でナマエの方へ振り向いたカイザーは、彼女の肩を掴み顔を覗き込むと、淡々と自室へ帰るよう促した。
──けれどナマエには分かる。彼は今、思わず足がすくんでしまうほど恐ろしい怒りの炎を燃やしているということを。
そしてそれは今、ロレンツォとの会話を、こんな風に"無視する形でいきなり終わらせてもいいのだろうか"という、いらぬ気遣いのようなものを働かせたナマエが、一瞬でもカイザーの言葉に疑問を呈したことによって、さらに増幅することとなってしまい。ああこれは地雷を踏んでしまったのだと彼女が理解する頃には、カイザーの怒りは後ほんのわずかなきっかけで業火となりナマエを包み込んでしまいそうな状態になっていた。
「あの、カイザー、さん…」
震えそうになる声をなんとか鼓舞し、様々な願いを込め再びカイザーの名前を呼ぶものの、もはや彼に聞こえているのかは分からない。
確かに以前、カイザーはロレンツォが嫌いだと言っていたが、言葉少ないながらも会話をする場面は何度か見ていたため、あくまでその程度なのだとナマエは認識していた。
時間にして五分と経っていないだろう。中身などあってないような、ただ揶揄いたいから話しかけて、それにナマエが渋々応じていた。その程度の会話に何故カイザーがここまで怒っているのか、ナマエには分からなかった。そうして疑問を浮かべることがまた、カイザーの怒りを煽っているとも知らずに。
「だぁー、無視はひどいなぁ。俺はまだその子と話したいんだけど」
「え、あ…っ、」
そんなカイザーの様子を全て見ていたロレンツォも薄々感じ取っているはずだ。なにせカイザーはわりと顔に出やすい方だから。にもかかわらず。ロレンツォはわざとらしく煽る言葉を吐くと共にその長い腕を伸ばすと、カイザー越しに、ナマエの左手首を遠慮なく掴んだ。
ギリッ、とわずかに音を立てるほど強さにナマエは顔をしかめる。こんなことなら、気合入れだといって腕まくりなんてするんじゃなかった。ジャケット越しに掴まれたなら、まだ痛みもマシだったかもしれない。
「三億の男の恋人ってことは、あんたも三億の価値OK?そこまでには見えねぇけどなあ?」
ああこれはまずい。恐れていた"ほんのわずかなきっかけ"を、ロレンツォは炎の中にあっさりとくべてしまい。
案の定、やらしく光る金歯から発せられる嘲りに紛れるように、カイザーの理性が切れる音を、どこか遠くに聞いた気がした。
「ロレンツォ、その手を放せ。今すぐ」
小さく、低く。けれど身体が一瞬で重くなるような怒りを含んだ、そんな声だった。カイザーはいまだナマエの左手首を掴むロレンツォの右腕を掴むと、比喩ではなく、本当にミシミシと音が立つほどの力を込め始めている。
以前、潔のプレーに噛み付いたネスの頭を掴み、同じように軋む音が聞こえそうなほど力を込めていたことがあったが、今はそれすら優しいと思えるほどの力で。それこそ、折ることも厭わない。そんな気さえしてしまうほどの強さだった。
「かっ、カイザーさん!私は大丈夫ですから…!」
カイザーの怒りは、彼を慕う者ほど恐怖を感じるタイプのものだとナマエは思っている。普段口数の多い人ほど言葉が少なくなると恐怖を感じるというやつなのだろう。青筋を立て、ただ静かに怒りの炎を揺らめかせるのだ。
さすがにこれ以上はまずい。本能的に察したナマエは、それまで喉の奥底で縮こまっていた声を何とか絞り出す。
「あの、ロレンツォさんも…手、離してもらえますか……」
その言葉に、ロレンツォはこれまでのやり取りが嘘のようにあっさり「はいはい」とナマエの手を離した。
解放された手を急いで引っ込めたものの、そこにはホラー映画かと言いたくなるような手の痕が、くっきりと残されていて。これをカイザーが見たら、ようやく収まりそうだった彼の炎はまた激しく燃え上がるのではないかと、ナマエは恐ろしさに頬を引きつらせる。早く隠さなければ。
「……」
「…あ、あー……あの、カイザーさん落ち着いて……」
そう思ったけれど、時すでに遅し。急いでジャージの袖口を引き伸ばしたものの、ナマエを見下ろすカイザーの瞳はしっかりと手首を捕らえていて。その視線が一切手首から外れないことから、速攻でバレたのだとナマエの冷や汗はさらに増すこととなる。
もはや宥めるこの声も、彼に届いているのかどうか怪しい。
「…行くぞ」
「え、あ…っ!」
なにも悪いことをしていないはずなのに何故か慌てるナマエがあちらこちらに視線を彷徨わせていると、カイザーは戸惑う彼女の手を握り、足早に歩き出した。
わずかに痛みを感じている手首に気を使っているのか、ナマエの手を包み込むカイザーの手は信じられないほど優しく。幾分か理性を取り戻してくれたのだろうかと淡い期待を抱きながら、ナマエは縺れそうになる足でなんとかその後を追う。
「じゃあなぁ、ミヒャに…"仮"三億ちゃん」
背後から、どうしようもなく楽しかった、という感情を一切隠すことのない声がした。
「ちょっ、カイザーさ、いだだだ…っ!」
あの後、ドイツ棟の一角にあるカイザーの自室へと連れてこられたナマエは、部屋に着くなり抱き締められていた。気のせいではなく、確実にミシミシと音を立てられるほどに。
てっきり何かお怒りの言葉をいただくと思っていたのだが、意外にもカイザーは無言で。さきほどまで手首を絞めつけられていたと思ったら今度は身体かと、そろそろ抜けそうになる魂を必死に引き留めながらもなんとかカイザーへと声をかける。このまま延々無言で抱き締められたままでは、埒が明かないだろうからだ。
「カイザーさん、少しっ、少しでいいから離してください…っ!」
「………」
「…顔が見たいんです。お願い」
ほんの少し弱い声を出せば、カイザーはわずかに反応を示す。ずるいとは思いつつもこれが彼に一番効果的だと分かっている以上使わない手はない。
予想通りカイザーは腕の力をゆっくり抜いていく。それでも依然強く抱き締められたままではあるが、顔がのぞき込めるだけ幾分かマシだろう。
ようやくわずかに離れた距離に安堵しつつ、ナマエは俯くカイザーの顔を覗き込むと、まるで壊れ物でも扱うかのようにその両頬に手を添え、いまだ不安に揺れるその瞳を見つめる。影が落ちたことで深い海のような色の青は、ナマエと視線を合わせたことによって、わずかに光を得たようにも見えた。
自分のせいではないとはいえ、あのカイザーにこんな表情をさせてしまったと後悔すると同時に、この傍若無人な男が、平凡極まりない恋人が悪く言われただけでこんなにも取り乱してしまうのかと考えたとき。不謹慎ではあるが、その愛の深さを感じ取ってしまい。そうなれば、戸惑いよりも先にこうして愛おしく思う気持ちだけが大きくなるのは、もはや仕方のないことだと、ナマエは誰に対してでもなく、そう思うのだ。
「カイザーさん、そんな怒らないで。何もなかったんだし、私は気にしてませんから」
「…お前はもう少し、自分にクソ頓着しろ。あんなこと言われて気にしないのはおかしいだろ」
「それは、まあそうなのかもしれませんけど…でも私にとっては、カイザーさんが悪く言われなければ何だっていいんですよ」
「………」
「だからお願い。ね?…そんな怖い顔しないで」
おそらくカイザーが今怒りを感じているのは、ナマエに対してでも、元凶であるロレンツォにでもない。いや、ロレンツォにも怒りは感じてはいるだろうが、それ以上に、油断してあんな状況にさせてしまい、あまつさえあのような嘲りを恋人へと吐かせてしまった、自分自身に対してだ。それをナマエも分かっているからこそ、カイザーの不安が少しでも無くなるよう柔らかな声で言葉を紡ぐ。
ナマエの言葉にようやく怒りが収まり始めたのか、カイザーの表情も徐々に柔らかいものになっていき。頬に添えられたナマエの手に甘えるようにすり寄ってくる。珍しいその行動に、やはり胸が締め付けられるような感覚がする。悪い意味ではなく、そう。きゅんとしたというやつだ。
「…手首、」
「え?」
「痕が残ってただろ。痛くなかったか」
「ああ…大丈夫ですよ。あんな痕ぐらい、すぐに消えますから」
「………」
「…他に気になることは?」
「……他に、」
「はい」
「他に、触られたところは」
「ないです。……あれは不可抗力でしたけど、そもそも私があなた以外の人に、そう簡単に触らせるわけないでしょう」
カイザーの問いかけに、ナマエはしっかりとした声で答えていく。不安を感じるならば、一つ一つ取り除けばいい。そのためなら何だって答えるし、望むことも何だってするつもりだ。
普段ならば恥ずかしがって言わないであろう言葉を、自身の目を見つめはっきりと言い放つその姿に、カイザーは「ハッ」とどこか嬉しそうに笑みを零した。
「な、なんで笑うんですか…」
「いやなに…お前は時々、本当予想外のことを言ってくれるなと思っただけだ」
「ええ…どういう意味ですかそれ」
「安心したって意味だ」
すっかり怒りは収まったらしく。カイザーは自身の頬に添えられたナマエの手を包み込むと、その指先へと唇を落とす。指の付け根、掌、手の甲。何度も音を立てながら唇は下りていき、最後に左手首へ。ジャケット越しではあるが労るように触れると、そのままゆっくりと離れていった。
「え…」
「どうしたナマエ…やっぱり痛むのか」
「あ、いや、そうじゃなくて……、」
てっきり最後は唇へ重なると思っていただけに、あまりにもあっさり離れてしまったカイザーにナマエは声を漏らす。思わず出てしまったとばかりの声にはどこか落胆したような色が含まれていて。あからさまなそれに気付き、ナマエは咄嗟に唇を噛み締め言葉を呑み込んだ。なに、今の恥ずかしい声。
手首に触れたことで痛がっているとでも思ったのだろう。カイザーは少し険しい顔付きでそう尋ねる。けれどそんな恥ずかしい考えを言えるわけがない。純粋に心配をしているであろう青い瞳から逃げるように、ナマエは「なんでもない、です…」と顔を背けた。
けれどそれにカイザーが気が付かないわけもなく。歯切れが悪いナマエの様子に一瞬首を傾げたものの、すぐにその理由を察したようで。先ほどまでのしおらしい雰囲気などどこへやら。普段のような顔でにやりと笑うと、気まずそうに視線を逸らすナマエの顔を、覗き込むように距離を縮めた。
「なんだ。もっと欲しい場所があったのか?」
「その言い方止めてください……」
「本当のことだろう?素直に言えたらちゃんとしてやるよ」
「っみ、耳止めて、ぁ…、」
逃げるように顔を右へと背けていたせいで、わざとらしく耳元へぴったりとくっ付けられた唇から、話す度に漏れる甘ったるい吐息が、まるで情事の時のように脳内に響き身体を震わす。時折いたずらに耳輪を軽く噛まれ、熱がお腹の奥底へ、じわじわと蓄積していくのが分かった。
きゅうっ、と簡単に疼く下腹部に、ナマエは唇を噛み締める。
「ほら、ナマエ」
「〜わっ、分かりましたから…!もう止めて…!」
言えと強要しているくせに、我慢ができないとばかりにカイザーの右手はナマエの後頭部へと回されていて。こめかみと頬の辺りを、指先が物欲しそうにすりすりと柔く撫でている。
嫌というほど身体と脳に叩き込まれた快楽が強制的に呼び起こされる感覚に、これ以上はまずいと脳内で警報が鳴り。あの整ったご尊顔に失礼だとは理解しつつも、ナマエはカイザーの顔を押し退けできる限り距離を取った。それでも、いつの間にか腰にも回されていた腕に阻まれそこまで離れることはできなかったが。
「…照れ隠しか?あいかわらずクソ可愛いなぁナマエは」
「ご、ごめんなさい…つい……」
押し退けられたことが少し不満なのか、にこにこ笑うその顔が少し怖い。
伺うようにちらりと視線を向ければ、嬉々とした様子でナマエの言葉を待つカイザーの姿。けれど彼がこのまま大人しく待てができるタイプでないことはナマエもよく分かっている。言い淀めば、確実にまたちょっかいをかけてくるだろう。それにそもそも根本からして、彼は待つ側の人間ではないからだ。
それでも最後の抵抗とばかりに、せめて顔は見られないようにとその胸元へ額を押し付けると、消えそうな声で呟く。ナマエの声を聞こうとカイザーは耳をそばだてているのであまり意味はないのかもしれないが。
「…ちゃんと、く、口にして…ください……」
尻すぼみになってしまった言葉にあからさまな羞恥が滲んでおり、ナマエは誤魔化すようにカイザーのスウェットを強く掴んだ。ぎゅうぅ、と力いっぱい握ったせいで皺が寄っていたが、支給された部屋着なのでそこは許してほしい。
「良い子だ」
「んむっ、」
ナマエの言葉を聞いた瞬間カイザーの唇が重なる。啄ばむように何度も触れられ、その度じんわりと溶けだす体温に、身体から力が抜けていくのを感じて。ナマエは妙な安心感に包まれる。
舌を絡めているわけでもない。触れるだけの優しいはずのそれに呼吸が苦しく感じるのは、多幸感で胸がいっぱいだからなのだろうか。それとも、単純な言葉で言ってしまえば、カイザーという男が嫉妬をしたということに、わずかながらも喜びを感じたからだろうか。
長い口付けの後、酸素が足りずわずかに涙を浮かべるナマエの目尻を親指で拭いながら、難しい顔のカイザーが呟く。
「…おい、ナマエ」
「は、はい…?」
「もしまたフルキン野郎が来たら、急所でも蹴り上げてやれ」
「いや…そんな恐ろしいことできませんよ…」
「人の女にクソ不快なこと言ったんだ。それぐらい、やられても文句言えねぇだろ」
「ええぇ……」
「お前がやらないなら俺がやる」
「なっ、なるべく二人にならないようにしますから…それだけは止めてください…」
同じ男とは思えぬ恐ろしい発言に、何故か女であるナマエの方が戦慄してしまう。なにせこういう時の彼は、やると言ったら本気でやりかねないからだ。彼の脚力でそんなことをしようものならどうなるか分かったものじゃないと、ナマエは慌てた表情で制止する。
「"なるべく"じゃなくて、"絶対に"って言え」
「いや私一応職員ですし…選手の方とお話することもありますから、さすがに絶対とは…」
「あんなこと言われておいてまだあいつと関わりたいのか?」
「仕事であれば仕方ないですね…」
この年齢でそんなこと言いたくはなかったが、もはやこれは働くという点において避けては通れぬ道である。"関わらない"という言質を取りたいのだろうが、さすがにそこは流されてくれないナマエに、カイザーは再び眉根を寄せる。
「…言うこと聞かねぇなら、もういっそ誰にも会わねえように…このままここに閉じ込めちまうか」
「…冗談ですよね?」
「いや本気だ」
「………」
「ただまあ、それは現状じゃ不可能だからな……とりあえず"今夜"については、もうここから出さない」
"現状"の部分がどうにも気になるが、そこには触れない方がいいのだろう。それよりもずっと気にしなければならない部分がある。──今夜。今夜と言ったか。今日の夜。つまりは、まさしく、今この時ということ。ここから出さない、と。それが本当ならば、連れられるがままにカイザーの部屋まで来てしまったのは、もしかしなくても大分まずいのではないか。
さきほどまで不機嫌極まりない顔付きだったはずのカイザーは、今度は180度真逆の、それこそ恐ろしくなるほどの満面の笑みを浮かべている。
「いや私まだ仕事が…」
「またその言い訳か…つーか、もうほとんど終わってただろ」
「そ、そんなことは……ほっ、ほら!掃除もしなきゃですし…っ」
「前、"皆さんいつも綺麗に使ってくれるから掃除が楽ですよ"って言ってただろ」
「………」
「他に言い訳は?」
もはや完全に断たれた逃げ道にナマエは頬を引きつらせる。──眼鏡事件。ナマエが胸中密かにそう呼んでいる、数週間前のあの日と同じような流れに、背中には一筋の汗が流れた。あの時も仕事を理由にするも逃がしてもらえず、あまつさえシャワーすら浴びさせてもらえなかったのだ。もうあんなとんでもない恥をかくのはごめんだ。
しかもわざとらしく、先ほどナマエがカイザーに投げかけた、「他に気になることは?」といった台詞と同じニュアンスで、今度はナマエに投げかけている。あの時は互いを労り想い合う甘い雰囲気だったというのに、ここでそんな風に言うのは…なんというか、性格が悪すぎる。
「…今度はせめてシャワー浴びさせてください……」
それでもなんとか絞り出した最後の抵抗に、カイザーは「クソ良い子だなぁ、ナマエは♡」と楽し気に笑うと、再びナマエの唇に、自身のそれを重ねるのだった。
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