ナマエは困っていた。
あと一時間で始まるミーティングで使用するため絵心から取ってくるよう頼まれた資料を、長い廊下の先にある保管庫へ探しに行かねばならないのだが、今目の前にいる人物が、どうにもそれをさせてはくれなさそうだからだ。
「………」
「………」
「…あの、い、糸師選手…近いです……」
その男──糸師冴は、ナマエの口から「糸師選手」と呼ばれた瞬間、分かりやすくその目つきを険しいものへと変えた。ぐっと増した威圧感に、ナマエは漏れそうになる声を何とか抑える。
背中には壁があり動くことは叶わず。顔の横には手…ではなく冴の右肘が付かれていて。肩を上げ少しでも距離を取ろうと壁に張り付くナマエの顔を覗き込むように、冴は体勢をわずかに低くしている。
目と鼻の先にある顔に、数ヶ月前に見た少女漫画にこんなシーンがあったなと、ナマエはぼんやり思い出す。なんだっけ確か…ああそうだ、肘ドンってやつだ。それはときめくシチュエーションのはずだったが、これは違う。ナマエの胸は一切ときめいておらず、なんなら肉食獣に狙われ今から喰われるのではと恐怖さえ感じている始末だ。というかそもそも、なんでこんな状況に。
「…おい」
恐怖と焦りで視線をあちらこちら彷徨わせるナマエの頭上から、不意に声が聞こえる。といってもその主は冴しかいないのだが。
ナマエは震える声で「は、はい…?」と返事をする。その間も目は合わせない。
「なんで、"糸師選手"なんだよ」
「は…、」
無言の後発せられた言葉に、間抜けな声が漏れる。思わずぱっと上げた顔の先に見えたターコイズは、想像していたよりもずっと優しく見えて。それどころか、ナマエが自身を見上げたことに嬉しさを感じているようにさえ見えた。
「間違ってないと思いますけど……」
「敬語使う意味が分かんねえって言ってんだよ」
「…糸師選手は一応、対戦相手という形でここにに来ていただいてますし…それに、その、そもそも歳上ですし…」
「…前は"冴くん"って呼んでたじゃねえか」
避けていたその話題にあっさり触れた冴に、ナマエは分かりやすく肩を跳ねさせる。その反応は、わざとそう呼んでいたと言っているも同義で。先ほどの嬉しそうな反応から一変、冴は不満を隠すことなく眉間にしわを寄せると、小さく舌打ちをした。ちょっと、聞こえてるんですけど。
「呼べませんよそんな……」
「じゃあ俺がいいって言ったら呼ぶのか」
「それは他の人にも示しがつきませんし…無理です…」
「…愚弟のことは呼ぶのにか」
「……凛ちゃんは…怪我の後も心配して連絡くれてたし…また少し、違うというか…」
「………」
「とにかく、凛ちゃんと同じように名前で呼ぶことはできません」
その言葉に、どこか傷ついたように見えたのは気のせいだろうか。
どうして、冴くんがそんな顔するのよ。言えるはずのない悪態を飲み込み、ナマエは俯く。けれどここは譲るわけにはいかない。これはナマエの意地だ。
落とした視界に映った、自身の足と冴の足。二つの大きさがあまりにも違い、否が応でも時の流れを感じてしまう。
それもそのはずだ。なにせあれからもう、五年近い月日が流れたのだから。
──糸師冴とミョウジナマエの関係の始まりは、今から十年以上前に遡る。
当時四歳のナマエは、地元のサッカーチームに所属していた。そこは小学校に上がる前、六歳までの男女で形成された混合チームで。まだ力にも体躯にも差のない子供たちを集め、サッカーの楽しさを教えようといった場所だった。
といってもチームと名がつくこともあり、もちろん試合や大会も開催しており。近隣地区や関東圏でリーグ戦が行われる程度には大きなところでもあった。
そんな中、東京で地区チームの一つに所属していたナマエと、神奈川の鎌倉で発足していたチームに所属していた冴。二人のチームが交流試合をすることとなり。当時既にエースとして活躍していた二人は、対峙したそのとき、大げさではあるが運命のようなものを感じ取ったのである。
それは男女や年齢といった垣根を超えた、共感にも似た感情で。初めて同格として認め合えた存在に、当時の二人はすぐに"友人"という立場になれたのだ。
それからというもの二人の交流は続き。互いに所属を中学のチームへと移した後も、男女の体格差が出始めた頃でも、会えば辺りが暗くなるまで一緒にボールを追いかけていた。ちょうどその頃、冴の弟である凛もその中に加わり、まるで兄弟のように過ごしていたのである。
そんな思春期時代を過ごしていたからなのだろうか。冴とナマエが互いを意識し始めるのに、そう時間はかからなかった。
「ナマエが好きだ」そう冴が告げたのは、彼が十三歳、ナマエが十二歳のとき。やわらかな風が頬を撫でる春のことだった。その言葉に、ナマエは一も二もなく同意をした。ナマエの返事を聞いた瞬間、「やった」と笑った冴の顔を、彼女は一生忘れないだろう。
そうして、純粋な気持ちを抱えながら恋人となった二人だったが、それは長くは続かなかった。その年、冴はサッカーのため、単身スペインへと渡ることが決まっていたからだ。糸師家とは家族全体で交流が続いていたため、空港にはもちろんナマエも向かい。「世界一になって帰ってくるから」という冴の背中を、涙ながらに見送ったのだ。
──それから約四年後。ナマエが十六歳となった年のこと。
それまでこまめに連絡をしていた冴とナマエだったが、ある日送られてきた「これからは連絡が難しい」というメッセージを境に、連絡はぱったりと途絶えてしまったのだ。
それに対しナマエは不安を感じながらも、遠く離れた異国で、言葉も通じない中頑張っている冴のことを考えたとき、少しでも負担にならないようにしなければと、元来の真面目さからその言葉に従ってしまい。彼へ連絡をすることも、手紙を送ることもしなくなってしまったのだ。
そして訪れた、ある冬の日。その日は前日から続く雪の影響で路面が凍っており、コンクリートでできた道路は気を遣わなければならないほど歩きにくい状態となっていた。
部活動の帰り道。今日は一段と寒いな、とぼんやり空を見上げたナマエの意識は、白い雪に目を奪われたその瞬間で途切れた。
次に視界に映ったのは、同じ白でも無機質な白で。その傍らに、俯く家族と、苦し気な面持ちの白衣の男性。鼻につく消毒液の匂いから、ここが病院だというのはなんとなく理解できた。幼い頃、腕の骨折を治療した際嗅いだ匂いだったからだ。
全身の痛みと、感覚の鈍い右足。会話もままならない中、「無事でよかった」「落ち着いて聞いて」と泣く家族の横から、医者であろう男性に告げられた言葉。それはナマエの人生において、縁がないだろうとさえ思っていた言葉で。
ナマエが選手生命の終わりを告げられた、その日。それは奇しくも、冴が弟である凛と決別をした日でもあった。
──そして、約一年後の現在。学生時代に所属していたチームで知り合い友人となった帝襟アンリの誘いもあり、ナマエは"青い監獄プロジェクト"へ、帝襟の手伝いといった形で参加をしていた。
しかしそれは表向きの役職であり。彼女の本来の役割は、かつて天才とまで呼ばれていたその立場や観点から、選手達のフィジカル・メンタルなどの体調管理と計画への的確なアドバイスをしてほしい…といった願いが込められているのだが、怪我をした過去もあってか若干ネガティブな面もあるナマエに、それは伝えられてはいない。ゆえに彼女自身、何故こんな壮大なプロジェクトに自分が…?といった状態である。
そうして参加することとなったこのプロジェクトで、ナマエは予期していなかった二人と再会することとなる。
その一人は、冴の弟、糸師凛である。退院以降も怪我の調子を尋ねる連絡が一ヶ月に一度のペースできてはいたものの、直接顔を合わせることはほとんど無くなっており。実質ほぼ一年ぶりの再会でもあった。
そして、もう一人は───
「………」
「………」
目の前で、威圧感たっぷりにこちらを見下ろす男──糸師冴、その人である。
突如連絡が取れなくなり、その後自身が事故に遭ったその日に帰国していたのだと知った。それも彼が日本を発った後、彼の母から聞かされたのだが。
何故会いに来てくれなかったんだと思うと同時に、会えば八つ当たりにも似た言葉を吐いてしまうだろうということは簡単に想像できた。だからこそ、会わなくて良かったと、ナマエが一人病室で考えていたことを知るのは誰もいない。
結局その後の一年間、ナマエから冴に連絡をすることも、冴から連絡がくることも勿論なく。
さすがにその辺りで「ああこれが自然消滅ってやつか」とナマエも薄々感じ取っており。てっきり終わりを迎えたのだと、いまだ冴へと抱えていた想いを人知れず、ひっそりと封印することにしたのだ。
──そんな決意をした矢先。まさかこんな形で再会することとなろうとは。しかもあの頃の可愛らしい面影など一切感じさせないほどの、威圧感を引っ提げて。
「あの、本当にもう、私そろそろ行かないと…ミーティングがあるので……」
逃げるための言い訳でもあるが、そろそろ行かなければならないのは本当だ。ミーティングまでは残り三十分を切っている。参加するのは絵心と帝襟とナマエの三人だけという小さなものではあるが、一番下っ端が遅れるわけにはいかない。
くわえてナマエは今から大急ぎで資料を引っ張り出し、三人分印刷をし、ミーティング室まで運ばなければならないのだ。「古い連中の纏めた資料はデータ化されていないから嫌い」と言っていた絵心の言葉が、今ならよく分かる。これから探しに行く資料もさっさとデータ化していればわざわざ保管庫へ行く必要もなかったし、そうすればこうして冴と鉢合わせるというとんでもないハプニングも起きなかっただろう。嫌いの意味合いは少し違うかもしれないが、面倒ごとを招く辺りでは同じだ。
「あ?行かせるわけねぇだろ」
「ええぇ…」
行かなければならないという意味も込めて"ミーティング"の部分を強調したにもかかわらず、冴はナマエを逃がそうとはしてくれない。それどころかその身をぐっと屈め、より顔を近づけてくる始末。ここまでくるともう、なんか、怖い。
いまだ脅えるナマエにいよいよ苛立ってきたのか、冴は腰に当てていた左手でやや乱暴にナマエの頬をわし掴みにすると、無理矢理自身の方へ向かせてしまう。
ぐきっとわずかに鳴った首に「いだっ、」とナマエが小さく声を漏らした瞬間、その薄く開いた唇を、自らのそれで塞いでいた。
「……は?」
それは一瞬の出来事だった。薄く色付いていたリップはその色を取り去られ、代わりに少しかさついた薄い唇へと移っていて。
あまりに突飛なその行動に、ナマエはあれほどまでに逸らしていた視線を再び冴へ向けることとなった。
「え、な、にして…」
「………」
「ちょっと冴くん!?」
これには流石に大声を出さざるを得ない。わざとらしい敬語が外れ、ようやく望む通りの呼ばれ方になったことがよほど満足だったのか、冴はナマエの頬を掴んでいた手を離すと、そのまま背中へと腕を回し、頑なに距離を取ろうとしていた身体を自らの胸元へと引き寄せた。
驚きで力の抜けた身体はあっさりとそこへ収まり。思い出の中よりすっかり逞しくなった体躯に、今度は別の意味で少し動揺してしまうものの、それよりももっと重要なことがあるとナマエは声を上げる。
「さすがにこれはないでしょ!ねえ!何してんの!?」
「呼ばねえお前が悪い」
「私のせい!!?」
しれっと言ってのける冴にナマエは信じられない気持ちになる。それもそのはずだ。夢を追い世界へ飛び立った恋人が音信不通状態になり、ようやく帰ったと思ったら、彼は最愛の弟と確執が生まれていて。その時も連絡一本せず。結局恋人である自身と再会したのは五年近く経ってから。
もはや恋人と言ってもいいのかどうかすら怪しいその男は、よそよそしい態度を取ったことに機嫌を損ね、やや無理矢理唇を奪ったのだから。あまりの暴挙だ。
「別にいいだろ、初めてじゃねぇんだから」
「そっ…!そういう問題じゃないでしょ…!?」
確かに昔、たった一度だけ触れ合ったことがあった。
それは冴に想いを告げられたあの春の日。風で靡くナマエの髪を、大きくなり始めた冴の手が優しく梳くように撫で。互いにそれが当たり前であるかのように縮まった距離と、触れ合った唇の柔らかさに、「なんだか恥ずかしいね」と笑った、あの日。
忘れるわけがない。忘れるなんてできなかった。それはナマエにとって何よりも儚い、けれど何よりも美しく。瞳を閉じれば瞼の奥に鮮明に映し出せるほど、大切な記憶なのだから。
騒がしく反論を続けようとするナマエの唇は、もう黙れとでも言いたげに再び塞がれてしまい。今度はその薄く開くあわいから、生温かいものが滑り込んできた。それが冴の舌だと名前が理解したときには、既に口内は蹂躙されていて。
潜り込んだ舌はナマエの歯列をなぞり、上顎を擦り上げ、逃げようとする小さな舌と表面を擦り合わせるように動く。口内で好き勝手に動く冴の舌に苦しいと抵抗したくとも、五年ですっかり体躯に差がついてしまいそれも叶わない。それどころか徐々に体重を掛けられているせいで、ナマエの背中は反っていき苦しさが増す一方だ。
「ん゙んっ、ん〜〜〜ッ!」
いつの間にか後頭部と腰に添えられていた手に支えられることでなんとか持ち堪えているが、正直そろそろ限界だ。離せと背中を強く叩けば、渋々といった様子ではあったが冴の唇はようやく離れていく。
相変わらず右手は強く腰を抱いているものの、まだマシなのでこの際もう何も言うまいとナマエは言葉を飲み込む。というよりも、ようやく呼吸ができたことで咳き込んでいるため何も言えないといった方が正しいのかもしれないが。
ごほごほと咳き込むナマエにさすがに罪悪感が沸いたのか、激しく上下する背中を、冴の手が優しく撫でている。
「も、お願いだから離して、っ」
身体を押し返そうと冴の胸を強く押すも、それ以上の力で抱き締め返される。隙間なんてなくなるほど強く、いっそ痛いくらいのそれに、ナマエからは「ぐえっ、」と色気のない声が漏れる。それでもやはり、緩まる気配は一切ない。
「ちょ、冴くん苦し…っ、」
「…ナマエ」
肩口に顔を埋めた冴に、堪えるような声音で名前を呼ばれる。その声の何と弱々しいことか。これまでの強引な行動からは想像もできないほど悲しげな様子に、ナマエの身体が強張る。ナマエの口から「冴くん、」と、無意識のうちに彼の名前が零れた瞬間、腕の力が強くなったのは、きっと気のせいではない。
「……辛いとき、傍に居てやれなくて悪かった」
その言葉を聞いた瞬間、ナマエは息が止まってしまったような気さえした。離れようと突っぱねていた腕からは力が抜け、ただ不安げに冴の胸に添えられるだけになってしまう。あの冴が、そんなことを言うなんて。
思いっ切り抱き締められているせいで冴の姿はほとんど見えない。けれどその顔を見ずともナマエには分かる。これは冴が、不安でどうしようもなく、それこそ今にも泣き出しそうなのを耐える。そんな声だ。
あの頃よりもずっと大きく逞しくなったはずの冴が、途端に小さくか弱い生き物のように見えて。ナマエの脳裏に浮かんだのは、あの日不安げにナマエへと想いを告げてきた、幼い少年の姿だった。
「…ずるいよ冴くん、」
「………」
「どうして今さら、そんなこと言うの…」
ナマエの責めるような言葉にも、冴は何も言わない。ただひたすら、その小さな身体を強く抱き締めるだけだった。
──全てを失ったあの日。本当は誰より傍にいて欲しかった。けれどもう何も残っていない自分が、今全てを持っている冴にそんなことを言えるはずがない。言ったところで、ナマエがサッカーをできなくなった事実に変わりはないのだから。
何より、彼の母親から怪我のことは聞かされていたはずなのにそれでも連絡をしてこなかったということは、離れていた間で彼のナマエに対する想いが変わったのだろう。それも仕方のないことだと半ば諦めの気持ちもあった。きっともう、そうして気にかけてもらえる存在ではなくなったのだ、と。
そう思わなければ、サッカーだけでなく、冴も失ったことに耐えられないと分かっていた。だからナマエは全ての気持ちに蓋をしたのだ。
それなのに今さら目の前に現れて、謝るだなんて。深い海の底に沈めて、見て見ぬふりをして。それでも捨ててしまうにはあまりに輝きすぎていたその想いを、冴はあっさり拾い上げてしまった。まるでそんなこと許さないとでも言いたげに。
ナマエは零れそうになる涙をぐっと堪え、それでもツンっと痛くなる鼻を啜りながら声を絞り出す。
「…冴くんの、そういうところ嫌い……」
「おい嫌いは止めろ」
この言葉にはさすがに反応したらしく。冴は分かりやすく肩を跳ねさせると、あれほど頑なに離さなかったナマエの身体をあっさり解放し、口早に抗議の声を上げる。唇をわずかに尖らせ眉間にしわを寄せるその顔は、誰が見ても"不機嫌です"と分かるほどだった。
けれど今さらそれに怯むナマエではない。こちとら言いたいことは沢山あるんだと、もはや開き直った様子で言葉を続ける。
「止めない……。そっ、そもそもいきなり、しばらくは連絡ができないって言って、ぜ、ぜんぜん連絡してこなかった、くせに…」
「…それは俺からの連絡が難しいってだけで、別にできないだなんて言ってねえぞ」
「そんなの、わ、分かるわけないじゃん……大事なこと、ちゃんと言ってくれないくせに…言わなくても通じるだろうって、分かってるだろうって思ってるとこ…」
「………」
「そういうところが…っうぅ…嫌い…嫌いぃ……」
冴だけでなく凛にも言えることだが、彼ら糸師兄弟の言葉は難解すぎるのだ。というか、言葉足らずのくせに他者に理解を委ね過ぎている。思うだけじゃ伝わらないし足りないからこそ、言葉っていうものがあるんでしょうが。それを使わずに通じてるだろうなんて虫が良すぎる。
一度言い出したことでタガが外れたのか、ナマエは長年抱えていた思いを吐き出すかの如く言葉を零していく。同時に堰を切って溢れ出した涙がぼろぼろと落ちていき、冴の肩も濡らしていく。U-20代表の白いジャージに染みができていくのを見るのは、少しだけ申し訳なく思った。
「冴くんのばかぁ…」
「…悪かった。俺が悪かったから…だから、嫌いだけは止めろ」
「ん、っ」
冴はわずかに身体を離すと、涙を溜め赤く染まる目尻を親指でやや乱暴に拭ってやる。ナマエは「痛い…」とわざとらしく呟きながらも、嫌がっている様子はなかった。
久しぶりに聞いた冴の戸惑った声に緊張の糸がほぐれたナマエは、不安そうにこちらを覗き込んでくる冴の瞳を見つめる。そういえば、あれだけ攻防を繰り広げていたにもかかわらずちゃんと目が合ったのは、今が初めてかもしれない。
「…冴くん」
「なんだ」
「…私も、遠慮とかしちゃって自分から連絡しなかったし…そこは、ごめんなさい」
最後は恥ずかしさを隠すようにしながら、ナマエは再び冴の腕の中へと収まった。あの頃よりずっと逞しくなった背中に腕を回すのは少しだけこそばゆさを覚えさせるけれど、ぴたりと耳を付けた胸から聞こえる心臓の音がひどく心地良くて。不思議と止めようとは思わなかった。
「お前が謝ることじゃねぇだろ…変なところで律儀だな」
「いや…ちゃんと謝りたい。私がそこで無理にでも連絡してれば、何か変わってたかもしれないんだから…」
そもそも付き合っていくうちに、冴にはそういうところがあるというのは薄々理解していたのだから、"もしかしたら"の可能性を考えナマエも行動すべきだったのだ。
状況が状況だったとはいえ、大変な冴に弱音を吐いてはいけないなどと勝手に決めつけ、あまつさえ別れたのだと判断した自身にも悪いところはあったのだと、ナマエはなんとなく感じていた反省点を述べる。
その妙な律義さと真面目さだけは、あの頃と何ら変わりない。冴にとってナマエは思い出の中の通りずっと美しく、真っ直ぐに自身を想い続けてくれていた、何物にも代えがたい存在なのだ。諦めなくてよかった。手放さなくてよかった。数えきれないほど傷付けてしまったが、こうして腕の中に閉じ込めることができた今は、どうしようもなく幸せだ。このまま時が止まれと、馬鹿げたことを思ってしまうくらいには。
そしてそれはナマエも同じで。久方ぶりに感じられた冴の体温に身を委ね、その身体に強く抱き締められていたいと、そう思っていた。
「………」
「……あの、冴くん」
「あ?」
「私、本当にもう行かないと…」
「………」
けれどそんなことは当たり前だが叶うはずはなく。ミーティングは十五分後に迫っている。これから資料を出して、印刷をして、ミーティングルームに向かって…もはや間に合わないのは確実だろうが、だからといって上司でもある二人をいつまでも待たせるわけにはいかないのだ。
身を捩り腕の中から抜け出そうとするナマエに、冴は再び眉間にしわを寄せ無言で不満を表す。それに気付いたけれどさすがにこればかりは譲れない。一瞬流されかけるもすぐに気を取り直し、いまだ腰に手を添えたままの冴の胸を押し返す。
「…仕事終わったら、話に行くから」
相変わらず不満全開顔なものの、次を示す言葉に納得したのか、冴は素直にナマエの身体を解放する。離れた体温に若干の名残惜しさを感じつつも、「…じゃあ、また後でね」と踵を返そうとしたとき。冴の手がナマエの手を掴んだ。
「…どうしたの?」
「…お前、今ここに住み込みしてんだろ」
「え、何で知ってるの」
「それは今どうでもいい。…そしたら、後でお前の部屋に行くから。仕事終わったら連絡しろ」
冴の言った通り、ナマエは現在青い監獄施設内の一室を借り、そこへ住んでいる状態だ。何故冴がそのことを知っているのか疑問は残るが、今それは気にするところではない。
それよりも、おそらくは恋人という立場に戻ったであろう相手を自室に呼ぶというのは、いくらなんでもまずいのではないか。
何より管理棟には、ほぼ缶詰め状態で指揮を執る絵心や帝襟も住んでいるのだ。そんな場所に公私混同で冴を呼ぶわけにはいかない。
「いや、それはさすがに……」
「………」
「わ、分かったから…そんな目で見ないで……」
けれど悲しかな、無言でこちらを見下ろし、掴む手に力を込めてくる冴に否定の言葉を述べられるほど、ナマエは強くはない。何より既に一度、"仕事があるから"と突っぱねているのだ。これ以上の拒否は後でどんな報復があるか分からない。ああ、あの頃の可愛い冴くんはどこにいってしまったのか。
本能的に恐怖を感じ、ナマエは冴の提案を渋々受け入れる。とりあえず一旦了承だけしておいて、後でうっかりを装って「時間作れなくて」「今別の場所だから」とでも言えばいいだろう。バレたら怒られそうだけど。
ナマエの返事に納得したのか、冴は掴んでいた手を離すと、そのままナマエの頭を優しくひと撫でする。
「じゃ、じゃあ、ね…」
「…ん、」
今度こそ別れの言葉を述べると、冴に背を向けナマエは廊下を小走りに掛けて行った。
──ナマエの言葉に小さく返事をした、冴の顔。おそらく誰が見ても分かるほど優しく、それでいてとても嬉しそうで。あの冴がそんな表情をするほど想ってくれていたのだと否が応でも自覚してしまい。ナマエは縺れそうになる足を必死に動かしながら、一人熱くなる頬を押さえるのだった。
「遅れてすみません…!」
「まだアンリちゃんも来てないから平気だよー」
脇目も振らずばたばたと廊下を走り抜け、ようやく辿り着いた目的地の扉を勢いよく開く。同時に大声で述べた謝罪の言葉に、やや被るような形で絵心が続ける。息を整えながら室内を見渡せば、その言葉通り、そこに帝襟の姿はなく。絵心がカップ麺を一人啜るという見慣れた光景が広がっているだけだった。
「あれ、珍しいですねアンリさんがいないの……」
「前のミーティングが少し長引いてるから遅れるって。さっき連絡きてたよ」
「あ、そう、ですか…」
そういえば、さきほど廊下を急いでいたとき一瞬確認した携帯画面に、通知が来ていたような気がする。てっきり「先に始めてますよ」という連絡だと思っていたが、どうやら遅れる旨の連絡だったらしい。
慌ててしまい確認も碌にしていなかったことを内心反省しつつも、少し落ち着く時間が出来たことにホッとする。
「…ねえナマエちゃん」
「はい?」
カップ麺を食べ終えた絵心にお茶を出しつつ印刷してきた資料を机上へ並べていると、どこか探るような目をした絵心が、じっとこちらを見つめてきた。その視線に妙な不安を感じナマエは思わず身構えると、絵心は不意に「さっきのさ、」と発した。
「僕しか見てないから別に良いけど、さすがにキスは死角でやった方がいいんじゃないかな」
「は…、」
自分用の資料が一枚、手から離れ空しく宙を舞って落ちていく。その様子を視界の端に捉えつつも、ナマエは動くことができなかった。
絵心の言葉が脳内を駆け巡り、その意味をようやく理解したときには、ナマエの顔は真っ赤に染まっていて。何か言いたげな口が、金魚のようにパクパクと開閉を繰り返してしまう。
「え、み、見て…?」
「廊下なんだし当たり前でしょ。ああでも安心して。管理棟のカメラは配信用じゃないから」
「そっ、それは良かったですけど…!というか!だったら電話で呼び出すなりして助けてくれても良かったんじゃないすか!?」
「愛憎渦巻く再会劇が面白くて」
「面白がらないで下さい!あと別に愛憎渦巻いてはいないですから…!」
すっかりカメラの存在を忘れていた自分も悪いし、何より絵心の言う通り、人があまり通らないとはいえ施設の廊下であんなことをしていたことが問題なわけで。八つ当たりだというのは重々承知しているが、それでも助け舟を出すくらいはしてくれてもよかったのではないか。
赤面しながらも恨みを込めて絵心を睨むが、どこ吹く風。ナマエの淹れたお茶を飲みながら先ほど渡した資料を読んでいる。
「ああそうだ、それともう一つ」
「…なんですか」
「自室でいちゃつくのは構わないけど、さすがに部屋に入れるところは他の人に見られないようにね。特にアンリちゃんとか」
「……絵心さん!」
しかし絵心のこの言葉通り。うっかりを装い自室へは招かないつもりだったナマエの考えなど、冴は当たり前のようにお見通しだったらしく。
仕事を終え、連絡をする前に荷物を置きに一度自室へと戻ろうとナマエが急ぎ足で廊下を歩いていた際、その張本人である冴が、部屋の目の前で待っている姿を見つけることとなり。
「どうしてここに」「指揮取ってる奴いるだろ。そいつに聞いた」「…私まだ仕事が」「もう終わったって聞いてんぞ」と逃げられない攻防を繰り広げ、結局そのまま押し切られ、部屋へ招き入れてしまうことになるのだった。
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