「ごめんナマエ、ミヒャちゃんそっち行ってない?そろそろご飯の時間なんだけど…あ、電話中だったの。ごめんねお邪魔しちゃって。
…ああやっぱりここにいた。ナマエ、悪いんだけどお母さんこれから出掛けるから、あとでミヒャちゃんにご飯あげておいてね。よろしく」
扉を開くなり矢継ぎ早に話していった母は、床に寝転んでいた愛猫を見つけると、その小さな頭をひと撫でし部屋を出て行った。
そしてあとに残されたのは、突然身内によって投下された爆弾に一気に冷や汗をかいているナマエと、いまだ顔を合わせたことのない恋人の母親に何故か自身の愛称を呼ばれ、画面の向こうで驚きと困惑に目を見開くカイザーの二人だった。
『………ミヒャ?』
「聞き間違いです。ミーちゃんっていうんです」
『ほとんど被ってないし、苦しすぎるだろその言い訳』
母の出て行った扉を見つめたまま固まり振り返ることのないナマエに、カイザーは追い打ちをかけるように猫の名前を繰り返す。どう足掻いても誤魔化しきれない状況にナマエの背中には冷や汗が流れた。
──ブロンドの長毛に、宝石のようなサファイアブルーの瞳。長いしっぽを揺らし歩く優雅なその猫がナマエの家へとやって来たのは、約三ヶ月ほど前のことだった。買い物へ行ったはずの母が、一週間分の食材と共に連れ帰ってきたのだ。曰く、「ずっと飼いたくて今日がその日だったから」らしい。
母の突発的な行動にはもはや慣れたものではあったが、まさか猫を連れて帰宅するとはさすがに予想外で。父と共に頭を抱えたのは記憶に新しい。とはいえ命を無碍に扱うことも当たり前だができるわけはなく。結局我が家に迎え入れることとなったのだ。
そうしてその猫が我が家に慣れてきた頃。「早く名前も考えなきゃね」とぼんやりではあるが話していた際。たまたま自室でカイザーと電話をしていたナマエの足元にすり寄って来たと思ったら、ナマエが「ミヒャ」とカイザーの名を呼んだ瞬間。まるで返事をするように、にゃあと鳴いたのだ。
その時は偶然と思っていたのだが、その後いくつか候補に出された名前を呼ぼうとも返事はなく。何故かナマエが電話をする度部屋を訪れては、"ミヒャ"と呼ぶ声にだけ反応を示してしまうようになり。
「もうミヒャにしようか」という家族会議の流れに、さすがにそれは寒すぎるので勘弁してほしいと反対しようと思ったのだが、そもそもナマエ自身、恋人がいるとは知らせつつもカイザーの名前までは家族に知らせていなかったため、誰もそれが恋人の名前だということを知らず。
くわえて、猫自身が呼ばれる度とても嬉しそうに返事をするものだから、もはやナマエに家族の考えを変させるだけの力はなかったのだ。
とはいえ猫の名前など、家にでも呼ばない限り知られることはないだろう。ましてやカイザーとの電話は普段自室で行うため、扉を閉めてしまえば侵入されることはないのだから。
そう油断していたのが、まさか結果としてこんな、漫画のような典型的な流れを生み出してしまうとは、誰が予想しただろうか。
そもそも電話の前に部屋の中を確認しなかったナマエが悪いのだが、最中に母親が"ミヒャ"と連呼するなどというのはさすがに予想できないだろう。いや、これもそもそもとして、ナマエが恋人の名前をきちんと伝えていれば避けられたのかもしれない。そうすれば猫の名前も変わっていたのかも。
とはいえそんなたらればをいくら言おうとも意味はなく。今存在している事実は、名前の元となった人物、ミヒャエル・カイザーに、愛猫の名前が知られたということだけだった。
『まさか猫に俺の名前つけてるとはなぁ?そんなに寂しかったのか?ん?』
ここで嘘がつけるくらいの機転を利かせられればよかったのだが、それができるほどナマエは器用ではない。そこまで器用なら、そもそも名前がバレることすらなかっただろう。
なにより、カイザーの言葉がまったくもって見当違いというわけでもないのが、ナマエが言葉を詰まらせた理由の一つでもあった。
──青い監獄プロジェクトが終わる直前に恋人となったカイザーとナマエは、当たり前だが一般的なそれよりもずっと、共に過ごせる期間が少なかった。
その短期間にも触れ合うことがまったく無かったとは言わないが、それでもやはり通じ合ったばかりの心が満足するには程遠く。こうしてカイザーがドイツへ帰国したあとも毎日行われる数十分の電話で、わずかに感じていた寂しさを紛らわす日々が続いていたのだ。
もしかしたらこの愛猫は、そんなナマエの寂しさと、それ以上に募っていた、カイザーへ対する愛を、彼を呼ぶ声から感じ取っていたのかもしれない。
ナマエもそのことには薄々ではあるが勘付いてはいた。けれど認めるにはあまりにも恥ずかしすぎたのだ。愛猫が反応した理由はもしや、名を呼ぶ声に愛情が込められているからか…?なんて。そんな、無意識な惚気にも似た感情を認めてしまえば、どうしようもないくらい彼を欲しているということを自覚せざるを得ないからだ。
『ナマエちゃーん?』
「もう止めてください…」
けれど否定も肯定もしないナマエに、勘の良いカイザーはだいたい察しがついているのだろう。
そうでなければこんな、揶揄うように名前を呼びながらも、目の前の存在がどうしようもないほど愛おしくて仕方ない、という顔で笑っているはずがないのだから。
そのとろけた青い瞳に見つめられるとナマエの全身は痺れたような感覚に襲われるということを、きっとカイザーは知らない。
『今度日本に行った時にでも会わせろ。そっちのミヒャがお前に相応しいかどうか、見定めてやる』
「変なところで対抗心燃やさないでくださいよ…」
『猫とはいえ俺の名を貰った身だろう?それぐらい当たり前だ』
ラピスラズリ色に染まる髪の毛を指先にくるくる巻き付けながら、「なあ、ミヒャ?」と呼びかけるカイザーの声に、同じ宝石を持つ愛猫は「にゃあ」という甘え声と共に、その長いしっぽをゆらりと揺らした。
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