ノアはこの日、オフを利用しイングランドからはるばるフランスへとやって来たのだと、やけにご機嫌なクリスと共にバーで飲んでいた。
 本来ならナマエと二人、自宅でのんびり過ごしているはずの時間に何故この男と共に酒を飲まなければならないのかとも思ったが、連絡がきたと分かった瞬間「せっかくだしお会いしてきたらいいじゃないですか」「私のことは気にしないで」とナマエ本人に言われてしまえば、もはやノアに何か言うことはできず。「…二時間で帰る」と言い残し、こうして待ち合わせていたバーへとやって来たのだ。
 来た途端冷めた目をしていたノアからその経緯を聞いたクリスは、「君ほんとに僕に興味ないね」と、呆れなのか怒りなのか、もはやよく分からない感情になったという。

「そういえば君、あのキティちゃんとはどうなんだい?」

 飲み始めて約一時間。ほどよく酔い上機嫌になっていたクリスが不意にそう尋ねてきた。『キティ』が誰を指すのかなど、ノアにはすぐに分かった。尋ねるその声に、わずかなからかいの色が含まれていたからだ。

「…別に。いつも通りだ。何も変わらねぇよ」
「いつも通りって?結婚した上に引退もしたんだから、一緒にいる時間は前より格段に増えただろう?」

 あのノエル・ノアが結婚したと世間を騒がせたのは、世界的にも話題になった青い監獄プロジェクトから六年ほど経った頃だった。
 それまで熱愛報道もほとんどなかった英雄の突然の結婚報告に、周囲は祝福の言葉を送ると共に「いったい相手は誰なんだ」と騒ぎ立て。そのお相手を特定しようと一時期報道は過熱を極めたのだが、「一般の方なので詮索はお控えください」という、要約すると「しつこいんだよいい加減にしろクソ野郎ども」というノア本人からの言葉を皮切りに、すっかり鳴りを潜め。報道がようやく落ち着きを取り戻し、一年ほど経った頃。ノアは三十八歳で現役引退を発表。その後結婚相手であるキティ──もとい、ミョウジナマエと共に、母国であるフランスへと帰郷したのだった。
 とはいえ、やはりいまだに詮索する者はいて。たとえばそう、今目の前にいるクリス・プリンスがそのいい例だ。彼は共に青い監獄でナマエにも会っているからこそ、一回り以上も年の離れた日本人の女性とノアがいったいどういう夫婦生活を送っているのか、えらく気になっているようだった。二人を引っかき回してやろうという悪意がない分パパラッチよりは幾分かマシではあるが、それでも鬱陶しいことには変わりない。
 はあ、と分かりやすくため息をつくノアに、クリスは「君のそーゆーとこ嫌い」と笑いながら悪態をついていた。

「君さあ、そんな様子で、ちゃんとキティちゃんに愛の言葉を伝えたりしてるの?」

 クリスは一気に飲み干し空になったグラスをカウンターに置くと、呆れたようにノアを見る。その言葉にノアは渋々ながらも、これまでナマエと過ごした日々のことを思い返してみた。
 ──ノアとナマエが出会ったのは、青い監獄で行われた新英雄大戦の最中だった。十七歳という身でありながら壮大なプロジェクトの中心職員として選ばれたナマエに全く関心がなかったといえば嘘にはなるが、それでもノアの中ではあくまで歳の離れた女の子、といった枠から出ることはなかった。
 ならばどこで意識が変わったのかと聞かれれば、それはナマエの努力の結果に他ならないのだが…その点については長くなるので今は割愛。それよりも重要なのは、クリスの言う"愛の言葉"とやらだ。出会いから現在に至るまでの間に彼女へと直接的な愛を囁いたことはあっただろうか──、

「…ねえな」

 そういえば、とばかりに放たれた言葉にクリスは目を見開く。

「待って、"ない"、って…ノア、もしかして君…キティちゃんに愛してるって言ったことないのかい…!?」
「…そんなに驚くことか?」

 ノアの返答に、クリスは「当たり前だろう!」と心底信じられないといった様子で言った。その大袈裟な反応に、元々うるさいくせに酒が入るとさらにうるさいのかとノアは思ったが、今言えば興奮をさらに煽りかねないので、とりあえず酒と一緒にその言葉を喉の奥へと流し込む。
 その様子を、面倒くさがっていると察したのだろう。クリスはノアの返事を待つことなく続ける。

「結婚までしておいて愛の言葉も囁いていないだなんて。とんでもない男だね」
「お前に関係ねぇだろ」
「いいや、関係あるね。あの子には俺もお世話になったんだ。これくらいの心配は許されるだろ」

 普段ならば「また面倒なことを…」と思うものの、自分の嫁の名が出され、さらには心配しているとまで言われてしまえば黙っているわけにはいかない。ノアは小さな氷を口に含むと、わずかな苛立ちを隠すように奥歯で噛み砕いた。

「…まあ確かに君とあの子の問題だろうけど、そもそも、あの可愛いキティちゃんがかなり年上の君と付き合うだけでも奇跡に近いんだから。ちゃんと大切なことは言葉にしないと。そうでないと、いつか愛想尽かされるかもね、君」

 その顔からは、二人を心配する様子も見えるが同時に、『むしろ愛想を尽かされたノアが見てみたい』という気持ちがありありと伝わってきて。
 やっぱり野次馬じゃねえかよと胸中悪態をつくも、クリスの言うことは最もだ。今何を言ったところで、自身がナマエへきちんと感情を伝えていないことには変わりないのだから。
 ノアはしばらく考え込んだあと、おもむろに席を立つ。

「おや、もう帰るのかい?」
「ああ。これで払っとけ」

 ノアは財布から数十ユーロを取り出し机の上に乱雑に置くと、引っ掴んだコートに袖を通すことなく足早に店を後にした。



「あ、おかえりなさい。早かったですね」
「…ただいま」

 玄関の開く音に反応しキッチンからひょっこりと顔をのぞかせたナマエに、ノアは無意識のうちに小さく息をつく。騒がしい奴を相手にしていたせいか、小さく話しぴょこぴょこと動く姿に妙な落ち着きと安心感が生まれた気がした。
 コンロの火を止め小走りで玄関へとやって来たナマエは当たり前のようにノアのコートを受け取ると、ハンガーラックに掛けながら「ご飯どうします?もうお腹いっぱいですか?」と尋ねる。

「…食う」
「良かった。今日グラタンなんですよ」

 すぐ用意しますね、という言葉通り。既に整えられていた二人用の小さな机の上には、すでに完成していたらしい料理が次々と並べられていく。二時間で帰るとは言っていたものの、実際その時間で帰るかどうなるかなんて分からないのに。ナマエはきっちり二人分の準備をしてくれていたようだった。
 こんがり焼かれた鱈のブランダード。綺麗に切られたバゲットに、そのバゲッドを少し浮かべたオニオンスープ。あとはここにサラダを置けば、色鮮やかな食卓。日常の食事風景の完成だ。

「クリスさんと会ってたんですよね?久しぶりに会えたのに、もっとゆっくりしてこなくてよかったんですか?」
「いいんだよ。あのうるさい奴とゆっくりなんて、できるわけねえからな」
「あはは」

 ノアは自分の椅子に腰掛け、キッチンの奥で冷蔵庫からレタスを取り出しているナマエの背中を見つめる。小さい背中だとぼんやり思うのは、クリスとあんな会話をしたからだろうか。
 ──友人も、国も、家族も。親しんだ全てを置いて、彼女は遠く離れたフランスの地へとやって来た。十四も歳上。冷静で、感情をあまり表に出さない。きっと一緒にいてもつまらないであろう男と共になるために。
 優しい愛の言葉も一つ囁かない男の、隣にいるために。 

「…ナマエ」
「はーい?」
「愛してる」

 ガッシャーン!カラカラ…カラン…。ナマエの手から滑り落ちたサラダボウルが、大きな音を立てて床を叩いた。幸いまだレタスは入れていなかったため食材は何ひとつ無駄にはならなかったが、葉を洗うために捻った蛇口からは水がどばどばと流れ続けている。

「おい、大丈夫か。つーか、水」
「えっ、あ、あ…!」

 あまりに大袈裟な反応にまさかそこまで驚くとは思っておらず。ノアも若干動揺しながら問い掛ければ、呼ばれたことで飛んでいた意識が戻ってきたのか。はっとしたあと、ナマエは慌てたように蛇口を捻り水を止めた。力を込めすぎたのか、蛇口がギチッと歪な音を立てている。

「…そんなに固く締めるとまた開かなくなるぞ。お前、前も瓶の蓋固く閉め過ぎてただろ」

 立ち上がり、何故かいまだに蛇口を握ったまま固まるナマエの背後へと近付く。俯いているせいでその表情は分からないが、髪の間から見える耳が真っ赤に染まっていることから、ものすごく照れているのだということは理解できた。

「い、今、なんて…?」
「瓶の蓋、閉め過ぎてただろ」
「そっ、そっちじゃなくて…!」
「…愛してるって言ったんだ」

 頭上で再び囁かれた言葉に、ナマエは肩をぴくりと跳ねさせる。

「えっ、と…き、聞き間違い…?」
「聞き直しておいてそれはねえだろ」
「だ、だって、ノアさんが、そんな…そんなこと言うなんて……」

 尻すぼみになるに言葉と共に、耳から顔、さらには首筋までもが真っ赤に染まっていく。どうやらほとんど聞いたことのないノアの愛の言葉を、脳内で処理することがうまくできていないようだった。
 まさかここまでの反応をされるとは思っておらず。ノアは少し珍しいものでも見るような気持になりながら、上体を屈め後ろから俯く顔を覗き込む。
 シンクに手をついたことで意図せず背後から包み込むような形になったせいか、ノアのその行動に、ナマエは大袈裟なくらい肩を跳ねさせた。

「…お前、キスもセックスもしておいて、今さらこんなんで照れんのか」
「そ、そんなハッキリ言わないで下さい…」

 羞恥からだろう。もう勘弁してくれとばかりに涙の滲む瞳が、ちらりと横目でノアを見ている。その涙を指の背で拭ってやると、まるで猫のように擦り寄ってくる姿が、ノアはただ素直に、愛おしいと思った。
 すり…と頬を撫でる手に誘われるまま、ナマエは後ろを振り向く。大きくまるいブルーグレーの瞳が、ノアのヘーゼルとかち合った瞬間。自然と二人の距離は縮まっていた。

「…悪かったな。今までちゃんと言ってなくて」

 ゆっくりと離れていった唇に少しの名残惜しさを感じていれば、幾分か声のトーンを落としたノアにそう言われ。その様子に、「これはクリスさんに何か言われたな」とナマエは早々に察する。

「いいんです、そんなの…。というか、もしかしてノアさん…気付いてません?」
「何がだ?」
「ノアさん、言葉にしない代わりに沢山触ってくれるじゃないですか」

 ナマエの言葉に、ノアはきょとん、と効果音がつきそうな顔で「…そうだったか?」とこぼす。こんなノアの姿を見られるのはおそらくナマエだけだろう。その顔に緊張がほぐれたのか、ナマエは相変わらず頬を染めながらも、いつもの調子で「あははっ」と小さく笑った。

「だから、言葉にしなくても…私、ちゃんと分かってますよ」

 ──朝、起きたときに頭を撫でる優しい手。何気ない会話の中でも触れ合う肩と肩。目が合った瞬間に重なり、繋がったときに耳元をくすぐる、少し薄い唇。その全てから、たとえ言葉がなくとも。自分をどうしようもなく愛してくれているのだと、これ以上ないほど伝わってくるのだ。
 ナマエの言葉に、ノアは数度瞬きしてから、「…そうか」と小さく返した。

「あ!でもっ!」

 少し慌てた様子で勢いよく顔を上げたものの、ヘーゼルの瞳に見下ろされた瞬間、ナマエは照れたように再び頬を染め上げた。言いづらいのか、もにょもにょと小さく尖る口先がなんとも愛おしい。

「言葉にしてもらえたのも、その…すごく嬉しかった、です……」

 自身の胸元に顔を埋め、恥ずかしいながらも抑えきれない喜びを含んだ声で呟かれた言葉に、ノアはその瞳をきゅっと細めた。
 前髪を掻き分けてやり、つるりとした額に唇を落とす。触れた唇にナマエは口元を緩めて笑った。
 その笑顔が、なるほど愛なのだと思えた。


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