鼻の奥をくすぐる湿った匂いに目を開く。視界に映る見慣れた天井を見つめ、数秒。徐々に覚醒していく意識の中に響く蕭蕭とした音に気付き、ナマエは視線を窓へと向けた。ガラスには水の粒が重力に従い落ちていく様が伺える。どうやら今日は朝から雨らしい。
 そのまま視線を反対に向ければ、その長い睫毛を伏せ眠るハデスの姿があった。
 彼は眠りがそこまで深いタイプではない。普段であれば、ナマエがこうして少しでも動こうものなら、すぐにその気配を察知し同じように覚醒するのだが。今日はよほど疲れているのか、その美しいアメジストの瞳がこちらを見ることはなかった。
 ナマエは極力ゆっくりと起き上がる。瞬間、肌を撫でる空気の冷たさに、そういえば昨晩は裸のまま眠ってしまったのだと思い出した。けれど肩からずり落ちたシーツを手繰り寄せようにも、それは当然のごとく、共に寝ていたハデスの身も包んでいる。
 仕方なく、ナマエはベッドの隅に投げ捨てられていた紫色のシャツで身を包む。自身の服も探したが、昨晩あれよあれよという間に脱がされてしまったため、どこにあるのか分からなかったのだ。
 静かにベッドから抜け出し、素足のまま窓へと近付く。常に薄暗い冥界だが、今日は雨のせいで外は輪をかけて暗い。そしてどこか少し肌寒くさえある。光がないうえ、雨という気候がよりそう感じさせるのかもしれない。
 けれど、幸いという表現も如何なものかとは思うが、ハデスは以前から今日が休みだと言っていた。この天気では出歩くこともできないだろうし、本当にこのまま、共に部屋でゆっくり過ごすのも良いのかもしれない。
 そんな事をぼんやり考えていると、ふいに目の前が暗くなった。そこでようやく、背後に気配を感じると同時に、ナマエは身体の前へ、ゆるりと二本の腕が回されていることに気が付く。

「…おはようございます、ハデス様」

 言って右肩に埋められた頭に頬をすり寄せれば、「うむ…」という小さな返事と共に、薄いアメジストの瞳がゆるりと向けられた。その奥には、未だまどろみが揺蕩っている。

「…なにか、気になることでもあったのか」

 寝起き特有の少し掠れた低い声。けれど、どこかふわりと覚束ない柔らかさを含んだその音に、ナマエは愛しさで小さく笑みを浮かべながら、「いえ…」と窓の外を見やる。

「今日は、少し静かな朝だなと思って」

 耳をすませば、しとしとと雨の音が聞こえ。ナマエはなんとはなしに、窓を濡らす水滴に触れるように手を伸ばた。
 けれどそれはハデスの手によって止められてしまった。そうして取られた手は引き戻され、代わりとばかりに、手の甲にハデスの唇が触れる。
 突然の行動に驚いたナマエがと小さく肩を跳ねさせると、それを押さえつけるかのように、今度は腹に回る腕に力が込められる。

「…あの、ハデス様……」
「…どうした」
「その…なにか、怒っていらっしゃいます……?」

 まるで、身じろぐことをさえ咎めるような、その行動。ナマエは、まさかと思いつつ、おそるおそる尋ねる。

「……ああ」

 ──ハデスは、妻であるナマエにはとことん甘く、そして優しい男である。
 ただ、それは猫かわいがりしているという意味ではなく。例えば先日の書斎での一件のように、ナマエが無茶をしたり。例えば、夫婦だというのに変に遠慮をしてハデスを頼らなかったり。そういった事には当然注意をするし、お小言のようなものを言ったりもする。
 けれどをそれらを差し引いても、やはり彼はナマエに対しては甘かった。周囲の神々が口を揃えて「あんなハデスは見たことがない」という程度には。
 そんな彼が、「怒っているのか」という問いに迷うことなく然りと答えたことに、自分で訊いたにもかかわらず、ナマエは「え、」と戸惑いの声を漏らしてしまった。
 動揺で身体をわずかに強張らせたナマエを、ハデスはじっと見つめ。そうして、すうと目を細める。

「……余は昨日、お前と共に過ごすために仕事を片付けてきた」
「は、はい…存じております…」
「…そのまま昨晩、お前のすべて堪能し、幸福のままに眠りについたのだ」
「たっ、…は、はあ……」

 先日の出来事を確認のようになぞられ、羞恥を感じるものの、止めるべきでないとナマエは言葉を飲み込む。なにせ、基本的に物事は結論から述べるタイプのハデスがこうも並べ立てていることが、彼の気持ちを何よりも表していると思ったからだ。
 背中越しに感じるハデスの体温はひどく熱い。腕の力はいよいよ強まり、もはやナマエは身動きひとつ取れない状態だった。

「…だというのに……目を覚ましたら、愛しい妻が腕の中にいないではないか……」

 言って、少し拗ねたような顔は再びナマエの右肩へと埋められた。しかも今度は身体でも不満を表すように、額をぐりぐりと押し付けながら。
 まさかの言葉に、ナマエは一瞬理解が追い付かず。けれどすぐに、その言葉に意味に気が付いた。
 彼は怒っているのではない。──拗ねていたのだ。密な夜を過ごした翌朝、起きたらナマエが自分の傍にいなかったことに。

「…ごめんなさい、その…私よりお目覚めが遅いのなんて珍しいし、それほどお疲れになられているのだと思ったら、起こすのは気が引けて…、」
「…確かに、疲れていたことは否定しない……だからこそ、お前と片時も離れたくないのだ」

 ハデスらしからぬ言動にナマエは驚いていた。ただ、それは決して悪い意味ではない。──おそらく普段のハデスであれば、「どうして近くにいないのだ」とは言いつつも、「怒っている」などと直接的なことは口にしないだろう。ナマエが戸惑うことが分かっているからだ。
 けれど今は、まだ半分微睡みの中にいるせいか、いつもはオブラートに包んでいるであろう本音をさらけ出していた。しかもそこに、我が儘のような甘えを含めて。
 ナマエの心は、安堵と、それを上回る愛しさに包まれていた。──なんて可愛いひとなのだろう。少し視線を振ればナマエの姿などすぐに見つけられるというのに。それでも腕の中にいないというだけで、寂しさを感じてしまうとは。

「ハデス様、ここではお身体が冷えてしまいます。…ベッドに戻りましょう?」

 言いながら、ナマエは髪の間から覗く月桂樹に唇を落とす。それに小さく肩を跳ねさせたハデスは、少しの沈黙の後、腕の力をふっと緩め。そのままナマエの身体を軽々と抱き上げた。

「わっ、」

 驚くナマエを片腕に座らせるように抱えながら、ハデスはその長い足で、たったの数歩でベッドへと戻り。まだ温もりの残るシーツの海へナマエと二人、身を投げるように寝転んだ。二人分の体重を受け止めたベッドがぎしりと音を立てる。
 そうしてすぐに、ナマエの柔らかな胸に顔を埋め。隙間がなくなるほどに肌を重ね合わせる。

「…ふふ」
「…どうした」
「いえ…ハデス様がこうして甘えてくださるなんて、あまりないので…少し嬉しくなってしまいました」

 笑みをこぼしながら、ナマエはハデスの頭を撫でてやる。指の間を美しい白銀色がするするとすり抜けていく感触が、とても心地よかった。
 ナマエの言葉にハデスは一瞬、驚いたように目を丸くして。けれどすぐに、「はははっ」と声を上げ笑った。

「…なら、今日は遠慮なく甘えさせてもらうとしようか」

 言うや否や、ハデスは寄せていた身体を離し。シーツに片腕をつくと、流れるようにナマエへと覆い被さる。天井を背にするハデスの顔からは、先ほどまでの微睡みなどすっかり消えているようだった。

「あ、ちょ、ハデス様…!?」
「どうした?」
「どうしたじゃなくて、ぇあ、あ…っ、」

 ハデスは腰を抱いていた手を、シャツの裾から覗く太ももへ、するりと滑らせる。元々裸で寝ていたうえ、ハデスのシャツを軽く羽織っていただけなのが災いし。ナマエが抵抗する間もなく、手はあっという間に下腹部へと辿り着いてしまった。
 黒く彩られたしなやかな指先が、内ももを優しく撫で。親指はひとり、鼠径部へと滑り。肉のあわいをなぞっている。その場所が、手付きが、昨晩の熱を思い出させた。腹の奥底があっという間に重く疼き始めるのを感じ、ナマエの顔はかあっと熱を持つ。

「あ、甘えるって、こういう事ではないと思うんですけど…!」
「少なくとも余にとっては、"こういう事"も含まれているな」
「そんな、屁理屈みたいな、ぁ、っ、うぅう…っ」
「そう言うな」

 ナマエが小さく身体を跳ねさせる度、ハデスの楽しそうな声が響く。時折混ざるくつくつと笑う声に、ああこれはわざと分かってやっているのだと、ナマエは涙の滲む瞳でハデスをねめつける。

「ひ、っう、ぁ…ッ」
「ほら、力を抜け」
「ん、ぅ」

 甘い声を上げながら、それでもきゃんきゃんと喚く唇を、ハデスは喰らうように塞いでしまう。
 隙間から長い舌を差し込み、奥で縮こまるナマエのそれを絡め取る。ずるりと唾液を吸い上げ甘く噛んでやれば、暴れる身体からは途端に力が抜けていった。
 好き勝手に口内を蠢く舌に、ナマエの脳内にはぼんやりと靄がかかり始める。這う手から与えられる刺激に、もはや身体は、従う以外の選択肢を捨て去っていた。
 胸を突っぱねていた小さな手が、ゆるりとハデスの背に回る。瞬間、わずかに離れた唇が「いい子だな」と、ひどく甘ったるい声で、嬉しそうに囁いた。





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