鈍色の空から、雪が霏霏として降り続けていた。
 白に埋め尽くされたなだらかな地平には、天を突き破らんばかりの巨木が、所狭しと立ち並び。そのどれもに淡く白いベールが掛けられている。
 生き物の気配は一切感じられない。そのあまりに静謐な光景は、レオニダスにとって異世界にさえ感じられるものだった。
 けれど隣のナマエは違うようで。「ここまで降ってるの、久しぶりに見たなあ」と、どこかしみじみとした様子で呟いている。

「…あんま遠くまで行くんじゃねえぞ」
「もー、子供じゃないんですから」

 そう言いながらも繋いでいた手を離した瞬間、ナマエは走り出していた。
 遠くなる背中を眺めながら、レオニダスはポケットから葉巻を取り出し、普段より幾分か丁寧な手付きで火をつける。
 冷えた空気を吸い込み、肺で温め、煙と共に吐き出す。白くなった息は瞬く間に静かな空気に飲み込まれていく。息遣いどころか、心臓の音さえ消えそうなほど静かな世界だった。
 天界という場所は、雨や晴れといった天候はあれど季節自体は一定、常に心地よい状態に保たれている。けれど稀に、雪や雷雨といった極端な気候季節を模した島が存在するらしい。ここもそのうちの一つだ。
 何故わざわざそんな過ごしにくい島を作ったのかとゲイレルルに訊いたところ、「いつも同じではつまらないから、気分を変えるために作ったんだと」と呆れたように言っていた。なんとも気まぐれで遊び好きな、神らしい考えである。ただまあ、結局こうして島に訪れているのだから、その気まぐれは悪いことばかりではないのだろうが。
 視線を空からナマエへと戻す。跡もない雪原を、黒いケープコートの裾を靡かせ縦横無尽に駆ける姿は、まるで舞台でも見ているかのような、けれどどこか、現実離れしているような光景でもあった。
 ──寒くないのか、あいつ。考えた途端、ぴゅうと吹いた風が前髪を揺らし。レオニダスは思わず肩をすくめる。
 レオニダスの故郷であるスパルタの地は、周囲を山に囲まれた盆地だった。そのため冬の寒さは厳しいものの、山が雪雲を遮るおかげで降雪はあまりなく。雪それ自体を生きているうちに見ることは少なかった。
 くわえて、これは少し話が逸れるのだが。そもそもスパルタの民族は、一枚布を身体に巻きつけ着付ける簡易な服装で過ごしていたという事もあり、必要以上に身に着けること自体をあまり好まないのだ。
 ゆえに防寒のためとはいえ何重にも着込み、結果動きが制限されることが、レオニダスはどうにも居心地悪く。だからこそ、普段はアロハシャツに短パンという、出来得る限りラフな格好をしているわけで。そうなると自然と、その格好が合う気候の場にしか行かないと、そういう風になるわけだ。
 とにもかくにも、そんな色々な面倒と不慣れを我慢してまで雪の中に赴こうとは、少なくともこれまでレオニダスは考えたことがなかった。今でさえ、ただ一面真っ白なだけの景色のどこがいいのか、寒いだけだというのは変わっていない。
 ならば何故ここにいるのか。──理由は至極単純。この島の存在をゲイレルルから聞いたとき、「行きたいです」とナマエが珍しく前のめりに言ったからだ。
 ただその様子が、わりにどこか迷いを含んでいたような気がして。思わずレオニダスが「雪が好きとは知らなかったな」と言えば、ナマエは「…故郷が、よく雪が降る場所で」と眉尻を下げ笑っていた。──その表情を見たら、来なければと、何故かそう思ったのだ。

 そんなナマエは今、コートの裾を雪原に広げるようにしゃがみ込み、せっせとなにやら作っている。散々動き回っていたからか、もはや寒さもあまりないらしい。
 片やレオニダスは、立ち止まっているおかげで相も変わらず凍えそうである。とはいえ冷気が肌を刺す中で動き回ろうとは思えず。気を紛らわそうとつけた葉巻も早々に吸い終わってしまった。
 仕方なく二本目に火をつける。ライターの炎が風に揺らめいたとき、ふと自身を呼ぶ声が聞こえた。

「レオおじさまー」

 顔を上げる──その瞬間、べしゃりっと冷たいものが、レオニダスの顔面を覆った。

「………」
「あはは、綺麗に命中しましたねー」

 きゃらきゃらとナマエの笑い声が響く。──雪玉を投げられたのだと気付いたのは、体温で溶けたそれが、前髪どころか髭まで濡らしていったからだった。

「……」

 痛くはない。痛くはない、が。
 無言のまま、レオニダスは無事だった葉巻を一気に吸い込み、丸ごとを灰にする。そのまま煙を一気に吐き出すと、濡れた顔を片手で拭い。そうして──にやりと笑った。

「…俺様に雪玉を投げたんだ。覚悟はできてんだろうなあ?」

 前髪をかき上げ片目を眇めるレオニダスに、ナマエも「ふふ」と挑戦的な笑みを向ける。

「追いかけっこは得意ですよ。いつも沖田くんと遊んでますから」

 そう言うや否や、ナマエは脱兎の如く走り出した。レオニダスもその後をすぐさま追いかけ始める。
 慣れぬ雪に一歩一歩を重たく走るレオニダスとは違い、ナマエの足を取られない身軽さは流石といったところか。
 けれど20センチ以上の身長差からくる、そもそもの足の長さの差もあり、その距離は徐々に縮まっていき、

「おらっ!」
「あ!」

 数十メートルの辺りで、ナマエはついに捕まえられてしまった。
 レオニダスはナマエの腹に片腕を回すと、荷物よろしく軽々と持ち上げる。ナマエは逃れようと身じろぐも、ほとんど意味を為さなかった。

「やー!離してください!」
「ちょこまか逃げやがって。離すわけねえだろ」

 言いながら、レオニダスは空いた手をナマエのコートの中に突っ込んだ。コートの中に舞い込んだ冷気と腹に触れた手に、ナマエが「ひえっ!」と声を上げる。

「なにするんですか!冷たいー!」
「はー、あったけえ」
「え、あ…っ!」

 暴れ出したナマエを押さえ付けながら、レオニダスはそのまま、雪の上に背中から倒れ込んだ。当然、抱えられていたナマエも共に倒れ。「うわっ!」と叫び声が雪の中に響く。

「……もー、なにするんですかぁ」

 ぐるりと回った視界に、ナマエは一瞬呆気に取られ。けれど、雪まみれになりながらレオニダスの身体の上に寝転んでいるという、このなんとも間抜けな状況が面白くなったようで。呆れと楽しさを含んだ声で笑っていた。

「あ゙ー…冷てぇ……」
「当たり前でしょう」

 ナマエはくるりと向きを変えうつ伏せになると、冷えた指でレオニダスの鼻先を労わるようにさする。

「おじさま、鼻赤いですね」
「どこかの誰かさんが雪玉なんざ投げてくれたおかげで、冷えちまったんでな」
「ええ、誰ですかそれ」
「お前だ、お前」

 ほとんど感覚はないが、触れられているくすぐったさはわずかに感じ。レオニダスは思わず、ずっと鼻をすすった。
 顰められ、さらにしわが寄った様子が面白かったのか、レオニダスとは反対に、ナマエはゆるりと口角を上げる。

「んふふ」
「……えらくご機嫌だな」
「だって、楽しくて」

 弧を描く黒い睫毛に雪が光る。──屈託のないその笑顔を見たとき、レオニダスはずっと脳裏に抱いていた疑問を口にしていた。

「……お前、どうして来たいなんて言ったんだ」

 ──故郷が、よく雪が降る場所で。
 笑いながら言ったそれに、なにか別の想いが含まれていることに、レオニダスは気が付いていた。そしてそれがおそらく、ナマエの過去に関係するであろうことも。
 レオニダスの言葉に、ナマエは「どうして」とでも言いたげな表情を浮かべる。分からないと思ったのだろうか。
 確かに、これまでナマエはあまり自らの過去を語ろうとしなかった。ただ、レオニダスはそれでいいと思っていた。もちろん恋人の過去についてまったく気にならないと言うと嘘にはなるが、そもそも神殺しの一人に選ばれているのだ。その時点で、なにか壮絶な過去があったことは想像に難くない。
 ただ、それをナマエが自ら語ろうとしない以上、無理に聞き出すものでもない。いずれ話したくなったときにでも話してくれればそれで良い。仮に永遠に知らないままだとしても、今の二人の関係が壊れてしまうわけではない。そう考えていたから。
 ──けれど、あんな寂しげな表情を見せたくせに、雪の中を走り回るナマエはご機嫌で。そのひどくアンバランスな様子が、どうしても、レオニダスの心を乱してならなかった。
 だから踏み込んだ。そうしなければ、ナマエがこのまま消えてしまうような、そんな気がしたのだ。

「………やっぱり、おじさまには分かっちゃいますよね」

 ナマエは見開いた瞳をすっと細め、そうして、眉尻を下げながら、少しの苦さを残すように笑った。それは、雪が好きなのかと訊いたときと同じ表情だった。「…どう話せばいいのかなぁ」と少し視線をさまよわせ、呟くように話し始める。

「……私が死んだの、こんな雪の日だったんです」

 レオニダスは返事をせず、黙したままナマエを見つめる。それが続きを促しているのだと理解したナマエは、「自分でも…ちょっと、ズレてるっていう自覚はあるんですけど」と、わずかに口籠りながらも続ける。

「死ぬこと自体は、別に怖くなかったんです。だってそれは、私の力が及ばなかったっていう、ただそれだけのことだから。………それより…、」

 ナマエはそこで言葉を止めた。それは、言うのを躊躇っているというより、どう表現すべきなのか迷っている、そんな感じだった。
 ナマエは一度、すうと細く息を吸い込む。冷えた空気が肺を満たしていく。ちり、と心臓が小さく痛み、強く脈打つ音が耳の奥で響いている。
 ようやく吐き出した息は、重く深く、瞬く間に白に溶けていった。──同じだ。あのときと、同じ。

「……真っ白な世界は寒くて、静かで………だけど、自分の心臓と血が蠢く音だけが、耳の奥で響いて。それが、なんだかすごく……寂しかったんです」

 それまで、他の誰かの物語をなぞっているかのようにひどく落ち着いていた声は、最後にほんの少しだけ、わずかなざらつきを帯びた。

「…だから本当は、雪にはあまりいい思い出がないんです」

 ふいに吹いた風にナマエは目を伏せる。けれどすぐに、「でもね、」とぱっと顔を上げ。まっすぐにレオニダスを見つめた。

「おじさまとだったら、そういうこと全部、楽しいものに変えられるんじゃないかって…そう思ったんです。……だから、どうしても一緒に来たかった」

 言いながら、「わがまま言ってごめんなさい」と、ナマエはまた眉尻を下げた。
 その表情に、レオニダスはぐっと唇を引き結んだ。そうして再び開くと、「……で?」と小さく問いかける。

「え…?」
「え、じゃねえよ。…俺様と来て、楽しいもんにはなったのか?」

 その言葉にナマエは目を丸くする。けれどすぐに、きゅうと細めると、「それはもう、もちろん」と頬を緩めた。

「だって、ねえ、おじさま。見てください」

 ナマエは顔を上げ、空に向かって「はぁ」と大きく息を吐く。白い息が煙のように舞う。けれどそれは煙よりいささか早く、そして軽やかに膨らみながら、宙へと飲み込まれていった。

「私も葉巻、吸ってるみたいでしょ。…おじさまと同じだって思ったら、なんだか楽しくなれました」

 どうやら寒さで白くなった息が、レオニダスの葉巻を吹かす煙と同じだと、そういうことらしい。──そこに楽しさを見出すとは。なんともナマエらしい感性だと思った。

「………」
「わっ!」

 けれどそんな独特の感性に、不覚にもときめいてしまた。誤魔化すように、レオニダスはナマエの鼻をきゅうと摘まみ上げる。小さな悲鳴と共に冷えた顔が「もう!」と縮こまる様は、すっかり普段通りで。レオニダスもまた眦を下げ笑った。

「帰って風呂入って、昼寝でもするか」

 言って、レオニダスはナマエを抱えたまま立ち上がり、頭についた雪を払ってやる。するとナマエは「分かりました」と返事をしながら、徐にポケットから携帯を取り出した。そうして慣れた手付きでどこかに電話をかけ始める。

「どこに連絡してんだ」
「アポロン様です」

 至極当然のように返されたその名前に、レオニダスは「……あ゙?」と顔を顰めた。

「なんであのクソ太陽神が出てくんだ」
「今日ここに来ることをお話したら、『身体が冷えるだろうから、帰りはそのままオレ様の島で風呂に入って行くといい。連絡をくれれば迎えに行く』って言ってくれたんです」
「…………」
「前に私が、大きいお風呂が羨ましい、って言ったことを覚えてくれていたらしくて。優しいですねえ、あの方」
「それは絶対ねえ。…つーか、別にいつもの風呂でもいいだろ」
「あ、もしもし、アポロン様ですか?」
「………」

 どうしてあのクソ太陽神と話してんだとか、そもそもいつ会ってたんだとか。訊きたいことが山ほどあったが、それは訊かないでおいた。彼の神に色々と思うところがあるのはレオニダスだけで、別にナマエ自身にアポロンと因縁があるわけでもない。交流を持つ相手は選べとは思うが、同時に、せっかく広げているであろう交流の輪をレオニダスの気持ちひとつで制限してしまうのは、また違うだろうとも思ったからだ。
 それに、ナマエに対して言ったということは、おそらくアポロンの言葉に裏はないのだろう。良くも悪くもあれはそういう神だ。そんな純粋な好意を無碍にするというのも、どうにも後味が悪い。レオニダスとてそこまで天邪鬼ではないのだ。
 というより、そもそもとして。ナマエが慣れた手付きでアポロンの連絡先を呼び出し、あまつさ「もしもし」などと親し気に言っている辺り、レオニダスの知らぬところで既に頻繁に連絡を取っているのだろう。だから、言ったところで今さらなのだ。
 なんともいえない感情を抱きながら、レオニダスは三本目の葉巻を取り出し、火をつける。そうして溜息ごと呑み込むように、大きく煙を吸い込んだ。

「すぐ来てくれるそうです。よかったですね」
「おう…」

 通話を終えたナマエが、嬉しそうにレオニダスを仰ぎ見る。

「しかも、おじさまのためにホットワインも用意してくれるって言ってましたよ」
「…気が利きすぎて気味悪ィな」
「もー、またそういうこと言って」

 携帯をしまうと、ナマエはレオニダスのポケットに手を差し入れ、中で温まっていた指に冷えた自身の指を絡ませる。二人は迎えの場所までゆっくりと歩き出す。

「今度、アポロン様のお城でお茶をしようって話が出てるんです。おじさまも一緒に行きましょうね」
「お前らいつの間にそんなん…、」
「おじさまの話が尽きなくて」

 一緒に行ったところで、話の張本人であるレオニダスは、それをどういう気持ちで聞けばいいのか。そう思ったが、「楽しみですね」と言うナマエに、やはり言葉を飲み込んだ。ナマエには、こういうところで有無を言わせない、妙な強さがあった。 

「ねえ、おじさま」
「あ?」
「ここ、また遊びに来たいですね」

 寒さでほんのり染まる頬をへにゃりと緩めるナマエに、レオニダスは「気が向いたらな」と小さく、口端を上げた。



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