桜の樹があった。
 それは誰も知らぬほど古くからその地に存在し、美しい花を咲かせ、人々を魅了してきた。長い時を経たそれはいつしか神の依り代、御神木として信仰を集めるようになっていた。
 恐ろしいほどに美しく、そして妖艶なその姿に、ふと誰かがこぼした。
 ──まるで生きているようだ、と。



「お花見、ですか」

 ひどく馴染み深い、けれどアポロンからはあまり聞いたことのないその単語に、ナマエは小首を傾げた。

「ああ。実は、花島に桜の樹を植えたんだ。そろそろ満開になるはずだから、今度二人で見にいこう」

 花島とは、アポロンの居城がある島のすぐ近くに浮く島のことだ。長らく放置されていたのだが、ナマエとの結婚を機に居城を移したことでアポロンが管理するようになり、現在は実質彼の所有物となっている。
 とはいえ、桜とは。──確かに島はアポロンの管理下に置かれるようになってから、彼の好みでもある桃色の花で埋め尽くされるようになっていた。けれどそこに、今まで桜の樹は存在していなかった。
 というのも、天界には様々な樹があるが、やはり各神界によってそれぞれ特色があり。特にギリシャ神界の各島にはオリーブやオークと呼ばれる樫の樹、アポロンの象徴のひとつでもある月桂樹などが多く。桜の樹が植えられている場所はほとんど存在しないからだ。それはもちろん件の花島も例に漏れない。

「桜なんて、いつの間に植えられたんです?」
「昨日だ」
「きの…え?」
「ああ、いや、厳密には一昨日だな」
「いや、そこではなくて…、」

 さも当然とばかりの返答に「いったいどういう事ですか…」と訊けば、アポロンは「いやなに、」と、ことの経緯を語り始めた。

 ──桜の樹を花島へ植える。その計画それ自体は、そもそもアポロン自身かなり前から考えていたことだった。日本神界から、たったひとり自身の元へと嫁いでくれたナマエのため。それと、初めて花島を見たとき彼女が発した、「桜もアポロン様の御髪と同じ色で、とても美しいんですよ」という一言がきっかけだ。
 とはいえ、ギリシャの神であるアポロンに、日本の桜に関する知識など当然ない。天界の植物は地上界のものとは異なり枯れるなど心配がないとはいえ、それでもいっとう美しい姿をナマエに見せたいというもの。考えたアポロンは、ならばそもそも総本山に教えを請えばいいのでは、と思い至り。思い立ったが吉日とばかりに、スサノヲを訪ねたのだ。
 アポロンから事の経緯を聞いたスサノヲは「それなら、ちょうどいいのがあるけぇ」と、一本の桜の樹を挙げた。
 その樹は長い間、地上界で御神木として信仰を集めていた。けれどもうすぐ寿命を迎え朽ちてしまう。生きるものの宿命とはいえ、神の依り代にもなるほどの大樹をただ朽ちさせてしまっては勿体ない。日本の神々はその桜が天寿を全うした後、再び天界で咲き誇れるように取り計らおうと決めたのだという。
 と、そこへアポロンがやって来た。しかも桜について教えてもらいたいと言うではないか。花島は天界でも美しい花々や樹木の咲く島として有名だ。あの美しい場所なら桜も綺麗に咲いてくれるだろうと、スサノヲはアポロンへ逆に提案をしたのだ。
 元人間のナマエにとって、地上界に咲いていた桜など、これ以上ないほどぴったりだ。しかも日本神界で保護しようというほどの樹。もちろんアポロンはすぐに了承した。
 そうした偶然に偶然が重なり、結果、御神木は花島へやってくる運びとなったのだ。
 ──なるほど、だからナマエの知らぬ間に桜の樹、しかも満開に近いものが、一夜にして花島に姿を現したということらしい。
 長い間神の依り代ともなっていた樹とはいえ、丸ごと天界に召してしまうとは。豪快な考えと実行力はさすが主神ばかりが揃っていたというところか、元人間の現凡神であるナマエには到底思いつかないことである。
 あとでスサノヲに──いや、アマテラスやツクヨミ、そしてイザナギにもお礼を言わなければいけないだろう。花島が適切な場所だったとはいうが、それでも御神木をナマエが賜ったも同義なのだから。
「なるほど…」と理解したように言いつつ、その渦中に自身がいたという、そのあまりに壮大な経緯に半ば呆気に取られているナマエに、アポロンは「そんなに心配するな」と眉尻をわずかに下げる。

「桜はキミの故郷を象徴する花でもあるだろう。オレ様はどうしても、それをキミと見たいと思ったんだ」

 どこか嬉しそうな声と表情に、ナマエははっとした。──事の大きさにすっかり気を取られていたが、そもそもこれ程までのことを、"ナマエと共に桜を見たい"という、ただその一心だけでアポロンは行ったのだ。その真摯な想いを、他でもないナマエが真っ直ぐ受け取らずしてどうするのか。

「…私も、アポロン様と桜を見られるの、とても楽しみです」

 ふっと肩の力を抜くと、ナマエもゆるりと口角を上げる。「お料理、たくさん作っていきましょうね」ナマエのその言葉に、アポロンはやはり嬉しそうに微笑んだ。



 その桜は草原の中にあった。青い空を背に艶やかな桃色を揺らし。たった一本で、まるでその地の主だと言わんばかりの荘厳な姿で佇んでいる。
 遠くからでも圧倒的な存在感で感じさせる樹は、けれど近付けば、袂に立つ者を歓迎するかのように枝を広げ、周囲を覆い尽くしていた。幾重にも重なる花は青空をけぶらせ、くらりと眩暈さえ起こすほどに白く眩しい。

「美しいというのは知っていたが…いやはやこれは、圧巻だね」

 ボートバスケットを足元に置くと、アポロンは感嘆の声と共に桜を振り仰いだ。続いてナマエも顔を上げる。

「そうですね…とても美しいです」

 高天原で暮らしていたときでも、ここまでの樹は見たことがなかった。さすが御神木として崇められていただけのことはある。
 けれどやはり日本人としての性分なのだろうか。圧倒されているはずなのに、同時に、ナマエはこの美しさにどこか懐かしさを感じてもいた。

「これほど立派なものを任せてくれたんだ。あとでスサノヲさん達にも、礼を言っておかなくちゃいけないな」
「ええ。…そうだ、お礼に桜餅でも作って持っていきましょうか」
「作れるのかい?」
「作れますよ。花を塩漬けにしたいから、あとで花びらも持って帰りましょう」

 それは良いな、と楽しそうに笑うアポロンの周囲には、ひらひらと淡い花びらが舞っている。まるで彼の訪問を歓迎し、敬い、飾り立てているかのようにも見えた。この神様は、どうやら桜にまで好かれてしまうらしい。
 きっと、人であったときにこの姿を見ていたなら。神々しさに気高さ、そしてなによりその美しさに、身も心も奪われていただろう。いや、奪われていたに違いない。そう断言できてしまえるほどに、アポロンは美しかった。
 ──綺麗だな。ナマエはほとんど無意識のうちに目を細める。瞬間、ぶわりと強く風が吹き。花びらがいっそう、ふたりの周囲を乱れ散っていった。

「わあ…」

 言いかけた言葉を飲み込み、ナマエはアポロンから視線を外すと、再び樹を仰ぎ見る。
 頬を暖かな風が優しく撫でていく。丘の上に立つ姿を見たとき感じた懐かしさ。その理由が、袂で見上げた今ようやく分かった。──似ているのだ。あの日見た桜の樹に。
 それはナマエがまだ人だった頃のこと。彼女が暮らしていた、山間にある小さな村。そこには、もう誰も知らぬほど古くから崇められている一本の樹があった。──桜の大樹だ。
 その樹は毎年美しい花を咲かせ、人々を魅了していた。だからこそ信仰される存在にもなったのだろうと思えるほど。
 その妖艶さは時として、迷いも、憂いも、すべてを忘れさせてくれた。最期の、さいごまで。その桜は永久に、ナマエの心を惹き付けていた。

「ナマエ」

 記憶の中の桜が、目の前のそれと重なる──瞬間、強い声がナマエの頭の中に響いた。
 視えた景色は一瞬にして霧の如く消え去る。ナマエは小さく肩を跳ねさせ、声のする方──アポロンへと視線を向けた。

「あ…すみません、ぼーっとしてました……どうしました?」

 てっきり、「オレ様が横にいるのに桜に熱中するとは」と、やれやれとばかりに言われると思っていたのだが。予想に反しアポロンは黙したまま。それどころか、どこか険しささえ滲ませた表情で、じっとナマエを見つめていた。
 肌を撫でていた柔らかく優しい風が、どこか張りつめたものへと変わる。ナマエは困惑をわずかに滲ませながら「…アポロン様?」と名を呼ぶ。

「……なんでもない。それより、向こうにも美しい花が咲いているんだ。そちらも見に行こう」

 言うや否や、アポロンはナマエを片腕に座らせるように軽々と抱き上げた。え、とナマエから戸惑いの声が漏れる。

「あの、アポロン様、お花見をするのでは…?」
「風も強いし、ここでお花見は大変だろう。今日はもう少し静かな場所に行こう。…なに、お花見はまた改めてすればいいさ」

 そうして足元に置いていたボートバスケットも忘れず持つと、アポロンはナマエの返事を待たず、すたすたと歩き始めた。桜はどんどん遠ざかっていく。

「あの、自分で歩けますから…」
「オレ様がこうしたいんだ」

 普段と変わらぬ口調ではあったが、そこに「絶対に譲らない」という強い意志が含まれていることに気付く。こうなったアポロンは何を言っても聞き入れてはくれないことを、ナマエはよく理解していた。
 この島には他に誰もいない。見られる心配もないのだから、もうこのまま身を委ねた方がいいだろう。──なにより、先ほどのアポロンの雰囲気。張りつめた空気が、まだわずかに肌を撫でている気がしていて。素直に従わないといけない。そんな気持ちになっていた。

「……落とさないでくださいね」
「オレ様がそんなことするわけないだろう」

 そんな気持ちを振り払うように、ナマエはアポロンへとしがみつく。
 素直に身を委ねてもらえたことが嬉しかったのか、アポロンの声音はすっかり元に、それどころかむしろ楽し気なものへと変わっていた。
 ナマエは顔を上げ、桜の方を見やる。──あれほど舞い散っていた花びらは今は一切なく。ただ静かに、その身を風に揺らしていた。



 翌日、アポロンはひとり桜の元を訪れていた。
 変わらず袂から見上げる。昨日の穏やかな気候とは打って変わり、ローズピンクの髪が靡くほどの強い風が吹いている。にもかかわらず、花びらが舞い散ることはなく。それどころか、枝が擦れる音が、ひどく心を乱すように周囲に響いている。
 その様子は荘厳とした大樹でありながら、同時に、恐怖にその身を震わせる小動物のようでもあった。

「…キミのような存在が、彼女の魂の美しさに気付いた。その点については、視る目があると褒めてやろう」

「だが…、」とアポロンはそこで言葉を止め。シトリンカラーの瞳をすうと細める。

「"あれ"はオレ様のものだ。お前ごときが奪おうなど、不敬不遜極まりない。もしまた同じ事をしようものなら、そのときは相応の報いを受けてもらう。……それをしっかりと、肝に銘じておくことだ」

 地を這うような低い声。発せられた瞬間、風はぴたりと止み。辺りを恐ろしいほどの静寂が包んでいた。
 アポロンはその異様な雰囲気も意に介すことなく、踵を返しその場を立ち去った。


 ──迂闊だった。胸の中にわずかに生まれた苛立ちに、下賤だとは理解しつつ、アポロンは小さく舌を打つ。
 まさか桜の樹ごときが、アポロンからナマエを奪おうとするとは。けれど同時に、ナマエが神となったその経緯を思えば納得できてしまうのもまた事実で。その考えに至らなかった自分自身にも、アポロンは苛立ちを覚えていた。
 ナマエは元々人間で、死後に祀られたことで神となった存在だ。彼女が生前暮らしていた村では一本の桜が、御神木として崇められていた。それは誰も知らぬほど古くからその地に存在し、美しい花を咲かせ、人々を魅了していたのだという。恐ろしいほどに美しく、そしてとても妖艶なその姿に、ふと、誰かがこぼした。「まるで、生きているようだ」と。
 いくら御神木と呼ばれようと、所詮はただの樹。あくまで神が地上界でその身を借りる依代に過ぎない。ならば何故そんなものが、崇められ、あまつさえ「生きている」とまでいわれるほどの存在になったのか。答えは、一つしかない。
 ──贄を捧げられた樹は、普通とは異なる存在になるのだという。
 あの桜には、ナマエは宝のように視えただろう。なにせ彼女は、人の身でありながら、神と崇められる存在に贄として捧げられるほどの、極上の"器"だったのだから。
 手に入れたい、ずっとここにいて欲しい。きっとそう思ったはずだ。そうでなければ、ナマエがアポロンへ視線を向けた瞬間、まるで『こちらを見ろ』とばかりに花びらが舞い散るなど、そんな都合のいいことがあるわけがない。あれはすべて、ナマエの心を振り向かせるためのものだ。
 あの外出の後、アポロンはナマエが捧げられたというその桜のことを調べた。結論、その桜はまだ地上界に咲いており、スサノヲから譲り受けたものとはまったく別物だということが分かった。双方、ただ長年贄を捧げられた末に異なる存在となった桜、という点が一致していただけのこと。
 とはいえナマエが、保護の対象となり得るほどの樹に見染められたというのは、まごうことなき事実。
 だからこそアポロンはこうして忠告にきた。──結局この桜自体は、ナマエが贄となった件の御神木ではないこと。そしてなによりナマエが、この光景を気に入っていたこと。諸々を踏まえ、"一度だけ"は見逃してやろうと、そう思ったからだ。
 桜もそれを理解したのだろう。当初、招かれざる客とばかりに強風を吹かせていたにもかかわらず。アポロンの一言でそれをぴたりと止めたのだから。──とりあえず、今のところはこれでいい。

 居城へと帰ってきたアポロンは、まっさきにナマエが眠る寝室へと向かった。極力音を立てぬよう扉を開き、足音も殺しながらそっと寝台へと近付けば、大きな瞳は未だ閉じられたままだった。
 アポロンはほっと息をつくと、静かに枕辺に腰掛ける。頬にかかる髪を指先で退けてやりながら穏やかな寝顔を見つめていると、ふいに「ん…、」と小さな声が響いた。

「…あぽろん、さま…?」

 甘さを含んだ気怠げな声と共に、わずかに涙を滲ませた瞳がアポロンを見上げる。

「ああ…すまない、起こしてしまったね」

 謝りつつも起きたのならと手は止めず。アポロンはそのまま掌を返し、今度は指の背で優しく頬を撫でてやる。
 ナマエはくすぐったそうにしながらも、どこか嬉しそうにそれを受け入れている。起床後はわりとすぐに覚醒するナマエにしては珍しい、甘えるような仕草。どうやらまだ半分、微睡みの中を泳いでいるらしい。
 とはいえそれも無理もないだろう。昨晩は少し無茶をさせたうえ、眠りについたのはかなり遅い時刻だったのだから。そうさせたのがアポロン自身、ということは置いておいて。

「まだ身体も辛いだろう。もう少し寝てるといい」

 頬を撫でていた手を滑らせ、首筋や肩口に残る痕を確かめるように撫でながら、はだけていたブランケットを掛け直してやる。再び身を包んだやわらかさに、ナマエはゆるりと睫毛を伏せる。

「……あぽろんさま」
「どうした?」
「…また、桜、みにいきましょうね……」

 その言葉に、アポロンは優しく身体を叩いていた手をぴたりと止めた。
 忠告はした。けれどそれはあくまで、桜の樹に対してだ。もし仮に、アポロンの考えている以上に、ナマエの心があれに囚われているのだとしたら──。
 ざわりと、アポロンの身体の中に黒いものが渦巻く。──ナマエが微睡んでくれていよかった。きっと普段の彼女であれば、アポロンのわずかな変化にも気付いていただろうから。

「…どうしてだい?」

 訝しげな声にならぬよう訊ねる。それでも、窓の外はアポロンの心中を如実に表すかのように徐々に陰り。部屋の中へ、長く暗い影を落とし始めていた。

「だって……桜のしたのアポロンさま…とっても、美しかったんですよ…」
「──え…?」
「だから…また、見たいなって…、思ったんです……」

 あくび交じりの間延びした言葉に、アポロンはぽかんと口を開く。そうしてあっという間に、渦巻いていた黒い感情が消え失せいく感覚がした。
 ──ナマエの心が囚われているなど、過ぎた心配だった。アポロンは瞳を細め、「ふ、」と短く笑う。

「……そうだね。また今度、一緒に行こう」

 慈しみを孕んだとても優しい声に、ナマエは「はい…」と小さく笑みをこぼしながら、「それに…、」とまた続ける。

「わたし…はなびらを…忘れてて……、」
「花びら?」
「スサノヲさまたちへのお礼で…桜もちをつくるって、いったじゃないですか……でも、拾うの、忘れてて……」

 その言葉に、アポロンは一瞬きょとんとして。けれどすぐに「ははっ」と声を上げ笑った。

「ああ、そう。そうだったな」

 まさかの言葉に、アポロンは笑いが止まらなかった。
 礼をする云々など、アポロンの頭からはすっかり抜け落ちていたのだが。寝ぼけながらも気にするところがそこなのかと思う。と同時に、ナマエらしいとも思った。

「心配しなくても、今度は両手で抱えきれないくらい持ち帰ればいいさ」
「……そんなには、いらないですよ…」
「その分たくさん作ればいいだろう。オレ様も手伝う」
「…あぽろんさまが、桜もちを…?」
「ああ。キミと一緒なら楽しくできそうだ」
「ふふ…そうですね」

 アポロンはナマエの前髪をかき分け、あらわになった額に唇を落とす。そうして、「だから今はおやすみ」と優しく囁いた。
 微睡みの中、ナマエは再びゆるりと視線を上げる。
 天井を背にこちらを見下ろすアポロン、その横から落ちる艶やかなローズピンクが、ナマエの周囲を鳥かごのように包み込んでいた。
 やはりとても美しいと、そう思った。


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