ナマエは今、とても困っていた。目の前に聳え立つ、棚が十もある本棚の一番上。赤い背表紙の本に、どうしても手が届かないからだった。

「…どうしよう」

 この本棚の前に立ち既に五分。何か足場になるようなものはないかと周囲を見渡すものの何も見つからず。普段傍にいる侍女も、今日は休みを取っているためその姿はない。
 そしてここは、中央の執務室から離れた場所にある、夫婦の居室隣に造られた書斎だ。そんな場所へ、本を取ってほしいというだけでわざわざ誰かを呼ぶのも気が引ける。
 つまりは八方塞がり。どうしようもない状況ということだ。
 いっそ棚に足を掛けてしまいたい気持ちもあったが、流石にそこまで野蛮な行為は気が咎めるし、なにより土足でそんなことを行うべきではない。
 もう今日は諦めて読書以外のことでもするかと思いながら、ナマエは最後の足掻きとばかりに腕を精一杯上へと伸ばした。

「探し物か?」
「っ…!」

 その瞬間、右の耳元で声が響く。突然耳を震わせた音にナマエは大きく肩を跳ねさせ、背伸びしていた足が縺れる。「倒れる!」と咄嗟に目を閉じたが、いつまでたっても衝撃はなく。代わりに背中を慣れた感触に支えられていることに気が付いた。

「は、ハデス様…?」
「すまない、そんなに慌てるとは思わなかった。…怪我はないか?」
「はい…大丈夫、です」

 どくどく脈打っている心臓を落ち着かせようと小さく深く呼吸しながら、ナマエは声を掛けてきた男──ハデスを見上げる。「すみません」と小さく謝れば、ハデスは「気にするな」と安心した様子でナマエの背中を軽く叩き。そのまま左手を彼女の腰へと添えた。

「あ、あのハデス様、どうしてここに…?今はまだお仕事の時間じゃ…」

 てっきり離れると思っていた距離が相変わらず近いままなことのに若干動揺しつつも、ナマエは尋ねる。
 空の上にある天界とは異なり、ユグドラシルの下の下の、さらに下。暗闇に存在する冥界にも、一応ではあるが朝や夜といった時間の概念は存在する。
 夜は一切の音を遮断したかのような静寂と暗闇、そして冷たい空気が辺りを包み込んでしまうが、昼はそれなりに温かく、時折天界から零れる光が差し込むこともある。そのおかげで基本的に仄暗い冥界でも、時間の感覚を忘れずにいられるのだ。
 そして今はまだ昼間。本来であればハデスは執務室と呼ばれる場にこもっている時間帯だ。にもかかわらず何故彼はここにいるのか。
 ナマエの当然の疑問に、ハデスは目を細め柔らかく微笑む。

「ああ…少し時間ができたからな。お前は何をしているのかと思い、一度戻ってきた」

 休むときは外している右目の仮面を付けたままなところを見ると、執務中なのは間違いない。それだけで、忙しいはずの王がふとできた暇の間にも自身のことを考え、さらには居城内でも外れの方にあるこの場所へわざわざ戻ってきてくれたのだと理解でき。ナマエは湧き上がる喜びを抑えきれぬまま「そ、そうですか…」と、小さく呟いた。

「あ、じゃあ、ここでなくもっと明るいところで休憩を…私、お茶を入れてきますから」
「いい。気にするな」
「でも…」
「いいから。…それよりも、お前がいつもここでどう過ごしているのか、教えてくれ」

 なおも食い下がろうとするナマエを制すると、代わりとばかりにハデスはそう言った。
 本来ならば常に多忙のハデスを少しでも休ませたいという気持ちなのだが、本人にそこまで言われてしまえばナマエも引き下がる他なく。「分かりました…」と返事をすると、目の前の本棚を指差した。

「いつもは、大抵本を読んでいて…この書斎の本を全部読むのが目標なんです。今ちょうどこの本棚に入ったところで…」
「…ああ、なるほどな」

 夫婦の居室の隣に構えられたこの書斎は、メインの書斎よりかは幾分か規模は小さいものの、それでも個人の趣味で持つにはそれなりに大きな造りになっている。それも全てナマエを妻として迎え入れる際、彼女の趣味が読書だと知ったハデスが、わざわざ造らせたものだ。
 そしてそこに収蔵されている本のほとんどが、ナマエがこれまで見たことも聞いたこともないような歴史や文化、そして場所や、それに関わる神々を描いたもので。大昔、日本の片田舎で幼くして死に、祀られたことで後に神となったナマエにとって、文字を追うたび浮かび上がる全てが新鮮なものばかりだった。だからこそナマエは、ここにある全てを本を読んでしまうという壮大な目標を掲げたわけだ。
 ナマエの指先を追っていたハデスの視線は、彼女のその言葉で合点がいったように本棚の一番上で止まった。

「どれが取りたいんだ?」
「え?」
「ちょうどこの本棚に入ったということは、ここから本を取ろうとしていたのだろう。取ってやるから、どれか教えろ」
「っいえ!大丈夫です!自分で取れますから!」

 そんな雑用まがいのことでハデスの手を煩わせるわけにはいかないとばかりに、ナマエは大慌てで制止する。

「何を言っている。届かないから、先程ずっと足場を探していたんだろう」
「い、いつから見てたんですか…」
「この本棚の前に立った頃からだな」

 つまりはナマエが本棚の前で考え込み、周囲を見渡し、どうしようと呟くその全てを見ていた──もとい観察していたわけで。なんとも悪趣味だとナマエは苦い顔になるも、ハデスは「悩む姿も中々に良かったぞ」とどこか楽しげに笑っている。

「ほら、早くしろ」

 もうこうなってしまっては、ナマエも素直に彼を頼る他ない。若干の申し訳なさは残りつつも、ナマエはおずおずと目当ての物を指差す。

「一番上の棚の、赤い背表紙のものです…」
「これか?」
「はい、それです…」

 伸ばされた手は易々と目当ての本に届き。あれほど取るのに苦労していたことが嘘のようにナマエの手元へとやってきた。

「すみません、ありがとうございます」
「構わん。むしろ届かないからといって、また怪我でもされたらそっちの方が困る」
「う…その節は大変申し訳なく……」

 実は以前にも似た状況になったことがあった。今回と少し違うのは、その目当ての本は、頑張ればナマエでもギリギリ手が届く高さにあった、ということぐらいだろうか。
 それ以外は同じ。侍女もナマエのためにお茶を用意していたため近くにおらず。そして軽く周囲を見渡せど足場になるようなものもなく。ただ、"手が届いてしまう"といった部分だけが、今回との違いだった。
 そしてそこで愚かなことにナマエがとった行動は、「まあいけるか」と己を過信し、後先考えず大きくジャンプするといったもので。その結果、予想通りというべきか。着地は見事に失敗。足首は捻挫とまではいかないものの、力を込めるとわずかに痛むようになってしまい。くわえて痛みで漏れ出た声を聞き慌てた様子で戻ってきた侍女に呆れられるという散々な結末を迎えたのだった。
 そして何より大変だったのはこの後。おそらく彼の従者の誰かが伝えたのだろう。血相を変えて部屋へと戻ってきたハデスがナマエの足に巻かれた包帯を見た瞬間、「何ともないですから」「心配しないで」という言葉を発するのすら申し訳なくなるくらい、ハデスは元々白かった肌をさらに青くし。その日以降痛みがなくなるまで、文字通りナマエの身の回り全ての世話をするようになったのだ。
 そしてそこにはもちろん夫婦の時間も含まれており。このままでは、もはや溶けて無くなるのでは?とナマエが斜め上に思考を持ってしまうぐらい、これ以上ないくらいに優しく甘やかされたのは、今思い出しても恥ずかしくなるほどだ。
 こうした経緯から、ナマエは何があろうと無理にでも本を取る、もとい無茶をしなくなったのだ。

「別に良い……いや、むしろお前とゆっくり過ごすことができたから、あれはあれで良かったのかもしれないな」

 多忙なハデスに迷惑をかけたという居たたまれなさから項垂れるナマエの頭を、ハデスは気にするなとばかりに撫でる。
 その声色にまったく呆れが含まれていないことと、それどころかどこか愉し気な様子さえ含まれていることに気付き、ナマエは「そ、そう、ですか…」と照れから言葉を詰まらせハデスから目を逸らした。

「…えっと、あの、ハデス様。やっぱりちゃんとお休みした方が……ぁ、あっ、え…?」

 話題にしたせいか変に意識をしてしまい。徐々に思い出されていくあの日の光景に、ナマエの身体はわずかに緊張し始める。
 長いスカートの下ですり合わせた膝がしっとり汗ばんでいることに気付き、なんとか話題を変えようと、先程の提案を再びしてみる。けれどハデスはそれに返事をすることはなく。代わりに腰を抱いていた左手がするりと上り、頬に添えられていた。
 指の背が柔らかな感触を楽しむようにそこを撫でると、ナマエの肩がびくりと跳ね上がる。その反応が楽しいのだろう。ハデスは小さく笑みを浮かべた。

「ナマエ」

 ハデスは再び手を滑らせると、俯き落ちるナマエの顎を、今度は掬い上げるように掴む。
 力を込められたわけでもない。無理矢理でないにも関わらず、ナマエはそれが当たり前かのごとく、促す手に誘われるように顔を上げてしまった。
 ばちっ。薄いアメジストの瞳と交わった瞬間、ナマエの身体は金縛りにあい動かなくなってしまう。けれど心臓だけは異様に、壊れるのではないかと心配になるほど早鐘を打っている。
 自身の名を呼ぶその声に、ナマエは一瞬で理解してしまった。──気付かれている。何がって、すべてを。
 話題を変えようと誤魔化そうとしたことも、この場から逃げようと少しで思ってしまったことも、身体がほんの少し、熱を帯びていることも。

「は、ハデス様…っ、」

 ナマエは止まりそうになる呼吸を必死に整えながら、なんとか男の名を呼ぶ。けれどそれは突然の接触に困惑しながらも、まるで続きを期待するような声音となって発せられ。さらに彼女の羞恥を煽ることとなる。
 かっ、と顔を赤くするナマエが、ほとんど無意識のうちに再び視線を逸らそうとする。けれどそれを許さないとでも言いたげにハデスは彼女の身体を掻き抱き、唇を塞いでしまった。

「っん…」
「はぁ…、」
「あ、ぁ…ん、んうぅ…っ♡」

 呼吸のためわずかに開いた隙間から侵入したハデスの長い舌が、躊躇することなくナマエの舌を絡め取る。付け根から先端まで全てを触れ合わせ、時には擦り合わせながら、乱暴に口内を蹂躙していく。
 ナマエが踵を上げ、反対にハデスが身を屈めるも、それでも埋まらぬ身長差ゆえに上を向き続けるナマエは酸素が足りず。くわえて送り込まれる唾液を喉を鳴らし飲み込むのも追いつかず、唇の端から飲みきれなかったものが顎を伝い落ちていく。
 徐々に苦しくなっていく呼吸にナマエの手から本が滑り落ちる。瞳には涙の膜が張り、いよいよ脳内に靄がかかり始めた頃。ようやく唇が離された。

「はぁ、は…っ♡」

 肩で息をするナマエとは対象的にハデスは息一つ乱しておらず。ぐったり力の抜けた身体を軽く抱き上げると、迷うことなく寝室へと向かう。気づいた頃には、ナマエはベッドの上に下ろされていた。
 肌をくすぐるなめらかなシーツからは、昨晩散々分かち合った熱などとうの昔に消え失せていて。今はただ、熱を帯びたナマエの身体をひんやりと冷やすのみだった。

「あ、の…ハデス様……」

 その冷たさにほんの少し冷静になったナマエは、連れてこられたこの場所と、こちらを見下ろすハデスの瞳に背筋を震わせる。
 執務の途中だったと言っていたが、まさかこのまましてしまうのか。妻としてそんなことさせるべきではないと分かっているが、もしそうなった場合、ナマエはこの男を突っぱねることができないというのも、嫌というほど理解していた。他でもない彼に、そうなるように躾けられているのだから。
 期待と困惑と。様々な感情が入り混じった瞳でナマエはハデスを見上げる。

「…そんな目で見るな」

 潤むグレーの瞳に誘われるように、ハデスはナマエへと手を伸ばす。紅潮した頬をするりと撫で、物欲しげに薄く開かれた唇の端からこぼれた唾液を、親指で少しだけ乱暴に拭ってやる。

「そ、そんな、って……っ、」
「余に触れて欲しくて仕方がない…そんな目だ」

 既に赤く染まっていたにもかからわずさらに染まるナマエの顔は、もはや熱がこもりすぎて発火してしまうのではないかと思うほど赤くなっていて。羞恥からだろう。こぼれた涙が一筋伝っていった。
 ──その柔らかな場所にもっと触れたい。ほんの少し噛みついて、涙ごと飲み込むように舐め上げて、そして労わるようにキスをしてやりたい。
 ナマエの様子に加虐衝動を煽られながらも、ハデスはぐっと奥歯を噛み。耐える代わりに耳元へと顔を近付け、そっと囁いた。

「…このままでは、明日の朝まで部屋から出してやれなくなる。少し頭を冷やすついでに仕事を片付けてくるから……それまで待っていろ」

 普段よりも幾分か低く、甘い吐息がナマエの耳をくすぐる。
 瞬間、背中には稲妻のようにじりじりした痛みが駆け上がり、下腹部は重く、何かを欲するようにきゅうきゅうと蠢いた。

「は、い…っ」

 思わず出てしまいそうになる嬌声をなんとか押さえつけるも、代わりに漏れる吐息は酷く熱を帯びていて。絡み合い粘つく唾液を飲み込んだ音がいやに体内へと響いた。
 そんなナマエの様子に、ハデスは「良い子だ」と再び軽く口付けると、少し乱れた髪を整えるように頭を撫で、名残惜し気に部屋を後にした。

 残されたナマエは、未だ熱を持ち触れると痛みさえ感じてしまう頬を落ち着けとばかりに両手で包み込むと、ゆっくり身体を倒し、背中からシーツの海へと飛び込む。
 部屋の中で一番大きな窓を見やり、外の景色をぼんやり眺める。──はやく夜になればいいのに。小さく呟いた言葉は、静かな部屋に融けていった。


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