「ナマエ、あなたアポロン様と喧嘩でもしたの?」
「ナマエ様…もしやアポロン様と喧嘩でも?」
「差し出がましいようですが…ナマエさん。アポロンと喧嘩でも?…ああ、いえ、別に特に意味は無いんですよ。ただ気になっただけです」

 上から、アフロディテ、ブリュンヒルデ、ヘルメスの言葉である。その他にも行く先々で投げられた同じ問いかけに、ナマエは何度頬を引きつらせながら「すみません」と頭を下げたことだろう。そしてその度、「あなたのせいでないことは分かってる」と慰めるように言われたか。
 ナマエと、つい数年ほど前に夫となった神──太陽神アポロン。この二柱が所謂喧嘩のようなものをしたという事実を、何故彼らが知り得たのか。いや、彼らだけでは無い。この天界に住まうほとんどの者たちが、何故気付けたのか。
 その理由は現在天界の空を覆う、分厚い雲にあった。



「そうやってすぐ態度に出すのはお止めください…!」

 帰路を急いだナマエは、居城について早々に、夫でありこの城の主であるアポロンにそう苦言を呈した。
 窓際に置かれた椅子に腰掛け、頬杖を突きつまらなさそうに窓の外を見ていたアポロンは、その視線をゆったりとナマエへと向け。薄くオレンジに塗られた唇をわずかに尖らせている。
 一見淡々と小さな怒りを示しているようにも見えるその仕草が、その実ただ拗ねているだけだということを知っているナマエは、臆することなく。男を呆れたように睨みつけている。

「何のことだ?」
「何のことだ、ではなく…この空ですよ。行く先々であなたのことを聞かれました」

 ナマエが指差した窓の外は、今しがたアポロンが見ていた窓の外──空を覆う、重い鈍色の雲である。
 本来明るく光り射す天界が何故こうもどんよりとしているのか。それは他でもない、アポロンのせいであった。
 元々アポロンとは医術、弓術、詩歌や音楽といった知的文化活動を司る神として有名だが、他にも光明を司る太陽神としての一面も持っている。それはすなわち、彼らが住まう天界、特にギリシャ神界における『光』と『太陽』を指すものでもあり。ギリシャの空は、アポロンの加護の元その姿をさまざま変えているといっても過言ではない。
 つまり、アポロンの機嫌が良ければ太陽は燦々と輝き。逆に機嫌が悪ければ雷が鳴り風が吹き荒れ。悲しみを感じれば、しとしとと雨が降る。アポロンの気分一つで、天界の空模様というものは、簡単にその顔を変えてしまうのだ。
 そして今の空模様は、曇り。重い灰色の雲が空を覆っている。──雷も風もないことは喜ばしいことだが、雲が分厚いところを見ると、あまり機嫌は良くないようで。いつ悪化するかもわからぬ状況だ。
 そうなればまた夫婦の喧嘩が拗れたのだと周囲が察することとなるだろう。それだけは避けたいと、ナマエはアポロンに懇願にも似た指摘をしたのだ。
 けれど当神はどこ吹く風。美しく塗られた唇を相変わらず尖らせたままである。

「それがどうした。言いたい奴には言わせておけばいいだろう?」
「そういうわけにもいかないでしょう…天界が暗くなっているから、皆さん困っているんですよ」
「オレ様の知ったことじゃない」
「いやあなた太陽神でしょう。いけませんよ、そんなこと言ってしまっては」

 なおも咎めるナマエにアポロンも苛立ちが募ったのか、わざとらしく合わなかった瞳は、勢いよく振り向きナマエのそれと交わった。
 ようやく相対することのできたシトリンカラーの瞳は、「気に入らない」といわんばかりにナマエを見つめている。

「そもそも、オレ様を蔑ろにするキミが悪い」

 喧嘩、といってしまうのも違う気がするが、説明にはそれが一番適しているのでとりあえずそれを使うとしよう。
 そもそもとして今回の喧嘩の原因は、そのほとんどがアポロンにあった。というよりも、アポロンが勝手に拗ねているだけなのだ。
 だからナマエからすれば八つ当たりもいいところだし、非がない以上謝ることもできない。というよりも、すべきではない。適当に謝ったところでさらに面倒なことになるのは目に見えているからだ。

「いや別に蔑ろにしているわけでは…」
「いいやしている。今日はオレ様が『城にいろ』と言ったのに、それでもキミは出ていったじゃないか」
「必要なものがあったので…」
「そんなもの他の奴に頼めばいいだろう」
「…でも、自分でも物を直接見たかったんです」
「それなら何故オレ様を連れていかなかった?」

 思わず飛び出そうになった、「それは、あなたが『オレ様は行かない』って言ったからでしょう」という言葉はなんとか寸前で飲み込んで。
 ああ言えばこう言う、もはや水掛け論のような状態に頭を抱えるナマエに、構うことなくアポロンは続ける。

「キミはもっとオレ様に構え。そしてオレ様以外には構うな」
「アポロン様、どうかそんな無茶は言わないで下さい…」
「なにが無茶なんだ?キミはオレ様の妻だろう。常にオレ様の隣にいろ。オレ様から離れるな。むしろオレ様以外見るな」

 子供か。いや子供の方が聞き分けが良いかもしれない。ナマエ自身子供の頃に死んでいるため、はたから見れば彼女も子供っぽい面があるのかもしれないが、ことアポロンに関してはナマエよりもその言葉が似合うと思う。仮にも──いや仮ではないのだが、オリュンポス十二神のひとりという立場なのだから、もう少ししっかりと神らしく振舞ってほしいものだ。
 初めて彼と接したときのあの気位の高さはどこへいってしまったのか。ナマエは記憶の中、遥か昔のアポロンを思い浮かべながら、「あれはあれで良かったのかもしれないな」と思う。もっとも、彼のこんな面は妻であるナマエにしか見せない面ではあるのだが、それは今重要ではないので置いておくとしよう。
 ナマエに対しすっかり素を見せるようになったアポロンは、良い意味でも悪い意味でも遠慮が無くなっていて。特にナマエに関することは、いささか歯止めが利かなくなっているようにさえ見えた。

「それにこの前もそうだ。オレ様が行こうと言った店に『以前アフロディテ様と行きました!』とか言っていたな」
「あ、ああ…言いましたねそんなこと…というか今の私の真似ですか」
「それにその前は何だったか…ああ、『ゲイレルルと会ったから、一緒に買い物をした』…だったか?しかも初めて行く店に」
「そうですね」
「何故だ」
「え?」
「何故夫であるこのオレ様が、キミが行う全ての物事で一番じゃないんだ?おかしいだろう」
「え、ええ…そんな無茶苦茶な……」

 ここにきてようやく、アポロンの不機嫌の本当の理由が分かり。そのまさかの内容にナマエは呆れたような、それでいて自分でも信じられないほど情けない声を漏らしてしまった。
 要するに、『妻であるナマエが新しく見聞きし、体験する全ての物事を共に一番に経験するのは、夫である自分であるべきだ。それを差し置いて他の者と一緒に過ごし、夫を最優先にしないとは何事だ』と、そういうことらしい。
 先程、子供か、と思ったことは訂正しよう。こんなこと、子供でも気にするかどうか怪しいレベルだ。そんなこと、出会っていなかった過去のこともあるというのに、いちいち気にしていられようか。普通なら気にしない。が、アポロンという男は気にするタイプのようだ。
 予想だにしていなかった発言とまさかの内容に、ついに言葉を失うナマエの様子がよほど気に食わなかったのだろう。それまで不満げにナマエを見つめるだけだった瞳が、スッ…と静かに細められる。

「…キミはいつもそうだ。オレ様を置いて、他の者とばかり過ごしている」
「…アポロン様?」
「何もかもオレ様は二番目で、初めて一緒にすることもなくて…」

 どうやら今日は相当ご立腹らしい。ここまで不機嫌なことは中々ないため、さてどうしたものかとナマエが考え始めたとき。ふいにアポロンの声が、先程よりも一段低くなったことに気が付いた。
 腰掛けていた椅子からゆらりと立ち上がり、コツコツと靴音を立てながらアポロンはナマエの前に立ちはだかる。普段、たっぷりと甘さを含んだ蜂蜜が溶けたようにナマエを見つめるシトリンの瞳は、こときばかりはひどく濁ったような冷たい色をしていて。
 交わった瞬間、ナマエは何か冷たいものが背中を撫でていったような感覚を覚えた。

「ちょ、あの、どうし…っ」

 無意識のうちに逃げようと後ずさったナマエの肩を、アポロンは許さないとばかりに掴む。両手で鷲掴みにされた肩はミシッ…と嫌な音を立てていて。
 取り巻きであるビューティーズ含め、基本的に女性を大切にするアポロンからは信じられないようなその行動の乱暴さに戸惑うナマエを余所に、当神は先程よりも影を落とした顔で、彼女を見下ろしている。

「あ、ぽろん、さま…」
「……むしろこのまま閉じ込めてしまえば、お前はオレ様以外見なくなるのか?」

 その相手が目の前にいるというのに、ぶつぶつ恐ろしいことを呟き始めたアポロンに、ナマエの細い喉からはヒュッと空音が漏れる。
 アポロンが言葉を紡げば紡ぐほど、かろうじて灰色だったはずの雲が、徐々に黒く重たいものへと変わっていく。──なんだか雲行きが怪しくなってきた。実際の空もだが、どちらかというと今この状況が、だ。
 このままではまずい。空から天界が崩壊しかねない。冗談ではなく、主神格であるアポロンならばそれができてしまうのだ。そして彼が低い声で淡々と言葉を紡いだときは、その可能性が限りなく高いということ。それをナマエはアポロンの妻となって数年余り、たった一度だけ経験したことがあり。その恐ろしさを嫌というほど分かってた。

「っじゃあ!今日からしばらくの間は、ずっとお傍にいますので…!」

 ナマエの言葉にアポロンはぴたりと動きを止める。その反応に「押せばいける」と即座に確信したナマエは、訴えかけるようにアポロンを見つめた。

「…しばらく?」
「はい、しばらく…」
「しばらくなのか?キミはオレ様の妻なのに?」
「あ、アポロン様もお仕事があるでしょう?常に、というのは難しい場面もあるとは思いますので…でもそれ以外では、できる限りお傍にいるように、という意味です…」

 言い方は悪いが、一旦こう言えばとりあえずこの場としては収まるだろう。そうして過ごしておけばそのうち、「自由が無さすぎる」などと言って、今度は「ひとりにしろ」とか言い出すに決まっている。そのときを待てばいいだけだ。
 これは決して、断じて、ナマエがアポロンを蔑ろにしているわけではない。彼と夫婦という関係になってから──いや、もはやなるまでの間、アポロンからのアプローチを受け続けたことによってナマエに培われた、いわば処世術のようなものだ。といってもほとんどこれは対アポロンのみというあまり意味をなさないものではあるが、自分を曲げない彼に対しては驚くほど有効なのだ。まあこれは流石に失礼だと思うので、本神には言えないが。

「…それは良いな」

 しばらく考え込んだ後、案の定アポロンは満面の笑みを浮かべ。肩を掴んでいた手を離すと、今度はナマエの頭を満足げに撫でている。
 随分とこじつけた言い分ではあったが、アポロンが納得したのならそれが一番だ。なにせ先程まで暗くなっていた空は、今度は雲の隙間から光が射しこむほど明るくなっているのだから。なんとも分かりやすい神様である。

「そうと決まれば、ナマエ。今からさっそく花島に行くぞ!」
「え…は、花島、ですか?」
「ああ。…嫌か?」

 花島とは、アポロンの居城がある島のすぐ近くに浮いている、年中桃色の花で埋め尽くされた島のことだ。元々そこに住まう神や生き物がいなかったことから長年放置されていたのだが、つい最近、ナマエとの結婚を機に居城を近くへと移したアポロンが管理することとなったため、実質彼が所有しているような状態らしい。
 らしい、というのは、実はナマエはまだその島に行ったことがなく。管理云々という話になると、ナマエの知らぬ主神格の領域にまでいってしまうため、その辺りのことはノータッチだったからだ。
 なによりナマエからしてみれば、あの島はアポロンお気に入りのビューティーズらと過ごすための場所として使われるのだろうとすら考えていたため、そこを夫婦のみで訪れたいという突然の提案に、驚きを隠せなかった。

「いえ、決して嫌というわけではないですけど…ずいぶん唐突だなと思っただけです」
「この前、『あの花畑でゆっくりお茶を飲んでみたい』と言っていただろう?それならまだ誰ともしたことはないだろうからな。今からオレ様たち"夫婦だけ"で、ゆっくり過ごすぞ」
「あ、ああ……なるほど」

 だけ、の部分を強調している辺り、まだ全てに納得いっているわけではないが、ナマエから『傍にいる』という言質が取れたことに満足しているのだろう。意気揚々と話すアポロンに合点がいったナマエは返事をする。
 が、返事をしたその一瞬。そのほんの一瞬、ナマエのグレーの瞳に動揺が見えたのを、アポロンは見逃さなかった。それと同時に、彼の脳内には一つの可能性が生まれる。
 そしてアポロンが"何か"を思い付いてしまったことをナマエが察するのも、また同時だった。

「…ナマエ」
「は、はい?」
「キミまさか…」
「………」
「したのか…?オレ様以外の奴と、あの島で…」

 追及するような瞳に耐えられなくなったらしく、ナマエは逃げるようにアポロンから目を逸らしてしまう。
 それを肯定と受け取ったのだろう。アポロンは唇を震わせながら、ナマエへと問いかけた。

「誰だ。いつ、誰としたんだ」
「妙な言い方しないで下さい…少し、ぜ、ゼウス様とヘルメス様と、お茶をご一緒しただけです……」
「…はあ?なんでじいさん達?」
「この間、アポロン様がちょうどいらっしゃらなかったときにお会いして、その…いい茶葉があるので、一緒にどうかと誘っていただいて……」
「………」
「あの…勝手に島に入ってしまって、申し訳ありませんでした」
「いや…」

 大方ゼウス辺りが「元々あいつの物じゃないんじゃし別にいいじゃろ」などと言って誘ったであろうことは、アポロンにも分かっていた。嫌がらせ交じりの揶揄い半分、本当に花を見ようと思った半分だろう。そこにわざわざナマエを誘う辺り、前者の方が可能性は高いが。
 そしてギリシャの最高神に誘われればナマエも断りにくいというのも、ゼウスは分かっていたのだろう。ナマエは元々ギリシャの神ではないことに加え、性格的にも大抵のことは素直に受け取るタイプだからだ。いや、そもそも重要なのはそこではないのだが。
 ──気に食わない。とてつもなく。心の底から気に食わない、が。申し訳なさそうにこちらを見上げるナマエを怒る気にはなれない。アポロンは落ち着かねばとばかりに言葉を呑み込むと、「それなら、」と続ける。

「島に行くのは止めにして、この前買ってきた紅茶を飲もう。キミが買ってきたやつだ。…それならまだだろう」
「…はい。ぜひ」
「おい、今一瞬言葉を呑み込んだな」
「いえそんなことは」
「否定が早すぎる」

 再び向けられた問い詰めるような視線と言葉に、ナマエは重々しく口を開く。

「この前、フレック様とジャック様と…少し飲みました……」
「…誰だそれは」
「よ、四回戦でヘラクレス様と戦われた、ワルキューレの方と人類側の方です。…そういえば、ご自身の番まで観ていませんでしたね」
「……何故そいつらとキミが一緒に茶を飲んだんだ」
「アポロン様が、以前美味しいと言っていた茶葉が切れていたので買いに行ったときにお会いして…その、美味しいアップルパイがあるからどうか、と誘われて…そのまま……」
「………」
「そ、そんな目で見ないでください…」

 アポロンを蔑ろにしたつもりなどもちろん一切無いなが、まさか"共にやろう"と言われたことが、こうも悉く他の誰かと既に経験しているとなると、流石に若干の申し訳を感じてきたのだろう。ナマエの言葉は罪悪感にどれも尻すぼみになっていった。

「…この前はアフロディテと、ワルキューレの小娘」
「え…?」
「その前は神友と正義くんで、さらにその前はハデ兄とベルゼブブだったな」
「な、何の話で…、」
「お前が、会って共に過ごした、と言っていた相手だ。…ほとんど事後報告だったがな」
「そ、そうでしたっけ…?よく覚えていらっしゃいますね……」
「ああ、よく覚えている。お前の交流はとんでもなく広いからなあ…」
「あ、ありがとうございます…?」

 良くも悪くも我が道を行く自由奔放なアポロンのような神と、ナマエのような奥ゆかしさ全開の神が、どうして夫婦となれたのか。周囲の神々にとって、その理由はこれ以上ないほどの興味の対象となった。
 ゆえに最初、神々はナマエへ何かと理由をつけ近付くのだが、彼女と接するうち、その人柄──もとい神柄というものに惚れ。最終的にはアポロンは関係なく"ナマエに会いたい"と思う者が増えるのだ。
 男女どころか神も人も関係なく誑かすさまは、魔性の女とでもいうのだろうか。そして本神にその自覚がないというのが、さらにやっかいなのだ。何故ならアポロン自身も、彼女のそんなところに惚れた身だからである。

「まさか神だけでなく、人類も誑かしているとはな…」
「いや誑かしているわけでは…」
「その無自覚も要因の一つだろうなあ?」

 誑かしているつもりは一切ないが、ここで違うと否定すれば、それこそ彼の神経を逆なでするだろう。もはやナマエには言葉を呑み込む以外の選択肢は残されていないのだ。
 しかしその選択肢は、あくまで"現状の最善"というだけであって、良い結果を生むわけではない。

「…だんまりか?ん?」

 案の定その反応が気に入らなかったらしく。アポロンは片手でナマエの頬を掴み少し乱暴に自身の方へと向かせると、凪いだ瞳でナマエを見下ろした。
 ふっと小さく笑い、どこか穏やかにも見えるはずの瞳の冷ややかに、ナマエは背中に冷や汗が伝う感覚を覚える。

「アポロン様、あの…怒ってます……?」
「いや、怒ってない。怒ってないぞ☆」

 ──自身のことだけを考え傍にいて欲しいとは思うものの、その性格や考え全て変わって欲しいとは思わない。それがナマエという唯一無二の存在なのだから。
 だが、それはそれとして。ようやく手に入れた存在が相も変わらず人気者な現状は、ものすごく気に食わない。それだけだ。
 そこに簡単に折り合いを付けられないからこそアポロンはこうして、どうしようもない感情を抱えているのだから。
 本気で怒っていないというのは、ナマエにも伝わってはいるのだろう。ただ伝わったからといって、彼女に今のアポロンを宥められるわけではないのだが。

「っ!?」

 ぐるんっ、とナマエの視界が回る。次の瞬間見えたのは、美しく流れる淡いローズピンク色で。
 それがアポロンの髪で、眼下に見えている。つまり自身が俵のように彼の肩に担がれどこかに運ばれていると理解したのは、勢いよく開けられた扉の音と、視界の端で流れていく廊下の景色からだった。

「なっ、何してるんですか…!?」
「さっき言っただろう。夫婦だけでゆっくり過ごすと」
「えっ、でも花島はこっちじゃ…、」

 先程言った花島であれば、出口を出て真っ直ぐ行った所にある中庭に出る口に向かわなければならない。けれど今アポロンは部屋を出てすぐ右に曲がった。その先は突き当たり、夫婦の寝室しかない。
 ──ゆっくり過ごす。夫婦だけで。夫婦の、寝室で。その言葉達を脳内で反芻する。そしてそれらが意味することに気が付いた瞬間、ナマエはさっ、と顔を青ざめさせた。

「うっ、嘘でしょ待ってください!私明後日に約束がっ…あ、」

 アポロンの今の機嫌から察するに、下手をすれば三日は解放してもらえない可能性がある。ナマエは明後日、再び友神と会う約束をしているのだ。たまにしか会えない相手だからそれが無くなってしまうと困る。そのことが頭に浮かび、ナマエは咄嗟に口にしてしまう。
 けれどすぐに、この場でそれは地雷だと気付き慌てて口を閉じる。けれど時すでに遅く。アポロンの耳にはしっかり、はっきりと届いていたようで。ナマエの言葉に歩みをぴたりと止めると、小さく「ははっ」と笑った。

「またオレ様以外と過ごそうとしてたのか。仕方ないやつだなあ…ナマエは☆」

 アポロンが言葉を発した瞬間、わずかに光が射し始めていた雲は再び空を覆い、代わりに大地を裂くような轟音と共に稲妻が走る。次いで勢いよく雨が降りも吹き始めた様子に、太陽神の感情がいかに複雑に絡み合い、そして重く渦巻いているのかということを、ナマエは否が応でも理解してしまう。
 いよいよ逃げ場がなくなり頭を抱えるナマエに、追い打ちをかけるようにアポロンは続ける。

「一週間だ」
「え、?」
「三日にしてやろうと思っていたんだがな…愛しい妻がオレ様以外と過ごしたいと、こうも強情なら……致し方ないだろう?」

 やってしまった。完全に墓穴を掘った。アポロンという神は、そうすると決めたら本当にやってしまうタイプだ。現在の空の状況を踏まえても、この言葉は嘘ではないだろう。なによりこの口ぶり、"予言"として音にしてしまった以上、覆ることはない。
 そうこうしているうちにアポロンの足は止まり、代わりに扉を開く音が響く。そしてすぐにナマエの背中に、冷たいシーツが触れた。両手首を掴まれギシッと鈍い音を立てるベッド。そして垂れ視界いっぱいに広がった淡いローズピンク色。ナマエの中に、ついに諦めの念が生まれる。
 一週間、一週間か。普段たった一晩でも足腰立たなくされてしまうというのに、一週間も部屋から出してもらえなかったらどうなってしまうのか。
 あの太陽神の愛を一身に注がれるほど愛されていると言えば、周囲の者は「なんて羨ましい」と口を揃えて言うだろうが、実際それを受ける身からしてみれば、彼の愛ほど、身体と精神を侵食していくものはない。そう断言できるぐらいアポロンは重く、溺れそうになる愛の持ち主なのだ。

「…せ、」
「ん?」
「せめて一日…いや二日はどこかで休憩を…」
「……」
「い、入れてくださると…」

 絞り出すように発せられた懇願にアポロンは少考した後、にっこりと笑って見せる。

「それはナマエ……キミ次第だな」

 アポロンの指の背がナマエの頬をすり…と恐ろしいほど優しく撫でると同時に、視界の端に見える窓の外では、雲の隙間から太陽が燦々と輝き始め。
 荒れ狂う天気から一変。嬉々とした状況に変わる空模様に、ナマエは一週間後の自身を憂い。アポロンと対照的に乾いた笑みを浮かべるしかできなかった。


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