首をぐっと上に傾けなければいけないほど大きな扉。その横に立つ門番の姿も、今日ばかりはなく。この部屋の王たる人物が言い渡した休日を、彼らもしっかり堪能しているようだった。
 ナマエはその扉の横にある、一人用の小さな扉をくぐる。ここはこの部屋への訪問頻度の多いナマエが、門番に「大きな扉をいちいち開けてもらうのは申し訳ない」と言ったことから造られたものだった。
 扉をくぐり壁画の描かれた廊下を抜けると、古代ギリシャの神殿を思わせる造りの壁に囲まれた、開けた場所に出る。土が広がる乾いた大地を彷彿とさせる場所だ。
 普段であれば、ナマエはそこで鍛錬を行う男達の隙間を縫うように歩き目当ての人物がいる一番奥へと行くのだが、やはり誰の姿もなく。寂しげな光景に似合うほど、そこは静けさを帯びていた。
 ヒールが土に埋まらぬよう注意しながら一番奥へと辿り着いたナマエは、そこからさらに舞台のような場所の上を目指し進む。
 階段を数段上がった場所には、中央に一直線に並んだ二本の白い石柱があり、その間に大きなハンモックが吊るされている。そしてそのハンモックには大きな身体の男が一人。淡いクリーム色の表紙に金の装飾が施されたなにやら高価そうな本をぺらぺらと捲りながら、のんびり葉巻をふかしていた。

「起きてらしたんですね、レオおじさま」

 アロハシャツに、サイドテーブルにはワインとチーズ。頬を撫でる爽やかな風は、ここに至るまでの殺風景さに似合わない、南国のバカンスを感じさせた。
 ナマエを呼ばれた男──レオニダスは読んでいた本を閉じサイドテーブルに置くと、自らの枕元に立つナマエを、眼鏡越しにちらりと見やる。

「どこ行ってたんだ」
「散歩に行っていたんです。おじさま寝てたから、起こすのも悪いと思って」

 煙と共に吐き出されたその問いに、わずかに心配の色が含まれていたことに気が付いたのだろう。ナマエは「黙って行っちゃってすみません」と眉尻を下げる。

「…いや、別にいい。寝ちまった俺様も悪かったからな」
「いえ、お疲れだったんでしょう?私のことは気にしないでください」

 ナマエが一人部屋を出たのは一時間ほど前のこと。それまでレオニダスは今と変わらずハンモックで。ナマエは傍に椅子を置いて。互いに読書をしながら静かにのんびりと過ごしていたのだが、ふいにレオニダスからの応答がないことに気付き。「レオおじさま?」と声を掛けたが最後、代わりに小さな寝息が返ってきた。
 眼鏡はかけっぱなしで、大切な本も開きっぱなし。開けたワインもチーズもそのままに寝てしまうなど珍しいこともあるものだと思いながらも、同時にそれほど疲れていたのだなと察し。ゆっくりして欲しいという気持ちから、ナマエは彼を起こさぬよう気を付けながら周囲を軽く片付けると、ひとり静かに部屋を後にした。
 その後三十分ほどして。意外にも早く目覚めたレオニダスはナマエの姿が見えないことに気付いたものの、まあそのうち帰ってくるだろうと、読書を再開したというわけだ。
 姿を消していた愛しい恋人が自らの元に帰って来た帰って来たことに、心のどこかで無意識のうちに安心したのだろう。レオニダスは「ぐあ」と、なんとも気の抜けた大あくびをする。

「また寝ますか?それともまだ本読みます?」
「いや…今日はもう終わりだ」
「そうですか」

 枕元に置かれた椅子に再び腰掛けたナマエは上半身を折り、頭の後ろで腕を組むレオニダスの胸元に寄り添うように頭を預ける。柔らかな筋肉に耳を付け、とくとくと響く心臓の音に身を委ねる姿は、子猫がじゃれつくような戯れにも似ていた。
 レオニダスはまだ長さの残る葉巻をサイドテーブルの灰皿に押しけると、そのまま手を伸ばし、心地良さげに瞳を閉じてるナマエの頭を撫でてやる。節くれだった指で流れる髪を梳かし、現れた小さな耳をすぐれば堪えきれないとばかりに小さく笑う声が聞こえた。
 ──平和だ。思わず口に出してしまいそうなぐらい心地よい状況に、レオニダスは再び瞼を下ろし始める。
 このままナマエを甘やかしながらまた眠るのもいいかもしれない。今度こそ夢見が良さそうだとぼんやり思っていると、それまで胸元で大人しくしていたナマエが、ふいに「あ!」と何かを思い出したように声を漏らした。

「いきなりでけえ声出すな…どうした」
「ご、ごめんなさい…でもおじさま、確かブリュンヒルデ様に呼ばれてましたよね?」
「あぁ?……そうだったか?」
「そうですよ。お昼過ぎに来てくれって言われてたじゃないですか」
「あ゙ー…」

 頭を撫でていた手を跳ね退けるように勢いよく立ち上がったナマエとは対照的に、当人であるはずのレオニダスは始終落ち着き払った様子で。
 返事をする代わりに声を漏らしながら少し考えるようなそぶりを見せた後、飛び起きたことで離れたナマエを自身の元へ呼び戻すように、ちょいちょいと手招きをする。

「おじさま?早く行かないと…」

 あ、これは行くの面倒臭いんだろうなあ。なんてことを察しながらも、ナマエは素直にレオニダスの元へと近寄り。枕元に立つと「どうしました?」と尋ねる。
 けれどレオニダスはそれでも何も言わず。相変わらず寝転んだままナマエをじっと見上げると、招いていた手で、今度は自身の隣を指差した。

「…座るんですか?」
「ああ」
「でも、ハンモックが……」
「いいから」

 ナマエはちらりと、ハンモックが括りつけられた二本の柱を見やる。元々体躯の良いレオニダスが寝転び動いても耐えられるくらいの強度はあるのだが、それでも二人も乗ればどうなってしまうかは分からない。
 困ったように立ち尽くすナマエの様子に、レオニダスは仕方ないとばかりに深く息を吐くと、所在なさげにしていた腕を掴み自身の方へと引き寄せた。

「っわ、あ…!?」

 驚いたナマエの声と同時に、二人分の体重を受け止めたハンモックがぎしりと大きく音を立てる。ほとんど反射で勢いよく顔を上げたナマエが慌てて柱の様子を見るも、先ほどのレオニダスの言葉通り。柱も紐も悲鳴を上げることなく、ぎしぎしとしなりながら、二人を柔らかく受け止めていた。
 落ちることも壊れることもないとようやく確認できたことで安心したらしく。ナマエは心の底から「はあぁぁ…」と声を絞り出すと、今度は咎めるようレオニダスを見た。

「もうっ、危ないじゃないですか!」
「大丈夫だって最初から言ってただろ」
「いいから、としか言ってなかったですよ…」
「あ?そうだったかぁ?」
「もう…」

 ナマエの言葉もどこ吹く風。ようやく望んだ状態になったことで満足しているのか、レオニダスは子猫のごとく自らの上に乗るナマエを、どこか嬉しそうに眺めている。

「行かなくていいんですか…」
「いいんだよ」
「…怒られても私、知りませんからね」
「そうだな」

 いや、たぶんよくはないけども。再び頭を撫で始めたレオニダスの手がひどく優しいものだから、ナマエはそれ以上何も言えなくなってしまった。
 もう降参とばかりに脱力したナマエは、全てを委ねるようにレオニダスの胸に顔を埋める。大きな動物の上に小動物が乗る、まるで絵本のような構図だ。こうなると完全に"二人でのんびりするモード"になってしまうから、もう本当に呼び出しに応じる気はないのだろう。
 ──ごめんなさいブリュンヒルデ様。私にはレオおじさまを動かすことはできなかったです。
 届くことはないと分かっていても自身の罪悪感払拭のために、ナマエは心の中でひっそり半神の美しい女神に謝罪する。
 そんなナマエの心中をおそらく察してはいるのだろうけれど。自身の意にそぐわないのならばわざわざ反応する意味もない。レオニダスはナマエの身体を軽く引き寄せると、気にするなと言わんばかりにぽんぽんっと軽く背中を叩いた。

「うう…おじさま止めて…」
「あ?なんでだよ」
「それやられると寝ちゃう……」
「くくっ…何だそりゃ。別に寝ちまったっていいだろ」
「ん…でもさっき散歩で、ゲイレルル様とお会いして…お菓子の美味しいお店を教えていたんです。それで、あとで一緒に買いに行こうと、思って……」

 上に乗るナマエの背をレオニダスが優しく叩く。営みの後にも毎回と言っていいほど行われるその行為は、ナマエにとって睡眠スイッチにも等しいものなのだ。
 案の定言葉尻がふにゃふにゃと蕩けかけているナマエの様子に、レオニダスはもう落ちるなと察し。背を叩く手は止めず、消えかけの言葉に耳を傾ける。

「じゃあ起きたら行けばいいだろ。それぐらいの時間はある」
「はい…でも、やっぱりブリュンヒルデ様のところにも…行かなくちゃ……」
「…まだ諦めてなかったのか」
「だってぇ…」
「あー、分かった分かった」

 とりあえず今は寝とけ。その言葉と共に、レオニダスは艶やかな髪のつむじに唇を落とした。
 まるでそれがスイッチとでもいうかのようにナマエはそのまま瞳を閉じ。次いで静かな寝息が聞こえ始めた。
 さて。レオニダスも同じようにこのまま寝てしまおうかとも思ったが、先ほど仮眠のようなものをしたせいか眠気はあまりない。かといって、やはり構えとナマエを起こすのもないだろう。そもそもキャラではない。
 しかたないとばかりに残っていたワインを一気に飲み干し、ついでにサイドテーブルに置いた本を取る。どこまで読んだか忘れたが、まあまた読み直せばいいだろう。
 どうせしばらく、子猫は起きないのだから。


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