夢主:オンボロ寮の2年生。学園で唯一の女子生徒。ユウが来るまでは一人で監督生のような役割をしていた。魔法は普通に使える。
監督生:ユウ。夢主の後輩の男子生徒。夢主のことを姉のように慕っている。


 何かが柔く頬へ触れる感覚に呼び戻されるように、ナマエの意識は水の底から徐々に浮上する。瞼の裏から漏れる光に眩しさを感じつつようやく目を開けば、見慣れた自室の天井が映ると共に、横から「おはようございます」と心地よい声が耳を撫でた。

「じぇいど…?」
「ああ、まだ寝てて構いませんよ。随分お疲れのようでしたから」

 はらりと落ちた髪を、黒い革手袋に覆われた細く長い指先が退かす。そのままするすると頬を撫でられ、そのくすぐったさに身を捩れば肩を抱く手に僅かに力が込められた。

「なんでここに…」
「監督生さんが教えてくださったんです。ナマエ先輩が倒れてるー、って」
「え、たお…え?」

 ジェイドのまさかの言葉に、ナマエは慌てて今日の記憶を辿り始める。
 朝は後輩であるユウと共に登校し、午前は飛行術と魔法史、午後は錬金術と魔法薬学の授業。放課後は図書室で明日の予習をし、その後はアズールのラウンジへ行き少し話をして、そのまま…そのまま?
 寮へ帰り談話室に置かれたソファへ座ったところまでは覚えている。けれどそこから、ぱったりと記憶がないのだ。
 二階にある自室に行くには当たり前だが階段を使わなければいけないし、施錠されている扉も鍵を使って開けなければならない。なによりベッドに上がるのだって靴を脱がなければならないし、やたらと装飾品の多い制服は形が崩れないようにとすぐ脱いでハンガーラックに掛けなければならないはずなのに。
 今寝ているのは記憶の最後にある談話室のソファではなく自室のベッドで、靴はきっちり脱がされて黒い靴下が見えている。制服のジャケットはアイアンのハンガーラックにきちんと掛けられ、おまけにベストまのボタンも寝苦しくない程度に外されている。誰がそこまでやってくれたのかなど、考えずとも分かることだった。

「頼ってくれるまで待っていようと思ったんですが、まさか倒れるとは…さすがに慌てましたよ。まあ実際は寝ていただけみたいですけど」
「申し訳ない…」

 ユウという人間の後輩が入ってきて、約一ヶ月。これまでたった一人の監督生として様々な雑務を行ない、目も回るような忙しさの中過ごしてきたナマエは、同じ立場の者が増えたことでその境遇もようやく改善されるのかと思っていたのだが…。現実はそう甘くはなかった。
 監督生としての後輩の育成。寮長の座を引き継ぐための雑務。そもそも学生としての基本的かつ最低限の勉学、あとはその他色々。蓋を開けてみれば、一人でいた時よりもずっと忙しさは増していて。
 それでもやらなければならないことは次々と生まれてくる。度重なる仕事に回復する間も無く体力は削られていき、必死に眠気に抗ったその日最後の用事が終わるや否や、ナマエはふらつく身体でなんとか寮へ帰ると、自室へ向かう前に、談話室のソファで息絶えるように眠ってしまったのだった。
 元々の体質なのか、ナマエは眠る時にあまり物音を立てないらしく。呼吸音も小さく身動きひとつしないことから、ジェイドと初めて夜を過ごした日は『死んでいるのかと思いました』と少しだけ焦った様子で言われたのは記憶に新しい。
 それを知らなかったユウはおそらく談話室でピクリとも動かないナマエを発見し、大慌てでジェイドへと連絡したのだろう。そしてそのまま呼び出された彼が、部屋まで運んでくれたといった流れだろうか。
 気苦労が多いのはあの子も同じだというのに。いらぬ心配をかけてしまったことと、真っ先にジェイドへと連絡がいったことに妙な気恥ずかしさを感じつつ。ナマエは誤魔化すように苦笑いで返す。

「とにかく、今日はもうゆっくりしてください。幸い明日はお休みですし」
「そうね…そうするわ……ジェイド?」
「はい?」
「いや、はいじゃなくて…その、離して欲しいんだけど……」

 寝起きだったことに加え心配そうなジェイドの雰囲気に飲まれていたのか今まで気が付かなかったが、よく考えれば、寝ていたはずなのになぜ彼の膝の上にいるのだろうか。
 ベッドに腰掛けるジェイドは、まるでお姫様でも抱き抱えるかのごとくナマエを抱き締めている。今更ながらじわりと羞恥が湧くのを感じながら、なんとか腕の中から抜け出そうとジェイドの身体を押すも、ナマエを抱く腕の力が緩められることはなく。それどころかもっとと言わんばかりに密着させられ、違った意味で汗が流れる始めた。
 焦るナマエを余所にジェイドはにっこりと、一見すれば人の良さそうな笑みを浮かべた。あ、これはまずい。

「嫌です」

 ああやっぱり。脳裏に浮かんだ同じ顔の片割れも、何かやらかす時はこんな顔をしていた覚えがある。こういう顔をしている時はたいてい悪いことばかり考えているから、なんとかしてこの場を切り抜けなければ…いけないのだけれど、

「いやいやいや、無理でしょ無理。こんな状態でゆっくりできるわけないって」
「先ほどまでぐっすりと寝てらしたじゃないですか」
「あ、れはっ、この状況を知らなかったから、って、ちょ、ちょっと…!」

 この男がそう簡単に解放してくれるはずもなく。いったいどこからそんな力が出ているのか。必死なのはナマエだけで、普段と何ら変わりない、むしろ戯れているかのような素振りのジェイドは、暴れる身体を押さえ付けると、腰掛けていたベッドへ背中から勢い良く倒れ込んだ。
 当然、抱えられていたナマエも倒れてしまうわけで。少し薄い胸板に顔から飛び込むと、痛む鼻に抗議の声を上げる間もなく、腰に長い腕が巻きつけられる。

「おやおや、まさか押し倒してくるとは…ずいぶん大胆ですね」
「いや違うから!」

 引っぱられたんですけど!諦め半分で叫べば、返事の代わりなのかくすくすと笑い声が聞こえる。

「ところでナマエさん。お忘れですか?」
「な、なにを…、」
「あなたが忙しかった分、僕とこうしてゆっくりする時間がなかったことを」

 ナマエの乱れた髪を、革手袋に覆われた細く長い指先がゆるりと退かす。そのままするすると頬を撫でられそのくすぐったさに身を捩れば、腰を抱く手に力が込められた。
 と、思ったら。今度はそれだけでは終わらず、気付けばシーツの海を泳いでいた青い髪が、天井を背にナマエの顔の横で揺れていた。

「や、ま、待って、」
「おや、どうしてです?」
「どうしてって…ユウが帰ってくるし……」
「ああ、それなら大丈夫。貴方を運んだ際、起こさないためにここへは近づかないようにと言っておいたので。それに、部屋全体に防音の魔法をかけておきましたから」

 眉間にキュッとしわを寄せ特徴的な歯を微かに見せながら、目の前の男はゆったりと笑う。

「さ、何も考えず……あとは僕に任せて、あなたはゆっくりと身を委ねてください」

 たっぷり甘やかしてあげますから。──薄い唇が触れる瞬間、吐息混じりの声が、そう囁いていた。


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