「仔ウサギちゃん!」
凛と冷えた空気に響く至極嬉しそうな声に、ナマエは肩を跳ねさせた。錆びついた音を立てながらそちらを振り向けば、リンクの中からその整った顔を子供のように崩し手を振るヴィクトルの姿があった。無視をするわけにもいかずぎこちなく手をふり返せば、その顔はさらにくしゃりと緩むのだった。
あの大スターが何故私なんかに。いくら思考を巡らせたところで天才の考えること。凡人にはわからないのだと、ナマエは深くため息を吐くしかできなかった。
事の発端は一ヶ月ほど前に遡る。生まれも育ちも長谷津町、大学卒業後は地元のカフェでパティシエ見習いをやっているナマエの生活は、良く言えば平和な、悪く言えば平凡なものだった。しかし彼女自身それに対して文句があるわけではなく、小さな町でゆったりと流れる時間の中、毎日好きなスイーツに囲まれて過ごすということにとても満足していた。
けれどそんな生活が一変したのは、彼女の幼馴染であるフィギュアスケーター、勝生勇利が帰省してからだった。聞いた話なので詳しいことは知らないが、幼い頃から彼の憧れであるロシアのヴィクトル・ニキフォロフ選手が、自身のプログラムを真似て滑った勇利の動画を見て、ロシアから遠路遥々日本は九州長谷津町へやって来たのだという。あげくどんな経緯か、勇利のコーチになるだとか言い出したとか。
一見すればそれとナマエにどういう関係があるのかといった感じではあるが、運命とは数奇なもので。その日久しぶりに帰ってきた幼馴染に新作を食べさせようとたまたまアイスキャッスルはせつへと赴いたナマエを一目見た瞬間、ヴィクトルは驚くことに「運命の人だ」と彼女に愛の告白をしたのだ。
最初はまるで漫画のような展開と、彼の明るいキャラクターも相まって冗談かと思っていたナマエであったが、徐々にそれが本気なのだと思い知らされていく。
店の場所を教えれば、朝の仕込みの時間に合わせてランニングをしながら前を通り手を振る。夜になれば、人も疎らになる閉店一時間前に来て、ナマエの作るスイーツを食べていく。たまの休日にナマエが勇利の元を訪れれば、少しの休憩の合間でも延々と質問を投げかけてくる、エトセトラ…。つい最近ではその熱意に負け連絡先まで教えてしまったのだ。さすがは世界のトップに立つ男、行動も大胆である。
そして今日も今日とて、練習をする勇利へと昼の差し入れに訪れたナマエを送るという名目でカフェまで着いて来た男は、カウンターに座り嬉しそうにブリュレを頬張るのだった。
「仔ウサギちゃんのスイーツは本当に美味しいね」
「あ、ありがとうございます」
「仔ウサギちゃんも、とても美味しそうだ」
「…はは、ま、またそんなこと言って……」
こういった台詞はこの男にとって特別ではないのだとわかっていながらも、この歳になるまで色恋一つなかったナマエにとって胸をときめかせる材料となる。そして何より、常人なら笑い飛ばされてしまいそうなこの台詞も、彼の顔の良さも相まって途端に何処ぞの王子のそれのようになるのだ。
動揺を悟られぬよう視線を手元の食器へ落とすが、流れる水の冷たさとは裏腹に頬は熱を持つばかりである。
「仔ウサギちゃんは、パティシエを目指しているんだよね?」
「え、ええ…まあ、」
「じゃあ、和菓子も作れたりするのかい?」
「和菓子ですか…一応、作れますけど…」
「本当!?それも食べたい!」
子供のようにきらきらと目を輝かせるヴィクトルに、ナマエは思わず言葉を詰まらせてしまう。
「や、その…和菓子はまだ練習中なので…美味しいのを食べたいなら、駅前に老舗の和菓子屋があるので、そこのものを食べた方が…」
「わかってないなあ、仔ウサギちゃんは。俺は仔ウサギちゃんが作ったものが食べたいんだよ」
またこの男は、恥ずかしげもなく。今度こそ赤くなったナマエの顔をばっちり見ていたヴィクトルは、とても嬉しそうに微笑んだ。
その顔を見た途端、かすかな高鳴りとともに心臓が締め付けられる感覚がして、ナマエは思わず眉間にしわを寄せてしまう。きゅっと唇を結び、震える声でこの一ヶ月間思っていたことを口にした。
「…どうして、」
「ん?」
「どうして、私なんかに構うんですか…」
卑下するわけではないが、何故自分なのかがわからない。大した特技があるんけでも、見た目だって特別美しいわけでもない。平凡という言葉が何より似合うナマエにとって、選ぼうと思えばより取り見取りなヴィクトルが自らに構う理由がいくら考えてもわからなかった。
そもそも一目惚れだと言われて、はいそうですかと信じられるほどナマエは純粋ではない。けれど時折向けられる視線や、投げかけられる甘い言葉に、だんだんと惹かれていく自分がいたのも事実で。ナマエの中で、ヴィクトルという存在は既に無視できるほどのものではなくなっていた。だからこそナマエは、彼の好意を受け取れないでいた。もし冗談だったら、日本にいる間の気まぐれだったら。そう考えると、彼の隣を歩くことすら躊躇われてしまうのだ。
それまでの雰囲気が嘘のように重たくなった空間に、ナマエは頭が冷えていくのを感じた。こんなことを言って、自分はどうして欲しいんだ。明確な答えを求めるのは人として当たり前のことかもしれないが、だからと言ってこんな、もっと言い方があっただろう。彼のように冗談っぽく、明るく言う、とか。
「…あ、あの、変なこと言ってすいませ、」
「初めてなんだ」
慌てて訂正をしようと顔を上げたナマエの言葉を遮るように、ヴィクトルの低い声が響いた。
かちゃりとスプーンを置きゆっくりと立ち上がった彼は、自身の手が濡れることも構わず、片付けをするナマエの手を取った。彼女は驚いて身体を強張らせるけれど、その手が離されることなく大きな手に包まれたままだったのは、青い瞳が見たこともない真剣味を帯びていたからだった。
「人を見て、体の奥底から何かが湧き上がってくる感覚に出会えたのは」
「あ、の、」
「リンクの上で感じる高揚感とは違う。もっと、ずっと寄り添っていたくなるような…ひだまりのような温かさを、仔ウサギちゃんを見ていると感じるんだ」
熱のこもった視線に、ナマエは耐え切れず再び俯いてしまう。けれどそれを許さないとでも言いたげに、ヴィクトルはその手で彼女の頬を撫で、上を向かせる。細い指先に耳の辺りをくすぐられ、肩がびくりと跳ねた。
「仔ウサギちゃんを知れば知るほど、胸が苦しくて…でもそれと同時に、とても幸せな気持ちになれる」
徐々に近づくその距離に、ナマエの身体は逃げることを忘れたかのように固まってしまう。白い肌はよく見るとうっすら赤く染まっていて、彼も緊張しているのだとわかった。
「…ナマエ、」
いつも、勇利やユーリと同じようにナマエのことも「仔ウサギちゃん」と呼んでいたヴィクトルが彼女の名を口にしたのは、実はこれが初めてであった。それに気付いたナマエも驚きで目を見開く。聞き慣れたはずの自身の名前が、彼に呼ばれるだけでこうも甘いものへと変貌するのか。
次の言葉を期待している自分がいることに気づき、ナマエは思わず息を呑む。渇いた喉がひゅうと鳴った。
「俺は、君を愛している」
徐々に近づくその距離に、嫌悪感は感じない。むしろ先程ヴィクトルが言ったような、陽だまりのような高揚感がじわじわと身体中を支配していく。
一瞬、あと少しのところで躊躇った薄い唇が、今度はしっかりとナマエの頬へ、音を立てて触れた。
「…聞かせてほしいな、ナマエの気持ち」
わかっているくせに。頬にキスまでしておいて、今さら何を。
憂いを帯びつつもどこか悪戯な色をしている青が、愛おしそうにナマエを見つめる。望まれた言葉を口にすべく、震える唇を彼女はゆっくりと開いた。
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