ガラル地方北東部に位置するキルクスタウンは、元々あまり太陽の当たらない土地柄ということもあり、年間のほとんどは薄い雲に覆われている。夏であろうと気温もそこまで上がることはなく、冬にもなればその寒さはいっそう厳しさを増し。骨までも氷に変えてしまうのではと思えるほどの寒さをもたらす。
この日もその例外ではなかった。昼前には雪こそ止んでいたものの、太陽がその姿を見せることはなく。気温は上がらぬまま、しんしんとした寒さが身を凍らせるようだった。
ナマエはその寒さに鼻を小さくすすりながら、廊下の一番端にあるロッカールームへと急ぎ向かっていた。
こつこつとブーツが床を叩く音が響く。一定の速度で聞こえていたそれだったが、徐々にゆっくりしたものになっていき。やがてぴたりと、引きずるように止まった。
そうして小さく、はあとどこか重たげに息を吐く音を続かせながら、ナマエは項垂れた。
「…どうしようかなあ……」
呟かれた言葉に、当然だが返事をする者はいない。冷えた空気に響く音がいっそう困惑を助長させる気さえして、ナマエは再び頭を抱えた。
──キルクスジムにスタッフとして勤めるナマエは、午前の仕事も終わり、昼休憩の前に上司であるメロンの元へ報告へ行ったところ。突然の休暇を言い渡された。
休暇、といっても午後からの半休ではあるが、あまりに唐突なそれに、ナマエは当然の如く理由を尋ねた。そうして返ってきたのは、「あんた、休まなさ過ぎて休みが溜まってるんだよ」という、身も蓋もないもので。
正直なところ、休むつもりでこの日を過ごしていたわけではないため「せめて別日にして欲しい」と食い下がるも、それすらも「そう言って休まない気だろう」と跳ね除けられてしまい。呆れながら言われた「休むのだって立派な仕事だよ」の言葉に、結局ナマエはそのまま午後休暇を取ることになってしまったのだ。
いっそ、こっそり仕事を持ち帰り家で片付けてしまおうかとも思ったが、それではメロンの言った通りになってしまうし、それにそんなことをしようものなら、何故かメロンにはバレてしまうのだ。いわく、勘らしい。なんとも恐ろしい勘である。そもそもナマエの仕事も、他のスタッフが「むしろやらせてください!」と巻き取ってしまったので、そもそもほとんど残ってはいないのだが。
降って湧いた突然の休み。思わず廊下でひとり「どうしようと」と呟いてしまう程度には仕事人間なナマエは、まるで縋るように窓から空を見上げた。
「ナマエ」
その時、唐突に背後から名前を呼ばれた。首だけ振り返ったナマエは、あ、という言葉と共に急いで身体ごと向きを変え。「お疲れ様です」と頭を軽く下げる。
一歩、二歩。長いその足で距離を詰めあっという間にナマエの目の前へとやって来たその人物は、同じく「お疲れさん」と笑った。
「いらしてたんですね、キバナさん」
「ん。…ちょっと、メロンさんに用があってな」
ナマエが顔を上げ目を合わせれば、その人物──キバナは、にぱっと効果音がつきそうな顔で笑った。キルクスであまり見ることのないその顔は、寒さからだろう、鼻の頭がほんのり赤く染まっていた。
「用、ですか」
「ん」
「メロンさんなら、まだ執務室にいらっしゃると思いますよ。でもお昼なので、大切なお話なら急いだほうが…」
ジムリーダーという立場の仕事は多岐に渡る。特にナックルシティは歴史の古い街だ。そこのジムリーダーであるキバナは、同時に宝物庫の管理も担っており。その仕事は多忙を極めている。
そのため、連絡といえどわざわざ他のタウンに自ら出向くということはあまりなく、大抵は事務員やトレーナーに雑務として任せてしまうのだが。今回キバナがそうしなかったということは、それなりに重要性、かつ機密性の高いことなのだろうか。
わずかに言い淀んだキバナの様子にそう思ったナマエは、先ほどまで自身がいたメロンの執務室の方向へ、ちらりと視線を向ける。
「ああ…大丈夫。もう用は終わってるから」
けれどキバナは、ナマエの言葉にあっけらかんとそう答えた。
終わったということは、ナマエがメロンと話すよりも前に話していたということか。もしくはその後話したか。けれどそれにしては時間が短すぎる気もするが。
不思議には思ったものの、キバナがそう言うならそうなのだろう。ナマエは内心首を傾げながらも、「そうですか?」と返事をした。
「…にしても、相変わらず冬は寒さが厳しいな、ここは」
わずかに訝しむナマエの視線を断ち切るように、キバナはそう言いながら、小さく鼻をすすった。
言葉通り、よく見ればキバナはいつものジムユニフォームの下に、黒いスポーツレギンスのようなものを履いていた。ナマエを含めキルクスのトレーナーたちはあまりそういったものを着用しないため、ハーフパンから覗くいつもの長い足が見えないことに多少の違和感は覚えつつ。パーカーのポケットに手を隠し、その大きな体躯を守るように縮めている姿が、どこか可愛らしくも感じられた。
「慣れてないと、この寒さは身体にこたえますよね」
「寒さって慣れるもんなの?」
「少なくとも私は。…まあ慣れっていうよりは、寒さへの対策が分かってるっていう方が、もしかしたら正しいのかもしれませんけど」
「はは、なるほど」
ナマエは生まれも育ちもここ、キルクスだ。別地方はおろか、別シティやタウンに居住したことはまったくないため、身体はキルクスの寒さにはすっかり慣れてしまっている。そのせいか、逆に夏の暑さと日差しには若干弱弱く。ワイルドエリアでキャンプをする際にも、わざわざ雪が降っているエリアを選ぶほどだ。
とはいえそれも、長年その場に身を置いているがゆえの精神的耐性のようなものなのだろう。強いのではなく慣れただけという、あくまでニュアンスの違いなのだ。
「あとは温泉ですよね。近寄れば、それだけで暖かいですし」
「ああ、確かに。歩いてたら、空気がほんのりあったけぇ場所あったな」
「ええ。キバナさんも、もしこの後時間があれば、ぜひ温泉に入って行ってください。身体も温まりますし…疲れも取れますから」
ナマエのその提案に、キバナは「んー…」と少し考えるような素振りを見せ。そうしてちらりとナマエを見下ろした後、まるでヌメラのように、眦をふにゃりと下げた。
「それもいいけど…ナマエちゃん」
「はい?」
「この後のご予定は?」
疑問符と共に、キバナは小首を傾げた。その仕草とわざとらしく付けられた敬称に、ナマエは思わず「え、」と声を漏らしてしまう。
「よかったら、オレさまとカフェでも行かない?一緒に行きたいところがあるんだよ」
ナマエのそんなあからさまな動揺を気にすることもせず、キバナは続ける。今度ははっきりと、"デート"という単語まで使って。
閉じられていた瞳が、うっすらと開かれる。隙間から覗いた美しいターコイズカラーの奥に、ちり…と炎が揺らめいていて。その炎にナマエが僅かに身体を強張らせた次の瞬間には、褐色の長い指先が、ナマエの手へと触れていた。
「え、あ…っ、」
今日はグローブをしていないらしい。綺麗に切り揃えられた右手の爪先が、ナマエの中指の側面を、先端から根元までゆっくりと辿り上っていく。そうして甲を滑り、今度はその大きな掌すべてで、すっぽりと包み込んでしまう。
「あ、の…、」
「んー?」
「手…、離して、もらえませんか……っ」
「んー…やだ」
「え゙っ、」
「ナマエが返事くれたら、離すかも」
大きな手はさらに動き、親指の腹が、ナマエの掌をすりすりと、返事を催促するかのように撫で始める。そのくすぐったさと妙な色っぽさに肩をびくりと跳ねさせるナマエを、キバナはどこか楽し気に見つめていた。
ナマエがキバナからこうした誘い、いわゆるアプローチを受けるようになったのは、約一年ほど前。──ある秋の日からだった。
その日ナマエは、シュートシティにて月一度行われているジムリーダー会議に、メロンの秘書として同行していた。普段であれば同行者は別の、それこそナマエよりも長く経験を積んだ人物だったのだが、その日の朝に急遽別の仕事が入ってしまったらしく。それならばと、メロンが直々にナマエを指名したのだ。
各地のジムリーダーが一堂に会する場所に、ただのいちスタッフ、しかも普段は雑務をこなすだけの自分が行ってもいいのかと心配するナマエに、メロンは「どうせほとんど近況報告みたいなものだから、気負うことはないさ」ときゃらきゃら笑い。落ち着かぬナマエは手を取られるまま、いざ行かんとばかりに会議へと引っ張り出されることとなった。
結果として、メロンの言葉通り会議とはほとんど名ばかりの、場所が変わればまるでお茶でもしているかのような雰囲気のまま進み。終わりを迎える頃には、あれほどの緊張はどこへやらとばかりに、ナマエの肩からはすっかり力が抜けているほどだった。
そうして会議は無事終わり、さあキルクスへ帰るぞと、アーマーガアタクシーを手配するため席を外していたナマエが、メロンの元へ戻った時のこと。彼女の隣には、背の高い青年──キバナがいたのだ。
ナマエは思わず足を止める。懐かしい、と思うと同時に、記憶の中とはあまりに違う後ろ姿は、まるで知らない人を見ているかのような錯覚さえ覚えさせた。
──現在はこうしていちジムスタッフという立場だが、元々ナマエはポケモントレーナーでもあった。年代でいえば、ちょうど十年前。現チャンピオンのダンデが初めてその座を勝ち取った年に、同じく初めてジムチャレンジに挑んだのだ。
その年は豊作の年とも言われ、かくいうキバナも初めてジムチャレンジに挑み、そして彼とダンデが初めてチャンピオンカップで戦った年でもある。
キバナは覚えていないだろうが、実はその年、ふたりは顔を合わせたことがあった。──ちょうどキバナが、当時からジムリーダーを務めていたメロンの元へ、チャレンジに来たときのこと。キバナとの戦いを終えたメロンが、彼の実力を見込んで提案したのだ。「うちのと一度戦ってやってくれないか」と。
もちろん公式のバトルではない。ただの野良バトル。後にジムリーダーとなるキバナとナマエが戦ったのは、それが最初で最後だった。
当然といえば当然だが、それ以降二人は一切顔を合わせてはいなかった。結局ナマエはその年のチャンピオンカップには進めず。その後はとある事情からトレーナーとしてではなく、時々同僚たちとポケモンバトルをする程度の、いちジムスタッフとなったからだ。
もちろん、ナマエはその後のキバナの活躍を一方的には知っていた。瞬く間にナックルジムのジムリーダーまで上り詰め。むしろテレビしかりSNSしかり、有名人となった男のことを、見ないでいられる日などないというのが正しいのだが。
当然だが、キバナからの連絡なども一切ない。そもそもあの時点でそこまで親密になってないどいないし、彼はこちらのことなど覚えていないだろうことはナマエも分かっていた。数ある戦いの中のひとつ。おそらく彼の記憶の隅も、その塵ですら残らないような、些細なできことだったのだから。
「ああ、ナマエ。ちょうどよかった」
──ぼんやりと脳内に思い出されたあの日を断ち切ったのは、メロンの快活な声だった。はっと意識を取り戻したナマエは、手招くメロンの元へ慌てて駆け寄る。
「お話中にすみません。アーマーガアタクシーの手配ができました。五分程度で来るそうです」
「そうかい、ありがとう。でも悪いね、あんたにちょいと頼みごとがあるんだよ」
「分かりました。なんでしょう?」
「ナックルでこれを買ってきてくれるかい?」
その言葉と共に、メロンはナマエに一枚の紙を手渡した。箇条書きでまとめられたそれにざっと目を通したナマエは、思わず顔を顰める。
並べられた商品の名前は、ここ最近話題になっているスイーツ店で販売されているのものだった。ナマエも一度テレビでも特集が組まれているのを見たことがある。確かにどれも美味しそうではあった。甘い物や可愛い物が好きなメロンには気になるのだろう。
だが、問題はその数だ。綺麗な字で書かれた商品名は、片手の指の数を優に超えている。
「駄目ですよこんなに。買いすぎです」
「いいじゃないか。今しか販売されないものもあるんだよ」
諫めるナマエに、メロンは唇を尖らせる。身内にこういった仕草をし始めたメロンには、何を言っても響かない。長年の付き合いでそれを理解しているナマエは、早々に「…分かりました」と呆れと共に納得の返事をした。
その返答を聞くや否や、メロンは「じゃあこれ、お駄賃ね。残りは好きに使って構わないから」と多すぎるくらいのお金をナマエに握らせる。その多さにナマエが再び「メロンさん…」と諫めようとしたとき、遮るように言葉が続けられる。
「店の場所はキバナが案内してくれるそうだから。あとは一緒に頼んだよ」
「へ…」
なんとも間抜けな返事をするナマエの手を、まるで念を込めるかのようにぎゅっと握り。メロンは足早にその場を去っていった。
「…じゃ、行こうぜ」
最後の発言の意味を聞くことができぬまま置き去りにされ、メロンの姿が無くなった後もその場に立ち尽くしていたナマエに、伺うようにキバナが声をかける。
その声にようやく意識が戻ったナマエは、いつの間にか隣に立っていたキバナを見上げ、勢いよく首を振る。
「いやいや!キバナ様もお忙しいでしょうし!私一人で大丈夫ですから…!」
確かに、土地勘のないナックルシティを案内して貰えるのはありがたい。けれど多忙なジムリーダーに、仕事ならまだしも私用でそんなことをさせるわけにはいかない。なにより有名人と共に出歩くなど、そんなの身が持たないのだ。
振り切れんばかりの勢いで首と手を振り拒否を示すナマエに、キバナは少ししおれたような、そんな顔になる。
「…オレさまじゃ力不足?」
「えっ、いや、決してそんなことは…!」
悲しそうなその顔に、ナマエはぐうと息を詰まらせる。まるでこちらが悪いことをしているかのような気分にさせられるのは、記憶の中の、かつて対峙した彼からは想像もできない、まるで捨てられた子犬のようなものだったからだろうか。
ナマエは、ううんと小さく唸った後。「やっぱり……案内、お願いしてもいいですか……」と絞り出すように言った。
その言葉を聞いた瞬間、キバナはぱあっと顔を明るくさせる。
「じゃ、オレさまのフライゴンで行こうぜ」
「え?アーマーガアタクシーじゃ…」
「こっちの方が早いから。な?」
小首を傾げるそのとき、美しい瞳をわずかに細める仕草だけは、バトルで向かい合ったあの頃となにひとつ変わっていなかった。
──まるで昨日のことのように思い出せるのは、今この状況が、まさしくそのときと似ているからなのだろう。こちらを伺うように見つめるキバナに、これまたあのときと同じく、ナマエはぐうと息を詰まらせる。
何故、あのバトルから何年も経った今、再びキバナがナマエを認識し、あまつさえこうしてアプローチをしてきているのか。ナマエにはまったく分からなかった。
けれどそんなこと聞けるわけもない。だって、「どうして私に構うのか」などと聞くのは、つまり"キバナが自身に好意を持っている"と自覚していると、暗に示しているわけで。
そしてその上で、こうした身体的接触を拒まないということは、これまたつまり、ナマエも少なからずキバナに好意を抱いているということに他ならないわけで。
あの天下のキバナ様に対して、ただの一般人たるナマエにそんなことができるだろうか。いや、できるはずなどなかった。
目の前の人物は、あの日戦った、記憶の中の少年ではない。名実共にスターとなり、そして誰もが振り返るような見目麗しさに、知性、思慮深さ、そして温厚さを兼ね備えた、完璧超人となっているのだから。そんな人から迫られてみろ。めろめろだとかそういう以前に、まず羞恥と困惑でキャパオーバーするのが普通だろう。
そしてキバナの思考の明確な理由が分からない以上、たとえどれだけ彼が好意を示し手を差し伸べてこようとも、ナマエにはどうしても、その手を握り返すことができないのだ。
キバナもまた、ナマエのそんな思考は充分理解していた。同じような状況になれば自分だってそう思うだろう。だからナマエの煮え切らない態度も葛藤も、ある種仕方のないものだと考えていた。
ただ、その上で慌てふためくナマエの反応も、それはそれで見ていて楽しいもので。嫌悪感を抱いておらず、むしろ照れと戸惑いに顔を赤くするその様子は、彼女には悪いが、もっと迫りたいと、そう思わせるなにかがあるのだ。
「あ、」
「?」
「まだ仕事があるっていうのはナシな。午後から休みなこと、ばっちり知ってるから」
「……」
なんで知っているのかというのは、もはや聞かずとも分かっていた。おそらく、というか絶対に、メロンに聞いたのだろう。
そしてそこまで言われてようやく、この流れ自体が、そもそも最初から仕組まれていたのだとナマエは気が付いた。
メロンへの用事というのも嘘ではないのだろうが、おそらくそれは電話ひとつで済んだようなことで。それをわざわざ口で伝えに来たということは、他の目的があったからで。そしてその他の目的こそがナマエだった、ということなのだろう。一応仕事の一つという建前を作り、なおかつそれをしっかり遂行している辺り、実に抜け目ない。
諦念と共に小さく息を吐くと、ナマエはキバナを見上げる。
「…分かりました…お供させていただきます……」
「やった」
了承した瞬間、キバナはぱあっと笑った。その顔が心底嬉しそうで、けれどどこか安堵したようにも見えて。「お供って言い方は気になるけど」と言いながらへにゃりと眦を下げる様子に、ナマエの心臓がきゅうぅと締め付けられた。可愛い、と頭の片隅で思う。
「じゃあすぐ行こうぜ。フライゴンなら五分もあれば行けるし」
「……フライゴン?」
「うん」
「なんでですか?カフェに行くんじゃ…?」
「うん、行くよ。ナックルのカフェに」
「なっくる…」
「うん」
てっきりカフェはキルクスだと思っていたナマエは、ぽかんと間抜けに口を開けてしまう。けれど確かに思い返せば、カフェに行こうとは言っていたが、場所がどことまでは言っていなかった。今いるこの場所がキルクスだからと、勝手にナマエが思い込んでただけだ。
しかし、デートと称し向かう場所がナックルとなるのならば、話しは変わってくる。
ある意味彼の庭ともいえるナックルで、他ジムのスタッフが一緒にカフェにいる、など。どうなるかなんて、子供でも分かる。
再びうんうんと悩みだしたナマエを、キバナはじっと見つめ。やれやれといった様子で小さく息を吐くと、「そんなに悩まないでよ」と呟きながら、繋いだままでいた手をゆるりと持ち上げた。
そうしてそのまま上体を屈めながら自身の口元にナマエの手を持っていくと、手の甲に、ちゅっと唇を落としたのだ。
これにはさすがにナマエも驚いたようで。大きく目を見開き、慌ててキバナの手を振り払おうとする。けれどキバナがそれを許すはずもなく。むしろ逃がさぬとばかりに指が絡められ、がっちりと掴まれてしまった。
顔が熱いどころではない。もはやまともな言葉を発することは叶わず。羞恥からその大きな瞳に薄い涙の膜を張り、ナマエはキバナを見上げる。
キバナはそんなナマエをじっと見つめながら、すう、と楽し気に瞳を細めた。
「帰りはちゃんと家まで送るから」
物腰柔らかく細められた瞳と優しい声は、けれど断りの言葉を受け付けないという、強い意志を感じさせた。
「…オレさまとデートするの、嫌?」
尋ねるときわずかに小首を傾げるの癖なのだろうか。キバナのことだから、ナマエがそれに弱いと分かってやっている可能性もあるし、ただ天然なだけもある。
どちらにしろそれにあっさり揺らいでしまうのだから、もはやどちらであろうと大した差はないのかもしれないが。
「……い、」
「ん?」
「嫌ではない、です…」
「…ふふ」
そしてナマエのそんな悪あがきの葛藤も、結局最後には受け入れることも。キバナには、すべて分かっているのだ。
「今日は寒いし、しっかりオレさまに掴まっててな」
繋いだ手を引かれ、ゆっくりと歩き出す。その長い足をナマエに歩幅を合わせながら、キバナは身を屈め。至極嬉しそうにナマエの顔を覗き込んだ。
美しい瞳をわずかに細める仕草は、やはりあのときと同じだった。
「……メロンさん」
「ん?」
「メロンさんの秘書のあの子…名前は?なんていうの?」
「…はあ?」
ナマエがアーマーガアタクシーを呼びにメロンの元を離れた直後。それを待っていましたとばかりに、キバナはメロンへと話しかけた。
突然のその問いかけに、メロンは「はあ?」と不思議なものを見るように目を丸くしながら、キバナを見上げた。
「なに言ってんだい。あんた、前に会ったことあるだろう」
今度はキバナが目を丸くする番だった。
「…うそ、いつ?」
「ダンデが始めたチャンピオンになった年だから…九年くらい前かね。あんた、あの子とバトルしたじゃないか」
メロンの言葉に、キバナは必死に九年前まで記憶を遡る。いくつもの記憶の糸を、掴んでは離し。離してはまた探しを繰り返し。そうしてようやく掴んだ一本の先に見えたのは、自身と同じ青。けれどもっと深く濃い、紺碧の、強いまなざしだった。──キバナは思わず、あ、と声を漏らす。
「ナマエ…ちゃん……?」
呟かれた名前に、メロンは「思い出したかい?」と言った。どうやら当たっていたらしい。
嘘だろ、とキバナは思った。九年前。──ダンデが初めてチャンピオンとなったその年は、キバナが初めてジムチャレンジに挑んだ年でもあった。
その頃からメロンは既にキルクスでジムリーダーを務めており、多くのトレーナーの面倒を見るベテランで。ナマエはその中のひとりだったのだ。
当時同年代ではほとんど負け知らずだったキバナが、ドラゴンタイプの弱点の氷使いで苦戦を強いられ。そして結果的に勝ったとはいえ、その差はほんのわずかなものだっただけに、そのバトルは、後にキバナが弱点対策を考えるきっかけにもなるような、そんなものだった。
これまで忘れていたことが信じられなくなるくらい、きっかけを与えられたキバナの脳内はあの日のことを一気に思い出し始める。
「そ、っか…ナマエちゃん…ナマエちゃんだったのか……」
そしてキバナが、メロンに聞かされるまでナマエに気付けなかった理由は他にもあった。目の前に現れた女性の姿が、記憶の中の少女の姿と、あまりにもかけ離れていたからだ。
氷のような透き通る肌と、相対する濃く深い紺碧の瞳。背はルリナよりも低いが、それでもすらりと伸びた手足。風になびく髪は綺麗な艶を帯びていた。
確か年齢は同じくらいだと言っていた。だから少女と呼ぶのは少し違うのかもしれないが、それでもキバナの中でナマエという存在は、あのとき雪の中で見た、まだ同じくらいの背丈だった少女の姿で止まったままだったのだ。
それが突然、こうしてすっかり見る者を引き付ける姿となって目の前に現れたとなっては、動揺もするだろう。キバナとて健全な男なのだから。
確認するように何度もナマエの名を呟くキバナの様子に、メロンは一瞬、きょとんとして。「キバナ、あんた…もしかして、」と、わずかに浮かんだ可能性に口を開く。
「あ゙ー…どうしようメロンさん……」
けれどキバナのうめき声が、それを遮った。大きな手が、まるで隠すように顔を覆っているせいでその表情は見えない。「…どうしたんだい」とメロンが尋ねれば、キバナは「ゔぅ…」と小さくこぼす。
「…オレさま…一目惚れしちゃった……」
長い指の隙間から、蚊の鳴くような声が聞こえた。メロンは驚いて目を見開く。そこでようやく気付いたが、わずかに見えていた頬は、茹ったかのように真っ赤に染まっていた。
忘れていたとはいえ一度会ったことのある相手に、"一目惚れ"とはいささかおかしな言い方ではあるが、けれども十年ぶりの再会、しかも互いに見目もすっかり変わったとなれば、その表現はもしかしたら、ある意味では間違っていないのかもしれない。
そんな妙な言い回しをキバナがするなんて珍しいが、それほどまでに動揺しているということだろう。
なるほどと思いつつ。メロンはすう、と目を細める。
「キバナ、あんた…うちのに手出す気かい?」
わずかに低くなった声に、キバナは肩を震え上がらせた。
「そんな怖い顔しないで…」
大きな身体を小動物のように縮ませ怯えているくせに、違いますときっぱり否定はしないところを見ると、どうやら諦める気はさらさらないらしい。狙った獲物は逃がさないという奥底の意思はまさにドラゴンのようだと、メロンは思った。
「…悪いね、怯えさせたいわけじゃないのさ。ただ、あの子は…あたしの姪っ子でね」
メロンの言葉に、キバナの瞳がぎゅるりと丸くなる。
「え…姪っ子さんだったの?」
言われて、キバナは会議そっちのけで盗み見ていたナマエの顔を思い出す。確かに、どことなく雰囲気は似ていたかもしれない。
「妹の子さ。小さい頃から、トレーナーになりたいって言ってたから、早くにあたしが面倒みるようになったんだ。うちの子たちと同じくらい手塩にかけたから…やっぱりその分、可愛くてしょうがないんだよ」
「………」
「だから、まあ…近付く男は少し警戒しちまうんだ。許しておくれ」
もちろんメロンという人物が、ひととして、そして母親として、厳しくも慈悲深い人だというのは知っている。キバナ自身も、幼くしてジムリーダーになったばかりの頃、その温かさに救われたことがあった。
だから彼女の心配も理解できたし、それが身内で、しかも女の子ともなれば、なおさらだということも、キバナはよく分かっていた。
「いや…まあ、メロンさんの心配はもっともだから…オレさまだって、大切にしてる子に突然、一目惚れだとか言って近付いてくる野郎がいたら……まあ、警戒はするだろうし……」
そうして口にしたとき、改めてその怪しさに、キバナは自分自身を一言で表すのなら「やばい奴」になるのだろうと思った。そして少し落ち込んだ。
確かに邪な気持ちはある。けれどそもそも好意があるというのは、形は様々あれど本を正せば邪な感情が付随するというもので。だから見方を変えればキバナの行動は間違いではないはずなのだ。ただキバナ本人が、メロンのとナマエの絆とを聞いたがゆえにそう感じてしまっているというだけで。
今の今まで忘れていたくせに、何を今さらと思われるだろう。実際メロンに聞くまで、ナマエを認識できていなかったのだから。けれど、記憶というものは無くなるものではない。ただ奥底にしまわれてしまっただけなのだ。──あの白い世界のなか、玲瓏とした紺碧。まばゆい光が身の内を焦がし。そうして燻った熱は、決して消え失せるもことなく。気付かぬ心の奥底で、ずっと弱く優しく、燃え続けていた。
キバナの記憶は引き摺り出された。青臭いと笑われるだろうが、もうこの想いを無視することはできなかった。
俯き、難しい顔で黙してしまったキバナの様子に、メロンは「少しやり過ぎたか」と内心反省をする。
そもそも、先ほどは反射的にああ言ってしまったが、別に反対する気などメロンにはさらさらなかった。初対面の人間や浅い付き合いでは誤解されがちではあるが、キバナという男が誠実で温厚だということはメロンもよく知っている。だからこそ、一目惚れだとこぼした言葉が嘘を含んでいないことは分かっていたし、キバナが本気でナマエとの関係を進めたいのであれば、もちろん仲は取り持つつもりだった。
けれど、それはそれとして。先ほども話した通り、娘のように可愛がっているナマエに近付く男に対しては、"親としての審査"のようなフィルターを、やはり介してしまうわけで。ただキバナに関しては、その分厚いフィルターさえも容易に突破してしまえるくらいには、メロンも彼をいちトレーナーとして、そしていち人間として尊敬はしているのだが、それはまだ言わないでおいた。そもそもナマエ本人の気持ちがどうなのか、まだ何も分かりはしないのだから。
「…ちなみに、キバナ。ナマエにはこの後、ナックルへのお使いを頼もうかと思ってるんだけどね」
メロンの言葉に、キバナは項垂れていた首を勢いよく上げた。
「ぜひオレに案内させてください」
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