※夢主→毒の扱いに長けているくのたま6年生
忍術学園には年に二度ほど、すべての授業が昼過ぎに終わるという少し特別な日が存在する。その日は委員会の仕事なども行われず生徒たちも完全に自由の身となるため、息抜きを兼ねて外出をする者も多く。学園内は普段の喧騒が嘘のように静まり返ることが、毎年当たり前となっている。
六年は組所属の善法寺伊作もその例に漏れず。友人である食満留三郎と共に、息抜きを兼ねた外出する予定を立てていた。
けれど結局のところ、その予定が決行されることはなかった。つい前日の委員会で処理しきれなかった書類や、分類し並べたところで置いたままになっていた薬草、作っていた途中で放置していた薬など、息抜きをするにはいささか心残りが多く。散々悩んだ末、伊作は外出を取り止めそれらを片付けることにしたからだ。
少し苦い顔で「たまには休んだ方がいいぞ」と苦言を呈するた留三郎に、伊作は苦笑いしつつ。「でも今日やってしまえば明日以降が楽になるし」「せっかくだから、お土産でも頼むよ」と返しながらその背中を見送ったのが、約二時間前のこと。
ひとりもくもくと作業していたおかげか、窓から吹き込んだ風で書類がばらけたり、水をこぼしたりとの小さな不運には見舞われたものの、書類はまとまり、並べたままだった薬草も作りかけの薬と共に薬棚に収めることができ。八ツ刻を迎えた現在、すべての仕事終えた伊作は、自室でのんびりと休憩を取っていた。
おそらく、同室の留三郎はまだしばらく帰って来ないだろう。窓から差し込む陽の心地よさに、これなら少し昼寝をしてもいいかもしれないと、伊作はゆるりと目を細める。
「伊作、いる?」
そのときだった。障子の向こうから、ふいに名を呼ぶ声がしたのは。
伊作は閉じかけた勢いよく目を開く。今しがた自身の名を呼んだ人物が誰なのかなど、姿を見ずとも彼には分かっていた。──あれは、数週間前、長期忍務へと発っていたナマエのだ。
ばたばたと慌てて立ち上がり、勢いよく障子を開け放つ。
「ナマエ!帰ってきたん、だ……」
嬉々として呼んだその声が徐々に小さくなっていったのは、最後に見た記憶の中の彼女と、現在目の前にいる姿が大きく異なっていたからだった。
「びっ、くりしたあ…そんなに勢いよく開けると、また障子外れるよ。…あ、ただいま」
くつくつと小さく笑う顔の右半分。それと頭に、首元まで。まるですべてを隠すように、真っ白な包帯がぐるりと巻かれているではないか。
物としては見慣れているはずのそれが彼女に巻かれているというあまりに衝撃的なその光景に、伊作の脳内は未だついていくことができておらず。間抜けにも口を開いたまま、ただじっとナマエを見つめることしかできなかった。
そんな伊作の様子に気が付いたのだろう。普段と何ら変わらず笑っていたナマエは、今度は困ったように「うーん…」と視線をさ迷わせ。固まる伊作の手をゆるりと握った。
「とりあえず、話せる範囲で全部話すから…部屋、入ってもいい?」
掴む手にさえ白いそれが巻かれているということに、伊作はこのとき、ようやく気付くことができた。
忍術学園に所属する六年生の忍たま、くのたまたちには、外部への潜入という実地忍務が与えられるようになる。状況にもよるが、その期間は最長で約一ヶ月。それゆえに学園で上級生の姿を見かけなくなれば、それはすなわち実地忍務に就いているということでもある。
ただ実習のほとんどにおいて、それはかなり余裕を持った期間設定で。手際よくこなせる優秀な者であれば、二週間弱で終えられる程度のものでもあった。
そしてつい三週間ほど前から、ナマエはちょうどその忍務へと就いていた。優秀であれば二週間で終わるの言葉通り、忍務それ自体はナマエにとって特に大きな問題もなく終えられるもので。実際彼女がすべてを終え帰路につくまでに経過したのは、たった一週間という短い期間だった。
歴代の記録を大幅に塗り替えたナマエは、内心意気揚々と学園への道を急いでいた。けれどその道中、山中に響いた悲鳴に、彼女は足を止めることとなる。
「そこで、女性が襲われそうになってるの見つけてさ。大きな籠を持ってたし、たぶん山菜取りに来てたんだと思う。咄嗟に助けに入ったんだけど…相手がどうも──、プロの忍者だったみたいでさ」
男の手は既に女性の首元にかかっていた。あの時、ナマエに迷っている暇などはなかった。
咄嗟に二人の間を裂くように飛び込めば、金属同士がぶつかり合う音が響く。それが聞き慣れた苦無の音だということ、その男が忍者だということを、ナマエはそこでようやく認識することができた。
まさか相手が同業者だとは思っておらず。プロとたまご。どう考えても分が悪い戦闘に直面することとなってしまったのだ。
「でもね、最初に女性を逃がして時間稼ぎしたおかげか、なんとか逃げ切れたんだよね。……このときほど、足が早くて良かったと思ったことはないよ」
男はナマエを殺したかっただろう。それどころか女性を襲う寸前だったところを見るに、手酷く扱うことが目的だった可能性さえある。
対してナマエはその場を切り抜けることだけが目的だった。男を殺そうとまでは思っていない。
追う者と、身を隠しひたすら逃げる者。気の配る範囲と行動のわずかな差によって、結果ナマエは男の手を逃れることができたのだ。──ただ、さすがにすべてが円満に解決とはいかなかった。
その戦闘で傷を負ったナマエは、なんとか学園に逃げ帰ったものの、すぐに気を失ってしまい。次に意識を取り戻したときには、校医である新野から全治二週間の言葉を言い渡されてしまったのだ。
逃げるが勝ち。──その言葉の通り、結果だけをみれば無事逃げ切ったナマエの勝利といえなくもない。だがその実全治二週間という大怪我を負ってしまっているのだから、改めればやはり負けということになるのだろう。
そうして療養を終え、一人でも動けるようになり。勘を取り戻すためにも学園内を出歩いていいと言われ、その足で伊作の元へやって来たのだ。
「と、まあ…そんな感じ」
向かい合いって座り、一通りすべてを話し終えたナマエは、喉が渇いたのか伊作が出した茶を一気に呷った。怪我人とは思えぬその勢いに、何故だか伊作の方が気を揉んでしまい。思わず眉間にぐうとしわを寄せる。
「そんな深刻な顔しないでよ。今こうして生きてるんだから、それでいいじゃない」
そんな伊作とは正反対に、ナマエはいつもの調子でからりと笑う。それどころか、まるで普段お茶をしながら世間話でもするときのように、真正面に座る伊作の肩をぽんぽんと軽く叩いている。
プロ忍者と相まみえ、生き延びた。大怪我を負いながらも、こうして歩けるまで回復した。──確かに、結果だけを見れば良かったといえるのかもしれない。
けれど、それでも。伊作にとっては、そんな簡単に終えられることではなかった。
「…よくないよ」
俯いた伊作が小さく呟く。その表情をナマエが伺い見ることはできない。
けれど話の最中、正座をするその足の上でずっと所在なさげにしていた手が、今は白くなるくらい握り締められていることに気付き。ナマエは、「…手、痛くなるよ」と言いながら、その手にそっと自身の手を重ねた。細いその手から感じる、包帯のかさついた肌触りに、伊作の肩がぴくりと跳ねる。
「…どうして医務室に来なかったの」
下級生を心配するような、いつもの優しい声音ではない。怒りや、なにかひどく黒い感情を、必死に抑えているようなものだった。
伊作がこうして怒りを露わにするのを、ナマエは六年間の中でも数えるほどしか見たことがない。同時に、それほどまでに彼を追い詰めていたのだと察することができた。
「…胸の傷が、思ったより深くてね。医務室じゃ間に合わないかもっていうのと、そこにいたら、下級生たちも怖がらせちゃうでしょ。だから新野先生の計らいで、別室で治療して貰ってたの」
ナマエは「ほら、見て」と胸元をはだけさせる。伊作はゆっくりと顔を視線をそちらへ向けた。
普段サラシが巻かれている胸には、今は頭と同じく包帯が巻かれている。傷は右鎖骨のやや下の辺りから胸元を斜めに横断するようにつけられたのか、脇の近くに、わずかにはみ出た傷痕の端が見えた。
周囲の皮膚も未だ引き攣ったように赤くなっている。おそらく右目だけでなく、服に隠された身体の至る所に同じような傷ができているのだろう。
分かってはいたが、その柔肌に刻まれた痛々しい痕に、改めて伊作はぐっと息を詰まらせる。けれど「新野先生のおかげで痕はそこまで残らなさそうだから、とりあえずはよかったよ」と、やはり軽く笑うナマエに、なにも言えなくなってしまった。
「…だからさ、そんな顔しないでよ」
どこか悲し気な色を滲ませながら、ナマエの両手が伊作の頬を包み込んだ。真正面にいたにもかかわらず一度も視線が交わっていなかったのだと、伊作は今になってようやく気が付いた。
伊作は握り締めていた手の力をふっと緩め。代わりに頬に添えられたナマエの両手を、覆うように握り締める。
「…ナマエが強いことは、僕が誰より分かってる」
「うん」
「特に、くのたまは君だけだから、一人で忍務に当たることが多いのも…理解はしてる」
「うん」
「全部仕方のないことで…、君のやったことは、忍者として当然のことだって、分かってるんだ」
「…うん」
「…でも…だけど……、」
そこで再び伊作は言葉を詰まらせた。口を何度も開いたり閉じたり。言いかけては止めてを繰り返しながら、言いようのない想いを、それでも必死に言葉にしようと足掻く。
「……そうやって、平気そうに笑わないで。──なにもなかったって、もう大丈夫だからなんて……ぜんぶひとりで、終わらせようとしないで」
伊作の瞳から涙がこぼれ落ちる。それは頬に添えられたナマエの手を伝い、それを掴む伊作の手をも濡らしていく。
情けないと思いつつも、一度出てしまうと止まらず。むしろ堰を切ったようにぼろぼろと溢れ落ちた雫が、ナマエの寝間着に吸い込まれていった。それを視界の端に見ながらも、今の伊作にそれを気に留める余裕はない。
お願いだから、と震える声が呟く。
「お願いだから、……もっと僕を頼って…」
そうしてようやく出てきた本音は、閑寂とした空間に消えてしまいそうなほど小さなものだった。
伊作、と。ナマエが呟くように名を呼べば、返事の代わりに、握られた手にはまた力が込められる。
──もしかしたら、なにも知らぬまま、ナマエを失っていたかもしれないという恐怖。けれどそれが、身を隠す忍者としてあるべき姿だという葛藤。大したことが無かったと自身を軽んじるナマエへの、わずかな怒り。結果として良い方向へと向かったのだということへの、全身から力を奪うような安堵。すべての感情と想いが綯い交ぜとなって、伊作の心を襲う。
分かっている。こんなのはただの我がままだ。そもそもそれほど重症だったのであれば、いくら優秀といえど、たかがいち生徒である伊作にできることは、なにもなかっただろうから。
それでも。ナマエという存在を愛するひとりの男として、伊作は頼ってほしかった。ただ、それだけなのだ。
「………帰ってくるまでに、出血が凄かったの」
無意識なのだろう。ナマエの言葉に、伊作は逃げるように再び目を伏せてしまう。けれど「聞いて、伊作」という強い言葉に、ゆっくりと視線を直した。
「それでもがむしゃらに走って…それで、辺りが暗くなった頃、闇の奥に忍術学園が見えたとき……私、安心したの。ああちゃんと、伊作のところに帰って来れたんだって。そうしたら、なんだか涙が止まらなくなっちゃって。…見つけてくれた山田先生と土井先生が驚いてた」
そのときを思い出しているのか、ナマエは「あんなに狼狽えてる先生たち見たの初めてだから、悪いけど少し面白かったな」と、くつくつ喉を鳴らしている。
「……本当はすぐ伊作に会いたかった。だけど気を失ってたし、なによりこんな姿見せて心配かけたくなかったんだ。伊作の辛そうな顔を、見たくなかったの」
「……」
「…でも、それがいけなかったね」
細い指先が伊作の目元を撫でる。涙でぼんやりとしていた伊作の視界は、拭われたことでようやくはっきりとしたものになった。
優しく左目を細めるナマエの顔が、伊作の瞳に映る。
「もし伊作に同じことされたら、きっと私もすごく怒ってた。どうして教えてくれないの、どうして私を頼ってくれないの、って」
「……」
「でも怒らないから、伊作は優しいね」
「……本当は怒ってるって言ったら?」
「え、そうなの?」
「いや…怒ってはない、けど」
「ふふ…うん。知ってる」
ナマエはくしゃりと顔をほころばせる。
「…こういうことは、きっとどちらの立場に立っても、結局お互いが同じことで悩むんだと思う。──それが分かってるなら、やっぱりちゃんと伝えなきゃ駄目だって思った。大丈夫だって確証が得られるまでなにも言わないってことは…大丈夫じゃなかったとき、なにも言えずに終わっちゃうってことでもあるんだものね」
ナマエの瞳の奥が、水面のようにゆるりと揺らめく。そのことに気が付いた瞬間、ああ駄目だと、伊作は思った。
鼻の奥がつんと痛み涙が溢れ出す。拭ってもらったはずのそれは、再びナマエの寝間着へと落ちていった。
「……っ無事で良かった、本当に…」
しぼりだすように、一番言いたかった言葉を、伊作はようやく紡ぐことができた。
「…心配かけてごめんね」
「うん」
「もう、ひとりで…伊作のいないところで、全部終わらせようとはしないよ」
「…うん」
「これからはもっと、伊作を頼るようにする。…なにがあっても伊作の元に帰ってくるって、約束するから」
同じように声を震わせながら、ナマエは伊作の首元へと擦り寄る。そうして伊作も、傷付いた細い身体を労わりながら、今できる最大の力で強く抱き締め返した。
久方ぶりに触れた温度は、まるでそれが当たり前かのように馴染んでいき。憂いに支配されていた心は瞬く間に、これ以上ないほどの安堵と愛に満ちていった。
「…あ、そうだ。ねえ伊作」
「ん?」
「私、明日からそっちの医務室に移ることになって」
ナマエの言葉に、伊作はぱっと勢いよく顔を上げた。わずかに距離が離れる。
「…本当?」
「うん。大体の傷は塞がったけど、まだなにかあったときのために一週間は医務室にいてほしいって、新野先生が」
ナマエの肩を掴む伊作の手に、今度は違った意味で力が込められる。
「だからさ…私の面倒、伊作が見てくれる?」
「もちろんっ!」
こてんと小さく首を傾げるナマエに、間髪入れず答える。涙目ながらもぱあっと顔を明るくさせた伊作に、「返事が早いよ」と言いながらも、ナマエも嬉しそうにくつくつと笑う。
「ナマエのことは、全部僕がやるから」
「いや、無理のない範囲でいいよ。授業とか、そもそも他の子が当番とかもあるんだし」
「当番は僕が決めてるから、一週間全部僕にする」
「なにそれ。職権乱用もいいところだね」
委員会の当番の持ち回りは、各委員長それぞれが決めることとなっている。だから、伊作のことだ。おそらく本当にすべての当番を自分にしてしまうのだろう。信頼の厚い伊作であれば、「僕しかできない仕事だから」とでもいえば、後輩たちも納得するだろうから。
ある意味すごい気合だと内心苦笑していると、ぴん、と。ナマエはまるで天啓を得たかのように、あることを閃いた。
「…ねえ、伊作。本当に全部の面倒見てくれる?」
「もちろん」
当たり前だろうと気合を入れる伊作に、これは安堵やそばにいられることへの嬉しさで気付いてないなと、ナマエは内心忍び笑う。
ナマエは小さく手招きをすると、内緒話のように口元に手を添える。伊作もそれに倣い距離を詰め、そっと耳を寄せた。
なんの疑いもなく近付いた耳元で、ナマエは小さく囁く。
「…身体拭くのも、ちゃんと手伝ってね」
吐息にわざとらしく熱をこめる。少しの沈黙のあと、伊作の耳から顔がかああっと赤くなっていった。
耳元を抑えながら、伊作は勢いよくナマエから離れる。けれどそうして照れているわりには、片腕はあいかわらずしっかりとナマエの背に回されたままなのだから、どうやら伊作の心と身体は色々な方向に素直な状態らしい。
「傷を早く治すためにもなるべく清潔にしておいてって言われたの。でも湯浴みはできないから、その分しっかり拭かなくちゃいけなくて」
「あ、う…」
「だからさ…よろしくね?」
赤く染まる顔に、ぱくぱくと動く口。まるで金魚のようだと、堪え切れずナマエはついに「あははっ」と吹き出してしまった。
忍者といえど男女、そして恋仲だ。もはや言葉は選ばないが、伊作とナマエは房事だって何度も行っている。
だというのに、たかが清拭で照れてしまうとは。相変わらず妙なところで初心だとナマエは思う。もっとも、そうなるようにナマエも熱を込め、わざとらしく囁いたのだが。
念を押すようににっこりと微笑んだナマエに、伊作は下唇を噛み締め。そうしてぐうと眉間にしわを寄せると、隠すように両手で顔を覆った。
「…我慢できなくなっちゃう……」
蚊の鳴くような声が指の隙間から聞こえる。
「さすがに人の出入りがあるところでは駄目だよ、保険委員長さん」
「分かってる…から、あんまりそういうこと言わないで…」
少しだけ拗ねたような、色々我慢しているような。そんな声を出す伊作に、ナマエは「ごめんごめん」と言いながら、その胸元にしなだれた。当たり前のように再び背に回された腕が、その身を優しく閉じ込めてくれる。
──あたたかい。ナマエはゆっくりと目を閉じる。
薬草の匂いの奥に、嗅ぎ慣れた、伊作という人間の香り。とくとくと耳元で響く心音。つけた頬から伝わるやわらかな体温。今自分は生きているのだと、そう思えた。
「…ただいま、伊作」
ナマエが呟いた瞬間、腕にはわずかに力が込められ。伊作がゆるりと、ナマエの頭に顔を擦り寄せた。
「おかえり。ナマエ」
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