※夢主→毒の扱いに長けているくのたま6年生
頬を打つやわらかな風の中にわずかな鋭さが含まれ始めた、ある秋の日のことだった。
「おーい、ナマエ」
休日ということもあり心なしかいつもより静かな学園内。私服姿のナマエが外出のために門へと向かっていたところ、後ろから誰かに呼び止められた。
振り返れば、こちらへ来いということだろう。小さく手招く仙蔵と、その横で「おいっ、」とどこか慌てた様子の文次郎の姿があった。
「どうしたの」
「突然すまない。出かけるところだったのか?」
駆け寄ったナマエに、仙蔵が尋ねる。
「うん。まあ特にやることもないから、町に出ようと思って」
「そうか。ちなみに、一人か?」
「うん。そうだけど…」
「同行者は?いない?」
「だからいないって」
いやに強い念押しに、何故そこまで確認するのかと疑問に思いつつ同じ返答をすれば、仙蔵は「それはよかった」と笑う。
「よかったって、なにが」
「ああ。共に行くものがいないのであれば、よければ、文次郎を一緒に連れて行ってやってくれないかと思ってな」
「…文次郎と?」
その予想外の提案に、ナマエは一瞬、きょとんと瞬きをした。
「ああ。駄目か?」
「いや、別に構わないけど…どうして?」
数少ない同級生のひとりだ。もちろん出かけること自体が嫌なわけはない。ただ、あまりに突然の提案だったことにくわえ、その口振りからするに提案者の仙蔵は同行しないつもりなのだろうことに、少し驚いたのだ。なにより名前を出された文次郎は、隣でなにか言いたげに口籠っているのだから。
ナマエの当然の疑問に、仙蔵は「いや、なに」と、わざとらしく眉を八の字する。
「ナマエも知っての通り、こいつの女装はひどい」
「おい!」
「まあ、そうね」
「お前らな…」
「ああ。だが、今度の忍務でまた女装することになってしまったようでな」
「あら、それはそれは…」
「化粧うんぬんについては私が教えるのだが…それとは別に、装身具をいくつか、ナマエに見繕ってほしくてな」
仙蔵の言葉と同時に、ナマエの脳内には文次郎の女装姿が浮かぶ。──確かに文次郎の女装は、化粧の問題もだが、その装身具にも問題があった。
選ぶものがなんとも無骨。おそらくよくて二番目、だいたいは三番目にようやく選ばれるであろうデザインのものが多いのだ。
もちろんそういったものを好む女性もいるだろうが、選ばれぬものをあえて選ぶ女性は少しばかり目立つ。目立つとはつまり、忍者としてはもっとも避けるべきことで。
ゆえに仙蔵が言いたいことは、無難で、人の目を引きすぎず。けれど文次郎、もとい文子ちゃんを引き立てるものを見繕ってやれ、と。そういうことだろう。
ようやく合点がいったナマエは、それも面白そうだと「いいよ」と口角を上げた。
「よかったな、文次郎」
「………」
横目で文次郎を見る仙蔵につられ、ナマエも文次郎を見上げる。瞬間、交わった視線に、何故だかナマエの心臓がびくりと跳ねた。
先ほどまでの戸惑っていた様子から察するに、また勝手を言う仙蔵に眉間のしわを寄せているのかと思っていた。いや、確かにしわはあるのだが、その下の瞳は、なにやら複雑そうな色を含んでいて。これまで見たことがないその様に、ナマエは思わず視線を逸らしてしまう。
「…ほら、文次郎。さっさと準備してこい。制服のまま行くつもりか?」
わずかに漂った空気を察したのかどうかは分からないが、仙蔵はそう言いながら、文次郎の背中を強く叩いた。完全に油断していたからか、文次郎が小さくうめき声を上げる。
文次郎は一瞬文句を言うように口をぱくぱくとさせながらも、仙蔵の「制服」という単語にはっと気が付き。勢いよく自身の身体と、ナマエを交互に見た。
「大丈夫。ここで待ってるから」
ナマエが小さく微笑みながら言えば、文次郎は再び難しい顔をして。くるりと背を向けると、「…すぐ戻る!」と急いで長屋の方へと駆けて行った。
「…ところでナマエ。悪いんだが、私にもこれを買ってきてもらってもいいか?」
その背中を見送り姿が見えなくなると、仙蔵はナマエに、半分に折り畳んだ一枚の紙を差し出した。受け取り、ナマエはそれを開き見る。
「椿油、簪、おしろい、紅…これも任務で使うの?」
箇条書きで書かれたそれらは、見慣れた小間物たちだった。話の流れからするに、これも文次郎の女装で使うものだろうか。
「まあそんな感じだ。…お代は後で払うから」
「分かった。簪の飾りに好みはある?」
「いいや、特にない。お前に任せる」
「責任重大ね…承知しました」
ナマエは紙を再び折り畳むと、落ちぬよう懐にしまう。そのとき、ちょうど角を曲がった文次郎が、こちらに駆けて来るのが見えた。
「ま、待たせてすまない…っ、」
ものすごい勢いでやって来た文次郎は、二人の前で急ブレーキをかけ止まる。体力のある彼にしては珍しく、膝に手を突きながら肩で息をしていた。
「本当だ。遅いぞ」
「いや充分早いから。…そんなに慌てなくてもよかったのに。髪だってこんな乱れてるし」
それを心配することなく言い放つ仙蔵を嗜めつつ。ナマエは息を切らせる文次郎に手を伸ばし、乱れた横髪を整えてやる。
突如耳元に触れた細い指先に、文次郎は息を詰まらせた。
「…ん、これで大丈夫」
けれどそんな文次郎に気が付くことなく。ナマエは綺麗に整った髪に満足すると、「じゃあ行こうか」と門へと歩き始めた。
「………」
「…なにを呆けているんだ。早く行かないか、馬鹿たれ」
「い゙っ…!」
それほどまでの勢いはどこへやら。すっかり固まってしまった文次郎の胸元を、仙蔵は、ばしんっと大きな音を立てて叩いた。
ナマエに、同期と呼ばれるくのたまはいない。元々忍術学園は学年が上がるにつれ脱落者が出てくるのが常なのだが、ナマエの代は特にそれが顕著で。最上級生である六年に上がる前には、くのたまは既にナマエひとりを残すのみとなってしまっていた。
そのためナマエは、誰かと買い物へ出かけるといった経験があまりなく。元々のんびり過ごすのが好きな性格も相まってか、たまに町へ繰り出す際にもひとりでというのがほとんどだった。
とはいえそれは、あくまで必要に駆られたからであって。くのたまといえど、ナマエもまだ世間的に見れば齢十五、年頃の女の子。やはり誰かと和気あいあいと、「これ可愛いね」などと言い合いながら過ごすのも、もちろん嫌いではないのだ。たとえそれが、同期の女装用品のためだとしても。
二人は町につくと、仙蔵に頼まれたものを買い回りつつも、道中休憩で団子を食べたり、頼まれたもの以外の店を覗いてみたり。あてもなく、あちらこちらとふらついていた。そうした意味もない動きを文次郎は嫌うとナマエは思っていたのだが、意外にも彼は文句ひとつ言わず。それどころか話しかける度どこか楽しそうにしていたのだから、なんだか拍子抜けしたような気分にさえなったのを覚えている。もちろん良い意味でだが。
つまり、用事を済ませて帰るだけになると思っていたこの買い物は、ナマエの予想に反しとても充実した時間となったということだ。
そうしているうちに日はあっという間に傾き。名残惜しいがそろそろ帰らなければいけない時刻を迎えていた。
「じゃあ、最後に簪買いに行こうか。仙蔵にも頼まれてるし」
ナマエは懐から紙を取り出し、項目と購入したものと上から順に照らし合わせていく。椿油、おしろい、紅…。やはり残すは簪だけだった。
ナマエの言葉に、文次郎は一瞬眉尻をぴくりと動かす。
「…行きたい店はあるのか」
「えっとね…この先に、簪が可愛いものが多いって評判の店があって。店自体が大きいらしいから、二人に合うものも見つかると思う」
「分かった」
小さく返事をすると、文次郎すぐに店の方向へと歩き始めた。ナマエは紙をしまいながら、慌ててその後を追う。
この辺りで一番大きいというその店は、装身具を含めた日用品を多く取り扱っており、中でも簪はその精巧な細工が美しいと評判で。以前くのたまの後輩にその話を聞いて以来、いずれ訪れてみようと考えていたところでもあった。ここであればきっと良いものが見つかるだろう。
白色のれんをくぐり店内へと入る。この辺りで一番という言葉は本当のようで。思わず目移りしてしまいそうなほど多くの装身具が並べられていた。
「仙ぞ…仙子のものを見繕ったら、文子のものも探そうね」
「……ああ」
「二人にはどれが似合うかなあ」
とりあえず友人への贈り物を探す、といった体で並べられた簪を手に取りながら、ナマエは文次郎と仙蔵、二人の女装を思い出していた。
当たり前だが、"女装"という点のみにおいては、ナマエは彼らより経験値がない。それどころかこれからも稼ぐことはないだろう。なにせ元々女なのだから。
ただ、女としての所作や在り方、例えば今流行りのものだとか、状況に応じてどんなものを身に着けるのかといった、大まかに括った価値観のようなものは教えることができる。仙蔵がナマエに小物の選定を頼んだのも、そういった理由からだろう。
例えばこの簪ひとつだってそうだ。身に着けるのが町娘なのか、それとも豪商の娘なのかでも変わってくる。前者なら装飾の少ない素朴なものを。後者であれば細工の凝ったものを。そこからさらに日常使いのものなのか、それともなにか特別なときなのか…といった具合に。理由と状況で様々枝分かれしていく。装身具はとても奥が深いのだ。
ただ、やはりそこは忍者。一番重要なのは、いざというとき武器になるように、頑丈で扱いやすいものの方がいい、という点だ。ナマエは実経験からそれを嫌というほど理解していた。
さて、とナマエは改めて簪たちを見やる。今回二人に選ぼうと思っているのは、"町娘が日常で使うような、当たり障りのないもの"といった感じだ。
「…文次郎、どう思う?」
振り向き、後ろをついてきているであろう文次郎に話しかける。けれど予想に反し文次郎はナマエから少し離れたところで、顎に手を当てなにやら考え込むような堅い表情で、色とりどりの簪たちを見下ろしていた。おおよそ華やかなそれらを見ているとは思えない顔付きだ。
声をかけた瞬間、文次郎ははっとしたように慌てて顔を上げる。
「…え、あ、なにがだ?」
「もう。なにがじゃなくて。ちゃんと見なきゃ駄目でしょ」
「すまない…」
珍しく弱気な声で謝罪する文次郎を「別に怒ってないから。ほら、こっち来て」と呼び寄せると、ナマエは手に取った小さな瑪瑙が美しい簪と彼を合わせ見る。
本当は耳元に載せたいところだが、さすがに今の文次郎にはまずい、というより怪しいだろう。ナマエはそれぞれを脳内で合わせ見ながら、なんとかそれらしいものを見繕っていく。
そうして散々、とはいえ楽しみながら悩んだ末に購入したのは、銀に二藍の小さな蝶が付いた飾り簪と、先端に花鳥と瑪瑙の小花の玉飾りが付いた、金の玉簪だった。もちろん蝶のものは仙蔵へ。玉簪は文次郎へだ。
「じゃあ帰ろうか」
「…ああ」
思っていたより似合いそうなものを見繕えたことに満足げな様子で、ナマエと文次郎は店を後にした。
空はすっかり日が傾いている。けれど昼間と同じく澄んだ様子はそのままで。赤や橙の中に広がるいわし雲が、光を受け高く高く泳いでいくようだった。
べっこう飴を思わせる鈍く美しい光を背に受けながら、二人は学園までの道を歩く。文次郎は口数が少ない男ではない。話題を振ればそれなりの量を返してくるし、普段の食満とのやり取りを見ていれば、むしろ無口とは程遠いとさえ思える語彙を持っている。──はずなのだが。
「………文次郎さ、もしかして結構疲れてる?」
「…なんでだ」
「いや、妙に口数が少ない…というか静かだから」
今日の彼は珍しく疲労がたまっているのか、もしくは病気か。極論ではあるがそう思える程度には、その口は閉ざされたままだった。それどころかむしろ、真一文字に結ばれてさえいる状態だ。そしてそれは二人が小間物屋に入った辺りからのことで。それまでどこか楽しそうにしていたのが信じられない雰囲気だった。
いつもはうるさいのに、とまでは言わず。「文次郎が静かだとなんか変な感じ」とナマエがくつくつ笑うと、隣を歩いていた文次郎が、ふとその足を止めた。少し遅れて、半歩前でナマエも同じように歩みを止める。
「…文次郎?」
斜陽を背に佇む文次郎がどんな顔をしているのか、ナマエが知ることはできない。けれどまた難しい顔、どうすればいいのか悩んでいるような、そんな顔をしているのだろうというのは、なんとなくだがナマエにも気配で感じ取ることができた。これも六年という長年の付き合いのおかげだろう。
「どうしたの?…もしかして、本当に体調悪い?」
文次郎に限ってそんなことはないと分かりつつ。ここでそれを揶揄うように指摘してしまうと、文次郎の性格上強がって隠そうとするだろう。
ただそれは逆にいえば、真摯に尋ねれば素直に甘えてくれることでもある。だからナマエは少し焦るような気持ちで、文次郎の顔を伺うように下から覗き込んだ。
そのときだった。文次郎の手が、ナマエの左耳へと触れたのは。
きゅるりと動かした瞳の隅で、なにかが光を受け小さく輝いている。耳に感じる、慣れたわずかな重み。──それが簪だということを、ナマエの脳内はすぐに理解できた。
「え…、」
物としての理解はできた。けれど"それ"が何故自身の耳元にあるのか。その状況については、ナマエはなに一つ理解できていなかった。
文次郎と仙蔵と用に購入したものではない。それは現在ナマエが持っているはずだからだ。ならばこれは文次郎自身が持っていたもの、ということになるのだろう。何故それを今、ナマエの耳元へ挿しているのか。
驚きと困惑で目を丸くしながら、ナマエは文次郎を見上げる。瞬間、視線がばちりと交わった。──きゅうと細められた、少し形の違う左右の瞳。やわく下がる眉尻、反対にゆるく上がる口角。そうしてその先の頬が赤く染まっていることに、ナマエは近付いてようやく気付くことができた。ナマエは心臓に、なにか得体のしれないものが直撃したような感覚を覚える。
──六年、六年だ。同級生として出会い、徐々に減っていく同期くのたまたちに反比例して、残った忍たまたちとは共に活動することが増えていった。ナマエと彼ら六人は、今となっては家族愛も友愛も、すべてを超えた仲といっても過言ではない。
強い絆で結ばれ過ごした、その六年。知らぬことはないのではと自負できていた世界の中で、ナマエが文郎のそんな表情を見るを見るのは、これが初めてだった。
突然渡された簪。初めて見る文次郎の表情。途端に早鐘を打ち始める心臓に、いやに熱を帯び始めた耳元。ナマエの脳内は瞬く間に混乱の渦に巻き込まれていく。
それでもナマエは文次郎から目を離すことができなかった。いや、もしかすれば、そうしようと思わなかったの方が正しいのかもしれない。
そうして呆然と固まるナマエの耳元で、文次郎の大きな手がかすかに動く。かさついた親指が、すり…とこめかみの辺りを撫でるその感触に、ナマエはびくりと大げさに肩を跳ねさせた。その様子に、文次郎は慌てて手を離す。
「あ…、」
離れていく指先をナマエの視線が追う。同時に漏れた声は、まるでそれを惜しむかのような色を含んでいた。
それに文次郎も気が付いたのだろう。少し迷ったような素振りを見せたものの、すぐに離したその手をくるりと返し。今度は揃えた指の背で、先ほどよりもずっと、壊れ物を扱うかのようなやわさでナマエの頬へと触れた。
「…綺麗だ。すごく」
春の野に吹く風の、全身を撫でる暖かさのような、陽だまりに身を預けたときの心地良さのような、なにか真綿に包まれたような。──心の底からそう思っているのだと分かる。そんな声音だった。
瞬間、紅をさしたかのようにナマエの頬が、首が。一気に染まっていく。
「どっ、どうしたの文次郎…!」
「なにがだ」
「あんたそんなこと言う人じゃなかったでしょ…!」
「おい、また口が悪くなってるぞ」
慌てると口が悪くなるのはナマエの昔からの悪い癖だ。まるで先生のような窘めに「うるさいっ」と苦し紛れに返しながら、赤くなった顔を隠すように俯く。
その時、落ちそうになった簪を咄嗟に抑えれば、頭上で文次郎が嬉しそうに息を漏らしたのが分かり。ナマエはまた頬を赤くしてしまう。
「…これ、あの店で買ったの?」
「ああ」
「いつの間に…」
「お前が選んでる間に見ていた。気付かなかったのか?」
「…文子と仙子のもの選ぶのに夢中になってた」
「は、お前もまだまだだな」
「うるさ…」
今そういう雰囲気じゃなかったでしょこの馬鹿。口内で若干の悪態をつきながらも、いつもの雰囲気にナマエの心臓はわずかな落ち着きを取り戻していく。つくづく甘い雰囲気は似合わない男だ。
ナマエは耳に載せているだけだった簪を手に取りる。──全体は光沢のない、つや消しされた金に近い色。そこに白い小さな椿の花と、それを際立たせるように二枚、同じ金の葉が付いている。華美なものをあまり好まないナマエが普段でも使えるような、そんなデザインのものだった。
あの文次郎が、ナマエのためにこれを選んだ。そうして、綺麗だと。まるで持ち得るすべての愛をつめこんだかのように呟いた。ナマエはそれだけが、ただひたすらに嬉しかった。
ナマエは簪をぎゅうと握り締める。もちろん壊さないよう加減して。
「…文次郎」
絞り出すように名前を呼べば、「なんだ」と落ち着いた声が返ってくる。ナマエは握り締めていた簪を「ん、」と、文次郎の目の前に差し出した。
渡したはずの簪が差し出されたことに、いらないと突き返されたと思ったのだろう。文次郎はきゅる、と目を丸くした後、「…いらないのか」と低く呟く。
「違う、そうじゃなくて…とりあえず持って」
そう言ってナマエは文次郎の手を取り簪を握らせると、くるりと後ろを向き。そのまま髪紐を解いた。
「やって」
「は?」
「その簪使って、文次郎が結んで」
ナマエは髪とうなじの間に手を差し入れ、くい、とわずかに持ち上げる。今日は珍しく、普段学園でしているように高い位置で結んだままにしていたせいで、少し結び跡が残ってしまっているが、そこまで難しくはないはずだ。
ナマエの申し出、もといおねだりのようなものに、文次郎は少し困惑を浮かべる。
「…こんな長い髪なんて、上手くできないぞ」
「練習よ、練習。綺麗に結べるようになれば、色々使えるでしょ」
男のとき、女のとき。どちらの房術でも、髪を丁寧に扱えるに越したことはない。髪を丁寧に扱ってくれる男に女は心を許すし、多少強面だろうと髪の綺麗な女装であれば、男の目も引くはずだ。
ナマエの言わんとしていることを察したのだろう。文次郎は少し不安そうな表情をしながらも、分かったと、やわくナマエの髪を持ち上げた。
髪を一つに束ね、右回りに数回捻じる。毛束の中に簪を上から挿し込み、そのまま左手を持ち上げ、その下に簪の先端を通す。それを軸にしながら、右手で簪を上へとひっくり返し、頭皮をなぞるように右下に挿し込む。──上手くできないと言っていたわりには滑らかなその手付きに、やはり器用な男だと、やわく髪を引かれながらナマエはぼんやりと思った。
「…できたぞ」
途中何度か止まりながらも一応まとめられた髪に、文次郎ははふうと小さく息をつく。
「ん。ありがとう」
「…そんなに上手くできてないぞ」
「いいの」
頭を動かそうと崩れる様子はない。これなら女装時も問題はないだろう。
あらわになったうなじを、夕刻で少し冷えた風が撫でる。それにわずかに身震いしながら、ナマエは首をわずかに動かし。自身の肩越しに、ちらりと後ろの文次郎を見上げた。
「…綺麗?」
こてんと小首を傾げながら、ナマエはそう尋ねた。
意趣返しなどではない。その仕草と表情になんの裏も含まれていないということは、よほどのひねくれ者でない限り分かるだろう。つまりはその仕草は、文次郎の心臓を簡単にわし掴みにしてしまうような、そんなものだった。
文次郎はぐっ…と息を詰まらせる。ほんのりと赤く染まった頬がナマエから見えていないことを、このときばかりはありがたいと思った。それでも情けない顔を隠したくて。ぱんっと軽く叩くように片手で覆う。
「も、ちろんだ…」
「え、なんでそんな苦しそうなの」
色の忍務ならいざ知らず。なにも狙っていないがゆえの行動なだけに、ナマエはそんな文次郎の様子に気付くこともなく。「変な文次郎」と小さく笑ってさえいる。その仕草にもまた、背後の男が懊悩しているとも知らずに。
今にも叫び出し、すべてを振り切るため山中を走りたい気持ちと、目の前の存在をとにかくこの腕で抱きしめたいという欲。相反する想いが、文次郎の脳内を駆け巡る。
「文次郎」
「……なんだ」
「椿の花、すごく素敵。ありがとう。…大切にするね」
まるで小さな蕾が開くかのように、ナマエはふにゃりとはにかんだ。ゆるりと上がるそのやわらかな頬が赤く染まっていることに文次郎は気が付く。同時に、それがやはり夕焼けのせいではないということにも。
「…帰ろっか、文次郎」
言いながら、ナマエは文次郎の服の袖を軽く引っ張った。文次郎は少し驚いたような顔をしながらも、控えめなその手を取り。大きな手で優しく包み込んだ。
長く伸びた影がぴたりと寄り添う。互いの手から伝わる熱がじんわりと二人を温めてくれる。
頬を撫でる風の冷たさが、今ばかりはひどく心地よかった。
「さすがナマエ。いいセンスをしているな」
その日の夜。文次郎から受け取った簪をろうそくの灯りに見つめながら、仙蔵は満足げに微笑んだ。どうやらナマエが選んだ二藍の小さな蝶は、彼のお気に召すものだったらしい。
「それで?どうだったんだ」
それを丁寧に箱にしまうと、仙蔵は小首を傾げながら文次郎に尋ねる。
一見心配しているようにも聞こえる言葉がその実好奇心を携えていることは、もちろん文次郎も気付いていた。とはいえ今日のことは、仙蔵の手助けがあってこそ成し得たものであることは事実だ。なにがあったかを話さないというのは、恩を仇で返すことになるだろう。
それでもやはり拭えぬ気恥ずかしさに、文次郎はわずかに視線を逸らしつつ。こほんと息をひとつ整える。
「まあ、その…なんだ。お前のおかげで、無事ナマエに簪を渡せたよ。ありがとう」
──あのとき、門へ向かうナマエの姿を見かけた仙蔵が「誰かと待ち合わせでもしているのかもな」とぽつりとこぼしたことが、今回の件そもそものきっかけだった。
例えばそれが「あそこにナマエがいるぞ」といった程度のことであったならば、おそらく文次郎もそこまで反応を示さなかっただろう。けれどその中に、"誰かと"、という言葉が含まれてしまっていたために、文次郎は大げさなほど反応を示し。視線を左右に泳がせたと思えば、次の瞬間にはすっかり肩を落としてしまったのだ。
その様子は見慣れたものではあった。なにせ文次郎のナマエへの片思いは既に四年になる。同期六年生たちの中では周知のことであり、知らぬのは当人であるナマエだけという状態なのだから。
そんなあからさまな反応を示すくらいならば、いっそどこへ行くのか直接尋ねればいいだろう。落ち込む文次郎を横目に、仙蔵は心中ため息をついた。
とはいえ長年の同室という仲。彼とて決して、文次郎の恋路を応援したくないわけではないのだ。大切な二人が共になればそれはとても嬉しいことだし、そうなればいいと心底思っているのもまた事実なのだ。
だから仙蔵は、今回ばかりは少し背中を押してやるかとナマエを呼び止めた。そうして、先ほど自身がした失言を訂正するために再三同行者有無の確認を取り。女装忍務のためなどというもっともらしい理由もつけて、あの提案をしたというわけだ。
そんな仙蔵の考えを文次郎がようやく汲み取れたのは、休憩のために入った茶屋で、ナマエが注文ついでに店員の女性と世間話をしていたときだった。──門へ向かうナマエの背中を呆然と眺めていた文次郎の胸元を、仙蔵が大きな音を立てて叩いた瞬間。そこには一枚の紙が忍ばされていた。青天の霹靂で固まっていた文次郎は、情けないことにその瞬間は紙の存在に気付くことができず。こうして一度落ち着いたタイミングでようやく認識することができたのだ。
──ナマエにお使いを頼んだ。そこで簪でも買って、贈ってやれ──。おそらくナマエが渡されたリストを確認している間に書いたのだろう。あの場で咄嗟に書いたとは思えぬ流麗な字に、なにからなにまでお膳立てされたことを不甲斐なく思いつつも、同時にそこまで気にかけてくれているのだということに有難さを感じ。背中を押された文次郎は、無事ナマエに簪を贈れたというわけだ。
照れくさそうに感謝の意を述べる文次郎に、仙蔵はどこか嬉しそうに小さく頷きながら、「それで?」とさらに問いかける。
「…それで、とはなんだ」
「まだ続きがあるんだろう?」
仙蔵の言葉に、文次郎はきょとんと小首を傾げる。
「続きなんてないぞ。そのまま長屋の前まで送って、終わりだ」
むしろそれ以外に何があるのか、といった様子で太い眉を寄せた文次郎に、仙蔵は「信じられんな」と、心底呆れたようにため息をつく。
「…なにが信じられんのだ」
「考えてみろ。お前はナマエに簪を贈った」
「そうだな」
「そしてナマエもそれを受け取った」
「ああ」
「ならば、どうしてそこで口吸いのひとつもしてこないんだ」
男が簪を贈り、女はそれを受け取った。──自身がお膳立てしたとはいえ結果としてそうなったのであれば、それの意味するところなど決まり切っている。文次郎はおそらく知らないのだろうが、少なくともその意を、くのたまであるナマエは知っているはずなのだ。
だからたぶん、ナマエはほんのわずかではあるが、その先を考えていただろう。それこそ、今しがた仙蔵が言ったような行為を。
仙蔵の言葉に、文次郎は一瞬の間を置き。そうしてようやく思考が追い付いてきたのか、一気に顔から首まで真っ赤に染めていった。
「分かったら、さっさとナマエのところに行って来い。この馬鹿たれ」
仙蔵はやれやれといった様子で、文次郎の背中を強く叩くのだった。
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