※夢主→毒の扱いに長けているくのたま6年生
ナマエは首をもたげる。見えるのは、切り取られたようにまるい青空。円窓のごとく美しい正円は、この場を作り出した綾部喜八郎の腕前が素晴らしいことを示していた。
うす暗い空間では、空の青が一際眩しく感じられる。ナマエはぎゅうと瞳を細めると、けれど苦虫を噛みつぶしたように顔を顰めた。
あまりに美しいそれは、美しすぎるがゆえに見事に土で隠されていた。おかげで踏むそのときまで、そこに存在していることなど微塵も気付けず。ナマエはその中へと落ちてしまったのである。
だから「空が綺麗だ」などという感想を抱くのだけは避けたかった。よく分からないが、どうにも情けない気がしたからだ。
「…あとで仙蔵に文句言ってやる」
掘った張本人ではなくその先輩である仙蔵に言うのもお門違いということは分かっているが、綾部は仙蔵に大層懐いている。むしろ彼の言うことならばきちんと聞くだろうという、他者から見ても確信のようなものさえある。
だからその後輩の手綱くらいしっかり握っていろという考えも、そこまで外れたものではないはずだ。そもそもこうして実害が出ているのだから、それくらいは許されてしかるべきだとも思う。
とはいえあの仙蔵のことだ。仮にも忍者の卵であるのなら、そもそも落とし穴に落ちるなと言うかもしれない。もちろんそんなことは言われずともナマエだって理解しているし、そもそも踏み抜いた瞬間、身を翻せる程度の瞬発力は確かにある。ただ今回は状況が悪かった。そう、あの歩く不運、善法寺伊作が共にいたのだ。
毒の調合を得意とするナマエは、時々伊作の薬調合を手伝うことがある。今日もその作業を終え、共に医務室へと完成した薬を運んでいたところだったからだ。
ちなみにその伊作はといえば、幸か不幸か、それとも普段片落ち慣れているがゆえの動きなのか。落ちる最中受け身の姿勢を取れ。くわえて、薬草を入れていた背負籠がクッションとなり、擦り傷と手首の打撲程度で済んだのだ。
ただ、ナマエの方はそうはいかなかった。今回彼女は伊作の不運発動を懸念し、完成した薬のほとんどをひとりで運んでいた。その数は多くないとはいえ、両手がふさがるには十分な量で。落ちる最中ナマエは咄嗟に薬を守りながら、それでもなんとか受け身を取ろうとしたものの、着地に失敗。右足首を盛大に捻ってしまった。
伊作は手首の打撲程度とはいえ、ナマエを抱え二人分の体重で上に上がることは難しい。だからまず伊作がひとり脱出、誰かに助けを求めに行き、ナマエはそれを穴の中で待つ──。という、様々な要因が重なったがゆえ、現在の状況となったのだった。
落ちたことは不運だが、それでも二人揃って負傷せず助けを呼べに行けたこと。なにより、一番重要で大切な薬がひとつも駄目にならなかったということは、不幸中の幸いといえるだろう。とはいえそれも、落とし穴がなければそもそも起き得なかった、ということには目をつむった上での話ではあるが。
ナマエは痛む足を庇いながら、壁を背に足を伸ばし座り込む。──体感でだいたい十分程度経っただろうか。今回の調合は、摘んでから時間が経ちすぎるとしおれて使いものにならなくなってしまう薬草を使用していたこともあり、採取後すぐに取り掛かれるよう、学園内でも採取場所の裏山に近い所にある離れの一室借りて行っていた。
そのため周囲には教室棟もなく、昼間でも人影はほとんどない。落とし穴もその近くだったため、助けを呼ぶだけにしては少し遅い気もするが、場所的にそれも仕方ないことだった。こうなるとこれも、伊作の不運に組み込まれているのかもしれない。
ナマエはわずかばかり遠くなった空を再び見上げ。「出たらすぐ湯浴みだな」と泥だらけの身体から、ふと力を抜いた。そのとき、ひとつの影がまるい青空を遮る。
「おーい、ナマエ。大丈夫かー?」
逆光でわずかに見えづらかったその姿は、聞き慣れた少し特徴的な声ですぐに誰なのか判断ができた。
「留三郎…」
やはり一番最初に頼ったのは同室の親友だったらしい。呟くように発した名前に、留三郎はにっと笑った。
「伊作に巻き込まれたって?とんだ貰い不運だったな」
「…普段の留三郎ほどじゃないよ」
「それもそうか」
留三郎は苦笑混じりに「すぐ助けるからな」と言い。縄を一本、穴の中へと下ろしてきた。掴まれということだろう。
ナマエは蜘蛛の糸よろしくそれに掴まると、ゆっくり立ち上がる。その瞬間わずかに右足に痛みが走り。俯き、わずかに顔を歪めてしまう。
立ち上がったことでナマエ本人もようやく認識できたところではあったが、どうやら思っていたよりも盛大に捻っていたらしい。意識した途端、鈍い痛みは熱と共にじくじくと主張を始める。
「足、痛むのか?…俺が下りて抱えた方がいいなら、そうするぞ」
頭上から聞こえた心配そうな声に、ナマエは慌てて顔を上げる。
「いやいや平気!ちょっと捻っただけだし、これくらいなら自分で上がれるから!」
正直なところ、しっかり立てるかどうかすら危うい。けれどさすがにこの狭い穴の中に留三郎が下りてきては、距離もぐっと近くなってしまう。なにより抱えられてなど、その方が気恥ずかしさでおかしくなる可能性がある。
ナマエは勢いよく首と手を左右に振り留三郎の申し出を断ると、誤魔化すように再び縄を掴み。痛みを無視し足を壁に掛けた。力を入れようとしたその時、突然「待て」と制止の声がかかった。
「え、ごめん重かった?」
「いや違う。それはない」
「はは、それならよかった」
「………」
「…留三郎?」
「…手、一旦離せるか」
「え、あ、うん」
促すようにゆらりと縄が揺らされ、ナマエは戸惑いながらも手を離す。縄を引き上げるためか留三郎の姿は一度穴の向こうに消え、すぐに引っ張られた縄がするすると戻っていく。再び助けのない空間が広がった。
わずかにではあるが、手を離せと言われる直前、留三郎の口がきゅっと横一文字に結ばれていた気がする。なにか気に障ることを言ってしまったのだろうかと、ナマエはまるで置いて行かれた子供のような不安を抱いた顔で、縄と共に穴の向こうへ消えた留三郎を待った。
「悪い。ちょっと避けといてくれるか」
再び見えた留三郎の顔は、いつもの様子に戻っていた。ナマエは、うんと小さく返事をし壁にもたれ、言われた通り足を退かす。するとすぐに空いたスペースへ、留三郎が身軽に飛び降りてきた。
狭い穴はやはり想像していた通り、その距離拳二つ分といった程度だった。顔を上げれば、すぐ近くに留三郎の顔が見え。突如として近付いた距離に、ナマエはほとんど無意識のうちに身体を強張らせる。
そうして動揺するナマエに気付いているのかいないのか。留三郎は無言のまま身を屈めると、あろうことかそのまま、ナマエを軽々と持ち上げたのだ。
「は、…っ!?」
膝裏に感じる逞しい腕と、背中から肩にかけて添えられた大きな手。なにより視界には、先ほどよりもずっと近い留三郎の横顔。──横抱きにされているのだと、ナマエはそこでようやく気付くことができた。
「なっ、え、え…!?」
ナマエは驚き、咄嗟に離れようと身じろぐも、不安定な状態ではそれが叶うはずもなく。むしろ留三郎の腕はそれを咎めるように押さえつけ。身体はさらに密着してしまう。
「な、なに、なんで…っ留三郎!」
「首に手回せよ。落ちるぞ」
ナマエの必死の訴えも聞く耳持たず。留三郎は再度ナマエの身体を抱え直すと、そのまま一切の躊躇なく、地面を蹴り上げ跳躍した。
ふわりと浮き上がる感覚に、ナマエは咄嗟に留三郎の首へと腕を回す。人ひとり抱えているとは思えぬほど軽く飛び上がった二人の身体は、あっという間に地上へと辿り着き。約数十分ぶりの明るさに、ナマエは思わず瞳を細めた。
「足、痛まなかったか?」
「…大丈夫」
身体を持ち上げられたというのに、飛び上がるその瞬間までほとんど浮遊感を感じなかったのは、不安定にならぬよう、大きな両腕がしっかり支えてくれたからなのだろう。こちらは仕掛けられた側とはいえ、突然のことに狼狽していたというのに。そういうところまで気が回る留三郎に、動揺している自身が馬鹿のように思え。ナマエは妙な悔しささえ覚えていた。
口をきゅっと横一文字に結ぶナマエに、留三郎は「なんだその顔」と笑うと、「じゃあ行くぞ」と、なにを思ったのかそのまますたすたと歩き始めた。当然の如くナマエは再び声を上げる。
「えっ、どこ行くの…!?」
「医務室。伊作が先に自分の手当して、お前のこと待ってるって言ってた」
言われてナマエはようやく、伊作の姿がないことに気が付いた。確かに怪我をした伊作がここにいても仕方がないし、そもそも怪我のせいで余所へ助けを呼びに行ったのだから、それも当たり前と言えば当たり前だ。なにより伊作だってナマエより軽いとはいえ怪我をしているのだ。早く治療するに越したことはない。
とはいえ良くも悪くも自分より他人を優先すタイプの伊作が、後を留三郎に任せたというのは驚きだった。おそらく留三郎も相当説得したのだろう。「すまない留三郎」の常套句と共に眉を八の字する顔が、ナマエの脳裏に浮かぶ。
留三郎は説明をしながら相変わらず歩みを進めている。浮かんだ伊作の顔をすぐさま振り払い、ナマエは慌てて「とにかく下ろして…!」と訴える。
というのも、現在地は学園でも山近くの外れの方。医務室はその真逆である教室棟近くにあり、最短で行くには道中高確率で人目がある場所を通ることになる。そのためこうして抱き上げられたままとなれば、誰に見られるかも分からない。
仮に、見られたのがくのたまの後輩たちならば、女子間だけの話で済むかもしれない。けれど忍たま五年の竹谷八左ヱ門に会おうものなら、確実にその日のうちに学園中に知れ渡るだろう。そうすれば忍たまの同級生たちにからかわれることは確実だ。それはただ年頃の男女がどうこうというものではない。彼らはナマエが長年、他でもない目の前の男に思慕の念を抱いていることを知っているからだ。
あとはただ単純に、間近にある整った顔と伝わってくる体温に、ナマエの心臓が持ちそうにないからなのだが。
けれどやはり留三郎は聞く耳持たず。ナマエはよく知っていた。留三郎は頑固だ。ここまで訴えても聞かない辺り、これ以上なに言おうと意味がないことを。
「っ留三郎…!せめて背負って…!」
ならばとばかりに別の訴えをする。もはや懇願に近いそれを叫びながらすれば、必死さが伝わったのか、留三郎はようやく歩みを止めてくれた。
「断る」
「…は?」
断る?この男は今、断ると言ったのか?
ようやく通じたと思った三度目の訴えは、やはりばっさりと切り捨てられてしまう。
「え、や、なんで…!?」
「こっちの方が顔見えるだろ」
予想外の言葉に、ナマエは今度こそ言葉を詰まらせてしまった。目を丸くし、信じられないものを見るような目で留三郎をただ凝視する。
理解が追い付かず呆然とするナマエに、留三郎はにっと笑う。それはナマエのよく知る、悪戯が成功した子供のような、少し意地の悪い顔だった。
「あと、こっちの方が抱きしめてる感あっていいしな」
困惑で言葉を紡ぐことができなくなった唇の代わりに、ナマエの表情は雄弁で。留三郎の言葉に、かき乱された心情を表すように真っ赤に染まっていく。
「…というか、だな」
呟き、ぴたりと歩みを止めた留三郎は、上がる眦をわずかに細め。強いまなざしをナマエへと向けた。
逃げるなと言っているその瞳に、首に回していたナマエの腕がぎくりと強張る。
「と、留さ…っ、」
「…怪我したお前には悪いけど、俺はこの状況が生まれて、心底良かったと思ってる」
獲物を逃がさないといっているような、そんな瞳。まさしく狙われた獲物のナマエは、本能的な恐怖からかほとんど無意識のうちに、離れろという意を込めて留三郎の後ろ襟をわずかに引いた。
けれどそれを振り払うように、留三郎はさらにナマエに顔を近付ける。明らかな意図を持って詰められたその距離に、今度こそナマエの全身が強張る。
「な、んで…」
唇を、声を震わせながら、ナマエは絞り出し尋ねる。留三郎は少し迷ったように一瞬視線を逸らした後、伏せた睫毛をゆるりと上げ。「…だって、」と小さく吐き出す。
「こうでもしなきゃ、お前に近付く口実も、触れる口実も作れないだろ」
潤み、ひどく熱の込められた瞳だった。
瞬間ナマエは心臓に矢が刺さったような衝撃を受けた。そうしてなにか、言い知れぬ感情が全身にこみ上げてくる。手足の先がわずかに痺れ、うわずったように何度も声を飲み込んでしまう。
それでもナマエは、今度こそ言葉にしなければと思った。これまで始終泰然としていた留三郎の声が、そのときわずかに震えていることに気が付いたからだ。
「…べ、つに、口実なんてなくても……、」
そこまで言いかけたところで、わずかに息を呑む音が聞こえた。
「…なくても……なんだよ」
隠しきれぬ期待を含んだ声音に、自身がなにを言おうとしたのか、今さらな自覚をしてしまい。ナマエはそこで再び言葉を詰まらせ。逃げるように視線を逸らしてしまう。
「なあ、ナマエ…教えてくれ」
俯く顔を追って、留三郎は身を寄せる。肩を支える手に力が込められ、ついに額がこつんと触れ合った。前髪が間でくしゃりと乱れる。
「………留なら、さ、触ってもいいって、言ったら…、どうす、」
どうする、と。訊くはずだった言葉は、最後まで言うことは叶わなかった。
ふっくらと淡く色付く花唇と、わずかに乾燥した薄唇が重なる。ふたつは時折ゆるりと擦り合わせるように蠢きながら、離れ、けれど再び付いてを繰り返し。そうしてようやく離れる頃には、二人共すっかり息を乱していた。
「………足、治療したらよお…」
ぽつりと呟かれた言葉に、ナマエは必死に呼吸を整えながら、「な、なに…」と返す。留三郎は一度、深く息を吸い込むと、それを細く吐き出すように続けた。
「……部屋まで送ってく」
ナマエは瞳を数度瞬かせる。囁かれた言葉の意味が分かったのは、少し経ってからだった。
「…す、」
「す?」
「すけべ…留三郎の助平……」
苦し紛れに吐き出した言葉に、今度は留三郎が動揺する番だった。ぎくりと眉間にしわを寄せなにかを耐えるようにぐっと下唇を噛むと、隠しきれぬ羞恥を滲ませた声で、「うるせっ」と吐き出した。
「……部屋」
「…おう」
「…朝、慌てて出てきたから、ちょっと汚いけど……それでも、いいなら…、」
来てもいいよと続けた言葉に、留三郎の喉がごくりと、小さく鳴る音が聞こえた。
しかしその後、幸い誰にも見つかることなく医務室へと辿り着いた二人であったが、揃って赤い顔で訪れたために、熱でもあるのかと伊作にあらぬ心配をさせてしまい。
その結果、「手当てしなきゃ!」と慌てて立ち上がった伊作が転がっていた包帯を踏み、留三郎だけでなく抱えられていたナマエも巻き込み盛大に転んでしまい。揃って保健委員会の下級生たちに手当をしてもらうこととなり。結局ナマエの部屋に行くという約束は果たされなかった。
──けれどその日の夜。疲労感から早めに床に就いたナマエの元に留三郎が忍び訪れ。「…やっぱり助平じゃん」「うるせえよ」などと言い合いながら朝まで二人、誰にも知られず過ごすことになるのだった。
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