壁にかけられた時計を見れば、時刻はちょうど八時。早めの夕飯も終え、少し休憩といって佐久早が寝転んでから三十分経っていた。
つい先日出したばかりのコタツに潜り込み目を閉じる佐久早の肩を揺さぶり、もはや定型となった言葉をかける。
「臣くん、そろそろ起きないとお風呂先に入っちゃうぞ〜」
大学卒業後も変わらずバレーの道を進む佐久早と、専門学校へ進学した後スポーツ管理栄養士となったナマエが同棲を始めたのは、お互いの環境に対する理解と慣れが生まれた頃だった。
一緒に暮らそうと声をかけたのは意外にも佐久早の方からで。高校在学中からお付き合いをしていたとはいえ、当初はあの潔癖症の佐久早が他人と生活できるのかと至極最もな心配をしていたが、意外にも大きな問題はなく、それなりに幸せな同棲生活を送れていた。
「んん…うるせぇ…」
「お風呂入らないとベッドで寝たくないっていつも怒ってるでしょ。ほら起きて」
とはいえ、いままで別々に暮らしていた二人が一緒になるというのは、愛情だけで乗り切れるものではない。そのため同棲を始めるにあたり、あらかじめいくつかの約束事を取り決めていた。
その中の一つが『寝る前には必ず風呂に入る』というもので。ほとんど潔癖である佐久早のための約束のようにも思えるが、実の所、お風呂に入らなかったことで不機嫌になる佐久早の相手をしなくて済むという点では、ナマエのためでもある約束なのだ。
「今日は新しい温泉のもと買ってきたから気持ちいいよー」
やや乱暴に揺さぶったことで眉間にシワを寄せながらもようやく起き上がった佐久早に、洗濯したばかりの寝巻きとバスタオルを手渡す。合わせて、買い物袋からヒノキの香りと書かれた入浴剤も取り出した。
「バラエティパックのだから毎日ランダムね。今日はにごり湯でヒノキの香りです。はい」
「………」
寝起きも基本不機嫌なことが多いのだが、それでも「ん、」と低い声で返事はしてくれる。というか、喧嘩してても絶対返事するというのも約束のひとつなのだが、今日はどういうわけか入浴セットすら受け取らず、黙ってナマエを見つめたままである。
「臣くーん?ちゃんと起きてお風呂入らないと危ないよ」
クセ毛に寝癖も相まっていつも以上にぼさぼさの前髪を退けてやり、伏せられた黒い瞳と目を合わせる。瞬間、その手を勢いよく掴まれた。
どさっと落ちるバスタオルと入浴剤。しまった新しいの出さないと、なんて一瞬視線をそちらに向けるが、「おい」という低い声に再び視線を戻した。
「え、ど、どうしたの?」
「お前も入るぞ」
「…え!?」
突然の発言に驚き動揺するナマエに構うことなく、落ちた物もそのままに風呂場へと向かう佐久早に、あの発言は本気なのだと一瞬で理解してしまう。
同棲して約三年。当たり前といってしまうのは少し問題があるかもしれないが、恋人がやることは全てそれなりにしているわけで。とはいえそれらにも『お風呂に入った後』といった暗黙の了解が、あったわけで。
だから、つまり、ようするに。明るい所で肌を晒したこともなく、合宿でさえ人と入るのを嫌がった佐久早が他人と一緒に入るなんて言い出したことが、この世の終わりとも思えるぐらい驚くべきことなのだ。
こんなの、従兄である及川がバレーを辞めた、なんて方がまだ信じられるかもしれない。彼に限ってそんなことは確実にないのだけれど、ものの例えとして、だ。
「ちょっ、待って、お、臣くん!いきなりどうしたの…!?」
若い二人が住む部屋なんてそんなに広いものでもない。あっという間に脱衣所に到着すると、佐久早は躊躇することなくナマエの服の裾に手を掛ける。
「ほら、バンザイ」
「えっ、本当に入るの!?」
「当たり前でしょ」
「だって、い、嫌じゃないの…?」
ナマエの言葉に、それまで強引だった手がようやく止まる。佐久早自身、ナマエの疑問も戸惑いも当たり前のものだということは分かっていたし、それがこれまでの自分の行いによるものだということはしっかりと自覚していた。とはいえ、嫌じゃないのかとはっきり聞かれてしまうと少しばかり気まずさは覚えるというもので。
ばつの悪さを誤魔化すように小さく舌打ちをすると、ナマエの戸惑いが増したのが分かる。ただ、この舌打ちは苛立ちから生まれたものではなく、困ると出てしまう癖だと理解しているからか、答えを求めるナマエの視線の強さも同時に増してしまったようだが。
「あの、臣くん…?」
「俺ら一緒に暮らして何年経った?」
「へ?あ、えっと…三年?ぐらいかな…」
「その間になにした」
「え、なにって、え…?」
「キスもセックスもしてんだろ」
「はっ!?え、あっ、そ、そうです、けど…」
「そん中で唾液まみれだったこともあるし、俺のちんこ舐めたお前とキスもしたし、潮吹いたお前の舐めたことだってあるだろ」
「な、えっ!?ちょっ、まっ、待っていきなりなに言ってるの…!?」
先程まで考えていたこと以上の、正直ほとんど覚えていないようなことまで言われてしまい。戸惑いはすっかり吹っ飛び、今度は身体の底からとてつもない羞恥心が湧き上がってくる。
風呂に入る前だというのに真っ赤に茹で上がるナマエを落ち着かせるためか、それとも自分が落ち着くためなのか。佐久早は薄茶の大きな瞳から今にも溢れそうな涙を拭うってやると「だから、」と小さく呟く。
「そこまでしておいて、今さら嫌なわけねえだろ。むしろいつ一緒に入ってやろうかってずっと思ってたわ」
「ふぇ…」
分かったらもうさっさと腕上げろ。これ以上の追究を許さない声色に、後はもうその言葉に素直に従う他なかった。
言われるがまま脱力した腕持ち上げれば、あれよあれよという間に脱がされていく。楽だからと借りていた佐久早のパーカーに、この時ばかりは少しだけ感謝した。恥ずかしさを感じる前に剥かれて無くなってしまうのだから。
まあでも、今日のお風呂はにごり湯だから、明るくても大丈夫かな…あれ、そういえば入浴剤、どうしたっけ。
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