「空まで飛べて、こんな綺麗な景色まで見せてくれるなんて。もしかしたら、ライムは魔法使いなのかもね」

 冗談のように笑いながら。けれどそのどこかに、夢を抱く子供のような純粋さを滲ませながら。ナマエはそう言って、美しいその瞳をきゅっと細めた。
 ──忘れない。忘れるわけがない。この日、空と海が混ざり合うその瞳を見た瞬間。ライムの身体には、小さな雷が落ちたのだ。



 新しい仲間だと言って頭のシャンクスが連れてきたその女は、夜船の甲板を照らすランプとわずかな月明かりの下でも分かるほどに、全身を真っ赤な色に染め。自身を上から下から、品定めするよう眺める男たちに怖気付く様子もなく。青い瞳を物珍しそうに、あちらこちらへと動かしていた。
 なんて豪胆な女だろう。身長も体格も、自分より何倍もある男たちに囲まれながらこんな平常心でいられる女をライムは知らなかった。大抵は怯えるし、そうでなければ媚びたように擦り寄り色を喰らうかのどちらかだったからだ。
 わずかな苛立ちと、呆れと、諦め。すべてを綯い交ぜにしたように大きく溜め息を吐いたベックマンが、「お嬢さん。名前は?」と低い声で尋ねる。けれどやはり女は怯えた様子もなく。「ナマエっていいます」と澄んだ声で答えた。
 聞けばその女──ナマエは、路地裏で襲ってきた暴漢五人を殺したところをシャンクスに勧誘されたらしい。何故そんな場面にと思わないでもないが、海賊を相手にした娼館が多い島ということもあるのだろう。大体のいきさつは想像に難くなかった。
 この男所帯に女一人、という心配ももちろんありはしたが、頭の連れてきた女、しかも一人で野郎五人を相手にした女に手を出すなど、そんな馬鹿は少なくともこの船にはおらず。意外にもナマエという存在はそれほど時を置かずして船に馴染んでいくこととなった。
 おそらくそこには彼女元来の物怖じしない性格に加え、船員内でも一際若かったということもあるのだろう。歳の離れたナマエはそれこそ妹のように、時には厳しく、時にはこれでもかというほど可愛がられ。これまでそういった、家族のような扱われ方をされてなかったと、ナマエも嬉しそうにそれを受け入れていたのだ。

「ナマエ、知ってるか?ライムジュースは空飛べるんだぞ」

 そんな、ナマエが船に乗ってから数ヶ月ほど経った、よく晴れたある日のこと。洗った包帯を甲板で干していたホンゴウは、その手伝いをしていたナマエに突然そう言った。
 海域は現在、春島の付近。心地よい気候に昼寝をしていたところを、「数が多いから暇なら手伝ってくれ」と叩き起こされ。半ば強制的に手伝わされていたライムは、突然自身のことを話し出したホンゴウに訝しげな目を向ける。

「いきなり何の話してんだお前は…」
「ナマエ、この前からベックに稽古つけてもらってるだろ?」
「あー…そういやそうだな」
「だけどここ最近、敵さんもぱったり来てないもんだから、実戦での自分なりのやり方を模索するためにも、大幹部全員の戦い方を知りたいんだと」

 乗船までの経緯は色々あれど、結局のところナマエも少し手が出やすいだけの一般人だ。そこらへんのチンピラならともかく、戦闘経験のある海賊が相手となっては、自分のためにもやはりきちんと戦えるようにならなければいけないわけで。そのためここ一ヶ月ほど、ナマエは副船長であるベックマンに稽古をつけてもらっていたのだ。
 ちなみに何故ベックマンが教育係に選ばれたのかというと、理論的に教えることに一番長けているから、らしい。次点でスネイク、ヤソップと続くのだが、女の扱いという点で頭一つ出ているとのこと。それは戦闘に関係あるのか?という考えが全員の頭には浮かんだが、教えるのが上手いという点についてはその通りなので結局全員それに同意することとなったのだ。
 そうしてつい先日、「中々様になってきたぞ」「頭も良いらしい。飲み込みが早くて助かる」とベックマンは宴の席で楽しそうに話していた。口振りからしてあとは実戦で生かせるかどうか、そういうところだろう。いくら頭に叩き込もうとも、やはり本番で動けなければ意味がないのだから。
 けれどそんなベックマンの願いをよそに、ここ一ヶ月は驚くほど穏やかな日常が続いていた。それこそあまりの暇さに、「俺たちって海賊だったよな…」と頭であるシャンクスがこぼしてしまう程度には。
 ゆえに赤髪海賊団、そしてその要である"大幹部らの戦い方"というものを、ナマエが知る機会ももちろんなく。それなら直接聞いてみるのがいいのでは、という結論に至ったのだろう。ホンゴウの口振りからしてライムはその一人目といったところのようだった。

「ライム、それ本当?」
「…まあ、本当だけど」
「技の一つ?どうやって飛ぶの?私でもできるようになる?」
「いっぺんに喋んな」
「だって、私も飛べるようになりたくて」
「スカイウォークっつって…あー……まあ、鍛えりゃできる」
「なにそれ。適当だなあ」

 まだ半分信じられていない様子で次々質問をするナマエに、最後の包帯を干し終え空になったカゴを畳みながら、ホンゴウは「あ、そうだ」と思いついたように言った。

「ライム、ナマエ連れて飛んでやれよ」
「あ゙?…なんでだよ」
「いいから。…ナマエも空飛んでみたいだろ?」

 抜けた歯を見せながら、にっと口角を上げたホンゴウにつられるように、ナマエは期待に満ちた目でライムを見上げる。そのあまりにまっすぐな目は、初対面で頭から血を被っていた女と同一人物だとは思えないほど綺麗なものだった。
 海のように美しい瞳に見つめられ、ライムは息を詰まらせる。ぐっと口を下唇を一瞬噛み締めた後、ため息と共に「分かったよ…」と吐き出した。

「じゃあ、俺医務室戻るから。怪我したらすぐ来いよ」

 タイミングがいいのかそうでないのか。提案した張本人であるホンゴウはそう言い残すと、さっさと船内へと戻ってしまった。その背中を二人で見送り、ライムはゆっくりとナマエに向き合う。
 思えば、こうしてナマエと二人きりになるのは初めてかもしれない。ホンゴウとライムは元々年齢も近かったため自然と共に行動することが多かったのだが、そこに最近同じ理由でナマエが加わるようになっていた。「いざって時に治療できる奴が一人でも多く欲しい」というホンゴウの言葉があったことも理由の一つではあるが。
 元々面倒見の良いホンゴウと、人懐っこいナマエ。二人はすぐに意気投合したが、ライムはナマエと仲が良いかと聞かれると、一も二もなく同意できるというわけではなかった。理由はよく分からない。ただなんとなく、ホンゴウとナマエの関係性と、自分とナマエの関係性は違っている。少なくともライムにとってはそうだった。
 そしてそんなライムの考えに、おそらくホンゴウは気付いているのだろう。だからこそ「もっと仲良くなれれば」なんて気遣いの元、あんな提案をしてきたのだ。もちろんナマエにライムの戦い方を見せるのも理由であったが、大部分はこっちだろう。
 余計なことを、と思いつつ。ライムは仕方ないとばかりに頭をかくと、トレードマークの黒い帽子を脱ぎ捨て。そのまま乱暴にナマエへと被せた。当然だがサイズは合わず、目の少し上辺りまですっぽり隠れてしまっている。

「え、なに?なんで帽子?」
「被っとけ」
「なんで?」
「…一応、安全のためだ。無いよりマシだろ」
「安全……え!落とすの!?」
「落とさねェよ!一応だっつってんだろ!」

 帽子をずらしながら慌てた様子で見上げてくるナマエに、ライムは「いいから被っとけ!」と、ずれた帽子を後頭部を守るように直してやった。ナマエも「乱暴!」と言いながらも素直にされるがままである。
 さて、とライムは考える。一応了承はしたものの、どうしたものか。以前ウタを抱えて飛んだことはあったが、それでも片腕で抱えられる年齢と大きさの頃の話だ。今のナマエは当然だが立派に大人で。地上ならまだしも、飛ぶとなっては同じように片腕で抱えるのは危ないだろう。
 となれば方法は一つしかないわけで。覚悟を決めたライムはひとつ息を吐くと、目線を合わせるように身を屈め。腕をナマエの背中と膝裏にそれぞれ回すと、そのまま勢いよく持ち上げた。

「わ、っ!」

 突然ふわりと浮き上がった身体に、驚いたナマエは咄嗟にライムの赤いシャツへとしがみ付く。ぎゅうっ、としわが寄り、破れんばかりの状態だ。

「…そうじゃなくて、首に腕回せ」
「こう?」
「ん。…あと、体重もかけていいから。ちゃんと身体くっつけろ」

 腕を首に回すよう促せば、ナマエは戸惑いながらも両腕をライムの首に回した。
 身体も体重もすべて委ねられたことで抱えやすくなった分、開いていた距離は当然縮まり。二人の身体は隙間もなく密着してしまう。柔い胸が互いの間で潰れ、ライムの胸板に押し付けられる。よく晴れた甲板にいたせいだろう。まろい肌からはほんのりと汗の匂いもしていた。
 ナマエの身体の柔らかさを、不可抗力とはいえ生々しく感じてしまい。ライムの心臓は分かりやすいほどの反応を示す。ばくばくと脈打つ情けない心臓に、童貞かよと情けなく思いつつ。頬の内側を噛み締め、脳内で「平常心…」と小さく唱える。小さくかぶりを振り煩悩を振り払いながら、思っていたよりもずっと軽い身体を強く抱き締め。ライムは宙を蹴り上げた。
 宙に浮く、ましてや生身で空を飛ぶなどというのは、能力者か、ライムのように月歩を使える者でもない限り中々体験できることではない。案の定、恐怖からかナマエは咄嗟に目を閉じてしまう。首に回した腕に力を込め、逃げるようにライムの首元に顔をうずめた。風に靡いた髪がライムの首元をくすぐる。

「…おい、ンな目閉じてたら見えねぇぞ」

 最近少し伸びてきた襟足を乱すほど必死に縋りつく、なんとも健気な姿にまた少しくらりとなりながらも、ライムはナマエに声をかける。このままでは飛んでいる間中ずっとこの状態になりそうだったからだ。

「だ、だって…!え、ど、どれくらい飛んでる!?もう高い!?」
「知らね。自分で確かめろ」

 ほら、と言葉を強め、未知への恐怖に強く閉じられていた瞳を開くように促す。そうしておそるおそる開かれたそれがすべてを捕らえたとき、美しい青はその輝きを一層強いものにした。
 わぁ、と漏らした声はほとんど無意識だったのだろう。瞳と共にわずかに開かれた唇からは、感嘆のため息が漏れている。

「すごい……あんなに遠くまで、海と空が広がってる」

 先ほどまでの恐怖心なんてどこへやら。楽しそうに水平線の向こうを見つめる横顔はすっかりいつものもので。その様子に、ライムの心臓もようやく落ち着きを取り戻し始める。

「…海と空なんざ、毎日嫌ってほど見てんだろ。そんなに感動するもんか?」

 ライムの言葉に、「そうかもしれないけどさぁ…」とナマエは呟き。首に回した腕を解きゆるりと伸ばすと、「見て」と小さく彼方を指差した。

「太陽の光で、海と空が、ずっと向こうの方で混ざり合うみたいになってるでしょ」

 細い指先が、水平線をなぞる。

「ライムにここまで連れて来てもらわなきゃ、見られなかった景色だよ」

 青い瞳を眩しそうに細め。小さく、噛み締めるように呟きながら、ナマエはライムをまっすぐ見つめる。

「空まで飛べて、こんな綺麗な景色まで見せてくれるなんて。もしかしたら、ライムは魔法使いなのかもね」

 なんてね、と。冗談のように笑いながら。けれどどこかに夢を抱く子供のような純粋さを滲ませながら。ナマエはそう言って、美しい青をきゅうっ、と細めた。
 好きだ、と。ライムは当たり前のように思った。

「…魔法使いって、馬鹿じゃねぇの」

 その言葉はナマエか、それとも自分自身に向けたものだったのかはよく分からない。けれど今にして思えば、あまりにすんなり受け入れられたその想いは、気付かないだけでライムの心のどこかに存在していたのだろう。そう思えるくらい、好きだという気持ちはあまりに自然に。まるでかちりとピースがはまるかのように、ライムの心の一部となったのだから。
 ──海のように深く青く。けれど空のようにどこまで広く澄み渡り。水平線の彼方で混ざり合う二つが、ナマエの瞳の中で揺らめいている。
 空へと飛び、水平線で混ざり合う青を共に見つめなければ、決して知り得なかっただろう。彼女の瞳には、海賊である自分たちが愛した海だけでなく。それを包み飲み込む空の青さも。この世のすべてが詰まっているのだということが。
 美しいだとか、綺麗だとか。月並みな言葉で褒めることすらはばかられ。ライムはその光景に、ただ目を奪われるしかできなかった。

「……あっ!」

 ナマエの大きな声が響く。耳元で叫ばれ、わずかに別世界へ旅をしていたライムの意識は現実へと引き戻された。

「っいきなり大声出すな!危ねェだろ!」
「ライム大変っ!包帯が飛んでる!」
「あ゙ァ!?」

 あっち!とナマエが指差した先には、白く細長いものがひらひらと舞っている。おそらく止めが甘かったのだろう。先ほどの風で飛んでしまったようだ。
 邪魔された、と一瞬でも思った自分に驚きつつ。ライムは「取り行かなきゃ!」と慌てるナマエに「分かってる」と返事をすると、方向を変えるため、勢いよく空を蹴り上げた。
 ライム、と名を呼ぶ楽し気な声と、返事をする、少しぶっきらぼうな声。ふたつの声が、どこまでも続く澄んだ青に響いていた。





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