白み始めた空に照らされた石畳を、ナマエはブーツの音を小さく鳴らしながら歩いていた。昼間は人でごった返していた街はさすがに早朝、しかもまだ薄暗い中ともなればどこにも人影はなく。その静けさがナマエにもの悲しさを感じさせると同時に、誰にも合わずに済む安堵も感じさせていた。
 ──あの後、結局ナマエはホテルで夜を明かした。ライムを追うこともできず、かといって何も考えずにいることもできず。ただひたすらに泣いて過ごすしかできなかった。そうして気が付いたときには、窓から見える空の向こうはぼんやりと明るくなっていて。ナマエは熱を持った目元を擦ると、ふらふらと立ち上がり。そのままホテルの部屋を後にした。ただ、それ以上あの部屋にいるのが辛かったからだ。
 視線を落とし、ずるずると引きずるように歩みを進めていく。脳内に浮かぶのは、無情にも閉まる扉と、ライムの後ろ姿。──追いかければよかったのか。追いかけて、縋るべきだったのか。けれど顔が見られないとまで言われてしまった自分が、追いかけて何を言えばいいのか。縋って、謝って。それからどうする。
 だって、否定してしまったのだ。ライムの想いを。ライムとの、これまでのすべてを。そんなことをした人間が泣いて縋るなどできるはずもない。そもそもそんな権利など、どこにもありはしない。
 海の音が近付きナマエは顔を上げる。どうやら考えているうちに船へと辿り着いていたらしい。赤い龍はナマエの想いなど知るはずもなく、相変わらず悠然と出迎えてくれている。家である船も、朝陽も、海の音も。なにひとつ日常と変わらないというのに。それさえも今はナマエを責め立てているような気さえした。
 ライムは帰っているのだろうか。もし出くわしたら、なんと言うべきなのか。また「顔が見れない」と言われるのだろうか。それを言われたら、今度こそどうなってしまうかナマエは分からなかった。下手をすれば海に飛び込んでしまうかも、なんて。そんな馬鹿なことを本気で思ってしまう。
 張った根を無理やり振り払うような重たい足取りで、陸に着けられた階段を上っていく。甲板には小さなランタンを囲んだ数人のクルーがいた。その周囲に酒瓶が転がっているところを見ると、船番ついでに酒盛りしているといったところだろう。彼らはナマエに気が付くと「おー、おかえり」「早いなー」などと声をかけてくれた。
 まだ周囲は薄暗く遠目なこともあり、泣き腫らしたナマエの顔までは見えていないようで。朝早くに帰ってきてよかったと思いながら、ナマエは「ただいま」と枯れた声で返事をする。酔っ払いたちは予想通りナマエの声の異変に気付くことはなく、すぐに酒盛りへと戻っていく。
 あとは誰が船に残っているのか定かではないが、薄暗いこともありまだ誰も起きては来ない。普段であれば朝食準備のためルウ率いる厨房チームが動き出している頃だが、陸に着けているためそれもない。さっさと部屋に戻りこもってしまえば、誰とも会わずに済むということだ。
 慣れた船内は下を向いていても目的地に辿り着ける。早く部屋に戻ろうと、ナマエは後ろを振り向いた。

「お…っと。おい、気を付けろ」

 けれど不運というものは続くようで。その瞬間、いつの間にか後ろにいたらしい誰かにぶつかってしまった。伸びてきた腕が背中に回り、ナマエの身体を支える。「ごめん」と咄嗟に謝れば「…ナマエ?」と、どこか不思議そうに名前を呼ばれた。聞き慣れた声に、ナマエは自身の状態も忘れ顔を上げてしまう。

「ホンゴウ…」

 予想通り、そこにいたのはホンゴウだった。おそらく朝晩は冷えるからと甲板の連中に持ってきてあげたのだろう。胸元に飛び込んできたナマエを支える手とは逆の手に、毛布らしきものを持っていた。
 
「お前、ライムと一緒だったんじゃ…」

 驚いた様子でそう言いかけたホンゴウは、交わったナマエの瞳に言葉を止めた。いくら周囲が薄暗くともこの近さなら表情も分かる。ましてやホンゴウは船医という立場。人の変化、特に見た目に関しては誰よりも敏感なのだ。腫れた目元と覇気のないナマエの様子。なによりライムがいないというこの状況に、何かあったのだとすぐに察することができた。
 探るようなその視線にはナマエも気が付いたようで。ああこれはバレているなと思いつつ、かといって今さら誤魔化すこともできず。へらりと笑みを浮かべながら、「…おはよう、ホンゴウ」と返すことしかできなかった。

「…こっち来い」

 ぎこちないその笑い方にホンゴウは顔を顰めると、ナマエの腕を取り踵を返した。
 逃げないようにとしっかり腕を掴まれ連れて来られたのは、まだ薄暗い医務室だった。ホンゴウは持っていた毛布をベッドに投げ捨てると、部屋のランプを点けた。周囲がオレンジの光に包まれる。
 そうして、普段ホンゴウが診察時に座る、背もたれのある椅子を引き寄せると、「そこ座れ」と命令のようにナマエに促した。

「…ホンゴウ、私、怪我してないよ」
「知ってる。いいから早く座れ」

 ナマエの言葉を聞いてはいるものの、聞き入れる気はないようで。有無を言わさぬ強い言葉に、ナマエは戸惑いながらも椅子へと腰掛けた。
 ホンゴウはナマエが素直に従ったのを横目で見ながら、ホーローでできた小さな洗面器二つとタオル二枚、それぞれ棚から取り出すと、一方には手洗い用の洗面で水を。もう一方には、鈍色のケトルからお湯を注いでいく。そうしてタオルを一枚ずつ浸し、手慣れた様子であっという間に冷温タオルをそれぞれ作り出した。

「…なんでお湯沸いてるの」
「さっきまでコーヒー飲んでたからな」
「また徹夜したの…」
「気付いたら朝になってただけだ」
「ふ…世の中ではそれを徹夜って言うんだよ……」

 ナマエはちらりと部屋の奥を見やる。医務室の隣にはホンゴウの私室があり、二つはそれぞれ室内ドアで繋がっている。今は閉まっているものの、下の隙間から明かりが漏れているところを見ると、また医学書を読み耽っていたか、もしくは船員たちの怪我の記録でもしていたか。どちらにしろ時間を忘れ没頭していたのだろう。
 そうしていつの間にか朝日が昇り始めたため甲板に出たら、泣き腫らした目のナマエに出くわした、といったところか。どうやらナマエは昨日から、物事に対して色々タイミングと運が悪いらしい。
 けれどホンゴウは真逆の考えらしく。「起きてたおかげでお前に会えたからよかったわ」と、心配混じりに笑っていた。

「そんな状態で、部屋に閉じこもらせるわけにはいかねぇしな」
「……そんなに酷い?」
「めちゃくちゃ酷ぇ」
「その言葉が酷い…」

 散々ホテルで泣き明かした後鏡も見ずに出てきてしまったため、今自身がどんな状態なのか、ナマエは何も分からなかった。目元が妙に熱を持っている分、擦り過ぎたのだろうなということだけはかろうじて分かっていたが。
 ホンゴウにそこまで言わせるとは、どんな状態なのか。確かめたくなり、ナマエは目元へそっと触れてみる。しっとりと湿り、けれど指先の温かさでぴりっとわずかに痛む。なるほど確かにこれは、"そんな状態"で、"めちゃくちゃ酷ぇ"と言えるのかもしれなかった。

「あー待て待て、触んなって」

 目元に触れていたことに気付くと、ホンゴウは慌ててお湯に浸かっていたタオルを絞り、ナマエに差し出す。

「ほら。これと冷たいの、交互に当てろ。腫れが多少はマシになるから」

 そうか、痛いのは腫れているからなのか。どこか他人事のようにぼんやり思いながら、ナマエは「…ありがとう」とタオルを受け取る。ホンゴウは「ん」と小さくと返事をすると、患者用の丸椅子を引き寄せ、ナマエの前に座った。
 タオルがぬるくなれば冷たい方に。またそちらもぬるくなれば、温かい方に。交互にタオルを当て続けるだけのその間も、ホンゴウはただ労わるようにナマエを見つめていた。

「…なんとなく分かってるから聞くけどよ……ライムジュースと何かあったのか?」

 ようやく腫れも落ち着いてきた頃。ホンゴウが小さく口を開いた。
 心配しているのだと分かる優しい声。けれどその名を聞いた瞬間、ナマエの瞳には再び涙がじわりと滲み始める。

「あーあー、泣くなって。また腫れるぞ」
「ん、う、…っ」

 無意識のうちにまた目元を擦ろうとしていたナマエの手からタオルを取ると、ホンゴウは赤らむ肌を気遣いながら、代わりに優しく拭ってやる。それでもこぼれる涙は止まらず。ホンゴウの手を濡らしていった。
 声も上げず、その身を枯らしてしまうのではないかと思うほどただひたすらに涙を流すナマエに、ホンゴウは胸が締め付けられる感覚を覚えた。
 仲間として過ごした期間も長い分、些細な言い合いをしているのは何度も見てきたが、ナマエがここまで憔悴しているのは初めてで。そしてその理由に、ナマエにベタ惚れのあのライムジュースが関係しているということが、ホンゴウには半ば信じられない気持ちでもあった。

「…ホンゴウ」

 わずかに震える唇から発せられた名に、ホンゴウは手を止め、耳を傾ける。

「…話せるか?」
「ん…」
「そっか。じゃあ、ゆっくりでいいから話してくれ」

 ナマエは縋るようにホンゴウの膝に手を伸ばし、握り締める。ホンゴウは相変わらず涙を拭いながら、空いた手をそこに重ねた。まるで大丈夫だと言ってくれているような温かさに安心したナマエは、再び溢れそうになる涙をなんとか耐え。先日の出来事をぽつぽつと話し始めた。
 ──先日の買い出しの際、ライムが女にキスされていたこと。その光景が忘れられず、約束の時間を過ぎ連絡がこようとも無視してしまったこと。その後ようやくホテルを訪れた際、「何をしてた」と凄んできたライムが、女との出来事を話さなかったこと。そこで怒りが爆発してしまい、ライムと言い争いになってしまったこと。決して言ってはいけない言葉を、ライムに向けて言ってしまったこと。
 途中で何度も詰まり嗚咽を漏らしながらの説明は、おそらく要領を得ない部分もあっただろう。けれど二人をよく知るホンゴウには、大体の経緯は把握することができたようで。話し終えたときにはひどく難しい顔をしていた。

「なるほどなぁ…」

 片思いの期間には、宴のときですら女には手を出さず、ましてや娼館にさえ行かず。ただひたすらにナマエ以外の女には触れることのなかった、実はおそろしいほど一途なライムが。事故とはいえ他の女にキスをされていた、など。ホンゴウにはどうにも信じられなかった。
 いっそ、雲が固まって落ちてきただとか、雷がダイヤモンドになって振ってきたとか。そんなメルヘンチックなことを言われた方がまだ信じられる。それくらいライムジュースという男は、ナマエにベタ惚れなのだ。
 けれどナマエがこうして人目もはばからず泣き腫らしてる以上、それは紛れもない事実なのだろう。そしてそれに対し、咄嗟とはいえ酷いことを言ってしまったと、ナマエが深く後悔していることも。
 話し終えひくひくと喉を鳴らし泣いているナマエの頭を、ホンゴウは優しく撫でてやる。

「…せめて本当のこと言ってくれりゃよかったけど…隠されると余計に嫌だよな」

 とはいえ、キスについては確かに仕方のない事故なのかもしれないが、それをナマエに隠すというのは、同じ男としてはいただけないことではある。そういったことは包み隠さず真実を話した方が結果的には良いものになることが多い。事実、それがナマエの怒りの炎に余計な油を注いでしまったのだから。
 なにより、こうして可愛い妹分の痛々しい姿を見てしまったとなっては、やはり何においても味方をしてやりたいと思うくらいには、ホンゴウもナマエには甘く。その点については、おそらくこの船にいるほとんどの人間がそうだろう。理由はともあれまずナマエを泣かせるとは何事だ、と。
 けれどホンゴウのその言葉に、ナマエは「…違うの」と小さく呟きかぶりを振る。

「…違う?」
「…隠されたのは、確かに嫌だったけど…でも全部見てたから、ライムが悪くないのは、ちゃんと分かってた、し……」

 そもそも咄嗟のことだったし、仕方ないことだと思ってたとはっきり言い。最後に「すごく嫌だったけど」と念押しのように続けた。
 明確に違うという意思表示をされ、ホンゴウは「おや?」と疑問符を浮かべる。

「…じゃあ、ナマエはなんでそんなに泣いてるんだ?何が悲しかったんだ?」

 ホンゴウとて人の機微に敏感な方ではない。それでもナマエがホンゴウを頼ったのは、彼が下手な探りで的外れな言葉を投げかけたりせず、誠実に寄り添うために、こうしてまっすぐ向き合ってくれるからだ。
 わずかな困惑と、それを覆い隠すほどの心配を滲ませた問い掛けに、ナマエは再びぐっと息を詰まらせる。けれどそれはあの光景を思い出した辛さを耐えるようなものでなく。何かを後悔しているような顔だった。

「…ライムに、」
「うん」
「……私のこと、大して好きじゃないでしょ、って…、」
「え …」
「そ、その女のところの方が、し、幸せかもよ、って……っ」

 そこまで言ってついに限界を迎えたのか、ナマエの瞳からはついに大粒の雫が、ぼろっ、とこぼれ落ちた。

「どうしようホンゴウ、わたしっ…ライムのこと傷つけた……ッ!」

 堰を切ったように再び流れ始めた涙が、ホンゴウの太ももに落ち染みを作っていく。苦し気に息を吸う背中を撫でてやるものの今度は止まることはなく。むしろ小さく 引き攣る声さえ聞こえてくるほどだった。
 ホンゴウは肩を震わせ泣く小さな身体を胸元に抱き寄せると、ぽんぽんと優しく背中を叩いてやる。
 これまでの幸福を否定し、自身の言葉でライムを深く傷つけてしまったこと。それがナマエにとっては、なにより辛かったのだ。あの光景を見てしまったことよりも、ずっと。そしてそんなことを思う権利すら、ライムを傷つけた自分にはないということも、ナマエは痛いほど理解していた。
 ──喧嘩をしたとき、普通であれば少なからず相手にも非はあったと言ってもおかしくはない。実際今回の件だって、多少なりとも反省すべき点はライムにもあったはずだ。
 けれどナマエは違う。すべて自分が悪いのだと、こうして泣き崩れている。それはライムにとっても望まない形だろう。ナマエを泣かせるなど一番したくはなかったことだろうし、なにより"嫉妬"という慣れない感情に混乱しているナマエは、このままだと、"別れ"という最悪の選択肢を選びかねないからだ。

「……落ち着け。大丈夫だから」
「ん゙…っ、」
「悪いこと言ったって、ライムを傷つけたって、分かってるんだろ?」
「ぅ、ん…」
「だったら、言わなきゃいけないことがあるよな?」

 涙に濡れた頬を労わりながら、ホンゴウは目を合わせるようにナマエの顔を上げさせる。

「…きちんと謝ったうえで、今思ってたことを、ちゃんと伝えてみな。そしたら、ライムだって許してくれるだろうよ」

 みなまで言わずとも言葉の意味は分かったようで。ナマエは強く頷いて応える。

「……お前たちなら、何が起きても大丈夫だよ。絶対大丈夫。…ずっと一緒にいた俺が言うんだから、これだけは間違いない」

 不安に揺れる瞳をまっすぐ見つめ、優しい声音でそう話すホンゴウの脳裏には、あの日の光景が浮かんでいた。
 ──青空の下、雨上がりの甲板に立つふたつの後ろ姿。隣り合い、まるで内緒話でもするように顔を寄せながら、時折何やらくつくつと笑い合っている。そうして二言三言交わし、ふと、二人の雰囲気が変わったと思ったら。次の瞬間には、長い金髪が風に揺れると共に、小さな身体を包み込んでいた。
 声は聞こえなかった。けれどホンゴウには、二人の関係がそのとき大きく変わったことが分かっていた。なにせもう十年近く、なかなか進展しない二人の関係を、この船でおそらく誰よりも近くで見てきたのだから。
 ライムの想いの強さも、ナマエの想いの健気さも、ホンゴウはよく知っていた。だから絶対に大丈夫だと、本気でそう思えた。 

「…よし。そうと決まればナマエ。お前、一度寝とけ」
「…え?なん、あ…っ?」

 言うや否や、ホンゴウはナマエを片腕で軽々抱き上げると、そのまま隣の私室へと向かった。
 突然で、かつ有無を言わさぬその言動に当然のごとく、ナマエは疑問の声を上げる。

「その様子だと、泣き続けてまともに寝てねぇんだろ?そんな状態じゃ話し合いなんてできねぇから、少しだけでも寝とけ」

 それまでは泣きじゃくるナマエを兄のように心配していたが、今度は医者としての心配らしく。室内ドアをくぐりあっという間に私室へと入ると、そのままナマエをベッドへと放り投げ。顔の半分を覆うまで布団を掛けてしまった。
 ブーツを脱がしてくれた辺りで制止の言葉が出そうになったが、寸前のところでナマエは口を閉ざす。理由はどうであれ一応ホンゴウも徹夜をした身だ。このままベッドを占領してしまっては悪いとは思ったものの、彼は現在医者モード。その状態のホンゴウが言うことは絶対というのが、この船の暗黙のルールなのだ。なにより、寝不足ではまともにライムと向き合えないという言葉はもっともなのだから。
 掛けられた布団に口元を埋めつつ。それでもやはり湧き上がる申し訳なさに、ナマエは伺うように上目遣いでホンゴウを見上げる。

「そんな顔しても、そこからは出さねえぞ」
「…そんなことしないよ…けど……、」
「けど、なんだ。…あ、」
「ん…?」
「…臭かったか。一応シーツは昨日洗ったばっかだから、汚くはないぞ」

 一瞬にして顔に不安を滲ませたホンゴウに、ナマエはきょとんとした後、「ふふ…」と小さく笑いをこぼした。久方ぶりに笑ったせいか、それとも泣き腫らしたせいか。頬がひくりと痛んだが、それも気にならないくらいにはナマエの心は穏やかだった。

「それは大丈夫…というか、薬の匂いしかしない…」
「それはどういうことだ。いい匂いってことなのか?」
「人によるかな…」

 柔らかな低い声がナマエの鼓膜を揺らす。深い水の中で漂うような心地好さに誘われるうち、ナマエの意識は徐々に闇を纏い始める。
 涙の滲んでいた瞳がすっかり眠気を携えてきたことに気が付いたホンゴウは、乱れた髪を整えるようにナマエの頭を撫でてやる。

「今はゆっくり寝てろ……おやすみ、ナマエ」

 ホンゴウの優しい声は、それでもやはり一番愛しいそれとは違っていて。──ほんの少し掠れた、くぐもったような。凄んだときに迫力のある低い声は、ナマエの名を呼ぶときだけはいっとう優しかった。
 こんなにも鮮明に思い出せるというのに。今は聞くことの叶わない音を耳の奥に響かせながら、再び滲む涙を隠すように、ナマエはゆっくりと瞳を閉じていった。





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