昼下がり、食堂の片隅。先日まで続いていた暖かい気候から打って変わり、この日は雪こそ降ってはいないものの、吐いた息が白く宙を舞うほどに寒い日だった。
「…ねえ、ホンゴウ、ヤソップさん」
「ん?」
「あ?」
「ライムって…誰にでもあんな感じなんですか?」
身体を冷やさないようにと食後にルウが淹れてくれたミルクティーに砂糖を溶かしながら、ナマエは目の前に並んで座る男たちに尋ねた。
「そりゃまた…どういう意味だ?」
不思議そうなヤソップとは反対に、ホンゴウはただ静かにコーヒーを飲んでいる。まるでその問いがくることを分かっていたかのようだった。
自身で始めた会話のわりになんとなく言いにくさがあるのか、ナマエはなんとも言えない表情で「いや…」と口ごもりながら、底に溜まる砂糖をスプーンでくるくると弄んでいる。
「誰にでも…その……優しいのかな、って……」
優しい。──柔らかい意味合いを含んだその言葉が出た瞬間、あまりに知っているライムと結びつかず。ヤソップは鳩が豆鉄砲を食ったような、間抜けな顔になってしまった。
ぽかんと口を開いたままのヤソップに、ナマエは「ええっと…」と軽く咳払いする。
「…今朝、冬島の海域に入ったって、航海士チームから話があったじゃないですか」
「あ、ああ…あったな」
船では毎日朝礼が行われ、その日の大まかな仕事の流れを副船長のベックマンから。航路や天候、気候といった運航状況を航海士チームの長であるスネイクから、それぞれ全体に周知されることとなっている。
そこで、次の島は冬島で、現在は冬真っ只中。昨晩の時点でその海域には入っていて、くわえて今日は一日曇り空。一切太陽を拝めないため今後も気温は上がらず、寒さが厳しくなるから体調管理と防寒対策をしっかりしろと、そうお振れがあったのだ。
「だけど私、まだしっかりした冬物が無くて。どうしようかなって考えてたら、ライムが……」
「あいつが?」
「……コートを、貸してくれて」
言いながら、ナマエは少し居心地が悪そうに身を縮こまらせた。その拍子に、大きなコートが肩からわずかに落ちる。
ナマエはこの船に乗ることになった際、シャンクスに連れられ着の身着のままで島を飛び出したため、防寒具の類を一切持ち合わせていなかった。くわえてこれまでの航路では、幸か不幸か冬真っただ中の冬島というものに上陸する機会がなく。
そのため服はいつか買えばいいだろうと先送りにしていたところ、今日になって突然厳しい冬を迎えることとなってしまったのだ。
偶然が重なったとはいえ、結果として自身の怠惰が招いてしまったこの状況を、さてどうしたものかと考えていたところ。隣で同じく朝礼を聞いていたライムが、「お前確か、冬物まだ持ってなかっただろ」と、いつも着ているライムグリーンのコートを貸してくれたというわけだ。
「でも、そんなことしたらライムが寒くなっちゃうし、私は部屋にこもってればいいから、とりあえず大丈夫って…返そうとしたんですけど……」
「けど?」
「…動いたら暑くなるから気にするな、って……」
「はは、あいつらしいな」
そんな押し問答をした後、結局ナマエはコートを借りることにした。寒いのは確かだったし、なによりライムの気遣いを無碍にはしたくなかったからだ。
足首まですっぽり覆い隠すような長い丈に、彩度の低い無地のライムグリーン。持ち主の名を表し、彼の特徴の一つでもあるコートは、少しどころかナマエにはとても大きそうだったが、何故か同時にとても似合っているような感覚さえヤソップに覚えさせた。彼女がその持ち主と共にいる様子を見かけることが多いからだろうか。
「…でも、なんでそれが、"誰にでも優しい"ってことになるんだァ?」
とはいえここまで聞いた限りでは、ライムの言動にさして気になるところはない。むしろいつも通りの光景といってもいいくらいだ。
ヤソップの疑問にナマエは少し逡巡した後、もにょりと口を開く。
「だって…正直、どうしてライムが私にそこまで優しいというか…気を遣ってくれるのかが、よく分からなくて……」
気遣いは有り難く受け取った。ただ、それはそれとして、ナマエの中には疑問が残った。──このところの、ライムの態度についてだ。厳密にいえば、ここ一年ほどのこと。ライムの態度が、妙に優しく、そして柔らかなものへと変化しているのだ。
例えば、朝礼時。必ずと言っていいほどナマエの隣に立ち、大柄な男たちに囲まれているがゆえに聞き取り辛かったことなどを教えてくれるだとか。
例えば、その後の朝食や昼食時。以前好物だと話したものを覚えていて分けてくれたり、食べ終わるまで待っていてくれたりだとか。
例えば、暑い日には日よけとして帽子を。こんな寒い日には、コートを貸してくれたり、だとか。
劇的にというわけではない。口は乱暴だが元々面倒見のいいライムがナマエを気にかけることは、これまでにもあった。ただ、そうした日常の出来事の中に、ほんのわずかな、おそらく当人でなければ気付けないような優しさが、ここ一年で確実に加わっているのだ。
当然ナマエは困惑する。些細な変化とはいえ、何故ライムがそうなったのか。その理由が皆目見当もつかなかったからだ。
ただ、その気遣いと優しさに不思議と嫌悪感はなく。代わりに胸がざわつくような、けれど同時にふわふわとしたような。相反する妙な感覚が生まれている、ということだけだった。
「あー…なるほどなァ……」
「……だから私、なんでライムはこんなに優しくしてくれるんだろうって…考えたんです」
「お、おお…!」
「…なんでそんなに興奮してるんですか」
「いや、なんでもない。それより、何を考えたんだ?」
「……なんていうか、もしかしてライムが、私のこと…、」
まさか、とヤソップは思う。同時に、ついに気付いたのだろうかと、期待に胸が躍る感覚がした。
ライムジュースがナマエに好意を抱いているとのだと船員の間で話題になったのは、約一年前のこと。まさしくナマエが違和感を抱き始めた頃だ。
あっという間に全員の知るところとなったその片思いは、始めこそ応援半分からかい半分といった、暇の多い船上での、ある種エンタメ的なものとしてみている連中がほとんどだった。
しかし、今しがたナマエが言ったように。ライムのナマエへの想いが、彼女への気遣いと優しさとして具現化されるようになってからは、そのあまりの健気さと純粋さに、いつしか周囲はからかいの念をすっかり消し去り。進みそうで進まないその関係性を、ただひたすらに応援するだけといった、今度は別の形でみるようになっていたのだ。
かくいうヤソップもその一人で。ついにナマエもライムの健気なアプローチを意識し始めたのかと、遅すぎる進展に「ライムが、私のことを…なんだって?」と、前のめりになりながら次の言葉を待つ。
「私のことを……ようやく、本当の仲間って認めてくれたからなのかなあ、って」
「…ん?」
「なんていうか…真の意味で仲間って認めてくれたから、優しくしてくれるようになったのかなって…そう思ったんです」
「んん…?」
ライムが優しくしてくれるようになった。その理由を考えたナマエが思い至ったのは、仲間となり、約一年と数ヶ月経った今ようやく、ライムジュースという男が、ナマエという女を"真の意味で仲間と認識したから"なのではないか、ということだった。
そうして、実は今まで本当の仲間として認められていなかったからこそ知らなかっただけで、ずっと以前から、それこそほぼ結成時から共にいるホンゴウたちには、ナマエにするようにとても優しいのではないか、と。
急転直下。あっという間におかしな方向に着地した結論に、ヤソップは首を傾げる。当然だろう。斜め上どころか突き抜ける勢いのとんでもない解釈は、これまでのヤソップの世界には存在していなかった形だったのだから。
とはいえナマエとて、いくら恋愛経験が同年代のそれより乏しいのだという自覚があろうとも、この結論がどこか的外れなものだということは理解していた。
けれどそうして無理やりにでも理由付けをしなければ、ライムの態度が突然変わった理由が、ナマエにはどうしても分からなかったのだ。
そして仮に、本当に仮に、この考えが実はそれほど的外れでなかったとして。自分で聞いておいてなんだが、それはそれで少し気になるな、とも思うのだ。
優しさの理由が気になる。そして優しくされると生まれる、むず痒いような妙な感覚。まるで他人事のように疑問を述べるナマエに、ようやくなんとなく話の辻褄が合ったヤソップは、「あー…」と言葉を漏らした。どう言うべきなのか、言葉を選んでいるようだった。
「……別に、誰にでも優しいわけじゃないぞ、あいつは」
むしろその対極にいるだろうというのは、あえて言わないでおいた。
ヤソップの言葉に、ナマエは「じゃあどうして」と唇を尖らせる。
「どうしてって…そりゃライムが、」
「…なあ、逆に聞きたいんだけどよ」
それまで黙って聞いているだけだったホンゴウが、ふいにヤソップの言葉を遮った。彼らしからぬその行動に、ヤソップだけでなくナマエも驚いたようにホンゴウを見る。
「…どうしたの、ホンゴウ」
「いや…なんでナマエは、それが気になってるんだろうなって思って」
「なんで、って…」
むしろそれを聞きたいからこうして相談しているのだが。この会話を根本から否定するようなホンゴウの質問に、ナマエは戸惑いで言葉を詰まらせた。
そんなナマエの様子を分かっているだろうに。ホンゴウは伺うような、探るような、そんな視線を向けてくるだけで。どうやら先ほどの問いに答えるまで、ナマエの疑問に答える気はないらしい。
仕方なくナマエは再び考え始める。──何故、ライムに優しくされるとざわつくような、ふわふわとしたような、けれどむず痒いような、妙な感覚が生まれるのか。その優しさは誰に対してもそうなのか。仮にそうだったとして、それが気になってしまうのは、一体何故なのか。
やはりいくら考えようとも分からなかった。けれどその感覚はナマエの思考の大部分を占めてしまっていて。無視するには、あまりにも存在が大きすぎるものなのだ。
俯き黙してしまったナマエになんとも言えない気持ちになりながら、ヤソップはホンゴウを横目で見やる。──長年の付き合いだ。ホンゴウが今何を考えているのかぐらいは、ヤソップにだってなんとなく分かる。ただナマエの様子からするに、このままではおそらく答えを導けないだろう。なにせ当人がその感情を明確にできない以上、いくら議論しようとも意味はないからだ。
「あー…まあ、なんだ。気にはなるけど、嫌ってわけじゃないんだろ?」
妙に張り詰めてしまった空気を和ませるように、ヤソップは俯くナマエの頭をぽんぽんと軽く叩く。優しい手付きと声音に、わずかに強張っていたナマエの肩からふっと力が抜けていく。伺うように上げられた顔は不安に揺れ、甘える子供のようだった。
「うん…」
「だったら、そんなに難しく考えなくてもいいんじゃねェか?優しいライムなんて相当レアもんだぜ。感謝しつつ、有難く受け取っとけばいいんだよ」
かつて自身の子にしたように、ヤソップはナマエに優しく語りかける。大きな袖口からわずかに見える細い指先が、ついとカップのハンドルをなぞった。
「そう、ですね…」
まだわずかに心残りがあるといった様子ではあったが、それでも他人に話して多少はすっきりしたのだろう。ナマエは「すみません、変なこと聞いちゃって」と小さく笑う。
「二人共、聞いてもらってありがとうございます。ホンゴウ…なんか、ごめんね」
「いや…俺も問い詰めるようなこと言って悪かったよ。また気になることあったら言ってくれ」
「うん…ありがとう」
少しぬるくなった紅茶を酒のように一気に呷ると、ナマエは長いコートの裾を軽く持ち上げ、立ち上がる。「じゃあ私、部屋に戻るね」とキッチンで洗い物をしてたルウにカップを返すと、二人に手を振り食堂を出ていった。
その背中を見送りながら、扉が閉まったのを確認すると、ヤソップはホンゴウへと向き直る。今度は横目ではなく、顔ごと。
「…で?」
「ん?」
「ん?じゃねェだろ。なんではっきり言わねェんだよ。どう見てもありゃ、ナマエがライムのこと好きってことだろ」
「そうだな」
「そうだな、って…お前なァ……」
ナマエがライムの優しさを気にしている理由など、同じ感情を持っているからに他ならない。けれど同時に、物事を一番厄介にしているのが、そのナマエの感情でもあるわけで。
真の意味で仲間だと思うようになったから、なんて。何故そんなとんでもない思考回路になってしまっているのか。もはや鈍感という言葉で片付けるには、いささか難しいような気さえしてくるその考え方は、けれどその生い立ちを知れば仕方のないことだとも、わずかに思えなくもなかった。
ナマエの故郷は、海賊を相手にした娼館を数多く有している島だった。彼女の母はそこのとある店の従業員で、生まれてからは"店の子供"として育てられた。
ゆえに幼い頃から見聞きする色恋事情も、年齢ではなく場所相応のものとなっていき。互いにその場の関係と割り切られたもの。男が女に優しくするのは、すべてにおいてその先を得るためといった、"何かしらの理由"があるものなのだと、そういう認識になってしまったのだ。
けれどライムの優しさには、何故か"そういった意味"が含まれていない。ならば彼はなんのために優しくしてくれて、そして自身に何を望んでいるのか。それがどうしても、ナマエには分からず。だからあんなおかしな考えに至ってしまったのだろう。
そんな歪な思考の持ち主である彼女が、"人を好きになる"という、単純で、けれど同時に複雑な感情を理解するのは、とても難しいことなのかもしれない。経験したことがないものは真の意味で理解ができず、理解ができないものには名前も付けられない。どんな物事でもそれは同じだ。
だからこそヤソップは変に回りくどいことはせず、はっきり言った方がいいと思ったのだが。ホンゴウはそれを止めただけでなく、逆にナマエに聞き返していた。いったいどういうことなのか。
ヤソップの問いに、ホンゴウは相変わらず達観した様子で「いいんだよ、これで」と返す。
「ライムは自分の気持ちに気付いているし、ナマエだってあの調子だ。俺たちが何かしなくても、遅かれ早かれどうにかはなるだろ」
「それはそうかもしんねェけどよ…少し背中押してやるくらいしても、罰は当たらないんじゃねェのか?」
「まあ、喧嘩したとかなら、それでもいいかもだろうけど…気持ちを伝えるってことなら、ライムは自分の知らないところで何かされる方が嫌がるだろ」
そうかねェ、とヤソップは口をもごもごとさせながらも、それ以上は何も言わなかった。若干納得はしていないが、自身より二人と過ごす時間の多いホンゴウの言うことなら、まあ間違いではないのだろうと。そう結論付けたようだ。
ホンゴウはまだ半分以上残っているコーヒーをひと口飲むと、「そんな心配すんなって」と小さく笑う。
「あいつらなら大丈夫だよ。絶対、いい結果になるから」
空は相変わらず分厚い雲に覆われていた。朝から太陽が一切顔を出していないため温度はさして上がっておらず。わずかに喉を引き攣らせながら吸い込んだ空気は、肺から骨に染みて、そのまま氷に変えてしまのではないかと思うくらい冷たいものだった。
内側から冷えていく感覚に、ナマエは思わず身を縮こまらせる。──これは確かに上着を借りておいてよかった。そうでなければ部屋にこもったとしても、毛布に包まりながら過ごす羽目になっていただろう。
ライムの気遣いに改めて感謝しながら、ナマエは甲板のひらけた場所まで歩いて行き、空を見上げた。錆びた錨のような鈍く薄いグレーが水平線の向こうまで続いている。その様は、まるで世界から色が奪われたかのようだった。
初めて見る冬の色にナマエがぼんやり寂しさを覚えていると、ふいに視界の隅に、何かが飛んでいるのが見えた。ニュース・クーだろうか。けれどそれにしては色が鮮やかだし、そもそも形が鳥ではない。あれは、──人間だ。
思わず口からこぼれそうになった名前を、ナマエは寸前のところで飲み込んだ。その姿は遥か上空にある。聞こえるはずはないと分かっているけれど、あんな話をした後だからか、呼ぶのは何故だか憚られた。
代わりに、飛んでいるその姿をじっと見つめる。──以前、夜戦で空を飛んでいるところを見たとき。視界の端から端、闇を切り裂かんばかりに駆ける速さと、強く美しい光で赫々と輝くその様に、ナマエはなんの違和感もなく、「流れ星だ」と。そう思ったのを覚えている。
今は昼間で、まして戦闘中ではないから、その姿は電撃を纏っているわけではない。けれど代わりに、最近肩まで伸びたプラチナブロンドだけが、色のない空で風に靡き揺れている。白い空に輝くそれもまた、とても美しかった。
「……ライムジュース………らーいーむー…」
飲み込んだ名を、今度はゆっくりと、小さく吐き出してみせる。そうして白い息と共に宙を舞った名は、冷えた空気と波の音にあっさりとかき消されていった。──聞こえるわけがない。なにせ発したナマエ本人でさえ、自身の骨に響いたことでようやく聞こえた程度なのだから。
けれどその瞬間、ライムは宙でぴたりと動きを止め。まるでか細い声の主を確認するように、きょろきょろと甲板を見下ろし始めた。──まさか、聞こえたのだろうか。ナマエは半ば信じられない気持ちのまま、今度は確かめるかのように小さく手を振ってみせる。
するとついに、ライムは甲板の端に立っていたナマエの存在に気が付いたようで。一度周囲をきょろりと見回すと、そのままナマエの目の前へ、一陣の風と共に降りてきた。プラチナブロンドがふわりと風を纏う。
「おう。ンな所でなにしてんだ」
「……いや…外に出たら、ライムがいたから……なんとなく、見てた」
けっして嘘ではないのだが、つい先ほどまであんな会話をしていたせいか、その言葉は妙な色を含んでいるような気がした。とはいえライム本人がその会話を知っているわけではないため、気恥ずかしさを感じながらもナマエは素直に答える。
するとライムは、一瞬眉間にしわを寄せながらも、すぐに「…なんだそれ」と呟くように言った。わずかに口角を上げながら眦を細めるその表情が、どこか嬉しそうにも見えて。ぎゅうと心臓が締め付けられる感覚に、ナマエは下唇を軽く噛む。
「…ライムこそ、なんで飛んでたの」
再び生まれたむず痒さを誤魔化すように、ナマエは尋ねた。
「スネイクに、あと一時間くらいで雪が降り始めるかもしれねェから、部屋にこもるためにもちょっと簡単に周囲見回して来い、って言われたんだよ」
「見張り台にも人いるのに?」
「俺もそう言った。でも俺の方が目がいいから、だと」
「ああ…なるほどね」
「人使い荒いよな、あいつ」
まったく、と頭を掻くライムに、ナマエは「頼られてるってことだよ」と小さく笑う。その言葉に、「どうだかなァ」とライムも同じように笑った。
「で?見回って何かあった?」
「いいや?びっくりするほどなんも無かったわ」
「それはよかった…わっ、」
ふいに強く風が吹いた。真正面から冷たい風を受けたナマエは、思わず身を縮こまらせる。反対に、背中に風を受けたライムはさして寒さを感じなかったのか、「寒ィのか?」と身を屈めながら、心配するようにナマエの顔を覗き込んだ。その小さな気遣いに、ナマエの心臓がわずかに跳ねる。
「…ライムがコート貸してくれたから、平気」
「ふーん」
「な、なに…っ、」
覗き込んだまま、ライムはじっとナマエ見つめ。そうして何を思ったのか、そのままナマエの鼻先をきゅむっと摘まんでみせたのだ。
「はは…鼻、真っ赤だな」
何するのとナマエが驚くよりも先に、優しい声が鼓膜をくすぐった。それはひどく柔らかな甘さを含んでいて。ナマエに戸惑いの言葉を飲み込ませるには、充分なものだった。
眉を八の字にして、サングラスの奥の瞳をとろりと緩め。子供のような顔でくしゃりと笑うライムは、目の前のナマエという存在がただ可愛く、愛おしいのだと、そう語っているかのようで。
「……ライムだって、鼻、真っ赤じゃん…」
その表情を見た瞬間、飲み込んだ言葉は、代わりに温度となってナマエの全身を駆け巡り。冷えていたはずの指先も、頬も、痺れるように温かくしていく。
「そうか?」
「うん…やっぱり、寒かったんじゃないの」
「飛んでたからむしろアチィ」
「ふ…本当にそうなんだ」
「あ?」
「コート貸してくれるとき、動いたら暑くなるからって、言ってた」
「あー…そんなこと言ったか?」
「うん。…言ってた」
不思議と心は凪いでいた。鼻をつまんでいた温度が離れたことにすら、わずかな寂しさえ覚えるほどに。
いつだったか、歳の離れた妹によく似ているのだと、店でも一番よく面倒を見てくれていた姉さんが言っていた。──それは、なにも劇的なことから始まるものばかりではない。案外、自分でも驚くほど単純なことから始まったりするものなのだと。
そうして姉さんは決まって最後に、あからさまなものや、目に見えるものだけじゃない。言葉も、行動も、そのすべてで、真に自分のことを大切にしてくれると感じられ、信じられる人と、一緒になれるといいわね、と。頭を撫でてくれた。
あのときは理解できなかったその言葉の意味が、今なら分かるような気がした。優しくされるとむず痒くて、ざわついて。誰にでもそうなのかもしれないと考えたら、少しだけ気に入らなくて。けれど笑顔を向けられる度、優しくしてもらう度、嬉しくなってしまう。──それを真に理解し明確に名前を付けられるようになるのは、まだずっと先かもしれない。けれど少なくともナマエはもう、小さな宝箱の隅で確かに存在するその感情を、曖昧なままで終わらせようとは思わなかった。
「次の島で冬服買いに行くか」
「…私の?」
「他に誰がいんだよ」
「いや…ライムとか」
「俺は持ってる」
「まあ…それはそう、だけど…」
寄せた襟元にわずかに顔を埋めながら、ナマエは上目遣いで、おそるおそる尋ねる。
「…一緒に?」
「あ?」
「一緒に、買いに行くの…?」
ナマエの言葉にライムはわずかに目を見開き。すぐに、きゅっと唇を引き結んだ。
これまでのナマエであれば、わざわざそんなことを確認したりはしなかった。まるで意識しているかのような物言いにライムも動揺を隠せず。ふいと視線を逸らし、「あー…」と誤魔化すように頭を掻く。
「…お前が、嫌じゃなけりゃな」
小さく呟かれた言葉に、ナマエはぱっと顔を上げる。
「嫌じゃない…行く」
ナマエの返事を聞いたライムは、「ん、」と答える。風に揺れた髪の間から覗く耳は、ほんのりと赤く染まっていて。ナマエは心のどこかが、小さく動き出すのを感じた。
これから数年後──といっても片手では足りない程度の年数を経た後、二人はようやく恋人同士となる。
それは先日まで降り続いていた雨が上がり、嘘のように綺麗な青空が広がっていた日のこと。吹いた風が美しいプラチナブロンドを揺らす様子に、ナマエが目を奪われたとき。好きだ、と。風の音にも、波の音にもかき消されなかった言葉が、強く、そしてはっきりと、ナマエの鼓膜を揺らした。
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