目を覚ましたナマエは、視界に映った見慣れぬ天井に、ここがどこかを理解するまで少し時間がかかってしまった。
けれど鼻をついた消毒液の匂いに、記憶はすぐに呼び戻され。ここがホンゴウの私室だということ、そしてここで目を覚ますに至った経緯が、まざまざと思い出され。そうして、どうしようもない悲しみに襲われた。
涙はとうに枯れ果てたと思えたが、当たり前だがそんなことはなく。思い返すだけで簡単に瞳には膜が張り、視界がわずかにぼやけていく。とはいえここでまた泣いてしまえば、せっかく丁寧に処置をしてもらったというのに、なんの意味もなくなってしまう。これ以上涙が出ないようにと下唇を噛み締めながら、ナマエはゆるりと起き上がった。
そこでようやく、そもそも今この場にホンゴウがいないということに気が付いた。隣の医務室にいるのかと思い声をかけるも返事はない。どうやらこの付近にもいないらしい。陸へ降りたのだろうかとも思ったが、あの様子からしてナマエを一人で置いていくようなことをホンゴウはしない。面倒見のいい彼のことだ。おそらくルウがいない今、残っている船番の分も合わせて朝食を作りに食堂へ行っただとか、そんなところだろう。
机上に置かれた時計を見やる。時刻はちょうど六時。日が出始めのまだ薄暗い時間帯に戻って、その後すぐにホンゴウと会ったことから考えて、眠りに落ちた明確な時間は定かではないが、少なくとも二時間程度は寝ていたようだった。眠ったおかげで悲しみが消えてくれたわけではないが、頭は幾許か冷静さを取り戻せている。
ナマエは少しおぼつかない足取りでベッドから降りると、ブーツを履き、入口すぐの壁に掛けられた鏡の前に立った。きっちり手当をしてもらったおかげで、目元の腫れと赤みは思っていたよりも引いている。けれど瞳に映る顔の奥底には、やはり憔悴しているといった様子が残っている気がして。情けなさに、ナマエはひとり自嘲してしまう。
──慣れていると思っていた。互いに気持ちのない男女の色事など、生まれた島では幾度となく見ている光景のはずだった。
それがどうだ。その男がライムジュースという人物、好いた男だとなった瞬間、そんな考えはあっさり崩れ去ってしまった。
少し冷静になれた今なら分かる。自分は嫉妬していたのだ。嫉妬して、そしてライムを傷付けた。なんて独りよがりだったのか。ライムは何も悪くない。話し合えば済むはずだったところを、こうさせてしまったのは自分自身だ。
ホンゴウは本当の気持ちを伝えろと言ったけれど、伝えたところでライムを傷付けたという事実は変わらない。一時の衝動に任せてしまう女など、隣にいたくないと思われても仕方のないことだった。もしこのまま本当に別れを告げられたら、自分はどうなってしまうのだろう。分かりもしない未来を想像し、ナマエはひどく怯える。
いや、違うだろう。心配すべきはそこではない。今のナマエにできる唯一は、ライムに謝り、そしてきちんと自分の考えを伝える。ただそれだけだ。
ナマエは沈みそうになった気持ちをすくい上げるように、深く息を吸い、陰鬱を出し切るように長く吐き出す。跳ねた髪を手櫛で最低限整え、乱れたシーツを畳みベッドを綺麗にしていく。そうすれば少しだけ、心が落ち着きを取り戻した気がした。
廊下に出れば外はすっかり明るくなっているようで。甲板から射し入る陽光が、古びた床板へ鈍く反射している。その眩しさにナマエがわずかに瞳を細めた、その時。ふいにその光が遮られた。
甲板へ続く廊下の先に、誰かが立っている。その人物もナマエの存在にすぐに気が付いたようで。ぎしりと床板が軋む音がした。ホンゴウが食堂から帰って来たのかと思い、ナマエは「ホンゴウ…?」と声をかけながら、落としていた顔を上げる。
そうして見えた姿に、ナマエは息を呑んだ。
「ライム…」
絞り出すように喉から出た音は、ひどく情けないものだった。陽光を背にそこに立っていたライムは、名を呼ばれた瞬間わずかに肩を跳ねさせた。
まずい。ナマエは瞬間的にそう思った。──大きな喧嘩をした次の日、恋人が別の男の部屋から出てきた。これが隣に併設された医務室だったならまだ救いはあったかもしれないが、今しがたナマエが出てきたのは、その隣にあるホンゴウの私室だ。しかも明け方に。誰だって変な疑いをかけたくもなるだろう。
いや、そもそもやましいことをしているわけではないのだから、別にどの部屋から出てこようとも問題ではないのだが。ここに至るまでの経緯が複雑なだけに、勘違いをしてもおかしくはない状況だ。
案の定ライムはひどく動揺しているようで。逆光も相まりサングラスの奥の瞳は見えなかったが、淡いヘーゼルカラーの美しい瞳が大きく見開かれているであろうことは、ナマエにも気配で感じ取ることができた。
空気が張り詰めている。ホンゴウに話し合えと言われ覚悟を決めたくせに、あまりに突然にその機会が生まれてしまったこと。なにより、誤解を生むような現場を見られたということに動揺し、まるで喉に何かがつっかえているかのように、ナマエはなにも言葉を発することができなかった。
「…ホンゴウの方がよかったか?」
そうして静まり返っていた空気に、ふいにライムの声が響いた。
「…え?」
言葉の意味が分からず、ナマエは絞り出すように聞き返す。──今、ライムはなんて言った?
「なんだかんだお前には優しいしからな…あいつ」
「どういう、意味…」
震える声でナマエが聞き返すも、ライムは答えない。それどころか、見えないはずのライムの瞳が、わずかな諦念の色を含んでいることに、ナマエは気が付いてしまった。
「……お前もホンゴウのこと、すげェ信頼してるだろ」
それは船で唯一の女だから気にかけてくれているだけ。船医という立場もあって、心身ともに頼るところが多かったから。それは三人で共に過ごすことも多かったライムも、よく分かっているはずだ。なのにどうして、今さらそんなことを言うのか。
「…もしかしたらお前は、」
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。ライムが今何を言おうとしているのか、ナマエは気が付いてしまった。それは皮肉にもまったく同じことを、ナマエ自身がライムに言ってしまったからだ。
止めてと吐いたはずの言葉は、虚しく空気となって出ていくだけで。瞼の裏にじわりと熱いものが滲む。胸の奥底で、大切な何かが粉々に砕かれてしまったように弾けていった。
「俺といるよりも、ホンゴウと一緒にいる方が……いいのかもしれねェな…」
抑えきれなかった涙がこぼれ落ちる。もう涙は枯れ尽くしたと思ったけれど、こうもあっさり出てくるのかと、頭の冷静な部分で、ナマエはまるで他人事のように思った。──けれど同時に思う。あの時のライムも、こんな気持ちだったのだろうか、と。
ここで泣くのは卑怯だ。どんな物事でも、泣いてしまえばそれだけで相手を非難しているように見えるし、そう感じさせてしまう。それをしたいのは他でもないライムだろうに。彼は優しいから、ナマエがこうして泣き出してしまえば、やはり自分を責めてしまうだろう。
けれど、頭ではそう理解していても、涙は簡単に止められるものではなく。せめてとばかりに顔を隠すように俯けば、色褪せた床板に小さな染みが次々とできていく。
ひくひくと喉を引き攣らせるナマエの姿に、案の定ライムはひどく動揺していた。ナマエが仲間となり約十年。彼女の泣き顔を見たことは、これまでただの一度も無かったからだ。もちろん、生理的なもの以外での意味ではあるが。
そしてライムにそんな顔をさせ、あまつさえあんなことを言わせてしまったということにもまた、ナマエの涙は溢れてきてしまい。もはや止めることはできなかった。
細めていた瞳を今度は大きく見開きながら、ライムは苦し気に顔を歪め。そうしてナマエから逃げるように目を伏せると、「…なァ」と苦し気に呼びかけた。
「…もし本当に俺と別れてェなら、はっきり言え」
ライムの手は、別れたあの時からずっと手袋をしていない。普段見えることのないそこには、電撃を扱うことでできた熱傷の赤い痕が、強い力でうっすらと浮かび上がっていた。
「そうでもしてくれねェと、俺は……、」
そこで一度言葉を止めたライムは、ぐっと奥歯を噛み締める。わずかに唇がわななき、心臓が締め付けられたようにひどく痛む。泣きたい気持ちは、けれど涙にはならず。代わりに眉間のしわをさらに深いものとしていった。
「お前を……諦められる気がしねェんだよ…」
わずかに声が震えていたことに、ナマエは気が付いていたのだろうか。どうか気が付かないでくれとライムは願った。
──あの女の所にでも行った方が、もしかしたらライムも幸せかもよ。そう言ったナマエの表情を、ライムはよく覚えていない。いや、正しくは、思い出したくない、なのだろう。
それはその言葉を聞いた瞬間、これまでの自身の想いが伝わっていなかったどころか、それに疑いをかけられたということに対する、わずかな怒り。そして自身の言動が原因で、ナマエにあんなことを言わせてしまったのだという、どうしようもない悲しみに襲われたからだった。
冷静になるべきだった。ナマエはあの時、自身の発言を後悔していた。だからライムがあの場でやるべきだったことは、ナマエをひとり置いていくことではなく。落ち着いて、きちんと顔を見て話すことだったのだ。
だというのに、ひとりにしてしまった。その後ナマエがどうしていたかというのは、真っ赤になった目元を見るだけで容易に想像ができた。
ホンゴウの私室から出てきた理由も、ライムには大方見当がついていた。夜中か、それとも明け方か。帰って来たところをホンゴウに見つかったのだろう。心配性な彼のことだから、手当をしつつ少し休めと無理やり寝かせた、といったところか。
ホンゴウはそうした気遣いのできる、優しい男だ。だからナマエも心からホンゴウを信頼しているのだろう。それはライムも理解している。心底、それこそ時折嫉妬してしまうほど理解しているからこそ、ナマエの幸せは、そんなホンゴウと共にいることなのではとも思えてしまうのだ。
他の男と幸せになれ、なんて。そんな悲劇的な言葉を言いたくはなかった。けれどライムにとって一番大切なのは自身の気持ちではなく、ナマエの幸せただそれだけで。もし自分といるよりもホンゴウといた方が、ナマエが幸せになれるのならば。──それは心からの、嘘偽りのない想いだ。
けれどその想いのすべてを、ライムは言い切ることができなかった。奥に悲懐を滲ませ、涙で満ちた青い瞳に見つめられると、無理やりに固めた決意があっさりと崩れ去ってしまいそうだったから。
「…悪ィ」
そう小さく呟くとライムはナマエに背を向け、逃げるようにその場から立ち去ろうとする。
いざ言葉にしたくせに、もしナマエが本当に別れを選んだら。そう思うと、ひどく怖かった。
「あ…、」
ナマエの目に映る背中は、あの時と同じ。待ってと縋ることもできないまま、無情にも扉が閉まる音だけが響いていた。静かな、冷たい、あの部屋。──脳内に光景が浮かんだ、その瞬間。ナマエの身体はほとんど無意識のうちに動いていた。
「ライム…っ!」
名を呼び、その背中に飛び込むように抱き着く。勢いがすぎたせいで鼻が当たり少し痛みを感じたが、そんなことも気にならないくらい、ナマエは夢中だった。すぐに腹の前に腕を回し、離れないようにと赤いシャツを強く握り締める。
背後から勢いよく抱き着かれながらも、ライムは体勢を崩すことはなく。代わりに一歩前へ足を出したまま、そこへ縫い付けられたかのように固まってしまった。
「お、おい…」
いつものライムであれば、ナマエがこんなことをしようものなら、「なに可愛いことしてんだ」なんて軽い口調で。けれど嬉しそうにしながら、すぐにその腕の中に閉じ込めてくれていたというのに。
視界の端では、困惑と共に一瞬伸ばされた手が、そのまま行き場を無くしたようにさまよっているのが見えて。それを心の片隅で寂しく思いながらも、ナマエは必死に喉を震わせ、小さく呟いた。
「すき…」
ライムの身体がびくりと強張った。
「好きなの、ライムが、……ライムが好き……ッ」
ヘーゼルカラーの瞳が大きく見開かれていく。背中に顔を埋めているナマエにそれは見えなかったが、発した瞬間、ライムが息を呑んだのだけは分かった。
「ライムのこと傷つけたのに…今さらこんなことって、お、思うかもしれない、けど…っ」
もはや言葉になっているのかすらも怪しかった。ライムは変わらず沈黙している。ナマエの中にはどんどん不安が募っていき、思わず下唇を小さく噛んでしまう。
はっきり言葉にするのは恥ずかしい。けれどなにも言えず、なにも伝えられないのだけは、もう嫌だった。
「手、繋ぐのも、抱きしめてもらう、のも…っきすも……せ、せ、っくすだって…っ全部ライムじゃなきゃ駄目なの…!」
こんなにも好きだというのに。別の誰かへの気持ちを疑われ、挙句にそちらへ行けと言われる。ライムの想いとナマエが言ったことは、違うようでまったく同じだった。
どうして信じてもらえないのか。どうして、自分の想いを、揺るぎないものだと受け取ってくれないのか。それがこんなにも辛いのだと、ナマエはあの時のライムの気持ちを、ようやく真の意味で理解することができた。
らしくもない大胆な発言が嘘のように、ナマエは震える声でひたすらに「ごめんなさい」と繰り返している。
涙にまみれたナマエの声に、ライムは半ば信じられないような気持になりながら、自身の腹の前に回された手を見る。必至にシャツを掴むその手には、先が白くなるほど力が込められていて。
それを見ていたら、それまでの深い悲しみや、わずかな怒りが、頭の中から驚くほどあっさりと消えていくのを感じた。
ライムは、ふっと眦を下げ。小さな手に自身の手をそっと重ねる。
「…ずいぶん可愛いこと言ってくれんのな」
からかうような声だった。それはいつもと同じ。くだらないことを言って、隣で笑い合っていた時と、同じ声音。
耳をくすぐる優しい音に、ナマエの手からはゆっくりと力が抜けていく。ライムはそのまま縋る腕を解くと、くるりと向きを変え。未だ大粒の涙を流すナマエの頬を両手で包み込んだ。ふたつの視線が交わる。
「…んな必死にならなくても、お前が俺のことめちゃくちゃ好きなのは、俺が誰より分かってるっての」
眉間にはしわが寄り、けれど眉は八の字に垂れ。眦は緩やかに弧を描き、瞳は抑え切れない想いを表すかのように、ひどく優しい色をしている。
その表情を見た瞬間、美しい青はぐらりと歪み。その小さな海からは、再び大粒の雫が溢れ出していた。
「おいおい、もう泣くなって。ンな泣いてっと干からびちまうぞ」
ライムの親指が、ナマエの赤くなった眦を優しく拭う。けれどようやく感じられた掌の温かさに、やはり涙が止まることはなく。拭ったそばから次々とライムの手を濡らしていく。
「ライムっ、ライム……ッ!」
まるでそれしか知らないとでもいうように、ナマエはライムの名を呼び続ける。その間もライムはずっと「ん」や「ああ」と小さく返事をしていて。そうして小さく笑う顔は、あの日見た海と空と同じ、とても穏やかなものだった。
ライムは壊れ物を扱うかのように、そっとナマエの背中に腕を回す。ナマエも迷うことなく同じようにすると、今度は躊躇なく抱き締められた。背中がぐうとしなる。骨がわずかに軋んでいたが、今はそれすらも心地よく。ようやく顔が見れた安心と、触れてくれる手の優しさと、抱きしめてくれる身体の温かさ。すべてが、愛おしくて仕方なかった。
「…俺こそ、ちゃんと言わなくて悪かった」
ぽつりと呟かれた言葉に、ナマエは小さく首を振る。
「っ違う…ライムは何も悪くない…」
否定するも、ライムは強い声音で「違くねェよ」と続ける。
「…知らねえ女にキスされたのなんざ大したことじゃねェと思ってたし、むしろそれを話してお前に嫌な思いさせる方が、俺としちゃ避けたいことだったんだけどよ…」
「うん…」
「…言わないで、結局お前のこと傷付けてたんじゃ…なんの意味もねェよな」
あの時のことを思い出しているのか、ライムはひどく苦々しい顔をしながら、ナマエを抱き締める腕に力を込めた。
「それに…もしお前が、知らねェ野郎にキスされたことを俺に言わなかったら、って…考えただけで腸煮えくり返った。…だから黙ってた俺も悪かった。お互い様だ」
ナマエに拒絶されたことも、想いを疑われたことも、確かにライムの心を深く傷つけた。けれどそれらは、大したことではなかった、とライムが勝手に結論付けてしまったがゆえに招いた結果なわけで。判断を誤りナマエを傷つけ、あまつさえあんなことを言わせてしまったのなら。それはライムにとって、ただナマエだけが責められることではなくなるのだ。
ライムの言葉に、それでもナマエは「だけど…」と顔をしかめる。──お互い様。ライムにとってはそうなのかもしれない。けれど、そもそも最初に言ってはいけないことを言ってしまったのはナマエなわけで。それがなければ喧嘩も起きず、ナマエがホンゴウに泣きつくことも、それを見たライムが同じ言葉を吐くこともなかったのだから。
なにより、黙っていただとかそういう以前に、ライムの想いを否定するというのは、二人のこれまでを否定していることと同義で。そう思うとやはり、お互い様というのは少し違う気がした。そしてそれを許してくれるというライムに対してもまた、さらに申し訳なさが募ってしまうのだ。
そんな考えが顔に出てたのだろう。若干納得がいっていないような、どこか苦しさ感じさせるように歪むナマエの頬を、ライムはそっと撫でる。
「…もうそんな顔すんなって」
自責の念は完全に消えたわけではないけれど。安心させるような優しい声で「な?」と首を少し傾けるライムに、ナマエはもう、これ以上何かを言うのは止めた方がいいのだろうと思った。このまま肩を落としていては、逆にライムを困らせかねないからだ。
ナマエは「…ん」と小さく答え、添えられた手に擦り寄る。頷いた姿を見て、ライムは「よし。これでいつも通りな」と小さく笑った。いつも通りの笑顔だった
「ふ…ライム、くすぐったい」
涙の痕を親指でなぞりながら、ライムは満足げにナマエの頬をむにむにと柔く揉んでいる。そのくすぐったさにナマエがくつくつと笑えば、ようやく笑顔が見えたことにライムも安堵したようで。「そうだなァ」と眦を下げている。
「…ナマエ」
小さく名前が呼ばれる。同時に、頬に添えられていた手がするりと顎に滑り。ナマエの顔をわずかに持ち上げた。
潤むブルーと淡いヘーゼルカラーが交わり、睫毛を伏せたライムの顔が、ゆっくりと近付く。合わせるようにナマエも瞳を閉じ。互いの鼻先がわずかに触れた、その時。かちゃんっという小さな音と共に、眉間の辺りに何かが当たり、鈍い痛みが走った。
「………」
「………」
「……ふ、」
「…悪ィ」
互いの目の前には斜めになったサングラスと、それ越しに丸く見開かれた瞳。サングラスが当たったのだということはすぐに分かった。
いつもならそれとなく避けられるし、なんならキスの前にさりげなく外していることだってあるのに。まるでティーンのような初々しさに、ナマエは思わず笑ってしまう。
「…笑うなよ」
「ふ…ごめん……ふふ、」
「………」
くつくつと笑うナマエに、ライムは苦虫を噛みつぶしたような表情でサングラスを取ると、もう黙っていろと言いたげに唇を塞いだ。
軽く触れ合っただけの唇はすぐに離れる。けれど距離は取られず。互いの鼻先を擦りながらじっと見つめ合った後、再びゆっくりと近付いていく。
今度は何にも邪魔されることなく唇が重なる。付いては離れ、離れては付いて。舌は絡まず、けれど角度を変えながら何度も重なる様は、まるで互いの存在を確かめ合うようだった。
ようやく離れる頃には息も荒くなっていて。それでもほんのわずかな距離でさえ、離れたくないと寂しさを感じさせる。
ナマエは頬をほんのりと赤く染めながら、じっとライムを見つめた。その瞳にライムは理性をぐらつかせながらも、高鳴る心臓を落ち着けるため「はあ…」と息を吐く。
「お前、ンな顔すんなよな…」
「どんな顔…」
「もっとしてほしい、って顔」
「し、してないっ」
「いーや、してた。めちゃくちゃしてた」
「してないってば!」
「してたんだよ。すげェ可愛い顔」
必至に否定し、はっと気が付いたとばかりに慌てて距離を取ろうとするナマエを、ライムは逃がさぬよう強く抱き締めた。
すっかり普段のようなやり取りができていることが嬉しくて。「馬鹿じゃないの…」と憎まれ口をききながらも、ナマエもそっとライムの胸元に頬を擦り寄せた。
再びキスをしようとライムが身を屈める。ナマエも顔を上げ、ゆっくり睫毛を伏せた、その時。
「…お前ら、二人の世界に入るのは構わねえけど、廊下は塞ぐなよ」
低い声が、二人の耳に響いた。
びくりと大きく肩を跳ねさせたナマエは、唇が触れる寸前で咄嗟にライムの胸を突っぱねる。腰と背中に腕が回されているためそこまで距離を取ることはできなかったが、それでも寸前で拒絶されたことが気に食わなかったようで。不満げに唇を尖らせたライムが、睨むように後ろを振り向いた。
「邪魔すんなよな、ホンゴウ」
「邪魔すんな、じゃねえよ…ったく」
呆れたような声と共に、ホンゴウは二人の元へと近付く。ナマエは、せめて抱き締められてるこの状況だけはなんとかしようと藻掻くものの、ライムの腕がそれを許さない。それどころか再び胸元に引き寄せられ、より密着することとなってしまった。
そうこうしているうちに足音は隣で止まり。次いでぽんっと軽く頭を叩かれた。ナマエは首だけを動かしそちらを見上げる。
「ホンゴウ…」
「よかったな、仲直りできて」
優しい声と温度に、ナマエの瞳にはまたじわりと涙が滲む。
「ほんごぉ…」
「おいおい、また泣くのかよ」
瞬く間に瞳を潤ませたナマエに、ホンゴウはしょうがないなとばかりに笑うと、こぼれ落ちる前にその涙を拭おうと手を伸ばす。
「おいこら、触んな」
けれどその手は、ライムがさらにナマエを胸元に隠したことで止められてしまった。ホンゴウはそれを分かっていたとでも言いたげに、「はいはい」と肩をすくめた。
「昨日は放っておいたくせに」
「うるせェ。……悪かったな、色々させちまって」
まるで猫の威嚇のようにしながらも、最後にはきっちりお礼を言ったライムに、ホンゴウは「ああ」と返した。二人もまた、言葉少なくとも互いをきちんと理解している。そんな感じだった。
どうにか手を動かし、ナマエはホンゴウの服の裾を掴む。「ホンゴウ」と小さな声で呼べば、再び視線が交わった。
「……ありがとう。ホンゴウがいてくれて、本当によかった」
たった数時間のことなのに、呼吸の仕方を忘れてしまったのだと思うほど息苦しかった。それでもなんとか持ち堪えていたのは、すべてを理解して、考えうる最適を一緒に探してくれたホンゴウのおかげだ。
ナマエの言葉に、ホンゴウは「いいよ」と優しく笑う。
「これからはお互い、ちゃんと伝えるようにしろよ」
言いながら、ナマエの頭をまた軽く叩き。ホンゴウは医務室へと戻っていった。
その背中をぼんやり見つめていると「おい」と頬を掴まれ、ナマエは再びライムと向き合う。そうして交わった淡いヘーゼルカラーの奥には、じりじりと濃い熱が燻っていた。
「…な、なに、どうしたの」
「…ログ貯まるまで、まだ日にちあるだろ」
「うん…そうだね」
「このままホテル戻らねェか」
考えていなかったといえば嘘になるが、あまりに直球な提案に、ナマエは目を丸くする。
「でも、もう出てきちゃったし…」
正直なことを言えば、二人でまた過ごしたい気持ちは確かにある。また出航すれば大勢と同じ屋根の下。二人きりになれる時間は減ってしまうからだ。
けれどあんな大喧嘩をした直後だからか、妙な気恥ずかしさもあり。ナマエは少しだけ視線を逸らしながら、伺うようにライムを見上げる。
「いや…そもそも四泊の予定だったから、別に今日戻ったところで問題ねェだろ」
「……あ、そっか…」
この島でログが貯まるまでは四日ほどかかる。つまり出航はその翌日、五日目の夜明け頃だ。
そのため当初の予定としては、ナマエが初日の当番を終え次第、半日と残りの三日間は街へ出たりなどして二人で過ごすつもりで。そのためライムは部屋を四日間で取っていたのだ。
結局先日の大喧嘩で初日をふいにしてしまったわけだが、それでもまだ今日と明日、明後日と三日間は残っている。それを今からやり直そうと、そういうことだ。
「…どうする?」
ライムは返事を促すように、親指でふにふにとナマエの下唇を触り始める。──ホテルに戻るということは、そういうことなのだろう。意識した途端、心臓はどくどくと早鐘を打ち始める。
ナマエは一瞬、視線をさまよわせ。けれどまたすぐにライムを見上げると、添えられた手にそっと自身の手を重ねた。
「……行きたい」
まるで猫が甘えるように大きな手に擦り寄りながら。「ライムと、二人になりたい」と、小さく呟いた。
次の瞬間、ナマエの身体はふわりと宙に浮いていた。抱き上げられたのだと気が付いたのは、それまで見上げていたライムの顔が、胸元に移動していたからだ。
片腕に座るように抱えられたナマエは、不安定な身体を支えるため咄嗟にライムの頭へ抱きつく。
「ちょ、な、なに…っ!」
「歩いて行くの面倒だから、このまま飛んでくぞ」
「っ嘘でしょ街中飛ぶ気!?」
「まだ朝っぱらだから平気だろ」
何を言ってもライムはもう聞く気はないようで。騒ぐナマエを抱えたまま甲板に出ると、船べりへ足を掛け、迷うことなく宙を蹴り上げた。
船があっという間に、ナマエの目線の遥か下へと落ちていく。
「…ああ、そういやァ」
「な、なに…っ!」
「言っとくけど、ホテル行ったら即効で抱くからな」
「えっ!嫌だ!」
「あ゙ァ!?」
「だって!さすがにシャワーくらいは浴びさせてよ…!」
昨日は泣き明かして船に帰りそのままホンゴウと話していたため、結局風呂には入れていない。しかも昼間には荷物の搬入だってしているのだから、いくら秋島といえど汗は少しかいてしまっている。さすがにそんな状態で抱かれるような趣味はナマエにはない。
いや、ちょっと待って。そもそもよく考えてみれば、そんな状態でホンゴウのベッドを借りてしまったのか。本人がいいと言ったとはいえ、さすがに悪いことした。戻ったらシーツの洗濯を申し出なければ。
別の心配をし始めたナマエを、ライムは空を駆けながら横目で見やる。そうして同じように少し黙した後、小さく「…分かった」と呟いた。
「その代わり俺も一緒に入るぞ」
「…何に?」
「シャワーに決まってんだろ」
「なんで!?」
「じゃなきゃ入らせねェ」
ぴしゃりと言い放つライムに、「ああこれ本気のやつだ」と察する。こうなったライムは絶対に譲らないということを、ナマエは嫌というほど知っていた。
確定してしまった未来にナマエが顔を青褪めさせていると、「つーかよォ…」と、やけに低い声が響く。
「なんでお前からホンゴウの匂いがぷんぷんすんのか、まずそっから説明してもらわなきゃだしなァ…?」
ひっ、と喉から空気を漏らし身体を強張らせたナマエに、「なァにビビってんだよ」と八重歯を見せ笑うライムの顔は、すっかりいつも通りに見える。その分とても恐ろしかった。
けれどそれと同時に、ライムがこうしてあからさまに嫉妬しているというこの状況を、少なからず嬉しいと思ってしまっている自分もいて。昨日ホテルで「嫉妬してんのか?」と言ったライムがどこか嬉しそうにしていたことも、ほんの少しだけ分からなくもないと思ってしまった。そんなこと、絶対に言わないけれど。
ナマエは俯いた首を上げ、瞬く間に遠ざかっていく海を見つめる。──太陽の光に照らされ、白い空と淡い海の青が、水平線の彼方で混ざり合っている。
その景色は、初めて飛んだあの日と同じ。どこまでも遠くへと続いていた。
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