丸窓の外、カーテン越しにうっすらと室内を照らし始めた光に、ナマエは目を開いた。
 時刻は午前四時過ぎ。夏島が近いこの海域では、この時刻で既に月がその身を隠し始め、夜と朝の境が曖昧になってくる。
 目を覚まし即座に感じた不快感に、ナマエはまだわずかに強張っていた眉間にみちりとしわを寄せた。寝間着のキャミソールから出た肌をじんわり湿らせる汗。けれど逆に渇いてからりとした喉。夏島特有の湿度の高さが、こんな早朝から既に襲ってきているらしい。
 起き上がり、ベッドサイドテーブルのグラスに手を伸ばすと、中の水を一気に呷る。けれど眠る前に入れておいたそれは、この暑さですっかり温くなってしまっていたようで。多少喉の渇きはなくなったものの、身体の内から冷えていく感覚はまったくと言っていいほど起きなかった。
 少し迷って、ゆっくりとベッドから抜け出す。この不快感の中もう一度眠る気にはなれなかったし、かといってベッドの上で無駄に過ごすくらいなら、この時間には既に稼働している厨房の手伝いをした方がいいだろうと思ったからだ。
 適当にスリッパをつっかけると、薄手の上着を一枚羽織る。気怠い身体でのそのそと部屋を出ていった。


 ナマエの部屋は甲板から続く廊下の突き当りにある、元倉庫を改造して作られている。向かって左隣の二部屋は今現在も倉庫として使用されており、さらにその隣にはホンゴウの私室、医務室、もう一部屋といった風に、このエリアには計六つの部屋が存在している。
 波の音がかすかに響く静かな廊下を、甲板に向かって歩いて行く。ホンゴウの私室と医務室を過ぎ、隣の部屋に差し掛かったとき。ふと中から小さな話し声が聞こえ、ナマエは思わず足を止めた。
 その部屋は、他より幾許か広めの倉庫だ。ただ厳密にいえば他とは少し異なっていて。体裁としては一応倉庫ではあるのだが、そこは別名、"大幹部専用談話室"とも呼ばれてた。
 そう呼ばれるに至った経緯は、十年以上前。それこそナマエがこの船に乗るずっと前の、赤髪海賊団が結成されたばかりの時分。船員といえばまだ現在の大幹部の面々だけで、なおかつ彼らもまだ大幹部とすら呼ばれていなかった頃のこと。
 敵船から奪ったもの、上陸した島で見繕ったもの、時には、幼い女の子が戦闘時に身を隠し。長い時間をかけて、彼らはその部屋に沢山の"大切なもの"を詰め込んでいき。そうしていつしかその部屋は、人が増えるにつれ様々内装を変えてきたレッド・フォース号において、ともに歴史を刻み、けれど変わらず大切な物を詰め込んだ、唯一変わらない宝箱のような場所となっていた。
 それゆえなのか独特の雰囲気があるそこは、誰でも使えるにもかかわらず大幹部以外は気を遣い立ち入らないことも多く。元々それほど広かったわけでもないことも相まって、結局食堂を挟んだ反対側のエリアにもっと大きな談話室が別で作られたのだ。大幹部以外はそこでポーカーやら酒盛りやらをしているらしい。
 つまりここにいるのは大抵大幹部の誰かで。そして時刻を考えるに、徹夜で酒盛りをしていた、といったところだろう。医務室の隣で徹夜で酒盛りとは、中々に大胆である。
 ホンゴウに怒られるぞと思いつつ、朝だからそろそろ終えろと中の人物に声をかけるため、ナマエはドアノブに手を掛けた。

「…じゃあ、ナマエのことはどう思ってんだ。まさか、好いてないとは言わねェだろうな」

 その瞬間。自身の名が聞こえたことで、ナマエはぴたりと動きを止めた。
 近付いたおかげか、中の声は先ほどよりはっきりと聞こえるようになっていて。その問いかける声がベックマンのものだと、ナマエはようやく気付くことができた。
 ならば問うたその相手は、いったい誰なのか。──会話を立ち聞きなど、仲間だからこそすべきではない。そう分かっているものの、自身の名が聞こえたとなっては気になるのは人として当たり前で。ナマエは息と気配を殺すと、さらに扉に近付き耳をそばだてる。

「…どうなんだろうな」

 そうしてすぐに続いたのは、よく知った声だった。乾いた唇がまるで確認するかのように、ほんごう、と動く。
 ──ナマエとホンゴウは、いわゆる"恋人"と呼ばれる関係だ。それはもう一年前からになるし、この船においてはもはや周知のことでもある。だから、何故ベックマンが、好きかどうかなどという、根本的な質問をしているのか。そして何故、その問いにホンゴウが言い淀んだのか。ナマエには理解できなかった。
 なにか、言い知れぬ感覚が生まれる。それは透明な水にインクが溶けていくかのように身体中に広がり。あっという間に手足の感覚を麻痺させいった。

「好きかって言われたら、そりゃ好きだ。ただそれは、仲間というか、妹としてって感じが大きくて……女として好きなのかって言われると、正直よく分からねぇんだよ」 

 淡々と続けられる言葉に、ドアノブを掴んでいた手は間抜けにもその形のまま動かなくなってしまう。掌には冷や汗が滲み、心臓はどくどくと嫌な音を立てている。それだというのに、頭だけは冷水を駆けられたかのようにひどく冷静だった。

「ただ…好きだって言われたとき、あいつ、すげぇ泣きそうな顔してて…。断ったら、泣いちまうんじゃないかと思ったんだよ」

 痛む頭に、ホンゴウの声が響く。殺した息は音もなく、唇から吐き出されていく。

「……悲しませたくなかったんだ。あいつの泣き顔は、誰だって見たくないだろ」

 ホンゴウがひどく酔っているのだと気が付いたのは、その声が、いつもよりずっと低いものだったからだ。
 この小さな談話室は、これまでの冒険の思い出が詰まった、彼らにとっては宝箱にも等しい場所だ。そんな場所だから、酒の力も相まって気が緩み、ホンゴウも本音をこぼしてしまったのかもしれない。節度をわきまえてる彼にしては珍しい酔い方だと、冷えた頭の片隅でナマエは思った。
 これがもし物語なら、ここでナマエが去った後にでも、「最初はそうだったけど、今はちゃんと好きだ。本気だ」なんて言って。勘違いをして、すれ違って。そうして最後はまた絆と想いが深まる、なんて流れが定番なのだろう。
 けれどホンゴウはそれ以上なにも言わない。いや、会話はしているのだが、先ほどの発言を否定するような言葉はなに一つ出てこなかった。ゆえにそれが真実なのだと、否応なくナマエに突き付けてくる。
 ──そうか、そうだったのか。絶望なのか、それとも冷えた汗のせいなのか。もはやなにが理由かも分からない指先の冷たさを誤魔化すように、ナマエはドアノブを、今度は壊さんばかりに握り締め。そうして勢いよく扉を開け放つと、項垂れる男の肩を背後から掴み。振り向いたその顔に、思いっきり右ストレートを叩き込んだ。




「骨はイッてねェが…こりゃしばらくの間は痛むぞ」

 真っ赤に腫れた右手に包帯を巻きながら、ベックマンは呆れた声でそう言った。

「……すみません。ご迷惑おかけしてしまって」

 ナマエは、弱々しく情けない声で苦笑いを返すしかできなかった。
 痛むとはいえ右手は曲げられるし、動かせるから折れてこそいないものの、ベックマンの言う通りしばらくは思うようには動かせないだろう。とはいえナマエはこの船の船員になった頃から、武器の扱いの幅を広げるため両利きの訓練をしていたので、それはそこまで問題ではない。おそらくベックマンが言っているのは、そういうことではないのだろうのだろうが。
 あからさまに落ちた声の謝罪にベックマンは一瞬、なにかを考えるようにナマエを見やり。そうして少しだけ、ばつが悪そうに睫毛を伏せる。彼にしては珍しい表情だった。

「…こんなの、なに一つ迷惑じゃねェさ。お前さんの世話ができるってんなら、むしろ進んでやりてェくらいだ」
「ふ…ありがとうございます。…で、いいのかなこの場合は」
「ああ」

 ようやく見えたナマエの笑顔に安心したのか、ベックマンも目尻にしわを寄せ優しく笑う。
 ──あのとき、床に倒れ込んだホンゴウの胸ぐらを掴みその顔を殴るナマエを止めてくれたのは、他でもないベックマンだった。仲間二人が目の前で、ほとんど一方的とはいえ殴り合いを始めたら止めに入るのは当然といえば当然かもしれない。それでも、騒ぎを聞きつけやってきた、ルウを筆頭とした厨房チームの面々から隠すようにナマエを私室へと連れ帰り。煙草の香りがするベッドに優しく座らせ即座に治療を始めてくれたのは、ベックマンという男だからできたことだろう。
 遅かれ早かれそうなることは分かっているとはいえ、興奮が最高潮に達していたナマエが好機の目に晒されないようにと彼が気遣ってくれたおかげで、ナマエは思っていたよりもずっと早く冷静になることができた。

「ほら、終わったぞ。あまり動かさないようにしろよ」

 包帯の端を結ぶと、ベックマンは少しかさついた指先で、労わるようにナマエの中指を優しく撫でた。氷で冷やされていた手に、じわりと体温が移る。

「……ありがとうございます」

 再び小さくお礼を言いながら、ナマエは丁寧に処置された右手をぼんやり眺める。冷静になれば、自然と思い出されるのはホンゴウのあの言葉だ。
 ──好きなのか分からない、か。いや、厳密には好きだけれど、異性としてとか恋人としてとか、そういう意味ではなかったと。
 想いを告げたのはナマエからだった。上陸した島で行われた宴の最中。医者という立場ゆえなのか、どんなときでも酒を飲み過ぎないホンゴウと、酔いが回った頃にはひとりゆっくり飲むのが好きなナマエが、騒ぐ野郎共を見ながら、店の片隅で二人で飲んでいたとき。「わたし、ホンゴウが好き」と、そう告げたのだ。
 確かに酒の勢いもあった。けれど気持ちは嘘ではなかった。それをホンゴウも分かっていたのだろう。告げた瞬間、目をまんまるにしてナマエを見ていたのだから。
 その後、ナマエの想いをホンゴウが受け入れ、ふたりは恋人同士となった。それが、約一年前のこと。
 今日こうなるまで、買い出しの延長ではあったけれど島に降りる際にはデートのようなものだってしていた。ふたりでバーに行ったり、あてもなく街中を歩いたり。手も繋いで、キスだって、セックスだってしていた。
 それでもホンゴウには、ナマエに対する気持ちが、家族以上のものはなかったと。そういうことらしい。
 ──そうか。ホンゴウは、好きでもない相手とセックスができてしまうのか。私はホンゴウが好きだから、キスもセックスもしたんだけどな。
 一方通行で独りよがり。なにも知らぬ馬鹿な女が、ひとり浮かれていただけ。そのあまりの滑稽さに、ナマエは思わず「はは、」と乾いた笑いを浮かべる。

「…ナマエ、」
「ホンゴウは…、」
「……」
「…ホンゴウは、怪我とか、大丈夫ですかね」

 気遣うように名を呼んだベックマンを遮り、ナマエは呟く。それにベックマンは少し険しい顔をした後、項垂れるナマエの頭を優しく撫でた。

「……ありゃ殴って当然だ。お前はなにも悪くねェよ」
「…はは……副船長にそう言ってもらえると、なんだか気が晴れますね」

 一方的に殴られたにもかかわらず、ホンゴウはナマエを殴り返さなかった。厳密には、"相手がナマエだと認識した途端、殴ろうとするのを止めた"の方が正しいのだが。
 もし仮にホンゴウが本気でナマエに殴りかかれば、今頃ベッドの上から上から動けなくなっていただろう。ナマエとて別に殴られたいわけでも、痛い思いをしたいわけでもないから、その点については、今となってはある意味ありがたかった。
 けれど気に食わなかったのは、相手がナマエだと認識したその瞬間、ふっと、どこか諦めたようにな顔をして。そうして、"悪いのは自分なので受け入れます"といった風に取られた、その態度。それが余計にナマエの神経を逆撫でした。まるで、すべて分かっているのだとでも言いたげな、その態度が。
 ──好いた男に、好きでもない女の相手をさせたことに対する申し訳なさ。騙されていたという憤り。床に押し倒した瞬間見えた、悲し気な表情への果てしない後悔と、すべてが真実なのだと言外告げていた、ホンゴウの、あの瞳。
 冷静になったと思っていた脳内は、どうやらそうではなかったらしい。すべての想いがそれぞれ相反して、ひたすらに感情を殺してしまっているだけだった。

「…でも、朝から騒がしくしちゃったのは良くなかったですから…それについては、ルウさんにも…皆にも、謝っておきます」
「…あいつはどうするんだ」
「……頭の中整理したら…ちゃんと言いたいこと、言います」

 大丈夫ですよとナマエは小さく笑みを浮かべた。それが線引きの意味合いを含んでいることに気が付いたベックマンは「…そうか」と呟き。それ以上はなにも言わなかった。

「…私、部屋に戻ります。色々と…ありがとうございました」

 ゆっくりと立ち上がったナマエは、もはや謝罪にも似た何度目かの礼を言うと、背を向け逃げるようにベックの部屋を出ていった。


 船はとっくに日常へと戻っていた。仕事のため甲板を駆け回る船員たちの邪魔にならぬよう、ナマエはわずかに身を屈めながら、その端をすり抜けていく。
 早朝からあれだけ騒いだのだから、詳細を知らないとはいえ噂にはなっていてもおかしくはない。にもかかわらず皆探るような瞳ひとつ向けてこないのは、おそらくシャンクスをはじめとした大幹部たちの一言があったのだろう。それに申し訳なさを感じつつ、やはり気遣いはとてもありがたかった。
 談話室、医務室とホンゴウの私室の前を足早に通り過ぎ。辿り着いた私室の扉の、開いたわずかな隙間に身体を滑り込ませ。即座に後ろ手で鍵を閉めた。
 一連の出来事など知るはずもない部屋は、当たり前だが朝と何ら変わらぬ状態で。それを見た瞬間、ふっと緊張の糸が緩み。ナマエはもたれかかるように扉に背を預けた。
 小さく息を吐けば、まるでそれが栓だったとでも言うように瞳から涙がこぼれ出す。あ、と思ったのも束の間、一度出たそれはもはや止まることなど知らぬとばかりに、古びた床板に次々とまるい痕を作っていった。
 けれどそれを拭う気にすらなれず。ナマエはベッドへふらふらと近付くと、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。

「…痛い」

 弾んだ拍子にわずかに打ち付けた右手が、今さら痛みを自覚したらしく、じくじくと熱を持ち始める。
 振り払うように、ナマエはゆっくりと瞳を閉じる。──今はもう、なにも考えたくはなかった。





「ホンゴウ」

 翌日の早朝。皮肉にも昨日と同じ空模様の中、ナマエは甲板に立つ後ろ姿に声をかけた。
 規則正しい生活を心がけているホンゴウは、この時間帯には起床しているのが常だ。ならばそれを見計らえば、他者の目を気にすることなく話ができると踏んでいたのだが、どうやら当たっていたらしい。とはいえ不寝番や酒盛りで一夜を明かした連中もいるため、完全に二人だけというわけにはいかなかったのだが。

「ナマエ…」

 驚きと多分の戸惑いを含んだ声と共に振り返ったホンゴウの左頬には、大きな白い絆創膏が張られている。ナマエが殴った痕だろう。避ける間もなく受け止めさせてしまったからか、それなりに大きな怪我だったらしい。

「……昨日はごめん。いきなり喚いて、殴ったりして」

 ゆっくりと紡がれた言葉に、ホンゴウの瞳が困惑の色を浮かべる。どうして、という声が聞こえた気がしたけれど、ナマエはそれに構うことなく続ける。

「ホンゴウが今まで、私のためにやってたって分かってたのに、冷静になれなかった」

 ──悲しませたくなかった。泣き顔を見たくなかったのだとホンゴウは言った。その言葉は残酷さを感じさせると同時に、ナマエという人間に対する、どうしようもないほどの優しさも孕んでいたのだと、いやに凪いだ今の心ではそう思えた。
 だってそうでもなければ、一年という決して短くはない間。"傷付けたくない"という、たったひとつの想いだけでそばにい続けることなど、到底できるわけもないだろう。
 その選択は、おおよそ一般的な"優しい"の定義とは異なるかもしれないけれど。それでも確かにナマエにとっては、あの幸せな日々をもたらしてくれたホンゴウの選択は、"優しいもの"だったのだ。
 つい先日殴ってきた相手が謝罪をし、自身のこれまでの行いを咎めることもせず。それどころか意を汲んだかのような発言をしてきたことに、ホンゴウは心底驚いていた。
 けれどすぐに、その顔はぐにゃりと歪む。それが罪悪感からくるものだということをナマエはよく分かっていた。それが余計に、ナマエを惨めにさせる。

「俺は…、」
「でも、私のことを本気で考えてくれてるなら、それは止めて」

 遮り、ナマエは用意してきた言葉を必死に吐き出していく。なるべく冷静にと思っていた声がそれでもわずかに震えてしまっていることに、きっとホンゴウは気が付いていない。

「今まで、無理して付き合わせてごめん。そういうのは、もう、しなくていいから」

 決定的な言葉ではなかった。けれどそこに含まれたものがなにを意味しているのか、今度は気が付いたようで。ホンゴウは言葉を詰まらせた。たった数歩の距離にいるはずなのに、息を吐く音さえ聞こえなかった。

「…話はそれだけ。朝からごめんね」
「っ、待て…!」

 視線を外し、ナマエはホンゴウに背を向ける。一刻も早くこの場から離れたかったが、腕を掴まれたことでそれは叶わなかった。

「…どうしたの」

 薬品で少しかさついた手の感触に、ナマエは一瞬、わずかに眉根を寄せ。けれど動揺する心中を悟られぬよう淡々と尋ねる。
 それは思っていたよりもずっと冷たいものになっていたらしく。向けられたホンゴウの瞳が、動揺で微かに揺らめいていた。

「っどういう意味だ、それは…」
「どういうって…」

 まさか、あれだけのことがあったにもかかわらず、同じように過ごせるとでも思っているのだろうか。ホンゴウはこんなにも察しの悪い、いやそれ以上に、人の感情を蔑ろにするような男だっただろうか。

「…本気で分からないの?」

 努めて冷静でいようとしていた声音は、いよいよ低いものとなっていた。あからさまな怒りと、敵意をむき出しにしたかのような声を返されたことに、今度こそホンゴウが大きく目を見開く。
 動揺から緩んだホンゴウの手を、ナマエは逃げるように振り払う。払われたそれは所在なさげに、ふらりと宙を舞った。
 ホンゴウ、と。震える声で名を呼ぶ。こんなに感情が入り混じった声音で男の名を呼ぶのは、きっとこれが最後だと、ナマエは頭の片隅でぼんやりと思った。

「…今までありがとう。……好きになって、ごめん」

 言ってナマエは踵を返す。そのときホンゴウがどんな顔をしていたのかは分からない。けれど彼は逃げるナマエを、今度は追おうとはしなかった。
 ──死に別れたわけでも、二度と会えないわけでもない。なにも変わらない。ただ、ホンゴウの隣に立つことはなくなっただけ。恋人という肩書を失っただけ。心から愛していた男への想いを、捨てるしかなかっただけ。
 ホンゴウは、もう好きでもない女を情で抱かなくて済むようになる。ナマエは、好きだった男に、知らぬうちに情で抱かれるような虚しさを捨てられる。
 この物語の結末は、それで充分だ。





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