船に乗ってまだそれほど経っていない頃、常に左右上下揺れている感覚と、波が船底に当たる振動、船首がごうごうと風を切る音に、眠れぬ夜を過ごすことが何度かあった。
昼間には人の話し声の方が大きい事もありほとんど気にならないはずのそれらが、こうして夜になる度耳に付くのは、唯一の女だからと与えてもらった個人部屋が、他部屋とは離れた場所にあるからかもしれない。あとはおそらく、育った環境的にも夜は騒がしいことが常だったこととか、そもそもまだ深い関係を築けていない男たちに囲まれることに、無意識のうちに気を張っていて。それが夜まで続いてしまっていることだとか。きっと様々な要因が関係しているのだろう。
それでも人間、眠らなければどこかで支障が出てしまうわけで。意識を深く落せぬ夜が二日ほど続いた、ある日のこと。ナマエは散々迷った末、深夜一時過ぎに医務室の扉を叩いていた。この部屋のある主──船医のホンゴウに、睡眠薬を貰おうと思ったからだ。
「誰だ?…ああ、ナマエか」
けれど小さな返事と共にホンゴウが出てきたのは、ひとつ右隣の私室の方だった。思いもよらぬ方向からの声に、ナマエはぎくりと身体を強張らせる。
「あ、えっと…ごめんなさい、寝てたかな……」
「いや、まだ起きてた」
戸惑うナマエにホンゴウは小さく返しながら、ゆっくりと部屋から出てくる。
窓もない廊下はうす暗く、わずかに灯るランプの鈍いオレンジ色だけが頼りで。だから目の前にやって来たホンゴウが、寝間着らしきグレーのスウェットを着ているということに、ナマエはそのとき初めて気付くことができた。
「どうした?…眠れないのか?」
ホンゴウは小首を傾げながら訊いてきた。無造作に下された髪がはらりと揺れ落ちる。普段からは想像できないほど優しいその表情と声音に、ナマエは無意識のうちにほっと胸を撫で下ろしていた。
「うん…揺れてる感覚というか…そういうのに、まだ慣れてなくて。……だから、睡眠薬とか貰えたらなって、思ったんだけど……、」
けれどその表情は付け足された最後の一言で険しいものへと変わってしまう。途端、ナマエの脳内に浮かんだのは後悔だった。
船での薬はどんなものであれ貴重だ。いち新人が、船の生活に慣れてないからなどという理由で渡すわけにはいかないだろう。──そんな簡単なことが思いつかなかったとは。どうやら自分で思っている以上に、眠れないことに疲れ焦ってしまっていたらしい。
「…ごめんなさい、やっぱり大丈夫。気のせいだった」
ぱっと笑顔を作り謝ると、ナマエは踵を返し、そそくさとホンゴウの横を通り過ぎようとする。
「あ、待て待て」
けれど何故か今度はホンゴウの方が慌てたようにナマエの腕を掴んだ。突然身体を引かれ、軽くたたらを踏む。
驚き顔を上げれば、しかめ面はすっかりなくなり。代わりに眉尻を下げ、ひどく安心感を覚えるような、そんな優しい顔をしていた。どうやら怒っているわけではないらしい。
「眠れねえからってすぐ薬を出す、ってのは船医としてできねえけど…その代わり、もっといいもん飲ませてやる」
「…いいもの?」
「ホットミルク。甘いの作ってやるよ」
言いながらホンゴウは、「おいで」とナマエの手を引き、自身の部屋へと招き入れた。
船内を案内してもらったときに大幹部の私室があるエリアの説明はされたが、いくつか並んだ扉の前で、どこが誰の部屋なのかをそれぞれ聴いたくらいで。ナマエがホンゴウの私室に入ったのはこれが初めてだった。なんだか物珍しい感覚で、無作法だとは理解しつつ、ナマエはきょろりと部屋の中を見渡す。
枠やガラスも綺麗に掃除された丸窓の下には横長の机が置いてあり、上にはいくつかの書類の束が積まれている。横には天井まである背の高い扉付きの棚が二つ。一つには薬瓶が、もう一つにはアルファベット順に本が収められていた。そしてその正面、反対側の壁の隅には、三角形の手洗い場が、壁付けの小さい棚と共にちょこんと存在している。私室の一室に手洗い場だけがあるというのは少し違和感を感じたが、立場的にも手を洗うことが多いからなのかもしれないと思えば、それも納得できた。
複数のベッドを置くため広く作られている隣の医務室とは異なり、ホンゴウの部屋はナマエの部屋とさほど変わらない広さだった。むしろ小さいとはいえ個別の水回りがある分、ナマエの方が広い可能性さえある。
それでも、物が多いはずのここがどこかすっきりして見えるのは、綺麗好きだというホンゴウが普段から整理整頓をしているからなのだろう。彼の細目な性格が表れている、そんな部屋だった。
「ここ、座ってくれ」
物珍しそうにしているナマエを微笑ましい顔で見ながら、ホンゴウは椅子を引きずり寄せ、そこへ座るよう促した。ナマエは言われるまま、差し出された椅子に腰掛ける。
肘掛の付いた木の椅子は長いこと使っているのだろう。ところどころ傷があったり塗装が剥がれたりしていたが、むしろそれがどこか落ち着きを感じさせる要素となっている。ホンゴウがこれを大切にしているということは、聞かずともすぐに分かった。
肘掛についた小さな傷をすり…と撫でてみれば、ホンゴウが「いい椅子だろ?」と得意げに口角を上げる。
「書類仕事とかで、けっこう座りっぱなしってことも多くてな。ベック…副船長が見繕ってくれたんだよ」
「だからあいつの部屋にも同じものがあってな」と思い出話をするように話しながら、ホンゴウは手洗い場の上の壁に取り付けられた小さな棚の中から、マグカップを二つと、何故かビーカーを一つ取り出した。
それらを軽く洗い布巾で拭くと、そのまま部屋の反対側にある横長机の下へと身を屈める。──壁に寄せられた机の足元。そこにはなにやら、マットシルバーの箱が置かれている。
木製のものが多い船内で少し異質なそれにナマエがこの瞬間まで気付けなかったのは、今しがた座っている椅子がしまわれると、それが目隠しとなりちょうど隠れるであろう位置に置かれていたからだった。
海賊船の名の通り、まるで宝箱のように隠されてた箱の側面に触れると、ホンゴウは慣れた手付きでそれを開いた。そこでようやく、その箱が小さな冷蔵庫なのだと気が付く。ナマエは思わず「冷蔵庫だ…」と呟いてしまった。
「これも書類仕事の息抜き用」
まるで悪戯をする子供のように笑いながらホンゴウが中から取り出したのは、白い液体が半分ほど入った瓶だった。入れ物的に中身はおそらく牛乳だろう。
「…食堂の冷蔵庫って、大きなやつと、個人が買った用に入れるやつが、それぞれあったよね?どうして部屋にもあるの?」
「でかいのは食材用だからルウが厳しく目光らせてんだけど…もうひとつは、入ってるもん勝手に食っちまう奴がいるからな」
その人物を思い出しているのだろう、今にも舌打ちをしそうな苦々しい顔をするホンゴウに、ナマエはつられて「うそぉ」と笑い声を漏らす。
「名前書いてても食べられちゃうの?」
「いや、名前書いてあるやつはさすがに食われねえけど…ただ、こういう飲み物系はな。ちょっとくらい減っても気付かねえだろって魂胆で飲んじまうんだ、あいつは」
いよいよ、"奴ら"と複数形ではなく、"あいつ"といち個人を指し始めた。そういえば、この前宴の席でライムジュースが冷蔵庫を漁っていたことを思い出す。あいつ、とはきっと彼のことなのだろう。
即座に思い浮かんだ人物に「それは大変」とナマエはくすくす笑い。ホンゴウもまた、ようやく緊張が解れたナマエの様子に「だろ?困ったもんだよ」と笑い返した。
「ナマエ、これに牛乳二人分入れておいてくれるか」
言ってホンゴウは先ほどの牛乳瓶と、洗ったビーカーを渡してきた。
「…まさかビーカーで温めるの?」
「…ちゃんと洗ってあるし、そもそもこれは薬作る用とは分けてるから平気だぞ?」
そう言いながらも逃げるように目を逸らす様から察するに、器具を使って飲食をする常習犯なのだろう。ホンゴウはむしろ医者としてそういうことをする人物を怒りそうだと思っていたが、どうやらナマエのイメージとは違う面がまだまだあるらしい。
ナマエは「そういうことじゃないと思うよ」と言いながら、牛乳をビーカーに入れていく。
「ホンゴウ、牛乳少し残りそうだけど、どうする?」
「ん?ああ、全部分けて入れていいよ」
「全部飲んじゃってもいいの?」
「中途半端に残しておいても仕方ないからな」
話しながら、ホンゴウはベッドの下から"アルコールランプ一式"と書かれた箱を取り出すと、机上に積み重なった書類を端にまとめ。空いたスペースへと置いた。
牛乳を入れ終えそれを目で追っていたナマエが「まさか…」と再び呟くと、ホンゴウはまたしても「安全面はちゃんとしてる」と被せるように言った。もはやなにも言うまいとナマエは思った。
ホンゴウは慣れた手付きで、鉄製三脚の上に正方形の小さい金網、そしてナマエから受け取ったビーカーを置くと、引き出しからマッチを出し。アルコールランプへと火を着けた。
「火が弱いから、普通にやるよりちょっと時間がかかるんだけどな。まあのんびり待っててくれ」
ナマエは「うん」と小さく返事をすると、ゆらりと揺れる炎を見つめた。
空になった牛乳瓶を手洗い場に置くと、ホンゴウもそれ以降なにも言うことはなく。二人の間に沈黙が流れた。深夜の静かな部屋に、波の音と、わずかに木が軋む音だけが響く。
「……でも、よく個人用の冷蔵庫なんて許してもらえたね」
いっそ炎が空気を吸い込む音さえ聞こえてきそうなほどの静寂に、何故だか妙な気まずさを感じ。ナマエは無理やり先ほどの話題を掘り返した。
いくら勝手に食べられてしまうとはいえ、これほどの大所帯で一人だけが、一応嗜好品として扱えてしまうであろう冷蔵庫の所有を許されているとなると、他の者たちから「自分も欲しい」という声が上がってもおかしくはないはずだ。
ましてやこの船には大酒飲みと大食漢が多い。そんな嗜好品もどき、経費が勿体ないと即座に切り捨てられそうなものだが。
ナマエの疑問にホンゴウは「ああ、それな」と苦笑する。
「低温保存が必要な薬もあるから、それ用って申請した」
「…つまり嘘をついた、と」
「…内緒な」
しー、と口元に指を立てるホンゴウに、ナマエは「じゃあ私も秘密のもの、しまわせてもらおうかな」と軽口を叩く。
「そうだな。ナマエならいいよ」
つり上がった眉尻と眦がほんの少し、へにゃりと下げられ。けれど口端だけは、仕方ないなとばかりにゆるりと上げられている。とても優しい声音と柔らかな顔で、ホンゴウは呟いた。
──ナマエの故郷は、海賊を相手にした娼館を数多く有した島だった。母はとある店の従業員で、生まれてからナマエは"店の子供"として育てられた。運よくというべきか、年頃になり客を取る前にこの船に乗ることとなったためそういった経験はないが、行為にいきつく前、ムードを作るため男が女を口説く様や雰囲気というものを、嫌というほどよく知ってる。
だからホンゴウの今の言葉には、所謂そういった意味が一切含まれていないことなど、本当はすぐに分かっていた。それでもこんな雰囲気で、顔で、声音で言われると、心臓が小さく跳ねてしまうのは、仕方のないことだろう。
ナマエはわずかに赤くなっているであろう頬を隠くすよう俯きながら「…じゃあ、今度なにか持ってくるね」と、なんとか返す。
「ん。…お、もう良さそうだな」
つられてビーカーを見れば、縁にふつふつと小さく泡ができていた。ホンゴウはビーカーを布を使い持ち上げると、先ほど用意した二つのマグカップへ、温まった牛乳を注いでいく。
ナマエは受け取ろうと手を伸ばす。けれどホンゴウは「もう少し待ってくれ」と言うと、今度は冷蔵庫横の棚から、蜂蜜のボトルと、細工が美しいボトルを取り出した。
「…ブランデー?」
ボトルにラベルはなかったものの、揺れる琥珀色と蓋を開けた瞬間鼻をくすぐった嗅ぎ慣れた強い香りに、中身はすぐに分かった。
「ああ。ベックから少し分けてもらったんだ」
きゅぽっと小気味よい音を立ててガラス栓を抜くと、ホンゴウはそれを牛乳と同じようにマグカップの中にゆっくりと注いでく。そのうち一つの方には蜂蜜を多めに落とし。それらをスプーンでくるくると混ぜながら、「お待たせ」とナマエに差し出した。
「…ありがとう」
「火傷しないように気を付けろよ」
「うん」
小さくお礼を言い何度か小さく息を吹きかけながら、ゆっくりと口を付ける。
苦みを帯びた芳香が鼻へと抜ける。けれどそれはすぐに蜂蜜の甘さに覆われ。相反するふたつが柔らかな温かさを帯びながら、するりと喉を通っていく。そうして口内を満たす、わずかな苦味と甘さの余韻。わずかに冷えていた手足の先やお腹の中までが、陽だまりにいる時のようにぽかぽかと温かくなっていく。とろりふわりと全身を包み込んだ心地よさに、ナマエは思わず、ほうと息をついた。
「うまいか?」
「うん…美味しい。ホンゴウ、職人になれるかも」
「はは、そりゃいいな。海賊からホットミルク職人にでもなるか」
「お頭が泣くよ」
「そうしたらあの人の酒、全部牛乳に変えられるだろ。健康にもいいしな」
くつくつと笑いながらホンゴウもマグカップを傾け。「ん、確かにうまいな」と満足げに小さく息をついている。それを横目で見ながら、ナマエは長いまつ毛を伏せる。
「…ごめんね、急に訪ねちゃって。我慢していればよかったんだけど…昨日もうまく眠れなくて。連日ともなると、さすがに日中がしんどくなっちゃうと思って……」
温かさに心と身体が安心したからだろうか。ずっと気がかりだったことが、ふと口を衝いて出ていた。
どこか今にも泣きそうに眉尻を下げたナマエに、ホンゴウは「別に構わねえよ」と柔らかく返す。
「むしろ昨日も来ればよかっただろ」
「そう何度も頼るわけにはいかないよ」
「頼れよ。そのため俺なんだから」
またこの男は。先ほどの発言といい、これは天然なのだろう。ある意味才能と言ってもいい気さえしてくる。
もはや珍しいものを見るかのような目をするナマエに気付かず、ホンゴウは「そういや、考えてみたんだけどな」と思い出したように続ける。
「さっきお前は、船の音が気になって眠れないって言ってたけど…たぶん原因はそれだけじゃないんだよ」
ホンゴウは甘くないそれを一気に飲み干し。そうして少しだけ真面目な顔でナマエを見やる。
「見てて思ったけど、お前はコミュニケーション能力に長けてる」
「え、あ、ありがとう…?」
「ああ。とはいえ入ったばかりの、しかも野郎ばっかの中で話すってのは、普通に気ィ張るもんだろ」
「うん…」
「ましてやお前は女だ。コミュニティの中でその属性が"自分一人しかいない"っていう状況だと、緊張感はより一層強いもんになっちまうんだよ」
くわえて慣れぬ船の生活。結果その緊張感を夜まで引きずってしまい、なかなか眠れない、たとえ眠れたとしても浅いためすぐに目を覚ましてしまう、ということを繰り返していた、と。まるで自身のことのように、ホンゴウは淀みなく述べていった。
「……ホンゴウは医学だけじゃなくて、心理学もかじってるの?…それとも医者じゃなくて、そもそも全部分かる占い師とか?」
「はは、なんだそれ。…まあでも確かに、お前が仲間になってからは少し勉強してるよ」
分かりやすいようにと言葉を選び、その上かなりかいつまんだ説明ではあったが、それでも感じていた不安をすべて言い当てられ。ナマエはまるで心を見透かされたような気持ちになる。
けれど不思議なことにそれに嫌悪はなく。むしろそこまで気遣ってくれていたのかと、ナマエは嬉しさと、同時に心の奥底から湧き上がるむず痒さに、思わず下唇をきゅうと噛み締めた。
「…あ、ありがとう」
「ん。……だからさ、もしナマエが、こうして一対一で話す方が楽だって言うなら、俺はいつだって付き合うから」
頼ってくれよ、と。ホンゴウは言っておいて、少し照れたように笑った。──その瞬間、ナマエは当たり前のように「あ、駄目だ」と思った。
どくどくと高鳴る心臓。内側から、かっと熱くなっていく頬。わずかに痺れを感じる手足に唇。あのブランデーは毒だったのではと思ってしまいそうなそれは、けれど確かに妙な甘さを含みながら、ナマエの全身を瞬く間に支配していった。
こんな感覚をナマエは知らない。それなのに、駄目だと思ってしまった。この想いはきっと、ナマエのすべてを支配してしまう。そんな予感にも似た確信だけは、何故だかあったのだ。
「…信頼してなきゃ、こんな夜に、呼ばれたって部屋には入らないよ……」
なんとか呟くように発した声は、上擦ってはいなかっただろうか。ホンゴウは一瞬きょとんとして。すぐに「それもそうか」とどこか嬉しそうに目を細めた。
分かっているのかいないのか。図りかねる笑みに、やはりナマエの心臓は早鐘を打っていた。
「鍵、ちゃんとしめて寝ろよ」
他愛もない話は結局三十分ほど続いた。マグカップの中身をすっかり飲み干したナマエが小さくあくびをし始めた頃、「眠くなってきたか」と、ホンゴウはまるで子供にするようにナマエの手を引くと、部屋の前まで送ってくれた。
もはや、「たった数歩なのに」という言葉を。ナマエは当たり前のように喉の奥へと吞み込んでいた。
「まだ夜は冷えるから、風邪引かないようにブランケットもちゃんと上まで掛けろよ」
「心配し過ぎ。子供じゃないんだから」
「そう言うなって」
「…ホンゴウも、ちゃんと寝てね。机に沢山書類が乗ってたけど、またそれ確認し始めたりしたら駄目だよ」
「ふ…大丈夫だよ。飲んだら俺も眠くなってきたからな」
ふあ、とホンゴウはあくび混じりに返事をする。
「…おやすみ」
そうして、少しくぐもったような、心地よく低い声で小さく囁くと、優しくナマエの頭をひと撫でした。ふっと下げられた眦のしわを、ランプの淡いオレンジが強調する。
おやすみ、と返した音が、きちんと言葉になっていたのかは、もはやナマエには分からなかった。
後ろ手に扉を閉めベッドへふらふらと近付くと、そのままうつ伏せにぎしりと倒れ込む。
「…ホンゴウ」
遠ざかる足音が聞こえたのだから、とっくに部屋に帰ったことは分かっていた。それでも想いを込めた声が届くと恥ずかしいと、ナマエは小さな声で、なぞるようにホンゴウの名を呼ぶ。
少し照れたように笑うとき、つり上がった眉尻と眦が、ほんの少しへにゃりと下がる。あの優しい顔を、声を、手を。なにか一つを思い出すだけでも、ナマエの心臓は壊れたと勘違いしそうなほどに跳ね上がり。柔く締め付ける甘さに喘いでいた。
再び唇をわずかに開く。けれど今度はどうしても、その名を呼ぶことができず。代わりに熱を持った頬を枕に擦り付けながらゆっくりと瞳を閉じた。──けれど広がる暗闇に浮かぶのは、あの顔ばかりで。
寝なければと思うのに。あくびをしていたというのに。
ナマエはもう、どうしても眠れる気がしなかった。
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