目が覚めると身体がひどく重たかった。びっしょり身体を濡らす汗、張り付いた服がひどく不快で、ナマエは振り払うように勢いをつけて起き上がる。ベッド横の丸窓に引いたカーテンの隙間を覗けば、外は朝陽がすっかり昇り切り、太陽がさんさんと輝いていた。
ナマエはまだわずかに強張っていた眉間に、これでもかというほどしわを寄せる。──今日も腹立たしいほど、いい天気になるのだろう。
「…最悪」
舌打ちと共に呟いた言葉が、湿った室内へ虚しく響いた。
ナマエは船尾に植えられたヤシの木に背を預け、ぼんやりと水平線を眺めていた。
海を割り開き進む船の軌跡を追うように、イルカの群れが泳いでいる。耳にはカモメの声が響き、嗅ぎ慣れた潮の香りが鼻をくすぐりながら、やわく頬を撫でていく。まさしく、爽やかの一言がぴったりな気候だった。
こんな日にはアイスコーヒー片手に、外で静かに読書をするのもいいかもしれない。もしくは心地よさに身を任せ眠るか。なにせこの場所は保存用の木箱や樽が積まれているうえ、角度にもよるがヤシの木の影響で大きな影ができることもあり。用がなければ来ないような場所なのだ。その分静かに過ごすにはうってつけ、というわけだ。
けれど皮肉なことにそんな気がまったくと言っていいほど起きないのは、どう考えても今日見た夢のせいだろう。おかげで思い出さなくてもいいことまで連鎖的に思い出されてしまい。ナマエは朝から何度も眉間にしわを刻むこととなったのだから。
あの出来事──もはや事件と呼んでいい気さえするが、あれからちょうど一週間が経っていた。しかし二人が別れたことは、意外にも船内では広まっていない。
というのもナマエはあの日からホンゴウに対し、これまで──それこそあんな事件が起きていなかった頃と、何一つ変わらない態度を貫いていたからだ。
もちろん恋人の甘いあれそれなどは一切抜きにしたものではあるが、そもそもそういったことは他人に見せるようなものではない。ゆえに周囲からしてみれば、双方明確に「別れた」という、まるでティーンの恋愛のような宣言がされていない以上、犬も食わない、少し激しめの喧嘩で終息したのだろうと、そう思っているのだ。
もう一人の当事者でもあるホンゴウも、そんなナマエの態度に戸惑いつつ。けれどことを荒立ててはいけないとばかりに、変わらずナマエと接していたというのも、そう終息した理由のひとつなのだろう。
仮に、ことのすべてが露呈していたとして。別れを告げたのはナマエからとはいえ、そもそも彼女の方が、最初から恋人たる対象にすらされていなかったという事実を周囲が知れば、どんな目を向けるかなど想像に容易い。
それだけはどうしても嫌だった。憐憫の目でなど見られたくはない。なにも気付けなかった馬鹿な女の、最後の意地だった。だから、後先考えず殴っておいてなんだが、こうして何事もなかったかのように終息してくれたのは、ナマエにはとてもありがたかった。
首をもたげ空を見上げる。ヤシの木越しに見えた空は高く、どこまでも清らかに輝いている。けれどこんな想いを抱えたまま見つめ続けると、その清純さが濁ってしまうような気さえして。ナマエは逃げるように瞳を強く閉じた。
「ひっでェ面してんなァ」
暗闇に声が響く。波の音にかき消されなかったそれは言葉のわりに、からかうような色は含まれていなかった。
「…怒るよ」
それでもあまりに遠慮のないその言葉に、ナマエは閉じていた瞳をうっすらと開き声の主をねめつける。
強い視線を向けられることは分かり切っていたようで。声の主であるライムジュースは「怖ェな」と小さく笑いながら、ナマエの右隣に置かれた木箱の上にどかりと腰掛けた。
「もっと落ち込んでんのかと思った。案外普通だな」
なにしに来たのと訊こうとした口を、ナマエは寸前のところで閉ざした。その言葉だけで、ライムがここに来た理由などすぐに分かったからだ。
「…そうね。もしかしたら、一発殴れたからかも」
ナマエは一度、横目でライムをちらりと見上げ。すぐに視線を前へと戻すと、頬をひくつかせ嗤う。
冗談めかした言葉を選んだのは、あんな夢を見てしまったことへの、わずかな嫌悪感からだった。いや、むしろ一週間という、それなりに冷静になれそうな時間を置いたからこそ見てしまったのかもしれない。
よりにもよってあんな別れ方をした後に、それと正反対の、恋慕の情を抱いたときの夢を見るなんて。いったいどんな精神構造をしているのだと、我が脳みそながらナマエは怒りさえ覚えていた。
これもきっとホンゴウなら、精神的うんぬんと言い出すのだろう。あのときだって、緊張感がどうとか言っていたっけ。──そこまで考えて、またあの日を、夢を思い出していることに、はたと気付き。ナマエは再び、最悪と口内で苦虫を噛みつぶした。
「…そういや、聞いたことなかったけどよォ、」
「なに…」
しばらくの沈黙の後、ライムがふいに口を開いた。
「お前らって、いつからそうなったんだ?」
ナマエがホンゴウに恋慕を向け始めたときも、それこそ二人が交際を始めたときでさえ、ライムはなにも尋ねようとはしなかった。その意味するところをナマエは知らなかったが、彼の性格的にも、たんに身内のそういった話を聞きたくないだけだろうと思っていた。だから突然の質問に、ナマエは驚いたようにライムを見上げる。
見られていることは気付いているだろうに、ライムはナマエと顔を合わせようとはしない。その瞳は変わらず水平線を眺め続けている。
ライムがなにを考えているのか、今のナマエには図りかねた。けれど訊かれた以上答えないわけにもいかず。ナマエはいやに乾いた喉をなんとか振るわせながら、少し掠れた声で返事をする。
「…宴のとき」
「酒の勢いかよ」
「違うから…」
その言い方だと間違いを犯したように聞こえるだろう。とはいえこうなってしまった今では、それも的外れな表現ではないのかもしれないが。
「……私、ゆっくり飲むのが好きだから、端っこの方でちびちび飲んでたんだけど…そこにホンゴウが来たの」
遠いわけではない。けれどもはや遥か昔のことのようにすら感じられるあのときを、ナマエは思い出していく。
あの日は近海で一番大きいという、ある夏島に上陸していた。そこは酒造りが盛んで、中でもブドウ栽培に適した気候ということから、ワインやブランデーが有名なところだった。
それもあってなのか、港からほど近い場所、わずかに大通りから離れた場所、至る所に大小様々な酒場があり。酒飲みばかりの赤髪海賊団にとっては、まさに天国のような島だった。それを知ったシャンクスが早々に「店貸し切って宴するぞ!」と叫んだのは言うまでもない。
勢いそのままに、偵察班が下見も兼ねて事前にシャンクスの好む酒を置いていそうな、かつ海賊に対し嫌悪感を抱いていないであろう店を何件か見繕い。そのうちのひとつを貸し切り、夜には盛大な宴が催された。
そうして騒がしく始まった宴も、三時間ほどが経過し。静かに飲む者、未だ騒がしく会話に花咲かせる者、ひたすら食事をする者。総じて店内のあちこちに溢れ始めた酔っ払いたちを、ナマエはひとり、カウンター席の端に座り眺めていた。
宴からしばらくすると、ナマエはこうして輪から抜け出し、ひとり静かに飲むことがある。盛り上がりの最中に抜けることはもしかすると場の雰囲気を悪くしてしまう可能性もあるが、ナマエがそうして仲間の宴を離れたところから眺めるのが好きだと分かってるからこそ、周囲も無理に絡んだりしようとはしなかった。
美しい琥珀色が入ったグラスを傾ける。この席に着いたとき、バーテンダーの男性が「静かに飲むなら、これうってつけだから」とこっそり入れてくれたブランデーだ。ナマエにだけ息を潜めて言う辺り、それがこの店の中でもかなり良い酒だというのは言われずとも理解できた。とにかく量を飲みたいという男たちに渡すには少し勿体ない、といったところだろう。とはいえナマエも価値が分かるほど酒にうるさいわけでもないのだが、貰えるのであればそれはそれだ。
実際入れてもらったブランデーは、鼻に抜ける心地よい少しの甘さを含んでいて。この島のブランデーを飲むと他のものが飲めなくなるという評価の通り、思わず悩まし気な声が漏れてしまいそうなほどに最高の味だった。
それでもナマエの脳裏に思い浮かぶのは、苦みを帯びながらも、蜂蜜の甘さに覆われた、あの日の芳香。結局どんな最高の酒でも、焼き付いたあの記憶と味には叶わないのだろう。
中々に乙女チックな自身の思考回路に内心苦笑しつつ。ナマエは視線を左へと動かし、自身の肩越しに中央のテーブルを見やる。──そこにはライムとパンチ、それに彼らの部下が数人、そしてホンゴウが、もう何度目かも分からぬジョッキを傾け盛り上がっていた。ナマエはそのうちホンゴウの横顔を、息を殺し盗み見る。
つり上がった眉尻とは反対に、わずかなしわと共に下げられた眦。歯が見えるほど大きく開いた口からは、低い笑い声が響いている。可愛い笑顔だと、なんの違和感もなくそう思った。
──あの夜から、ナマエはホンゴウに淡い想いを抱いていた。それが場の雰囲気に流されたからだとか、頼れる存在を見つけて縋りたくなっただとか。もしかしたら勘違いなのではと、ナマエ自身何度も考え、懊悩したりもした。
それでも散々あちらこちらをさまよった想いが帰趨するのは、"ホンゴウに惚れている"、という、身も蓋もない事実だけで。つい最近になりようやく、ナマエはそれを受け入れられるようになったのだ。
とはいえこの気持ちを伝えるつもりはなかった。意識されていないことはホンゴウの反応から明白だったうえ、なにより、好意というフィルターを通すようになって気付いたことがある。
経緯を簡略化し簡潔に述べるのであれば、恋慕のきっかけは、優しくしてもらったということではあるのだが、そもそもホンゴウという人間は、元から"そういう性格"であるということだ。良くいえば分け隔てなく優しい、悪くいえば、八方美人といったところか。
とはいえホンゴウの場合はそこに裏があるわけではなく、純粋に本人の性格というだけなのだが。そこが余計にナマエを複雑な気持ちにさせることも知らずに。
ただ、ナマエはそれでもよかった。大きい船とはいえ、陸でない以上探せばすぐにその姿を見つけられる。そうすれば意味がなくとも話しかけることだってできるし、忙しそうであれば、手伝うと言って共に過ごすことだってできる。それもこれも、"仲間"だからできることなのだ。
だから、まるで言い訳のようにも聞こえるかもしれないけれど。たとえ恋人にならなくとも、ナマエにとってはよかったのだ。時々、こうして熱を込めた瞳で見つめることを許してもらえれば、それだけで。
正面へ向き直り、グラスを傾け最後のひと口を飲み干す。ブランデーはあれ以来、ナマエのお気に入りのひとつとなっていた。
「悪い、ナマエ。ちょっと避難させてくれ」
そうして呷った酒が喉を通った瞬間、申し訳なさげな声音と共に、件の人物であるホンゴウが隣へと座ってきた。古びたカウンターチェアが軋んだ音を立て、ナマエの右肩にわずかな衝撃が走り。同時に心臓が大きく跳ねあがる。
後ろからは「逃げんなよホンゴウー」と軽い野次が飛ばされている。それに「うるせぇっ」と返すホンゴウに、ナマエは高鳴る心臓を落ち着かせるように、小さく息を吸い込む。
「避難って…なに言われたの?」
「…お前までそうやって詰め寄るなって」
吸い込んだ空気を、呆れを含んだ笑みとして吐き出せば、ホンゴウは勘弁してくれと言わんばかりの顔で弱々しく呟く。それに「ごめんごめん」と小さく謝りながら、ナマエは空になったグラスへの追加と、ホンゴウへの新しい一杯を店員へ頼み。今度は静かに会話を、と改めてグラスを合わせた。
──そうして他愛もない話をしながら、お互い静かにグラスを傾け。その中身が結局二回ほど入れ替わった頃だっただろうか。
会話の最中、ふと見た左隣。──肩を丸め、カウンターに頬杖をつきながら、ホンゴウはひどく優しい顔で、ナマエの言葉に耳を傾けている。わずかに細められた瞳と、しわの寄る眦、輪郭を、ランプの淡いオレンジが強調していた。
「…ホンゴウ」
気が付けば名前を呼んでいた。ホンゴウも酔っているのだろう。会話の最中脈絡もなく呼ばれたにもかかわらず、少し目を蕩けさせながら「ん?」と小首を傾げている。
優しい顔だ。あの夜、招かれた部屋で見た顔。好きだと、そう思った、あの顔──。
「…わたし、ホンゴウが好き」
恋人にならなくても仲間としていられるのならいい、時々熱を込めた瞳で見つめることを許してもらえれば、それだけで──なんて。音に、声にした途端、そんな考えはナマエの中から消え去っていた。
気が付いたら口から出ていた。ほとんど勢いに任せた告白に、ホンゴウは分かりやすく身を強張らせた。その動揺と戸惑いを表すように、口元は迷ったように開き、けれどまた閉じてを繰り返している。
会話が途切れた途端、それまで気にならなかった周囲の声がひどく耳に付いた。遠くで呂律の回っていない言葉が響き、ジョッキを勢いよくテーブルに置く音が聞こえる。騒がしいなと、ナマエは頭の片隅でぼんやり思う。
それでも、ホンゴウが息を小さく呑む音は、ひどくはっきりと聞こえ。ナマエは無意識のうちに身体を強張らせていた。先ほどまでの酔いも勢いもどこへやら。身も心もすっかり委縮してしまっているようだった。
わずかな後悔は黒い靄となり、ゆっくりと、それでも確実に広がっていく。ナマエはそれに気付かないふりをしながら、高鳴る心臓ごと靄を抑え込むように、強く手を握り締め。それでもまっすぐにホンゴウを見つめた。
不安だという想いを全身から滲ませているにもかかわらず、逸らされることのないナマエの青い瞳から、ホンゴウは一瞬、逃げるように目を伏せる。数秒俯いた後、視線を戻し。そうしてまっすぐにナマエを見つめ返し、それから──、
「ホンゴウが、"俺も好きだ"、って、応えてくれて…」
それで、と言葉を続けようとしたとき。喉がきゅうと締まる感覚がナマエを襲った。指先がわずかに震え、じわじわと水が染みるように鼻の頭が、鈍く痛みを帯び始める。──ああ駄目だ。そう思ったときには遅かった。
青い瞳から涙がこぼれる。溢れた大粒の雫は流れるというより、落ちたという方が正しかった。
止めなければと、思えば思うほどに溢れ。ぼたぼたと落ちていく涙が、甲板の褪せた床板に染み込んでいく。ナマエ、と。ライムが小さく呼ぶ声が聞こえる。それは戸惑いを含んでいる音ではない。凪いだ風のような、静かな音だった。
「っ、あ…」
数日経ったけれど、すべてを知ったあの日以降、涙はぱったりと出ていなかった。だから存外、事実をそれなりに受け入れられているのかもしれないと、ナマエはそう思っていた。
──けれど今、ナマエはようやく気が付いた。実際はなにひとつ受け入れられてなどいない。ただ心が、脳が、愚かにもそれを理解できていなかっただけ。平気だったのだと、そう思いたかっただけなのだ。
無意識で殺していた心の内が、時間をおいて叫び声を上げ。涙という目に見えるものとなり、今ようやく、外へと飛び出した。
「ぅあ…ぁ、ああぁ…ッ」
あの日、なにも聞かなかったことにして、すべて見て見ぬふりをして。そのまま偽りの幸せに身を浸していれば良かったとは、決して思わないけれど。
それでも、愛してやまないあの優しい顔を見ることも、温かく包んでくれたその身に触れることも、深い海の底に揺蕩う月のような、低く優しい声を、誰よりも近くで聞くことも。もうなにも、できなくなってしまった。そう理解した途端、水の如く湧き上がる感情が、ひとしく涙となって溢れ出していく。
みっともないとは理解しつつも、漏れ出す嗚咽を止めることなどできなかった。ナマエは背を丸め、守るように自分の身体を掻き抱く。
ライムはなにも言わなかった。代わりに、俯くナマエの頭を髪が絡まることも厭わぬ手付きで、ぐしゃりと撫でた。
初めて子供のようにあげた泣き声は、波音にかき消され。みっともなく流した涙は、やわい風と共に空へと散っていく。
いっそホンゴウへの想いもそのまま海へ溶けてしまえばと。心の底から、そう思った。
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