夏島の夕空は明るい。薄紫や赤に染まる雲の隙間から覗く太陽が、甲板をオレンジに淡く染め、それぞれの輪郭をやわくぼやけさせている。
スネイクいわく、水蒸気の関係でこういった色合いになるのだそう。思わずうっそりしてしまうほど美しさではあるが、それは同時に、雨が降る可能性が高い状態でもあるらしい。そういう点で船乗りとしては、美しいの言葉だけで片付けられないのが難点ではあるが。
この日は上陸の日だった。風の影響もあり、船は上陸を待ちわびる船員たちを焦らすようにゆっくりと進んでいる。到着まではあと三十分ほどかかるらしく、その頃にはこの美しい空もすっかり闇へと変わっているだろう。
数十分前には視界にその姿を捉えていた島は、近海でも中心地となるくらいには大きいらしく。日暮れの中で遠くにありながらも、町の輪郭が分かるほどの明るさを携えていた。酒飲みたちも満足するくらい酒場も多いのだろうと、容易に想像ができた。
けれどなんとも不運なことに、今回ホンゴウは船番だった。そのため上陸準備も特にすることはなく。部下である船医チームのメンバーに、買い出し用の医療物資のリストを渡せば仕事は終わり。「あと一時間もねェぞ」「急げ」と新人の雑用係たちが甲板を走り回る様子を、木箱に座りぼんやりと眺め過ごしていた。
その中にはもちろんナマエの姿もあった。ホンゴウと違い、彼女は今日は船番ではない。新人たちに指示を出しながら、共にちょこちょこと甲板を走り。会話の途中、時折大きく口を開き、笑う。その横顔はなにも変わっていないように見えた。
──あれから二週間が経っていた。左頬に貼っていた大きな絆創膏はとうに取れ。腫れも、内出血による皮膚の変色も、よく見なければ分からない程度には目立たなくなっている。あと二日もすれば跡形もなくなってしまうだろう。
悲しいことなど何も起きていない、とでもいうように、進む時はかつての日常を取り戻している。たったひとつ──ホンゴウの心だけを、あの日に置き去りにして。
何もなくなったそこを確かめるように、ホンゴウは自身の頬を撫でる。ひどくかさついた指先が、ざり、とわずかに産毛をなぞる音がする。
途端、医者なのに自分のことは気にしないんだね、と。呆れたような優しい声が耳の奥に響き。薬を携えた小さな手にやわく包み込まれた感触が思い出される。
ホンゴウは思わず、その温かさの名を呟いていた。
けれどそれは煙の如くぐにゃりと歪み、瞬く間に消え失せていく。そうして、代わりとばかりに、息苦しさと共にホンゴウの心臓を締め付ける。
思ってしまったのだ。──好き、と。わずかに後悔と不安を滲ませながらも告げる大切な存在が、自分の「ごめん」というたった一言で、心にひどく深い傷を負ってしまうのではないか、と。
悲しませたくなかった。泣き顔だけは、どうしても見たくなかった。──今にしてみれば、なんて独りよがりな言葉だったのだろう。ナマエの想いを尊重し、受け入れ、傷つけたくないと慈しんでいるように見えて、その実すべてを踏み躙っていた。尊厳も、彼女が大切にしてきた恋慕の情も、なにもかも。
そうして騙すようにして過ごしてきた結果、その選択は、ナマエに最も残酷な方法で傷を残すこととなってしまった。──笑えない、本当に。
ホンゴウは重たく息を吐き出し、深く頭を垂れる。瞳を閉じれば、瞼の裏に焼き付いているあの顔が、なおもホンゴウを責めるように瞳を焦がしていく。
心底見たくないと、させたくはないと思っていた表情。深海のごとく暗く絶望を抱いた青い瞳。そこに写る自分は、一体どんな顔をしていたのだろうか──。
分厚いブーツの底を意図的に床へ叩きつけているような、ひどく乱暴な足音。それがこちらに向かって来ていると気付いたのは、暗闇の中でその音が徐々に大きくなっていったからだ。
案の定、音はホンゴウの横でぴたりと止まる。次いで頭上から、こちらを向けとばかりの圧を感じ。ホンゴウはうっすらと瞳を開く。
予想通りそこにいたのは、ひどく不機嫌な顔をしたライムだった。
なにをしに来たんだとは訊かなかった。理由など分かりきっていたからだ。
「……お前のことだから、あの後すぐに殴りにくるかと思ってた」
ホンゴウとライム、そこにナマエを加えた三人は、この船の中では比較的年齢が近いということもあり、なにかと行動を共にすることが多く。その分お互いに対する想いも人一倍だった。
特にライムはそれが顕著だった。とはいえそれは、可愛いと面と向かって口にするだとか、重たいものを持ってやるだとか、とにかく蝶よ花よと愛でるようなものではない。むしろその逆。ナマエが仲間になったばかりの頃、「元一般人だからこそ余計に厳しくしねェと駄目だろ」と、最後には周囲も止めに入るほど厳しい稽古をつけていたくらいだ。
今にして思えば、あれは戦闘経験のないナマエを、ライムなりに心配したがゆえのことだったし、ナマエもそれを理解していたからこそ、軋轢が生まれることなく。二人は深い信頼関係を築けたのだろう。
誰が見ても分かるくらい、ライムはナマエを大切にしていた。だからこそ、今回の顛末を聞いた瞬間、ライムが文字通りすっ飛んできて有無を言わさず殴り倒してこなかったことに、ホンゴウは心底驚いていた。
脈絡もなく自虐のように呟かれた言葉に、けれどライムは「なに言ってんだ」という低い声と共に、信じられないものを見るような目でホンゴウを睨みつけた。
「殴りてェに決まってんだろうが。…でも、他でもないナマエ本人がお前に一発かましてんだ。だったら俺ができることなんか、何もねェんだよ」
凪いだ風のように、ひどく落ち着き払った声音だった。
──今ここでライムがホンゴウを糾弾し、殴ることは簡単だ。けれどそれをすれば、事の経緯からなにから、すべてが船内に知れ渡ることになるだろう。そうなると衆目を集めるのはナマエで、その中には憐憫の目で見る者だって出てくる。
家族とも呼べる者たちにそうした目を向けられ、腫れ物に触るように扱われる。たとえそれが無意識で、当人たちにそんな気は一切なくとも。人間とはそういう生き物なのだ。そんなこと、ナマエにとって不名誉以外のなにものでもないだろう。
同時に、他でもないホンゴウへの信頼が揺らぐ可能性も、決してないとはいえなかった。不信感は小さな軋轢を生む。それは船という閉鎖空間で最も避けたいことでもある。
そしてなにより、自身のせいで仲間同士が──ライムとホンゴウが諍いを起こすなど、それこそナマエが最も望まないことで。そのすべてを、ライムはよく理解しているのだ。
まさかの返答に、ホンゴウは目を見開く。自身よりもライムの方がずっとナマエのことを理解していたという事実に、何故かひどく心が波立つ感覚を覚えた。
「つーかよォ…、」
言葉を失うホンゴウに、ライムは呆れたように続ける。途端、凪いでいたその声に酷くざらりとしたものが混じったのを、ホンゴウは感じ取った。
「俺に殴られて、それでどうなる。楽になれるってか?」
「っちが…!」
「違わねェだろ」
遮り、ライムは鋭い視線を向ける。
「俺に殴られれば、百パーセント自分が悪いって、"ちゃんと"、責めてもらえるしなァ?」
そこには、これまで必死に隠していたのであろう燃えるような怒りが含まれていた。今度は明確に向けられたその激しい感情に、ホンゴウは言葉を詰まらせてしまう。
不安に揺れ、諦めを含んだ瞳。ごめん、と謝ったナマエの顔が、ホンゴウの頭を過る。──いっそ、ふざけるなと激高し、最低だと罵ってくれた方がよかった。だってそうすれば、非を詫びることが明確にできたのだから。
けれどナマエは何もさせてくれなかった。それどころか、ホンゴウの行いが自分のためであり、気付けなかったことにも非はある。無理をさせて申し訳なかったなどと、こちらを思いやるような言葉を言い放った。
己の非を詫びることすらさせてもらえない。それがどれほど辛く、途方もないほどの罪悪感に苛まれるかをホンゴウは思い知った。──だから、生まれてしまった。"お前が悪い"のだと責められ、それに対し、目に見える形の謝罪をしたいという、ひどく加害的で他責的、そして傲慢な考えが。
「テメェの自己満足な贖罪に、俺を使うんじゃねェよ」
頭を殴られただけでなく、全身に氷水を浴びせかけられたような衝撃だった。もはや言葉は出てこない。ただ、今はなにも言うべきでないということだけが、虚ろな頭でも理解できた。
言葉を失うホンゴウの姿に、ライムはこれでもかというほど眉間にしわを寄せると、盛大に舌を打つ。
「俺に殴られるよりも先に、あいつに…言うべきことと、やるべきことがあんだろ」
それでもまだ殴られたいってんなら、そのときは殴ってやる。そう言って、ライムは呆れたように頭をかきながら、深い溜め息と共にその場を立ち去った。
ひとり残されたホンゴウは、空っぽの頭で必死に考える。──言うべきこと、やるべきことは。
唇をぎゅうと引き結ぶ。とっくに治ったはずの左頬が、ずきりと痛んだ。
アーチを描く入口から続く少し急な階段を降りていくと、球形の電灯を横に携えた、木製の重厚な扉があった。真鍮のドアノブを握りゆっくりと扉を押せば、その先には落ち着いた静かな空間が広がっている。
ろうそくのような、ぼんやりとした灯りだけが照らす薄暗いそこはバーだった。ウッドブラウンのカウンターの向こうには、顎髭を整え、糊のきいた白いシャツに黒いエプロンを着こなす柔和な見た目の老人が、静かにグラスを磨いている。
雰囲気からして、ひとりで静かに飲むのは勿論、おそらくデートなんかにも使われているのだろう。現に店の奥、少し人目につかないような場所には、時折顔を寄せ合いながら話す男女の姿があった。
こんなところへ、よりにもよって男二人で訪れてしまうとは。ホンゴウはなんとも微妙な気持ちで、目の前に座るベックマンを見やる。
けれど当の本人はどこ吹く風。慣れた様子でウイスキーを二つ注文すると、マッチを擦り煙草に火を着けていた。
飲みに行かないかと声をかけられたのは、次々と降りていく船員らの背中を見送って一時間ほど経った頃だった。
上陸時、各船員の配置を決めるのは副船長であるベックマンの担当だ。だから今日ホンゴウが船番ということを彼は知っている。そして反対に、今日彼は船番でもなければ、買い出し等々といった調達係でもない。完全フリーの状態だというのに、何故船をつけてから一時間経った今もまだ船内にいて、なおかつホンゴウを飲みになど誘っているのか。
そんな当たり前の疑問には、すぐに答えが出た。「船番なら、今からルウが代わりにやってくれる」と、ベックマンが顎で自身の後ろを差したその瞬間、待っていたとばかりのタイミングで、大量の食材を抱えたルウが船へと戻ってくる姿が見えたからだ。
上陸の際にはたいてい自分で食材の調達に出ていくルウが、早々に買い物を切り上げ戻ってきたこと。酒場の多い賑やかな街で、ベックマンが女漁りにも出ず、船に残りホンゴウに声をかけてきたこと。──ああこれは心配してくれているのだと、すぐに気が付いた。
なんともいえぬ気持ちに、ホンゴウはもにょりと唇を擦り合わせながらも、「早く行けよ」とルウに促され。こちらの返答を聞くことなく船を降り先を歩き始めていたベックマンの後を慌てて追い──そうして連れて来られたのが、このバーだったというわけだ。
こんないい店をどこで知ったのかという至極当然の質問には、「前の島に、ここ出身の奴がいたんだ」と答えられた。それだけで、一晩過ごした女に聞いたのだろうことが、なんとなくだが分かってしまった。
「…こんないい店連れて来るもんだから、一瞬抱かれんのかと思ったわ」
「悪ィが、そういう趣味はないんでな」
「俺だってねえよ」
冗談めかしつつも、ベックマンが自身を連れ出した本当の意味を、ホンゴウは理解していた。
ろうそくのような灯りで薄暗く、見た目からも空気からも心を落ち着かせる雰囲気。酒で気が緩むとはいえ、それでも客たちは静かなその雰囲気を守るように、ゆったりと流れる音楽に紛れる程度の声で会話を続けている。
そんな場所でする話など、今の状況ではひとつしかない。──ナマエのことだ。
運ばれてきたウイスキーグラスを、かちんと合わせる。互いにひと口飲んだところで、おもむろにベックマンが口を開いた。
「お前、一体どうしたいんだ」
おそらくナマエのことだろう、としていた予想は、まさかの己に向けてだったこと、なによりベックマンらしからぬその曖昧な言葉選びに、ホンゴウは思わず言葉を詰まらせてしまった。
「どう、って…、」
辛うじて出せた情けない声は、ベックマンの吐き出す細い煙と共に、静かな空間に霧散していく。
「ナマエは変わらずお前に接してるだろ。それのなにが不満なんだ」
淡々と続けられた言葉は、どこか責めるような色を帯びていた。
いや、責めるような、ではない。ベックマンは責めているのだ。今ホンゴウが感じ、考えていることを。
──ホンゴウとのこれまでを、すべてを、"なかったこと"にする。その結論に至るまでの本心は分からないとはいえ、少なくともナマエはホンゴウとの諍いより、船の中での平穏を選んだ。
たとえどれだけ傷付き、尊厳も、大切にしてきた恋慕の情を、踏み躙られていたのだと知っても。それがこの船にとっても、そして二人の関係についても最良なのだと、彼女はそう判断を下した。
他でもないナマエ本人が終わりだと決めたのなら、諸悪の根源ともいえるホンゴウが、それに従う以外の選択肢など、選べるわけもない。どうすればいいのか、どうするべきだったのかなど、悩むことすら烏滸がましいことだと、ベックマンはそう言っているのだ。
──分かっている。ニュアンスこそ違えど、それこそライムも同じことを言っていたのだから。もうこれ以上、ナマエを傷つけるな。二人の思いはそれたったひとつだった。
「…ナマエは強い女だ。仮に一番最初にお前が気持ちを受け取らなかったとしても…あの子なら、ちゃんと気持ちに区切りをつけて、新しい道を選んだだろうよ」
新しい道。それは、ナマエがホンゴウ以外の誰か選ぶということ。自分以外の誰かの隣を歩くということか。
──嬉しそうに細まる青い瞳。触れると熱を帯びるやわい頬。腕の中にすっぽり収まってしまう小さな身体。ホンゴウの名を呼ぶ、優しく甘い声。へにゃりと眉尻を下げ、好きだと、告げてくるあの笑顔──そのすべてが、自分以外の"誰か"へと向けられるのか。
途端、ざわりと、ひどく不快なものが背中を這ったような気がした。ホンゴウは無意識のうちに身震いする。
「…笑うなら、俺の隣でないと、駄目だと思ったんだ」
それは、ほとんど無意識のうちに出ていた言葉だった。
けれど口にした途端、ああそうか、と。いやにすんなりと、身体から力が抜けていく感覚がした。
「分かってる…分かってんだ。今さら気付いて、こんなの、虫が良すぎるって。でも、駄目なんだ。ナマエの、あいつの隣にいるのが俺以外の誰かだなんてそんなの…考えただけでも反吐が出そうになる」
なにかに駆り立てられるかのように、言葉が、想いがこぼれ落ちていく。そのあまりに勢いに、ベックマンも呆気に取られたようにホンゴウを見ていた。
荒くなる呼吸を必死に落ち着けるように、拳を強く握る。掌に爪が食い込むが、痛みは微塵も感じない。
「……ベックマン、」
「…なんだ」
「俺、ナマエが好きだ」
その言葉に、ベックマンは試すようにホンゴウを見つめる。少しの沈黙の後、「そうか」と小さく呟いた。
「…じゃあ、もうやるべきことは分かってるわけだ」
いやに強調した言い方だった。まるで、昼間のライムジュースとの会話を知っているかのような。この男には、きっとなんでもお見通しなのだろう。
「きっちりやってこいよ。…そうでないと、今度はさすがにお頭を抑えられねェからな」
「…やっぱお頭も気にしてたか」
「あの人のナマエへの過保護っぷり見てりゃ分かるだろ」
いい歳をした大人の集まりなのだから諍いはそれぞれで解決すべし、というのがこの船でのルールなのだが、シャンクスの中では、ことナマエに関してはそのルールが少しばかり甘くなるようで。ナマエ絡みでなにか起きれば、とりあえずナマエ側につくというのがモットーらしいのだ。
もちろんナマエが悪いと分かれば船長としてそれなりの対応をしてはいるようだが、それでもとにかく彼女には甘かった。おそらく年齢が離れていること、異性で、さらには自分自身で勧誘してきたというのも、想いが強い理由なのだろう。
妹を可愛がるようなそれに似ているのは、強さが違えどライムと同じだ。──二人ともナマエを、そして決して口には出さないが、ほんの少し、ホンゴウのことも気にかけてくれている。
いや、彼らだけじゃない。こうして話を聞いてくれているベックマンも、船番を代わってくれたルウも、ナマエたちが好機の目に晒されないようにしてくれた大幹部たちも。皆が、二人を気にかけてくれているのだ。
つくづく色々な人たちに支えられていると、ホンゴウは心底そう思った。
「…副船長、悪いけど、俺行くわ」
言ってホンゴウは立ち上がる。
「色々と悪かったな」
「んなもんいいから、さっさと行ってこい」
ベックマンはしっしと追い払うように手を振る。それに苦笑しつつ、ホンゴウは店の出口へと向かう。
そのときだった。階段をけたたましく下りる音が聞こえ、店の扉が勢いよく開かれたのは。
静かなそこに響いた音に、数人の客が一斉に扉の方へと顔を向ける。ホンゴウとベックマンもそちらを見れば、肩で息をしながら店内を見回す男が目に入った。──あれは、ナマエの部下のイーサンだ。
イーサンはホンゴウとベックマンの姿を見つけるなり、「ホンゴウさんっ!」とひどく慌てた様子で駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、んな慌てて…」
「すぐ船に戻ってください!ナマエが襲われて…っ!」
次の瞬間、ホンゴウは店から飛び出していた。
慌てたように名を呼ぶベックマンの声を、その背に聞きながら。
BACK |
HOME