沿岸から断崖を切り開き土地を広げていったその島は、急斜面に張り付くように家々が並んでいた。高低差のある町中には、数十メートルはあるであろう長い階段や、逆に数段のみの小さな階段。そしてそこから、細く狭い石畳の路地が、終わりなく方々に続いている。迷路のような地形は、島の構造を理解していない人間が一度でも入り込めば、たちまち迷ってしまうだろう。
 ナマエが部下であるイーサンとコナーの二人と共に訪れたのは、港からそんな路地を進み、何度か曲がった所にある店だった。
 三人はカウンター近くのテーブルにつくと、早々に酒を注文する。運ばれてきたジョッキをそれぞれ掲げ、掛け声と共にぶつけると、一気に中身を呷った。

「崖に作ったってわりに、でかい島だよな」

 一足先にすべて飲み終えたイーサンは、大きなため息と共にそう呟く。
 あまり日に焼けない体質らしく、ほぼ毎日太陽を浴びているとは思えないほど白い肌。短いさっぱりとした髪型も相まってか、大雑把な性格とは裏腹に、爽やかな白皙の青年といった見目をしている。
 彼は一応ナマエの部下という形ではあるが、同時期に仲間となったこともあり、その関係は友人といった方が近かった。

「この近海では中心地でたくさん人も来るみたいですし、どんどん広がっていったんでしょうね。明るいうちに色々散策したかったなあ」

 それに続くように、コナーがふわりと金髪を揺らしながら返す。
 少し癖のある金髪に、犬のように大きく丸い目、うっすら頬に乗るそばかす。彼もまた、海賊には見えない、人懐っこい好青年といった見目をしていた。ただイーサンと違い、彼は性格と見目がきちんとイコールになるのだが。

「それなら、明日の朝にでも散歩してみればいいんじゃない?出航は明後日なんだし」
「馬鹿だなナマエ、どうせ明日なんてほぼ宿にこもって潰れるぞ」
「ちょ、言わなくていいですよ、そういうのは…」

 被せるように続けるイーサンをコナーが少し苦い顔をしながら諫めるが、既に遅い。その意味することはとっくにナマエも分かっているからだ。
 この島に上陸するには海域の関係上、前の島から一ヶ月近く、ひたすらに海の上を進まなければならない。そのため船乗りたちは物資の補給と息抜きを兼ねて、ほぼ必ずこの島に上陸する。
 そうした船乗りが来るということは、同時に彼らを相手にした商売も盛んになるということ。主には造船所や酒場ではあるが、その中には一夜の夢を見せてくれるものもある。つまり、娼館だ。
 大きな船とはいえプライベートのない空間。仲間に女性がいたとしても、当然の如く"そういう対象"ではない。そうなれば溜まるものも溜まってしまうのは、男がどうこう以前に人間として仕方のないことで。その発散のために娼館に行くというのは、まあ至極当然のことだともいえる。
 だからみなまで言わずとも、ナマエにはイーサンの言わんとしていることが分かっていたし、むしろ「まあこの後行くんだろうな」くらいの感覚だった。そもそもナマエの生まれ育った場所がまさしくその場所なのだから、今さらそんなことを気にするほど無垢でもない。
 ただ、それはそれとして。自分にもその気があるとはいえ、女性なのだからとこちらに気を遣ってくれるコナーの方が人間的に上だと、ナマエの中で密かに彼の株が上がりはしたが。

「そういえばお前、ホンゴウさんと喧嘩してんのか?」

 それぞれ二杯目の注文をしたところで、イーサンが小首を傾げながら訊いてきた。

「喧嘩って…別にそんなのしてないけど」
「え、ナマエさんとホンゴウさん、喧嘩してるんですか?」
「いや、だからしてないって…というか、なんでそんな風に思ったのよ」
「いや、なんか、いつもと雰囲気が若干違って見えたから」
「…なにそれ。そんなに私のこと見てたの?」
「気持ち悪ィこと言うな」

 ナマエの言葉に、イーサンは眉間だけでなく顔全体にしわを寄せ、わざとらしく不快感を示した。そのとき、ちょうど「お待たせしました〜」という店員の明るい声と共に、注文した二杯目が届く。二人の意識はそちらに向けられ、話題は早々に別の話題へと移っていった。
 ──助かった。じわりと汗をかいた手をグラスで冷やしながら、ナマエはぼんやりと思い浮かべる。
 喧嘩、ね。いつも通り振舞えていたと思っていたが、やはり長い付き合いのイーサンはわずかに違和感を覚えたらしい。
 いや、きっと彼だけじゃない。聡い連中は同じように勘付いているのだろう。とはいえ、これまでの二人の関係が根底から覆されたなどということまでは、さすがに思い至っていないようだが。
 それもそのはずだ。なにせ当人であるナマエですら、まさかキスもセックスもした相手が自分を好いていないなど、そんな可能性は微塵も浮かばなかったのだから。約一年もの間、誰にも気付かれず。ホンゴウは相当な役者だったということだ。
 そしてナマエは愚かにも、そんな男への想いを捨てきれずにいる。ライムの前で感情を吐露したあの日に、嫌でもそれを自覚をしてしまった。
 ──情けない、と思う。もういいのだと突き放しておきながら、未練がましくその想いを断ち切れていないとは。
 感情におけるすべての物事は、いずれ時間が解決してくれる。とはいえ吹っ切れるまでが長ければ長いほど、苦しむ時間もまた長いということで。おそらくナマエは長く苦しむことになるのだろう。
 いや、おそらくなどではない。ほぼ確実にそうなる。その愚かさと情けなさに、いっそ笑いすら浮かんできそうだった。

「腹減ったな」
「ナマエさん、なにか食べたい物ありますか?」

 呼ばれ、はっと意識が戻る。──いけない。せっかくの久方ぶりの上陸、楽しい時間にこんな心境で二人と過ごすのは失礼だ。
 ナマエは脳内からホンゴウを追い出すように二杯目を呷り。「なにか辛いものがいいな」と、小さく笑みを返しながら、差し出されたメニューへ視線を向けた。



 店を出る頃には、町はすっかり姿を変えていた。
 人々の日常を描いていた明るい昼間とは違い、辺りには夜の暗さと、どこか艶を帯びた空気が漂っている。

「お前はどうする?船戻るか?」
「うん。別に行きたい所もないしね。だからごゆっくり」

 わざとらしく続いた言葉に、イーサンは「言われなくても」と返した。

「…ナマエさん、やっぱり一人じゃ危ないですよ。俺船まで送っていきます」

 その後ろで難しい顔をしていたコナーが、眉尻を下げながらそう言った。

「…いや、大丈夫だよ。船そんな遠くないし、まだそこまで遅い時間じゃないし」

 確かに夜も更けているが、大通りにはまだ人もそれなりにいるし、店の灯りだってある。なにより、この時間に出歩いている男たちはほとんどが娼館を目指している。そんな中で、見目麗しい女たちを放ってナマエに声をかける物好きなどいないはずだ。
 それでもコナーは納得がいかないのか、「でも…」と食い下がる。過剰な心配だとは思うが、コナーがここまでするのにも理由があった。
 これは上陸時に知ったことだが、どうやらこの島にはもう一団、海賊が停泊しているらしいのだ。とはいえ、日頃から情報収集をしているベックマンが「見たこともねェジョリー・ロジャーだ」と言っていたことから、そこまで名の知れた海賊ではないのだろう。その程度の連中が四皇の船員にわざわざ喧嘩を売ってくるなど、よほど愚かでない限り可能性は低い、と。そういうことだ。

「そうそう。それにンな心配しなくても、こいつなら大丈夫だろ」

 あまりに心配するコナーに、イーサンは呆れている。その真意は「ナマエを襲う物好きなどいない」ではなく、「あの程度の海賊相手にナマエが負けるわけがない」というものだと、ナマエもコナーも分かっていた。

「心配してくれてありがとう、コナー。イーサンもこう言ってるし、私は大丈夫だから。ね?」

 なによりナマエが申し出に甘えない一番の理由は、久方の上陸で彼らのお楽しみを邪魔したくはなかったからだ。
 ナマエだけでなくイーサンにもそう言われてしまえば、コナーも折れる他なく。「…分かりました」と小さく呟いた。

「でも、本当に気を付けてくださいね」
「うん。じゃあ、また出航の日にね」

 最後まで眉を下げているコナーと、早々に背を向けていたイーサンに別れを告げ。ナマエは船へと歩き出した。


 店から少し離れれば、周囲は民家ばかりのようで。辺りはすっかり静まり返っていた。静かでちょうどいいと、ナマエは散歩がてら、ぼんやりと路地を進んでいく。
 ──いったい、自分はどうしたいのだろうか。断ち切れない想いを抱えながら、かといって、それでもやっぱり好きなのだと、しおらしくいられるわけでもない。わずかな憎しみさえ含まれる恋慕の念は身体中で重たく淀み。もはやナマエ自身ですら、その扱い方が分からなくなっていた。
 陰鬱に湿った感情を吐き出すように、深く長くため息を吐く。そうして、いつの間にか落ちていた首と視線を戻しながら、ナマエはゆっくりと背後へと振り返った。

「…なにか用ですか」

 月と、民家の淡い光だけが頼りの、薄暗い路地裏。人がすれ違うくらいしかできないであろう狭路は、夜に一人で歩くのは少しはばかられるような場所だった。
 ナマエの言葉を皮切りに、振り返った先から男が二人、いやらしい笑みを浮かべながら出てきた。その頭に巻かれたバンダナにはジョリー・ロジャー。件の海賊だということはすぐに分かった。

「お前、赤髪のところの女だろ」
「ええ?人違いじゃないですかね」
「んなわけねェだろ」

 否定するも、そもそも聞く気がないようで。「間違いねえ」「よく覚えてたな」と笑い声を上げている。だったら訊くなと、ナマエは胸中悪態をつく。
 赤髪の一味と分かって喧嘩を売ってくるなど、よほど愚かでない限り可能性は低い。──そう思っていたが、どうやら想像していたよりもずっと愚かだったらしい。おそらく、一味といえど女一人ならば問題ないと思ったのだろう。舐められたものだ。考えごとをしていたとはいえ、そんな奴らの接近に気付けなかったナマエもナマエではあるが。
 ──さて、どうしたものか。面倒なことになったと肩を落としながら、男たちを観察する。
 ひどく酔っているというのが離れていても分かる。だからこそ気が大きくなり、こうしてナマエに危害を加えようとしているのだろう。
 こうも狭いところで囲まれては、一見文字通り逃げ道がないようにも思えるが、それは"今ある道"を通ろうとすればの話だ。逃げ道は前か後ろだけではない。飛び上がれば、屋根を渡り逃げることはできる。仲間の厳しい稽古のおかげで、飛ぶのはそれなりに得意なのだ。船へはさほど遠くはない。このまま不意をつけば逃げられるだろう。
 そのときだった。ざらりとした耳障りの悪い声が、背後で響くと同時に、頭蓋を揺さぶる衝撃が走ったのは。

「っ、あ゙…?」

 うめき声と共に吐き出しそうになるのを耐えながらも、ナマエは勢いよく膝をついてしまう。
 揺れる脳内、ぐにゃりと歪む視界。今になってようやく、横の細い路地に、男がもう一人潜んでいたのだと気が付いた。
 男たちの不快な笑い声が揺れる脳内に響く。けれどその不快さが、いまだけはひどく有難かった。──おかげで意識を失わずに済む。
 崩れ落ちたナマエにすっかり油断しているのだろう。無防備に近付いてきた男たちが肩に触れた。その瞬間──ナマエは男の顎目掛け、勢いよく拳を打ち込んだ。



 壁についた片腕で身体を支えながら、空を見上げる。
 月や星座の位置で大体の時間が分かると教えてくれたのはスネイクだった。宴会の最中、スネイクとナマエ、それにホンゴウの三人。静かに飲むのが好きな連中で集まり、ゆっくり話をして。あの日も、そう。こんな綺麗な月夜で。博識で勉強熱心な二人に、色々なことを教えてもらったのだ。
 スネイクの話は専門的で面白かった。分からない用語もその都度、丁寧に教えてくれたっけ。
 けれどそれ以上に、興味津々といった様子で話を聞いていた、ホンゴウの姿。それがとても可愛くて。ずっとその横顔を見ていたことを、後々スネイクから「お前、ホンゴウのことずっと見てたな」とからかわれたことまで、鮮明に覚えている。
 ──まるで走馬灯だ。笑えない冗談ではあるが、死にかけている当人なのだから構わないだろう。そもそも咎める者など誰もいないのだから。
 苦笑いを浮かべれば、腹から血がどろりと滲む。抑えようとも止まらず、みるみる手が染め上げられていく。──まさか最後の最後に腹を刺されてしまうとは思わなかった。

 反撃の後、方が付くまでにそう時間はかからなかった。相手が油断してくれていたというのも大きな理由だろうが、そもそもナマエとて、あの四皇のひとり、赤髪のシャンクスの海賊団の一員なのだ。そう簡単に思い通りになるわけも、させるわけもない。女だからと、相手が侮っていただけのこと。
 けれど事はそれだけで終わらなかった。
 地に伏せた男たちを捨て置きすぐにその場から立ち去ろうとしたナマエであったが、かなり強く頭を殴られたうえ暴れたせいか、ひどい眩暈に襲われてしまい。思わずたたらを踏んだ、その時。まだ息のあった男がひとり、隠し持っていたナイフでナマエの腹を刺したのだ。
 最後の悪あがきというやつだったのだろう。男はそのまま崩れ落ち、それを最後にぴくりとも動くことはなかった。ただ、下から突き上げるように刺されたこと、なにより、ナマエの身体そのものが倒れかけていたこと。それらが運悪くも同時に起きたおかげで、ナイフはかなり深くまで刺さってしまい。気付けば、勝ったはずのナマエも、痛みで立つことすらままならなくなっていた。

「…最悪」

 呟いた言葉と共に、喉からはひゅうと息が漏れる。足には力が入らず、身体はずるずると落ちていき。ついに地へと伏せてしまう。
 仄暗いせいか、頬に触れる石畳はひどく冷たい。小石の混ざる狭い道──昔にも似たようなことがあった。あれは確か、そう。仲間にならないかと、シャンクスに勧誘されたときだ。
 あのときも今と同じように複数人を相手にして。結局全員殺しちゃって、それで──どうなったんだっけ。
 うまく頭が回らない。出血のせいだろうか。そういえば、飲酒は血管拡張して血流増加するとかホンゴウが言ってた。まずかったな。
 こんなときにまでホンゴウの言葉が浮かぶなんて。いや、むしろこんなときだからか。もう思い出すことに、不思議と抵抗はなかった。
 ホンゴウ──呟いた名前は、もはや呼吸音といった方が正しいほどにか細く。視界はぼんやりと暗くなっていき、思考にも靄がかかっていく。
 逢いたい。そう思った瞬間、ナマエの意識は深い闇の底に消えていった。







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