火をつけたばかりの煙草を靴底で消し、重たい空気を纏った医務室の扉を静かに叩く。人がいることは分かっているため、ベックマンは返事を待つことなく中へと入った。
 後ろ手で扉を閉め、普段はさほど気にしない足音を極力押し殺しながらベッドへと向かう。傍らには、背をくっと丸め椅子に腰掛ける、ホンゴウの姿があった。

「…おい、ホンゴウ」

 訪問者があるにもかかわらず、その顔が上げられることはなく。ただひたすらに、ベッドで眠る存在を見つめ続けている。

「お前、ナマエの腹縫ってからずっとそのままだろ。そのうちお前の方がぶっ倒れちまうぞ」
「ああ」
「…交代するから少しは休め」
「ああ」
「………」

 ようやくの返答もすべて生返事。これは聞く気がないのではなく、そもそもこちらに気が向いていないのだろう。どうしたものかと、ベックマンは胸中小さくため息をついた。

 あの日、店に飛び込んできたイーサンの話を聞いたホンゴウとベックマンは、急ぎ船へと戻った。
 息荒く辿り着いたときには船番のほとんどが甲板へと出ており。膝をついてなにかを取り囲みながら、声を荒げていた。「清潔なタオル持ってこい」「ちゃんと圧迫しろ」飛び交う聞き慣れた言葉たちに、ホンゴウは肩で息をしながらその集まりへと近付く。次の瞬間、目を見張った。
 ──そこには、シャツの腹部分を夥しいほどの血で染め上げたナマエが、静かに横たわっていた。必死に止血をしているが止まらないようで、甲板にもわずかに染みが広がっている。顔はいつもにまして白く、額にはうすらと汗が滲み。周囲の呼びかけにも、応じる様子は一切ない。
 いったいなにが起きているんだ──目の前の光景に、ホンゴウは息をするのも忘れていた。呼吸の音が止んだ身体の中で、心臓の音だけが、ひどく不快に響いている。
「すぐ手術室に運べ!」
 呆然としていたホンゴウの意識を戻したのはベックマンだった。怒号のような叫び声と同時に、背中を強く叩かれる。そこでようやく周りを見れば、船員たちは安堵の瞳でホンゴウを見上げていた。──そうだ、今はこうなった理由を考えている場合ではない。ホンゴウは奥歯を噛み締め「担架持ってきて慎重に運べ!」と指示すると、急ぎ手術室へと向かった。
 幸い、といってしまうのもなんだが、腹以外にそこまで深い傷がなかったことにくわえ、それまでの応急処置が功を奏したのか危険な状態に陥ることもないまま手術は進み。無事にすべてが終わったのは、空の向こうがうっすらと白み始めた頃だった。

 術後、ホンゴウはナマエを重傷者用ベッドに寝かせるや否や、他を遮断するように「二人にしてくれ」と周囲に頼んでいた。
 二人の関係性ももちろんあったが、それ以上に、その張り詰めた雰囲気に異を唱えられる者はなく。しばらくの間、医務室付近には必要意外誰も近付かないように、そしてなるべく怪我をしないようにと、シャンクスが船員たちにお達しを出すほどだった。──それから丸二日、ナマエは眠り続けている。
 ホンゴウはその間、一度も横になってはいない。時折ナマエの傍らに上体を伏せ仮眠はしているらしいが、そんなものでは大して休めるわけもなく。まして手術という大仕事の後なのだ。疲労感は確実に感じているだろう。それでもただひたすらに、傍でナマエを見つめ続けていた。
 けれど三日目の朝を迎えた頃、お達し以降ほとんど医務室から出ていないことに、周囲もさすがに心配の念を抱き始めた。とはいえ、今のホンゴウが素直に言うことを聞くとは思えず。それならばまだ、直前に相談を受けたベックマンの言うことなら聞くだろう、というシャンクスの言葉により、ついに医務室の扉が開かれることとなったのだ。
 ちなみにこのとき、相談、もとい話し合ったことを何故シャンクスが知っているのかとベックマンは思ったが、「まあいいだろ、それは」と濁されてしまい。なるほど我らが船長には全てお見通しなのだと笑いを浮かべたことは、彼しか知らない。
 ──たかが三日、されど三日。食事も睡眠もろくにとってないホンゴウは、目の下には隈を作り、鋭い目つきはさらに鋭く。ストレスから肌もわずかにくすみ、元々強面の部類だった容貌を、さらに圧の強いものへと変えてしまっていた。
 さすがに船医という立場で、なおかつ術後の人間がいる医務室ということもあり軽くシャワーは浴びているようだったが、それでも憔悴しているのは一目瞭然だった。

「連中には、お頭達がきっちり礼をしといた。もう奴らの船を見ることもねェだろうさ」
「…ああ」
「だから…もう心配すんな」
「……」

 後にイーサンから聞いた話だ。──ナマエと別れたあと町に向かっていたイーサンとコナーは、店から十分ほど歩いた大通りで、ひどく上機嫌な二人の男を見つけた。その腕にはジョリー・ロジャー。店で話していた件の海賊だということはすぐに分かった。
 けれど相手はイーサンたちに気付いた様子はなく。それどころか、酔っ払い特有の浮ついた声で会話を繰り広げていて。無駄に絡まれないならば好都合と、二人は知らぬ顔で横を通り過ぎようとした。そのとき、一人がふと、「そういえばよ、」と思い出したように呟いた。
「あの赤髪のとこの女、そろそろ捕まえたんじゃねえか?」
 赤髪のところの女──脳がその単語を理解した瞬間、二人は立ち止まった。男たちは振り返った二人に、相変わらず気付く様子はなく。そのままナマエの向かった方向へと進んでいた。
 向かう方向それだけなら、単なる偶然ともいえるだろう。けれどその前、"赤髪のところの"。それはどう考えてもナマエを示している。なにより、"捕まえた"などという、野卑な言葉。なんらかの加害を加えようとしているのは、もはや火を見るより明らかだった。
 当然、二人は男たちを捕まえ問いただした。そうして、計画と呼ぶことすら馬鹿らしい考えを聞き出したあと、ナマエが「船に戻る」と言っていたことを思い出し。万が一、道中気が変わり船とは違う場所へ行っていることも考え、イーサンは店の近辺を、コナーは船に戻る道を、それぞれ二手に分かれ探し走ったのだ。
 ──それから、どれくらいの時間が経ったのか。店に戻る道から方々に続く路地で、イーサンは夜の湿った空気の中、嗅ぎ慣れた匂いがしていることに気が付いた。──これは、血の匂いだ。
 思わず足を止める。それは、店のさらに奥の路地裏からしていた。妙な焦燥感に駆り立てられ、イーサンは路地を足早に進んでいく。
 そうして突き進んだ先──暗がりの突き当りに、三人の男が倒れていた。バンダナのジョリー・ロジャーから、あの男たちが話していた仲間だということはすぐに分かった。イーサンが近付いても動かないところを見るに死んでいるのだろう。そして経緯からして、これはナマエがやったはず。じゃあ、そのナマエはどこに──そこまで考えたところで、イーサンの耳に、わずかな音が響いた。それはさらに奥の暗がりから聞こえていた。
 祈るような思いで、イーサンは暗がりを進んでいく。近付くにつれ、音は人の声で、さらにはひどくか細い、今にも絶えてしまいそうな呼吸音なのだと気が付いた。
 嫌な予想はもはや確信に近かった。それでも杞憂であってくれと願いながら、月明かりを頼りにその姿を探す。──次のときには、なにかに押されるように足が動いていた。
 地面に伏せるナマエ抱き起こした瞬間、腹の辺りに滲む血と、地面を汚す血溜まりにイーサンは息を呑む。力なく落ちる身体は額に汗を滲ませているにもかかわらず、手足がひどく冷たく。辛うじてしている呼吸も、いつ止まってもおかしくないと素人目でも分かるほどに弱々しいものだった。
 早く船に戻らなければと焦る気持ちを必死に落ち着けながら、イーサンはハンカチで傷口を圧迫し。上着でナマエの身体を包み優しく抱き上げると、急いで船へと向かった。
 その後は船番にナマエを託し、ホンゴウを探しに再び町へ戻り──そうして、ようやく今に至る。
 イーサンがいなければ最悪の結末になっていただろう。その礼もしなければいけないし、なによりもう状態は安定しているのだ。あとはナマエの体力が回復し目覚めるのを待つだけ。
 そう、分かっているのに。ホンゴウはどうしても、ナマエの傍から動けないでいた。

「…なあ、副船長」

 ホンゴウは小さく息を吐くと、きゅうと目を細めた。そこにはうっすらと、涙混じりの不安が揺らめいている。

「…きっと、本当はずっと好きだったんだ。…だけど、妹だなんだっていって逃げて、ナマエの気持ちを蔑ろにして……俺はとんでもない大馬鹿者だな」

 失うかもしれないと思った瞬間、汗ばんで熱くなる身体に反し、心臓が凍ったかのように冷たかったことだけを覚えている。
 どうしてここまで想える存在を、好きではないなどと言えたのだろう。どうして、その尊厳も恋慕の情も、なにもかもすべてを踏み躙っていられたのだろう。どうして、わずかに抱いていた感情を、触れてはいけないものだと知らぬふりをして、奥底に閉じ込めていたのだろう。
 もっと早くその想いと向き合っていれば、きっとナマエをこんな目に合わせることもなかった。今さらな後悔がホンゴウを苛む。

「…それは、俺に言うことじゃねェだろう」

 ベックマンは少しの沈黙の後そう返す。ホンゴウもその答えが分かっていたのか、「…そうだな」と自嘲気味に呟いた。

「ああ。だから、ナマエが起きたときに全部言えるよう、さっさと休め。…それに、そんな悪人面してたんじゃナマエがビビっちまう」
「…そこまでじゃねえだろ」

 ホンゴウは小さく笑うと、一度ナマエへ視線を向け。そのままゆっくりと立ち上がる。ぱき、と関節の鳴る音が響く。

「隣にいるから、起きたらすぐに、」
「…あ、れ……?」

 そのときだった。一定だった小さな呼吸音がわずかに乱れ。次いで、掠れた声が二人の耳に届いたのは。
 振り返ったホンゴウの目に、もう長いことしっかりと見ることのできていなかった、美しい青色が映る。状況を理解しようとしているのか、それとも眩しさからか、天井を向いたままのそれは、どこか重たげに細められていた。

「ナマエ…っ!」

 もつれた足が椅子を蹴り飛ばし、がたがたと床を擦る。起きたばかりの病人がいる場所で騒がしくするなど、医者として言語道断ではあるが、今のホンゴウにそれを気にする余裕はなかった。

「ほんごう…?」

 名前を呼ばれた瞬間、ホンゴウは返事をするように、ナマエの右手をぎゅうと握り締めた。そのあまりの強さに、ベックマンが「おい、加減してやれ」とホンゴウの頭を軽く叩く。なにせその手はつい二週間前、まさしく握り締めるその人物に、見事な右ストレートをきめた手だったからだ。

「…ふくせんちょ、」
「ああ。気分はどうだ?」
「…いつもと、あんま、変わりませんね……」
「それはねェだろ」

 へらりと笑ったナマエに小さく笑い返しながら、ベックマンは「お頭たちに伝えてくる」と静かに医務室を出ていった。
 二人で話せるようにと気を遣ってくれたのだろう。心の中で感謝を述べながら、ナマエはゆっくりとホンゴウを見やる。握り締めた手に額を擦り付ける姿は、まるで神にでも祈っているかのようだ。

「…ホンゴウ。手、いたいよ」

 子供に聞かせるように呟く。それでも、やはり力が緩められることはない。仕方ないなとナマエは諦めと共に続ける。

「…わたし、どれくらい寝てた?」

 訊けば、伏せられていた顔がゆっくりと上げられる。その眉間には、渓谷のように深いしわが作られていた。

「…二日ぐらいだ」
「うそぉ…刺されたくらいで二日も…?」
「出血が酷すぎたんだよ。…腹以外に、頭も殴られてただろ」
「ああ…だから、なんかぐらぐらしてたんだ……血、でてなかったから、脳しんとうていどかと…」
「いや、がっつり出てたっての…というか、それを脳震盪って判断するってことは、教えたこと全然覚えてねえな…もう一度勉強し直すか?」
「ふ…それはちょっと、勘弁してほしいかな……」

 まだナマエが新入りだった頃、常に人手の足りない医療チームの手助けを少しでもできたらと、ホンゴウに簡単な手当ての方法を教わっていたことがあった。図解を板書するホンゴウの前に、机と椅子を置いて。学校の授業よろしく、ホンゴウ先生、なんて呼んで。──楽しかった思い出だ。ただ、趣味でなくホンゴウにとっては本業、しかも人に施すことというだけあってかなり厳しかったので、改めてもう一度は遠慮したいところだ。
 ふと、そんなことが頭に浮かんだ。浮かべることができる場所に帰ってこれたのだと、今さら実感が湧いてくる。

「……ずっと、名前よんでくれてたよね。…ちゃんと聞こえてたよ」

 ──目を覚ましたとき、ただひたすらに暗闇が広がっていた。そこは雪に埋め尽くされた冬島のような、冷たい空気に満ちている。けれどナマエの頬を撫でるのは、朗らかな春島の、草花の匂いを包んだやわく暖かな風で。
 相反する、けれどどこか懐かしい空気に満ちたそこが現実ではないとナマエが理解できたのは、直前まで感じていたはずの痛みどころか、受けた傷の一切が消え失せていたからだ。
 痛みも、苦しみもない、ひどく心地いい空間だった。いっそこのまま漂いながら、ゆっくり眠り続けることができたら──頭の片隅にそんな考えが浮かんだとき、ふいに、静かなそこに音が響いた。
 それはどうやら人の声のようだった。聞き逃さぬよう、ナマエは耳を欹てる。低く、少しだけくぐもったような。けれどはっきりとした、優しくあたたかな声──ああ、そうだ、思い出した。この冷たい空気も、頬を撫でる、やわく暖かい風も、名前を何度も呼んでくれる、この声も。誰との記憶なのか、誰のものなのかを。
 青い瞳に涙が滲み、ナマエはゆっくりと瞬きをする──そうして次に目を覚ましたとき、聞こえた声と知った光景が、そこにはあった。
 死に際で声に呼び戻されるなんて、まるでお伽話のようだ。なんとも可愛らしい思考にナマエが思わず笑いをこぼせば、会話の最中、ずっと険しいままだったホンゴウの顔が、わずかに緩んだ。
 ああ、やっと笑った。ほとんど無意識のうちにナマエはゆるりと瞳を細める。その瞬間、再びホンゴウの眉間にしわが寄る。瞳はぐにゃりと歪み細まり、瞬く間に薄い膜が張り揺らいでいった。

「……生きててくれて、本当によかった」

 低い声が、聴いたこともないほどに震えていた。ぎりぎりを保っていたグラスの水が一気溢れたかのようだった。決壊した想いが涙となって次々こぼれ落ちていく様に、ホンゴウがどれだけ耐えていたのかを察する。

「…医者のうでがよかったからだよ」

 ナマエはやわくホンゴウの手を握り返す。久方ぶりに触れた掌はかさついていたけれど、それがひどく心地良かった。

「違う。…いや、そうだけど…そうじゃねぇんだ……」

 再び握る力が強まる。加減しろと、それを止める人はいない。やっぱり痛いな、なんて思ったけれど、それを言うのは今度はばかられた。

「…絶対に、そんなことにはさせないけど、」
「…うん」
「……もし、お前がこのまま、目ェ覚まさなかったらって…そう思ったら…」

 そこまで言って、ホンゴウはぐっと言葉を詰まらせた。唇が、苦し気な呼吸音と共に開かれ。かと思えば、下唇を噛み締めながら閉じられ。けれどやはり震わせながら開かれ。なにかを言いかけては止めてを繰り返している、そんな感じだった。
 ホンゴウがなにを言おうとしているのか。一年という月日を隣で過ごしてきたからこそ、ナマエには分かってしまった。

「やめてよ…そんなこと言われたら、ほだされちゃうじゃん…」

 冗談めかした言葉ではあったが、その実、悲痛な願いが含まれていた。
 ──分かっている。ホンゴウは、死にかけた仲間を心配してそう言っているだけ。それがたまたま、元恋人、仲違いのような状態になってしまった相手だから、少し違った色を帯びているだけなのだ。
 だから、お願いだから。淡い期待なんて抱かせないでほしかった。だって、少しでもそんな想いを抱いてしまえば最後、結局自身はホンゴウへの想いを完全に捨てきることなどできないのだと、そう突き付けられてしまうから。
 苦笑いと自嘲に、ナマエは複雑に顔を歪め笑う。まだ笑ってごまかせると、ホンゴウにも、そして自身にも言い聞かせるようだった。

「…絆されてくれよ」

 けれどホンゴウは、小さくそう呟いた。はっきりとした言葉に、さすがにそれは笑って流すことはできず。ナマエはなんとか張り付けていた笑みをついに失ってしまう。

「その冗談は、さすがにわらえない…」

 別れを告げた時でさえなにも言わなかったくせに、今さら。
 ナマエは信じられないものを見るように目を見張る。妙な焦燥感に襲われ、思わず逃げるように握られた手を引く。それでもホンゴウは、その手を離してはくれなかった。

「…分かってる。お前のこと散々悲しませて、泣かせて…あんなことまで言わせたくせに、こんなこと今さらって、思うだろうけど……、」

 嫌な予感がナマエの胸を過ぎる。予感といいつつ、それはほとんど確信に近かった。

「いや…ききたくない……、」

 同時に、止めてと思ってしまった。その言葉を受け入れられる気がしなかった。

「頼むナマエ…聞いてくれ」

 悲痛な懇願の言葉に、ナマエは息を詰まらせる。──きっとここで大声を出せば、扉の前でずっと様子を伺っているベックマンが、すぐにでもホンゴウを引き剥がしてくれるだろう。それに縋り、この状況から逃げ出したいという考えが、ないといえば嘘になる。
 けれどホンゴウを突き放すなど、そんなこと、今のナマエにできるわけがなかった。
 そしてそれを、ホンゴウも分かっているのだ。分かっていて、最後の選択をナマエに委ねている。その証拠に、それ以上言葉を続けようとはしない。ただ聞いてほしいという願いを込め、ナマエを見つめている。──ずるい男だ、本当に。そしてそれに痛いほどに心臓を締め付け、どこか期待してさえいるナマエは、やはりひどく愚かだった。
 意味はないと理解しつつ、それでも逃げるようにナマエは顔を背ける。愚かな女がするせめてもの足掻きだった。

「…好きだ」

 想像通りの音で紡がれた言葉は、それでも告白というより、もはや懺悔にさえ感じられた。

「……ずるい」

 ナマエは震える唇で呟く。視界がじわじわと歪んでいく。

「どうしてよりによって、いま、言うのよ」
「…ごめん」
「ばか、ホンゴウのばか……ありえない…」
「………」 

 すべてを知ったあの日、ナマエがどんな想いであの言葉を言ったのか。あれからどんな想いで過ごしていたのか。それを知らないわけでも、想像しなかったわけでもないだろうに。
 引き攣った小さな泣き声が医務室に響く。青い瞳からぼろぼろと落ちていく涙を、ホンゴウは黙って見つめる。やわい頬を拭いたいと心底思いながら、同時に、今の自分にそれを拭う権利などないということも、痛いほど理解していた。

「…ナマエ」

 返事はない。ただ泣き声がわずかに小さくなったことから、一応耳を傾けてくれているのだと察し、ホンゴウは続ける。

「もし、お前の中にほんの少しでも、俺を好きな気持ちが、残ってくれてるのなら……、」

 そこで言葉を止め、目線を一度落とす。そうして再び顔を上げたとき、その瞳はまっすぐにナマエを見つめていた。

「もう一度、俺にチャンスをくれ。…もう二度と、お前を傷つけることも、悲しませることもしない」

 言って、ホンゴウは握り締めていた手を離すと、代わりにナマエの頬へと伸ばす。けれどそれは途中でぴたりと止まり。数度、なにかを我慢するようにさまようと、ぎこちなく横の棚へと移り。引き出しの中から白い清潔なタオルを取り出す。

「…拭ってもいいか」

 そうして、おそるおそるといった様子で訊いてきた。

「…じぶんでやる」

 ず、と強く鼻をすすり、ナマエは差し出されたタオルを受け取る。返答にホンゴウは少し残念そうではあったが、それでもすぐに、ナマエが動けていることに心底安堵しているように肩を撫で下ろしていた。

「……こんな状況で言っておいてなんだけど、今はとにかく身体が優先だから、ゆっくり休んでくれ」

 タオルを返し、「ん…」と小さく返事をすると、ナマエはゆっくり瞳を閉じる。鎮痛剤の効果も相まってか、すぐに穏やかな寝息が聞こえ始める。再び静かになった医務室にはもう、張り詰めた空気は一切残っていない。
 ホンゴウは今度こそ躊躇うことなく、やわい頬に触れ、涙の痕を指の背で優しく撫でる。
 これくらいは許してくれ、と心の中で呟きながら。




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