あれから二週間が経った。身体は順調に回復し、軽いものであれば力仕事もこなせるようになってきている。
傷痕は残ってしまったが、それもよく見なければ分からないような、薄っすらと残った程度で。術後の検診でなんとも複雑そうな顔をするホンゴウに、「医者の腕がいいからこれで済んだんだよ」と笑ったのはつい先日のことだ。
まだそんなに無茶ができるわけではないが、徐々に日常が戻ってきていた。──ただひとつを除いて。
赤髪海賊団の食堂には、厨房に面したカウンター席が数席と、リフェクトリーテーブルが二台置かれている。なるべく全員で食事ができるようにという、シャンクスの意見を採用した結果だ。
騒がしく昼食を取る男たちの間をすり抜け、ナマエは入口に近い端の席に座る。復帰祝いとしてルウが特別に作ってくれたコンソメスープと、カリカリに焼いたバゲットの匂いが鼻をくすぐる。鳴りそうになるお腹を抑え、いただきますと両手を合わせた。
「ホンゴウさん、お疲れ様です」
「おう、お疲れ」
一口サイズに千切ったバゲットを口に放り込んだ瞬間、聞き慣れた声が響いた。
騒がしい食堂の中でもはっきりと聞こえたその声に、ナマエは放り込んだ欠片をよく噛みもせず飲み込んでしまい。ごほごほとむせ返りながら、咄嗟に掴んだマグの中身を流し込む。けれどそれは水でなくスープで。口内と喉を通る熱に「あっつ!」と叫べば、ちょうど通りがかったらしいイーサンが「何やってんだこいつ」といった目でこちらを見ていた。というか言っていた。
聞こえた声に慌てて、バゲットの欠片をよく噛まずに丸ごと飲み込んで。咄嗟に流し込んだのは熱いスープで、最終的に舌を火傷する──テンプレート、絵に描いたような分かりやす過ぎる動揺の仕方だ。しかもひとりで騒いで。馬鹿すぎる。
イーサンをしっしと追い払いつつ、ひとつ咳払い。改めて食事を再開しながら、ナマエは声の方向へちらりと視線を向けた。
ホンゴウはベックマンとスネイクと共に、カウンターに近い席に座っていた。机上には書類が広がっているのも見える。昼食ついでに書類の確認といったところか。食事時にまで仕事の話とは、さすが船内三大ワーカーホリックと呼ばれるだけのことはある。
大きな二つの背中越しに、ちらちらと見えているホンゴウの顔をじっと見つめる。
ながら食べは駄目だ、よく噛んで食べろ。食事中のホンゴウの口癖だ。会議をしながらもその心得は守られているらしく、口の中に食べ物があるときは相槌だけ。相手の会話には手を止め耳を傾ける。自分が話すときは、フォークをきちんと置いてから──粗暴な者が多い船内ではかなり丁寧なその所作に、最初は目を引かれたのを覚えている。そういえば、そういう小さなことが、段々気になるようになっていったんだっけ。あれから文字通り色々なことがあった。
そんなことを思い返し、妙にしみじみとした気持ちで三人を眺めていると、ふとホンゴウが顔を上げ、こちらを見た。ばちりと視線が交わる。
どきり。再び心臓が跳ね上がる。今度はバゲットが詰まることはなかったが、口に入れる直前で動きを止めたせいで、ナマエはなんとも間抜けな状態のまま固まってしまった。
目が合い、数秒。そんなナマエの様子にホンゴウはふっとこぼすように笑みを浮かべた。眉尻と眦をほんの少し下げるその笑い方は、ホンゴウが嬉しいときに浮かべるもので。う、わ。なにそれ、なんなのそれ。
途端、心臓が、今度はぎゅううと痛いくらいに締め付けられる。その優しい笑みにナマエはへらりと、ぎこちない笑みを返し。そのまま逃げるように視線を食事へ戻す。
想いを告げられたあの日から二週間、徐々に日常が戻ってきていた。──その中でただひとつ、ホンゴウの態度だけが、以前とはすっかりその様子を変えていた。
どこが変わったのかなんて、そんなの、見たら分かるだろう。──ナマエへの好意を示すようになったのだ。それはもう文字通り、目に見えて分かるほどに。
無意識かそうでないかはともかくとして、ホンゴウは"一応"恋人関係だったあの頃にも、ナマエが違和感を抱かないくらいにはそういった態度を取ってくれていた。だからこそ一年もの間、それこそ普通の恋人のように共に過ごせたのだから。
けれどこれは、今まさに向けられている好意は、その頃とはまったくといっていいほど違うのだ。色が、熱が、質が。いやもはや、すべてが。ああこれが、ホンゴウが"好きな女"に向ける想いなのだと、そう思わされてしまうほどに。
しかし、そんな特大の愛とも呼べるものを向けられているにもかかわらず、ナマエは未だ、ホンゴウに明確な答えを返せてはいなかった。同時にホンゴウもまた、ナマエに答えを要求はしてこなかった。だからその状況に甘んじて何もせぬまま、気付けば二週間という時が経過してしまったのだ。
いくら色々あったとはいえ、返事はまだかと詰め寄っても文句は言われないだけの期間だ。ライムジュース辺りなら確実に痺れを切らしている。
とはいえナマエとてそれだけの間、なにも考えていなかったわけではない。返事をしないのにも、それなりの理由があった。
──すべてを知ってしまったあの時から今現在まで、たった一ヶ月程度しか経っていない。それなのに人の気持ちが、そう簡単に変わるのだろうか。
だから、思ってしまったのだ。もしかするとホンゴウのあの言葉には、今ナマエが考えているような"そういう意味"は含まれていなかったのではないか、と。
不安からの安堵。それは同時に妙な高揚感を生む。傷つけ、仲違いのような状態のまま、仲間と死別することになっていたかもしれない。そんな悲しみにさらされていたホンゴウの心は、そうならずに済んだことで、なおのこと大きな高揚感に満たされただろう。
そんな感覚に背中を押され、無意識のうちに、ずっと心に引っかかってたことを言ってしまったのではないだろうか。自分自身の心と、なによりナマエを安心させるつもりで。
そこまでホンゴウを悪人に仕立てるのも如何なものかと思うが、状況が状況だっただけに、やはりそういう可能性も捨てきれずにいる。心を守るため、当然ともいえる思考だった。
なにより一番恐ろしいのは、この一見的外れかもしれない考えが実は当たっていて。「確かにちょっと感情が高ぶってたんだ。思い返せば気のせいだった」などと言われてしまったら。たぶん、いや今度こそ確実に、立ち直れる気がしない。
だからもういっそ、何もしない方が良いのかもしれないとさえ、ナマエはここ数日思い始めていた。このまま、結論を出さずにいた方が。
けれど同時に、ホンゴウにきっぱりと「情けの優しさは不要」などと別れを告げておきながら、これについては流してしまえばなんて。それは人として不誠実がすぎるだろう。むしろそうして無かったことにしようと思った瞬間、それをすれば人として終わるという考えが殴りかかってくる辺り、結局ナマエの本音はそちらなのだ。
だけどやっぱり、いざとなると現実を突きつけられたくはない…とまた浮かび。結果、堂々巡りを繰り返している。
「…そんな感じなんだけど、どうすればいいと思う?」
「どうもこうも、心底どうでもいいわ」
昼食後、ナマエは渋るライムジュースをヤシの木がある船尾に引きずって連れていき、これまでの洗いざらいを吐き出していた。
「そんなこと言わないでよ。…こんなこと、ライムにしか話せないんだから」
「知らねェよ。んなことで話しかけてくんな」
けれど言うや否や、ライムは面倒といった様子を隠しもせず吐き捨てた。あまりの躊躇のなさにナマエは唇を尖らせる。
そもそも最初に、人目を避けていたナマエの元へ「酷い面してる」などと言いにきたのはライムの方だし、なんなら後で聞いた話だが、どうやらホンゴウにも発破をかけるようなことを言っていたというのだから。今回に限ってはナマエから話しかけはしたが、そうして最初に首を突っ込んだ以上、もう最後まで責任を持って話を聞くくらいはしてほしい、というのが本音だった。
とはいえナマエも、これがとても図々しい考えだという自覚は充分あるので、そこまで言わないが。
「…あのときは話しかけてくれたのに」
「………」
確かに、ライムとナマエ、そしてホンゴウの三人はこの船の中でも特に"仲が良い"といわれる間柄だ。だから二人の件を知ったときライムは、これ以上二人が、特にナマエが傷つかない道があれば。そのために少しだけ橋渡しをしてやれたら──そんな気持ちでそれぞれに声をかけた。それは認める。
ただそれはあくまで、"関係がこれ以上拗れなければ"、という段階での話。無事和解した後の、まるでティーンのような恋愛のごたごたまで聞くつもりは一切なかった。そして今後もない。そもそも、恋人に見せるホンゴウの態度など聞きたいはずもない。
それでも頼るようにこちらを見るナマエに、ライムは片方の眉尻をぴくりとさせた後、「はあぁ…」と長い溜息をついた。感情を吐き出すようなそれは不安げなナマエに向けてではない。結局ナマエに甘い、自分自身にだ。
「…さっさと、"私も好き〜"とか言って、いちゃつきゃいいだろ」
「アドバイスが雑すぎる…」
「だいたいな、他人なんだから考えてることなんて分かるわけねェんだ。だったらウジウジ悩むより先に、まずその考えを話した方が良いに決まってんだろ」
悩むのはそこからだろ、とライムは続ける。なんとも辛辣な言葉選びだが、至極もっともな意見ではあるので、もはやナマエはぐうの音も出なかった。
「わ、分かってる…けど…、」
「けど?」
「………やっぱり…勇気が、出ない……」
「………」
勢いとはいえホンゴウの顔に見事な右ストレートをぶちかましておいて、何故ここでこうも怖気付くのか。ライムにはよく分からなかった。ベックマン辺りには、「察してやれよ」と言われてしまいそうだが。
ライムは俯くナマエを見下ろし、そして少し考えると「…分かった」と納得したように呟く。
「要は、それを言えるきっかけが無理にでも出来ちまえばいい、ってことだな」
「…え?」
言ってライムは大股でデッキの手すりに近付くと、下を覗き込む。
「おい!ホンゴウ!」
そして、大声で叫んだ。
「は…!?」
まさかと慌てて駆け寄れば、そこには驚いた様子で下のデッキからこちらを見上げるホンゴウの姿があった。隣にはコナー、そして二人の手には書類の束。どうやら昼食時に引き続き仕事の話をしていたらしい。
ライムは指先をちょいと動かし、こちらに来いとホンゴウに促す。ホンゴウは「なんだいったい…」と不思議そうな顔をしながらも、隣にナマエの姿を見るや、すぐにコナーに書類を預け、小走りで階段を上ってくる。
その姿に、ナマエはライムに掴みかかる勢いで詰め寄る。
「なにしてんのよ!?」
「きっかけがほしいんだろ」
「誰もそんなこと言ってないんだけど!」
「どうした、ライムジュース、ナマエ」
あっという間にやって来たホンゴウに、それまでの勢いはどこへやら。ナマエはぐっと言葉を詰まらせてしまう。
「こいつが話したいんだと」
けれどライムは無慈悲にも、溜息と共に親指でナマエを指し示した。「ちょっと!」と咎めたくなるが、ホンゴウの目の前でそんなことができるわけがない。代わりにライムのコートの袖を強く引っ張る。もはや縋るような想いの方が強かった。
「…ナマエ、どうした?」
ホンゴウは小首を傾げながら訊いてきた。その顔にナマエの心臓はぎゅうと締め付けられる。だって、やっぱりひどく優しいのだ。その顔と、声が。食堂で向けられたものと同じ。
「や、何ってわけでは、ない、んだけど……、」
確かにいずれ面と向かって話さなければいけなかったとはいえ、心構えもできていないこんな状況でまともに言葉が紡げるはずもなく。ナマエはしどろもどろになりながら、視線をさまよわせてしまう。
けれど「やっぱりなんでもない」と誤魔化すこともできない。なにせライムから、「ちゃんと言えよ」というオーラがすごいのだ。
「……今日、の、夜…」
「うん」
「ちょっと…は、話しません、か……」
あのことで、とは言えなかった。けれど言外の意味をホンゴウは察したようで。優しい表情に、ぱあと嬉しさも滲ませる。
「もちろん。医務室…あ、いや、違う場所の方がいいよな。…ここなら、夜は静かだけど……、」
こことは、今いるヤシの木の下だ。保存用の木箱や樽が積まれているうえ、角度によっては大きな影ができることもあり、昼間でさえ用がなければ人が来ることもあまりない。ゆえに静かに過ごすにはうってつけの場所なのだ。それが夜であれば、なおのこと。
医務室はホンゴウのテリトリーだ。こんなぎこちない状態でそこに二人きりは嫌だろうと、咄嗟に気を遣ってくれたのだろう。
「いや…私の部屋でいい、から…」
「…いいのか?」
「うん…」
けれどナマエはそれを断った。気遣いの通り医務室でないのはありがたいが、ヤシの木の元に来る人間も、少ないとはいえゼロではない。かといって他に適切な場所などこの船にはないし、一番邪魔をされないであろうどこかの島への上陸も、まだ当分先だ。
それならば、非常時以外は立ち入り禁止になっているナマエの部屋が、一番うってつけの場所になる。なにより私室なら、自分の空間ということもあり二人きりでも幾分か落ち着ける。
その提案に、ホンゴウは目を見開いた。そうしてすぐに、「ナマエがいいなら」と優しく微笑む。その顔の、やはり嬉しそうなこと。
なんとも言えぬ、妙にむず痒い気持ちになっていると、「ホンゴウさーん?」と呼ぶ声が聞こえた。コナーの声ではない。次いで走り回る音が響く。医療班のメンバーだろうか。どうやらホンゴウを探しているようだ。
「じゃあ夜に…あ、何時くらいなら行っても平気だ?」
「えっと……じゃあ、九時頃?に…」
「ん。分かった」
ホンゴウは名残惜しそうに言うと、「こっちにいるぞ」と声のする方へ階段を下りて行った。
その背中を見送り、ナマエはふと横目でライムを見上げる。
「………」
「…ご、ごめん…」
サングラス越しでも分かる。ライムの瞳は「俺はなにを見せられてるんだ」といったように遠くを見ていた。
申し訳ないが、会話の途中でナマエの脳からライムの存在はすっかり抜け落ちていた。それはライムも分かっていたし、二人が話し始めた瞬間早々にこの場を離れようとしたのだが、いかんせんコートの袖をナマエに掴まれていたためそれは叶わず。結局最初から最後まで、この雰囲気を真正面で浴びせられることとなってしまったのだ。
「……俺にここまでさせたんだ。なにも進展がなかったなんてぬかしやがったら、どうなるか分かってんだろうな」
腹の底から絞り出したような低い声と、頭上からぐさぐさと刺さる威圧感に、刺されるのは腹だけで充分なんだけどと笑えない冗談が脳内に浮かぶ。
それをなんとか飲み込み。代わりに「……っす」と、気の抜けた返事をすることしか、今のナマエにはできなかった。
夕食を終えた後のナマエの過ごし方はだいたい決まっている。部屋に戻りひとりで過ごすか、食堂で開かれている宴会にそのまま加わるか。例外はあれど、大抵はそのどちらかだ。
今日は前者だった。もちろん、昼間ライムの計らいによって半ば無理やり交わすこととなった、ホンゴウとの約束のためである。
ナマエは横目で時計を見やる。時刻は八時五十五分。九時までもうすぐだ。
結局、覚悟を決められたかと言われればそんなことはない。当たり前だ。二週間さんざん悩んでいたことに、たったの数時間で結論を出せるわけがないのだから。
けれどおそらく、話し合いが今すぐだろうと、例えば一年後だろうと、こうして悩むことは変わらない。それならすぐに解決させた方が良いというライムの強硬が、結局は最良の選択なのだ。分かっている。が、やはり不安はそう簡単には拭えない。一人になった途端また堂々巡りだ。
どうしようもない状況にため息をつく。がくりと首を落としたとき、ノックの音が響いた。
「ナマエ、いるか?」
どこか迷ったような声音だった。時計を見れば、九時ちょうど。几帳面なホンゴウらしい。
ナマエは返事の前に一度小さく深呼吸をする。心臓を抑えながら「今開けるから」と言い、静かに扉を開いた。
薄暗い廊下を背にしたホンゴウは、ナマエの顔を見た途端、その雰囲気をぱっと明るいものにした。嬉しそうな、ほっとしたような表情。その顔に、心臓はまたやわく締め付けられる。ずるいそんな、可愛い顔するなんて。
「…入っていいか?」
「…あ、うん。どうぞ」
場所を提案したのはナマエだというのに、再度きっちり許可を取るところもホンゴウらしい。
後ろ手に扉を閉めるホンゴウを見ながら、ナマエはベッドに腰掛ける。そこで気付く。いつもの癖でベッドに座ったが、おそらくホンゴウの性格的に、この状況で隣、ましてベッドには座らないだろう。ナマエの部屋で二人で過ごすときは大抵ベッドの上だったから、当たり前のように行動してしまった。
見れば、案の定ホンゴウは困った顔で扉の前で立ち尽くしていた。
「…ごめん、ここ座って」
入口近くに置いていた丸型のスツールを引きずり、座るよう促す。ホンゴウは「悪いな」とそこに腰掛けた。
「………」
「………」
そうして、いざ面と向かった瞬間に訪れる、無言。話し合うことの難しさを、これ以上ないほど痛感する。
改めてホンゴウの顔を見た途端、どうしようもない不安が、ナマエの中にこみ上げてくる。怖い。やっぱり気のせいだった、なんて言われたら。──不安から逃げるように、ナマエは視線を落とす。膝の上で握り締める手がひどく冷たく。それが余計に不安を煽った。
「…なあ」
消えそうな、けれどはっきりとした声だった。落とした視線の隅にホンゴウの靴先が映る。いつの間にかすぐ近くにきていたらしい。
「こっち、向いてくれるか」
言いながら、ホンゴウはナマエの目の前に膝を折る。今度はナマエが見下ろす形となった。
咄嗟に視線を逸らしたい衝動に駆られるも、そんな想いはすぐに捨てた。交わったホンゴウの瞳が、ひどく真剣で。射抜くようなそれから逃げてはいけないと、そう思ったのだ。
ほんごう、と。ほとんど音になっていないような、小さな声で名前を呼ぶ。けれどホンゴウの耳にはしっかり届いていたようで。瞬間、返事をするように、ふっと柔らかい顔が向けられる。──ああ、そうだ。あれは、ナマエが好きで仕方のない、ホンゴウの顔。
「…あのとき言ったことは、お前が助かったことに安心してとか、雰囲気に流されてだとか、そもそも勘違いだとか…そういうのじゃ、絶対にない」
そっと伸ばされた大きな手は一度躊躇うも、ゆっくりと重ねられた。優しく手の甲をさすられ、そこでようやく、掌に爪が食い込んでいたことに気が付く。
──あたたかい手だ。どこへ行くにも優しく包み込んできてくれた、優しい手。その手に触れてもらうのが、なによりも幸せだった。
「散々傷つけた。本当に今さらだ。……でも俺は、もう、お前が隣にいない未来を、少しだって考えることができないんだよ」
穏やかに、丁寧に紡がれる言葉が、ナマエの心の中のわだかまりを、ひとつひとつ解いていく。──これほどの想いを抱き、まっすぐ言葉にしてくれる人を、これ以上どうして疑うことができようか。
「だから…、」
「ホンゴウ」
遮り、名を呼ぶ。今度はしっかりと音になってくれた。
話を止められたにもかかわらず、ホンゴウは怒ることなく。それどころか、「ん?」と小さく小首を傾げながら先を促してくれる。
それがナマエの話を聞くときのホンゴウの癖なのだと知ったのは、恋人になってからしばらく経った後だった。
「あの…、」
たぶん、ホンゴウは謝罪するつもりなのだろうと思った。状況と経緯を考えれば、ナマエの体調も精神も落ち着いた今、改めて謝罪をするのは当然だ。
けれど聞きたいのはそれではなかった。今聞きたいのは、ひとつだけ。たったひとつの言葉だけでよかった。
それなのに──どうしても言葉が出てこない。出そうとすると、乾いた喉の奥でその身を突然大きな塊に変えたかのように、つっかえてしまうのだ。
もどかしさに、ナマエはぐっと眉根にしわを寄せる。視界がぐらりと歪み、まずい、と思ったときには遅かった。
細められた青い瞳から涙がこぼれる。堰を切ったようにぼたぼたと落ちていくそれは、膝に置かれた二人の手を濡らしていった。
泣き出したナマエに、ホンゴウは少しだけ驚く。漏れ出す嗚咽を止めることなく、まるで子供のように泣くナマエを見たのは、これが初めてだったからだ。心臓が張り裂けるような衝動に、ホンゴウは堪らず、濡れた頬に手を伸ばす。
ほんの少しの戸惑いを帯びながら眦を拭う手に、ナマエはそっと身を委ねる。そうして、ホンゴウの顔を見つめた。
「ほんとうに、私のこと…好き……?」
縋るような声だった。未だ拭いきれぬ不安に苛まれ、それでもなお、向けられる愛情を信じたい。そんな想いを秘めた、小さな声。
「好きだ」
だからホンゴウもはっきりと応えた。それ以外の言葉は、今はいらないと思った。
ホンゴウのチャコールグレーの濃い瞳が、きゅうと細められる。それは、ナマエが自身の想いに気付いた、美しいあの夜と同じ。ひどく優しい色を抱きながら、ナマエだけを見つめていた。
「うお…っ!?」
次の瞬間、ナマエはホンゴウの胸に飛び込んでいた。太い身体に手を回し、力の限り抱き着く。
突然の衝撃にホンゴウは咄嗟に踏ん張るも、間に合わず。そのまま後ろに倒れ込んでしまう。ごんっと鈍い音と共に後頭部に痛みが走る。けれどすぐに起き上がり、胸元にうずくまるナマエを見やった。
「っ大丈夫か…!?」
「……ホンゴウ、」
「どこか打ったか?傷は…、」
「…好き」
心配するホンゴウを余所に、ナマエはぽつりと呟いた。慌てていたホンゴウは、小さく聞こえたそれに言葉と動きをぴたりと止める。
「私も、ホンゴウが…好き」
こんなにも近いのに、言葉を紡ぐその表情はホンゴウからは見えない。けれど服を掴むその手は白くなるほど力が込められ。響く声は、わずかに震えていた。
気付けば、ホンゴウは勢いよく上体を起こし、勢いのままナマエを抱き締め返していた。
「…俺も、好きだ」
呟いて、腕に力を込めれば、小さな身体が弓なりに反る。少しだけ苦し気な声が聞こえた気がしたが、それでも離そうとは思わなかった。思えなかった、の方が正しいのかもしれない。とにかく、この愛おしい存在と、今は少しも離れたくなかった。
「……たくさん傷つけてごめん」
今ほしいのは謝罪の言葉ではないと思っていたけれど、きっとこれはホンゴウのためにも必要な言葉なのだろう。だからナマエも、今度は止めようとはしなかった。
「…もっと好きって言って」
ナマエは返事の代わりにホンゴウを見上げる。海のように青い瞳が、たくさんの感情にゆらゆらと揺らめいていた。
「謝るよりも…その分、私が、もういいって呆れるくらい、好きって言い続けて……っ」
大粒の涙が落ちていく頬を、ホンゴウは両手でそっと包み込む。ゆっくりと顔を近付ければ、ナマエは少し戸惑ったように息を漏らしたものの、すぐに瞳を閉じた。
──初めてキスをしたとき、長い睫毛に雫が揺れる様が美しいと思ったことを、ホンゴウはぼんやりと思い出していた。
久方ぶりの口付けは、ほんの一瞬触れるだけで終わる。けれどそれだけで、どうしようもないほどの幸福が二人の心を包み込んだ。
「一生かけて言い続ける。…だから、俺をずっと、ナマエの隣にいさせてくれ」
返事の代わりに、ナマエはホンゴウに口付ける。離れれば、チャコールグレーの瞳は驚いたように開かれながらも、すぐにきゅうと細められた。
「…愛している」
囁かれた言葉に、今度はナマエが目を丸くし。「そこは"好き"っていうところでしょ」と小さく笑った。
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