深夜二時過ぎ。ナマエはふと、妙な息苦しさに襲われた。
 まるで重たい石が胸の上に乗っているかのような感覚。それが煩わしく身体は無意識のうちに逃げようとするも、それは叶わなかった。いつのまにか太い二本のロープのようなもので、全身を縛り付けられていたらしい。
 これは夢、なのだろうか。気付かぬうちに縛り付けられているなど、いくら寝ているとはいえ在り得ない。けれどこの、上に乗る重みと温かさは、妙にリアリティがある。無機質ではない。まるで何か、生き物がそこにいるかのような──、
 徐々に覚醒し始めた脳内でそこまで考えたところで、敵襲──その二文字が、ナマエの脳内に浮かび上がった。
 瞬間、ナマエはそれまでの緩慢さが嘘のように、かっと目を開き。枕元に置いてある武器に手を伸ばすと共に、自身を押さえ付けている"なにか"へと勢いよく視線を向けた。
 眠る前にしっかりかけていたはずのブランケットは剥ぎ取られていたらしく、その"なにか"はナマエの胸元で、時折小さく動いている。
 丸窓から差し込む月明かりに照らされるシルバーグレーに、鼻をくすぐる、ほのかに苦味を含んだ煙草の匂い。ナマエは煙草を一切吸わないから、嗅ぎ慣れたそれが誰のものかなんて、寝ぼけた脳内でも一瞬で判断できた。

「………」
「………」
「………」
「………」

 ナマエが起きたことに気が付いたのだろう。敵──ではなくベックマンは、埋めていたナマエの胸からのそりと視線を上げ。どこか虚ろな瞳でナマエを見上げていた。

「…何してるんですか、副船長……」

 数秒見つめあった後。ナマエがなんとか絞り出した言葉は、怒りでも叫びでもない。ただ、戸惑いと困惑を混ぜた問い掛けだった。
 ベックマンはナマエの言葉にゆっくりと瞬きをすると、普段より数段低い、地を這うような小さな声で呟く。

「…セラピーを、」
「セラピー」
「受けに…来た」

 言うや否や、ベックマンは再びナマエの胸に顔を埋め。そのまま動かなくなってしまった。どうやらそれ以上話す気というか、気力自体がないようだった。
 ──セラピーってどういうことですか。というかなんでここに。あとちゃっかり胸触らないで下さい。よく見たら夜用の下着まで外されてるし。人の身体好き勝手しすぎじゃないですか。
 聞きたいことも言いたいことも山ほどあったものの、その声があまりに疲れ切っていたこともあり。とりあえずは敵襲ではないことを安堵すべきかと、ナマエは無理やり考えを切り替え。代わりに徐々に覚醒し始めた脳内で、とにかくこうなった理由を知ろうと、かろうじて動かせる首だけで部屋の中を見回した。上に伸し掛かられ、背中とベッドの間には二本の太い腕が回されているせいで、それしか動かせないのだ。
 数日前までの大時化など嘘のように、今日は天候も良く。スネイクいわく穏やかな海域ということもあり、波もなく船もほとんど揺れていない。
 だからだろう。月明かりのおかげで、視線だけでもその原因はすぐに見つけることができた。というより、無視できなかったという方が正しいが。

「鍵が…」

 ナマエの自室は、大幹部以外の船員たちが寝起きする大部屋とは少し離れた場所にある、元倉庫を改造して作られている。紅一点ということも踏まえ気を遣ってくれたのだろう。部屋にする際にはドアノブ部分も、しっかり鍵がかかる真鍮のものへと変更されていた。
 赤髪海賊団は仲間であり家族だ。心の底から信頼はしている。けれどそれなりの対策はお互いのためにしておこうと、ナマエがこの船に乗ることになった際いくつかのルールが決められていて。部屋の鍵はそのうちのひとつだった。
 それが今、無残な姿で床へと転がっているではないか。
 ピッキングしたとか、そういう次元ではない。ノブを握り捻りながら、丸ごとドアから外したのだろう。固定していた周囲の木を巻き込んだせいで、ドア本体に不自然な穴が開いてしまっていた。
 覇気でも使ったのか。いやそれ以前に、鍵を壊してまで入ってくるとはどういうことだ。いやもっと、もっとそれ以前に。決して広くはない部屋に寝ていながら、おそらく純粋な力のみでドアノブが壊された音にも気付けないのは、海賊としてどうなんだろうかと、捨て置かれたドアノブを見詰めながら、ナマエは一周回って冷静になった脳内でぼんやり思った。

「……副船長」
「あ゙…?」
「…次は、起きてる時に来て下さい。普通に驚くんで」

 少し動揺して忘れていたが、そういえばここ三日ほどベックマンは仕事が立て込み部屋に缶詰め状態だったはずだ。一度仕事を始めると出てこないタイプの人だから、ここにいるということは、ひとまず終わる目処がついたか、もしくは終わったということだろう。
 それと同時に、女性に対しては気遣いの鬼であるあのベックマンが、気配を消して人の部屋の扉を壊すまで参っていたという事実に、ナマエは同情の念さえ覚えていた。そんな人を無理に起こし、「自分の部屋で寝ろ」などと追い返したりなんて。そんなことできるはずがなかった。
 ナマエはベックマンの頭へそっと手を添えると、まるで小さな子供を労るような手付きで撫でてやる。

「おう…」

 ベックマンはほんの一瞬ぴくりと反応を示したものの、やはり眠気には抗えなかったようで。小さな返事を最後に、ナマエの耳に届くのは寝息だけとなった。
 相変わらずがっちり拘束されたままの身体に多少の寝辛さは感じつつ。ナマエはベックマンの眉間の皺を伸ばし、目元の隈を撫でてやりながら、再びやって来た眠気に抗うことなく。同じように眠りについた。



「……?」
 
 翌朝。ベックマンは柔らかな心地よい感覚に目を覚ました。窓から見える景色は記憶の中で最後に見たものとは大きく異なり、眩しいほどの朝陽を部屋の中へと運んでいる。どうやらまだ陽は登り始めたばかりらしい。
 仕事が立て込むと机に突っ伏し寝てしまうことは何度かあった。けれどそれも数十分、長くとも一時間程度で起きてしまうだけに、そのまま夜明けを迎えることは初めてだった。
 昔は何日寝ずとも耐えられたというのに。歳を取ったなとぼんやり思いながら、凝ってわずかに痛む身体を起こそうとした、そのとき。ようやく違和感に気が付いた。
 頬に触れるのはここ数日何度も感じていた机の硬く冷たい感触ではなく。ふわりと柔らかく、それでいて温かく。心なしか良い匂いまでするもので。この感覚にベックマンは覚えがあった。これは、女の身体だ。
 けれど船はここ一ヶ月以上港に着けていない。当たり前だが商売女が船の中にいるわけもなく。かといって男では絶対に在り得ない感触だ。そんなこと、想像するだけで嘔吐ものだが。
 けれどそんな馬鹿なことを一瞬でも想像をしてしまうほど、このときのベックマンは動揺していたのだろう。だって、そうでなければ可能性は一つしかないからだ。
 鼻先を柔らかなそこに埋めたまま、鷹揚と視線を上げる。そこにいたのは想像通り。黒く長い睫毛を伏せ、ベックの頭をその胸に抱きしめながら、心地よさそうに眠るナマエの姿だった。

「…天国か?」

 口を衝いて出たのは、普段であれば絶対に言わないであろう、なんとも間抜けな言葉だった。
 眠りが深いのか、ただ鈍感なのか。ナマエはベックマンが起きたことに気が付いていないようで。それどころか未だに寝息を立てながら、時折「ん、む…っ」と子供のようにむずがっている。
 その様子を見ているうちに、ベックマンは徐々に昨夜のことを思い出し始めた。──あと三日でナワバリの島に着けることができることが分かった、ある日のこと。今回は一ヶ月以上船の上だったこともあり、必要な物資諸々がそろそろ足りなくなってくる頃だった。それにくわえて数日前には大時化があり、元々買い替えを検討していた武器等々が湿気でついに壊れてしまい。それら全てのリストアップと経費計算を、よりにもよって上陸までの三日で片付けることとなってしまったのだ。
 スネイクやホンゴウらの手伝いももちろんあったが、彼らにも本業がある以上多くを任せるわけにはいかず。結局自室に缶詰め状態のまま、ベックマンはそれらをほとんど一人で片付けていくこととなり。それら全てが終わったのが、三日目の夜中。明日の昼前には島に到着できるという頃だった。
 いっそこのまま寝てしまってもいいかとも思ったが、なんとか気力を振り絞り三日ぶりのシャワーを終えたベックマンは、もう何本目かも分からない煙草に火を着けながら、丸窓から見える穏やかな月明かりをぼんやり眺める。そうしてようやく落ち着いた脳内に浮かぶのは、ナマエの顔だった。
 三日。もう三日だ。同じ船内にいながらしっかりと顔を見ていない。声を聞きはしたが、それも誰かとの会話を遠巻きに聞いただけ。会話をしたわけではなかった。
 会いたい。素直にそう思ったが、今は真夜中。今日は宴もないから、健康的なナマエのことだ。もうとっくに寝ているだろう。
 ならせめて、顔だけでも見に行きたい。そうすればこの疲れも半分以上消えてなくなってくれるという妙な確信があった
 少しの逡巡の後、ベックマンはもはや底が見えなくなっている灰皿に煙草を押し付けふらりと立ち上がり。暗い廊下の先にある、人気のないナマエの部屋へと向かった。
 そこからは、もうぼんりとしか覚えていなかった。ただ視界の端に先ほどから見えている無残な姿の扉は、自分がやったのだろうということぐらいは理解できた。なんとも余裕のない状態だったのだと、ベックマンは我がことながら苦笑してしまう。

「…おい、ナマエ」
「ん……、」

 自身の頭を抱えているナマエの腕を解き、上体を起こす。肘をつき覆い被さって見下ろすが、未だに起きる気配がない。名前を呼ぼうとも相変わらずむずがるだけである。
 その姿に、ベックマンの中にむくりと悪戯心が芽生える。三日も缶詰め状態になりながら仕事を頑張ったのだ。多少のご褒美を貰うくらいは許されるのではないか。いや、許されるはずだ。
 口に出すでも、誰に許可を取るでもなく。ベックマンは脳内で一人結論付けると、うっすら開く赤い唇へ、そっと親指を這わせる。下唇をわずかにめくり小さな歯の隙間から覗いた舌の赤さに、ふつふつと欲が生まれていく。
 ベックマンは一度小さく喉を上下させると、柔らかな唇へ、自身のそれを重ねようと距離を縮めた。

「………」

 けれど、あと数ミリ。互いの呼吸が感じられるほどの距離で動きを止め。少し逡巡した後、ナマエの乱れた前髪を退かし現れた額に唇を落とした。
 そのまま唇にしなかったのは、昨晩突然潜り込んだ男を母のように純粋に受け入れてくれたナマエに対する礼儀でもあった。もっとも、それはほんの二割程度の言い訳で。残りは、どうせなら意識があるときにしたいという邪な気持ちなのだが。
 ベックマンは小さく息を吐くと、ナマエの胸元へ再び顔を埋める。まだ陽は登り始めたばかりだ。それに、あれだけの仕事をこなしたのだから、少し寝坊したところで咎める者もいないだろう。上陸までの少し前までには起きればいい話なのだから。
 昨夜は無意識のうちに求めていた柔らかく温かな感覚に、今度は明確な意思を持って触れる。ふるりと顔を包み込む体温に擦り寄るように、ベックマンはナマエの身体を強く抱き締めると、再び眠りの海へ、ゆるりと沈んでいった。




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