医務室に併設された備品庫の掃除の途中。手伝いに来ていたナマエは、書類を書くホンゴウの手元の違和感に、「あれ、」と声を漏らした。
「ホンゴウの爪が伸びてる。珍しい」
治療を行うホンゴウの爪は、清潔を保つため指先から数ミリでも出ることがないほど短く切られている状態が常だった。時には切り過ぎて深爪になってしまい、指先が赤く痛々しい状態になっていることもあったのだが、本人いわく「翌日には痛くなくなるから」ということらしい。
だというのに。今のホンゴウの指先からは、なんと爪の先端がわずかではあるが覗いているではないか。一般的にはそれくらいがでもいいのだろうが、ホンゴウにしては珍しい状態だ。
思わず口にしてしまったナマエに、ホンゴウは「あー…」と気まずそうに視線を逸らしている。まるで親に悪戯が見つかった子供のような仕草だった。
「ここのところ、ちょっと忙しかっただろ。だから忘れてたんだよな」
これ終わったら切るか、と呟くホンゴウの指先を、ナマエはじっと見つめる。
爪の間に汚れが溜まりやすいのは確かだが、深爪になればそれはそれで皮膚の薄い部分がむき出しになってしまう。ましてや手は色々なものに触れる。そこから例えば炎症を起こしたりしたら元も子もない。そういう意味でもある程度の長さは必要なはずなのだ。
とはいえそれはホンゴウも理解していた。それでも頻繁に切る面倒臭さの方が勝ってしまい、結局深爪状態が常になってしまうのだ。
赤髪海賊団の船医として常に周囲に気を配り、細かな怪我さえも許さないホンゴウだが、その実自身のことには無頓着な面がある。これがまさしくいい例だった。
「むしろ今までが短すぎたし、ちょっと整えるぐらいでもいいんじゃないの?あんまり短すぎると、それはそれで菌とかも入るだろうし…」
ナマエの指摘に、ホンゴウは少し考えるような素振りを見せた後。「じゃあ…」と口を開く。その顔はどこか楽し気だった。
「切ってくれよ」
「え、何を?」
「俺の爪を」
「誰が?」
「ナマエが」
妙にテンポの良いやり取りの数秒後。ナマエは言葉の意味をようやく理解したようで。それまでとは打って変わり、大慌てで首を左右に振った。
「むりむりむり!人の爪切るとか怖すぎて無理!」
「大丈夫だって」
「器用な人もっと他にもいるじゃん!その人に頼みなよ!」
「男が男の手を握って、真剣に爪先を見つめてるなんて。そんな光景見たいか?」
治療ならいざしれず、「爪切ってくれ」などと言われたら百人が百人、「は?自分でやれ」と言うだろう。ホンゴウだって言う。
けれどそれがナマエになれば、また話は変わってくるわけで。早い話、ナマエだからやってほしいのだ。そうでなければこんな提案するわけがなかった。
「そんなむさ苦しい図勘弁してくれ…お前、いつも爪綺麗にしてるだろ。だから頼みたいんだよ」
「でも、それは自分のだから…できてるだけでぇ……」
言葉は悪いかもしれないが、自分の身体だからある程度、これでいいや、の諦めと妥協ができるわけで。それが他人のものとなれば、そんな適当なことはできないだろう。
それにホンゴウは綺麗と言うが、ナマエとて船仕事で手や爪は荒れている。なにをしたって結局荒れてしまうから、やはり「まあ、こんな感じで」で、の気持ちでやっているだけで。人様に施せるほどの技術や手腕を持っているわけではないのだ。
もごもごと口ごもるナマエに、それでもホンゴウは引かない。
「変に怪我させちゃったら悪いし…」
「おいおい、俺は医者だぞ?」
「き、綺麗にできなかったら…」
「元々深爪にしちまうぐらい頓着がないから、どうなったって構わねえ。……なぁ、ナマエ。頼むよ」
まるで犬が落ち込んでいるかのような、わずかに良心を刺激するその仕草に押され。結局ナマエは絞り出すように「わ、わかった…」と言う以外できなかった。
「ありがとう。じゃ、頼む」
返事を聞くや否や、ぱあっと分かりやすく顔を明るくし。ホンゴウはナマエの手を引き備品庫を出ると、そのまま医務室へと向かいベッドへと腰掛けた。横に置かれたベッドサイドチェストから爪切りを取り出し、ナマエへと差し出す。
先ほどまでとは打って変わったその様子に何とも言えない気持ちになりつつ。ナマエは爪切りを受け取ると、診察椅子を引きずりホンゴウの前に座った。
そうして手を取った瞬間、ホンゴウが「ん?」と疑問の声を上げる。
「そっちじゃやり辛くねえか?」
「え…じゃあどうするの…」
真正面に座り、相手の手を取る。爪を切るために、いったいそれ以外のどんな方法、もとい状態があるというのか。
突然の言葉に当然のことながら疑問符を浮かべるナマエに、ホンゴウは彼女の手を引くと、そのまま強く自身の方へと引き寄せた。
ぽふんっ、と柔らかな何かがナマエの後頭部に当たる。バランスを崩した身体は後ろから支えられ、まるで安定感のある椅子に座っているかのような感覚さえ覚えさせた。
「へ…」
「ほら、こっちの方がやりやすいだろ」
耳元で低く響く声とその近さに、背後にホンゴウがいるのだと気付くのに数秒。抱き締められているのだと気付くまでには、それからさらに数秒かかってしまった
意識した瞬間途端に熱くなる頬に、ナマエは慌てて立ち上がろうとする。けれどそれを遮るように、ホンゴウの腕が腹の前に回され。逃げられぬようがっちりと閉じ込められてしまった。
「な、なん…!?っ、ホンゴウ!」
「切ってくれるんだろ?」
決して脅しではないはずなのに。有無を言わせぬその雰囲気に、ナマエは言葉を飲み込む。
こうなったホンゴウは何を言っても聞き入れてはくれない。それならば一秒でも早く、この恥ずかしい状況を終えることが、結局は一番いい選択なのだ。
ナマエは飲み込んだ言葉の代わりに諦念のため息を小さく吐き出すと、抵抗を止め、腹に回された腕のうち右手を握りゆっくりと爪を切り始めた。
ぱち、ぱち、と小さく爪を切る音が響く。ナマエは相変わらずこの体勢と状況には戸惑っているものの、それよりも、始めてしまえば"大人になってから他人の爪切る"という行為の方に緊張してしまい。四本目に突入した頃には、距離の近さにも、相変わらず腹に回されたままの腕もすっかり気にならなくなっていた。
ようやく緊張が解れてきたらしいナマエの様子を、上から覗き込むようにホンゴウはじっと見つめる。
自身よりも二回りほど、大きさも厚みも異なる手で、一生懸命爪を切っている。伏せられた睫毛は長く、頬に薄っすら影を落としている。真剣だからだろう、唇はわずかに開いていて。俯いて落ちた髪の間からは耳の縁と、白いうなじが覗いている。合わさった膝は小さくまるく、もう少し食べさせなければという気持ちさえ浮かんできた。
簡単に言いくるめられ、その小さな身体をあっさり男の腕の中に収めてしまう。男所帯にいながら妙に警戒心の低いその様子に、ホンゴウは何度やきもきさせられたことか。
けれど同時に、その単純さが可愛くもあるわけで。そうでなければ、こうして自身の腕の中に収められることなどできなかったのだから。
「……はい、できたよ」
ホンゴウのそんな邪な考えなど知るはずもないナマエは、最後にすべての指を確認するようになぞると、肩の力を抜いた。
掴まれていた手が解放されることにわずかな寂しさを感じつつ。ホンゴウは整えられた自身の爪先を見つめる。いつの間にかやすりまで丁寧に掛けてくれていたようだった。
「…おー、さすがナマエだな。綺麗になってるわ」
「緊張した…」
「はは。ありがとな」
「次は自分でやってね」
「んー…」
ホンゴウは気のない返事をしながら、「疲れた…」と落ちた爪を払っているナマエの首元へ、そっと顔を寄せる。そしてさらりと落ちる髪をわずかに退かすと、隙間から覗くうなじへ、ちゅっ、と音を立てた口付けた。
「へぁ、っ」
うなじに触れた柔らかな感触に、ナマエの肩が跳ねる。持っていた爪切りが床に落ちベッドの下に転がってしまったが、そんなことは気にしていられなかった。
ナマエはうなじを押さえながら勢いよく振り返る。何が触れたのかは分かっているようで。驚きと困惑と羞恥がない交ぜになった瞳には、わずかに涙が滲んでいた。
「な、なにしてんの!?」
「お礼」
「はぁ!?な、そっ、そんな副船長みたいなことしないで…!」
「あ?なんだそれ」
とにかくこの状態から逃げるためにナマエは立ち上がろうとする。けれどその言葉を聞いた瞬間、腹に回されていたホンゴウの両腕が、ナマエを易々と押さえつけてしまう。
「おい、副船長にも同じことされたのか?」
言わなければこのままだぞ、とでもいいたげな強さ。くわえて怒気を含んだ声音に、ナマエは慌てて否定する。
ベックマンには申し訳ないが、今のは完全に言葉の綾だ。女好きの副船長ならそういう事もしてそうという偏見からきたものなので、彼は何も悪くはない。
「そんなことされてないっ!されてない…けど…、」
「けど?」
「…ホンゴウ、こういうことするタイプじゃないでしょ……」
こういうこと、というのは、先ほどうなじにキスしたことだけではないのだろう。爪を切るためだと言い膝に抱き上げたり、ベックマンの名が出た途端に嫉妬するように怒りを露わにしたり。そのすべてが、"ホンゴウらしくない"のだと、ナマエはそう言っているのだ。
──なんて馬鹿な考えだろうか。ホンゴウは呆れてしまう。ホンゴウが女に、というかナマエに対し甘い接触をしないというのなら、それは大きな勘違いだ。
むしろこうされるまでホンゴウはナマエに、自身を意識させるような接触を何度も行ってきた。今回の備品整理だってそうだ。整理とはいいつつ、その実ただの在庫確認だし、なによりそんなことは、自身の部下である医療チームにやらせたっていいことなのだ。
ホンゴウの行動は、二人をよく知る仲間たちからは「ほんと健気だな、あいつ」といっそ可哀想な目で見られるほどだというのに。当人にはまったくその真意が伝わっていないどころか、「こんなことしないでしょ」ときたものだ。鈍感もここまでくるといっそ冷静になるほどだった。
とはいえ、どうやら今回ばかりは少し違うようで。抵抗するナマエは、耳や首筋までも真っ赤に染め上げている。ホンゴウを"そういう意味"で意識しているのは、もはや火を見るより明らかだった。
「…馬鹿だなぁ、お前」
ホンゴウは小さく笑みをこぼし、ぺろりと口端を舐める。それはさながら、ようやく獲物を捕らえた獣のようだった。
「今まで我慢してただけだっての」
「ひっ…!」
誘うように赤く染まったうなじを、ホンゴウの厚い舌がべろりと舐め上げる。先ほどのような柔らかな感触ではない。熱くぬめる舌に首の骨を辿るようになぞられ、ナマエは甘い声を上げてしまう。色を含んだ声に、ホンゴウの理性がぐらりと揺さぶられる。
「や、ぁ、ほんご…あ、やめてぇ…ッ」
「はは…無理だな」
「っ、ん、うぅ、う…、」
制止の声も耳に入らず。ホンゴウは濡れるそこに、ぢゅうっと強く吸い付き。誰が見ても分かるようくっきりと痕を残していく。細い首から徐々に唇を下げていき、シャツからわずかに覗いていた肩にも吸い付く頃には、ナマエの身体からはすっかり力が抜けてしまっているようだった。
もはやナマエに抵抗する気力がないことを悟ったのか、ホンゴウは腹に回していた腕をするりとすべらせると、俯く顔に手を添え。切り揃えられた爪先で、柔らかな唇へと触れた。
「ナマエ。爪、綺麗に切ってくれてありがとな」
いやに嬉しそうなその言葉と共に、下唇の形を確かめるようになぞっていた親指の先端が、あわいからぬめる中へ差し込まれる。──瞬間、ナマエは大きく口を開き。その指へと噛みついた。もちろん、きっちり加減はしている。船の大事な船医様の指を、こんなことで傷つけるわけにはいかないのだから。
指先に感じたわずかな痛みに、ホンゴウは咄嗟に手を離す。その隙に腕を振り解き、ナマエはようやく自由になることができた。
といっても、ホンゴウはわざと力を抜いたのだろうというのはすぐに分かった。現に、あれほど逃がすまいとしていたにもかかわらず、その腕は距離を取ったナマエを追うことをしなかったのだから。
脱兎の如く扉へと向かったナマエは、勢いそのままに医務室から出ていこうとする。けれど扉の隙間に身体を滑り込ませ一歩踏み出した瞬間、ぴたりと動きを止めた。
そうして少し逡巡するように視線をさまよわせた後、首だけで振り向き。わずかな恨みと、けれど少しだけ熱を含んだ瞳でホンゴウを見た。
「………指、噛んで、ごめん」
ぽつりと呟くや否や、ナマエは勢いよく部屋から出ていった。最後に、誤魔化すように大きな音を立てて扉を閉めることも忘れずに。
まさかの言葉に、その背中をぽかんと見ていたホンゴウは「ははっ」とひとり笑う。
「はー…可愛いやつ」
ぎりぎりのところでなんとか逃がしてやったというのに。最後にあんな瞳を向けられたら、誰だって期待してしまうだろう。
ホンゴウはくつくつ笑いながら、傷の一切残っていない指先を見る。一瞬だけ触れた、温かく、少しぬめりのある熱が、まだそこにある気さえして。そのあとをなぞるように小さく唇を落とした。
立ち上がり、ゆっくりと部屋を出る。今頃、甲板で煙草を吹かすシルバーグレーの男の元に逃げているであろう姿を、再びこの腕の中に捕えるために。
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