「こうも雨が続くと気が滅入るな」

 心なしか沈んだ声につられるように、ナマエはマニキュアを塗っていた手を止め。揺れで机の上に転がりそうになるボトルを支えながら、手元へ落としていた顔を上げた。
 広い船長室に備え付けられたアルコーブベッドの上。ふかふかの枕に身体を預けながら窓の外をぼんやりと眺めるシャンクスは、つまらない、という感情をつめこんだような横顔をしていた。
 そうして黙ってれば相変わらず顔は良いなと、その造形にほとんど無意識のうちに美しさを感じながら、ナマエは彼の視線を辿り窓の外を見やる。
 普段室内に陽の光を届けてくれる大きな丸窓の向こうは、今は鈍色の雲から降り注ぐ大粒の雫を、ベッドシーツを濡らさんばかりの勢いで硝子へと叩き付けていた。

「…この天気も、もう四日目ですからねぇ」

 ここ四日ほど、レッド・フォース号は不安定な海域を進んでいた。恐ろしいほどの雨が降ったかと思えば、虹が出るほどからっと晴れ。けれど次の瞬間には落雷と降雹、突風も吹き荒れる始末。
 はじめは目まぐるしく変わる状況すら楽しみ、その度スネイクに怒られていたシャンクスだったが、さすがに三日目ともなるとついに飽きがきたらしく。つまらなさそうに外を眺めるしかできないようだった。
 ナマエは再び視線を手元に戻し、残った右手の小指を塗っていく。

「お頭も、雨で気が滅入ることなんてあるんですね」
「そりゃ俺だって人間だからな」
「だって、なんだかんだ船内で宴もしてたから、そこまで気にしてないのかと思ってた」
「ずっと太陽を拝めないとなると、さすがにな…それに宴だって、できれば太陽や月明かりの下の方が楽しいだろう」

 先日、雨続きで気落ちしているクルーらのために、小さな規模ではあるが食堂で宴が行われた。もちろんシャンクスはそれも心の底から楽しんではいたようだが、甲板で大騒ぎするのはやはり別物なのだろう。

「それはまあ、確かにそうですねぇ」

 ナマエは間延びした声で返答しながら、最後に右手の小指を塗り終えボトルの蓋を占める。ふうと指先に息を吹きかけコーティング剤を乾かせば、指先はちゅるんと効果音がつきそうな淡い、桜貝のようなピンク色に染まった。
 本当は色を乗せたかったところだが、いかんせんここは船の上。いくら丁寧に塗ろうと、作業中の擦れや乾燥ですぐに剥げてしまうことは目に見えていたため、自爪を強くしつつ、ほんのり色を乗せられるものにしていたのだ。
 満足げに自身の指先を見つめるナマエの横顔を、今度は窓から視線を外したシャンクスが見つめる。

「それ終わったか?」
「終わりました。部屋臭くしちゃってごめんなさい」
「そんなんは別に構わねぇよ…それより、こっち来い」

 シャンクスは身体を起こすと、自身の隣を軽く叩いた。早くと急かすようにじっとこちらを見つめるあざやかな赤色に、ナマエは一瞬きょとん、とした後。すぐにその真意に気付き。小さく笑いながらブーツを脱ぎ捨て、ベッドの上へと乗り上げた。
 そうしてナマエが座るや否や、シャンクスはその身体を抱き寄せ、自身の膝の上へと座らせる。

「寂しかったんですか?」
「ああ」

 同じくらいの高さになった首にゆるりと腕を回せば、少し拗ねたような、けれど構ってもらえて嬉しいといったようにシャンクスは顔をほころばせ。ナマエの額にひとつ唇を落とす。

「んふふ、くすぐったい」
「ずーっと触るの待ってたんだ。我慢してくれ」
「ええ?なんですかそれ。わんちゃんみたい」
「ちゃんと"待て"してたんだ。いい子だろ?」
「あは、そうですね」

 言いながら、シャンクスの唇はナマエの眦、こめかみ、耳元、頬、鼻先と顔中、至る所に触れていく。時折髭が肌に触れ、ざらりとした感触にナマエはくふくふと笑う。
 そうして最後に唇同士が重なる。わずかに擦り合わせるように動き。けれど乱暴に舌が差し込まれることはないまま、ゆっくりと離れていった。
 胸元にしな垂れる身体を支えながら、シャンクスはナマエの手を取り、淡い指先をじっと見つめる。

「色は塗らねぇのか?」
「本当は塗りたいんですけどね…はっきりした色は、作業してたらすぐ剥げちゃうんで」
「ふーん…もったいねぇな。綺麗な形してんのに」
「そんなこと言ってくれるのお頭ぐらいですよ」
「そりゃあ、そんなこと他に言う奴がいたら困るな」
「…あ、やっぱ嘘。言われたことある」
「なに?誰だその野郎」
「この色買ったお店のお姉さん」
「…反応に困るな」
「あはは」

 なんとも複雑そうな表情をするシャンクスをきゃらきゃらと笑いながら、ナマエは「そうだ」と、これまた弾んだ声と共に子供のような瞳で彼を見上げた。

「よかったら、お頭も塗ってみませんか?」

 物珍しそうな視線にそう提案すれば、まさかの内容にシャンクスは目をまん丸くしてみせた。

「なにを?」
「マニキュア」
「…俺が?」
「はい。似合いますよ、きっと」
「いやいや…似合わねぇだろ」
「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃないですか。…あ、それか、手が嫌なら足とかどうですか?」

 そう言いながら、ナマエは返事を聞く前にシャンクスの膝の上から飛び退き。机上に置いたままにしていたネイル用品が入った箱を持って戻って来た。あまりに早い行動に若干圧倒されつつ、シャンクスは一緒になって箱の中を覗き込む。

「どれがいいですか?好きな色選んでください」
「こんなすね毛の生えたおっさんが塗ってもいいもんなのか?」
「いいんですよ。おっさんだろうと、すね毛が生えていようと。塗りたい人が塗ればいいんです」
「そういうもんか」
「そういうもんです」
「そうか…じゃあ、まあやってみるか」

 まるでその箱が宝箱かのように中を漁るナマエの姿がなんとも可愛らしく。その勢いに押されたシャンクスは了承し、種類、色合い共に色とりどり並ぶボトルを眺め。その中からひときわ目立つ濃い色のものを取り出した。

「これ、ネイビー…いや、青か?」
「あ、そうなんですよ、よく分かりましたね。これ、このままだと色が濃く見えるんですけど…塗ったら、海みたいに綺麗な青色に見えるらしいんです」

 ボトルの中で揺れる液体は一見すると濃紺色をしていたが、光に透かしよく見れば、わずかな光沢と共に、海のようなあざやかさも持ち合わせていた。
 ナマエの言葉に、シャンクスは小さく「海か…」と呟く。その横顔はひどく愛しいものを見つめる色をしていて。やはりこの人はどこまでいっても海の男なのだと、ナマエはぼんやり思った。

「…これにしてもいいか?」
「いいですよ」

 予想通りシャンクスは顔を綻ばせながら、ボトルをナマエへと手渡した。受け取り、ナマエはさっそくとばかりに自身の太ももを叩く。

「足、ここに乗せてください」
「重いぞ?」
「でもこのままじゃ塗りにくいんで」

 それもそうかとシャンクスは尻を引きずり、伸ばした足をナマエの太ももへと乗せた。圧し潰すようでいささか気が引けたが、どうせこのベッドの上で太ももどころかその小さな身体を何度も潰しているのだから、今さらかと考え直す。それに拒否するのも変な話だと思ったからだ。
 ナマエはシャンクスの足を掴むと、ボトルの蓋を開け、とろりとした液体が纏うハケを縁で扱きながら適量を残し。そのままゆっくりと爪に滑らせていく。親指の爪に乗った色は、想像した通り。見慣れた美しい色をしていた。

「…実はこれ、この前上陸した島で買ったんです。新品ですよ」
「使ったことなかったのか?」
「タイミングが無くて」
「なんだ…俺が先に使っちまって悪ぃな」
「いいですよ全然。むしろお頭みたいなすごい人に使われて、この子も喜んでますよ」
「はは、そりゃ光栄だな」

 会話しながらも真剣な眼差しのナマエを、シャンクスはじっと見つめる。
 決して広くはない船内。逢瀬はどちらかの部屋で、今のところ広いシャンクスの部屋での回数が多かった。アルコーブベッドは二人寝転んでも充分な広さで、こうして足を延ばして戯れることだってできる。つい昨晩だってこの上で、その小さな身体を好き勝手に蹂躙したのだ。思い出しただけでも、シャンクスの身体の奥には小さな熱が蝋燭の火のように灯る。

「…なあ、どれくらいで終わる?」
「ん?んー…これ速乾なんでそんなに時間かかりませんけど……え、もう飽きちゃいました?」
「いや。真剣なナマエ見てたらムラついてきた」
「……」
「だから終わったらたっぷり触らせてくれ」

 明け透けなく答えるシャンクスに、顔を上げたナマエは呆れたように彼を見やり。何も言わない代わりに、少し逡巡した後、発言をたしなめるように足の甲をぴしゃりと叩いた。
 そうして再び落とした視線と共にはらりと流れた髪の隙間から、ほんのり赤く染まった耳が覗いていて。素直じゃないその様子に、シャンクスは再びくつくつと小さく笑った。

「……はい。できましたよ」

 それから十数分後。言葉と共に柔らかなそこから下ろされた足先をじっと見つめ、シャンクスは満足げに眦を細めた。

「うん。いいな。……お前のものって感じがする」

 呟き、シャンクスは口角をにっと上げる。ナマエは一瞬きょとんとしながらも、すぐにその言葉の真意に気が付き。海のように深く青く美しい瞳を、数度瞬かせた。

「…やだ、そんなつもりなかった。なんかそう言われると恥ずかしいから落としましょう」
「駄目だ駄目だ。このままにするぞ」

 ナマエの手から逃げるように膝を曲げ、慈しむような。それでいてどこか宝物を得た子供のような瞳で足元を覗き込むシャンクスの姿に、ナマエは気恥ずかしさが拭えなかった。お前のようだと言われ目の前でそれを愛おしげに眺められたら、誰だってこうなるだろう。
 なんともいえぬ感情を誤魔化すように、とりあえず片付けをしようとナマエはベッドから腰を上げる。

「…なあ、これ赤色はあんのか?」
「赤、ですか…一応ありますけど…」
「じゃあ、お前はそれ塗れ」

 ベットに乗り上げる際ブーツを脱ぎ捨てたせいで、はしたなく素足のまま床に立つナマエの足先を指差しながら、シャンクスは言った。

「…私が?」
「ああ」
「別にいいですけど…どうして?」
「どうしてって、そりゃあ…俺がお前の色を塗ったんだから、お前は俺の色を塗らなきゃだろ」
「は、」

 言いながら、シャンクスはナマエの足元を指差した。当たり前だと言わんばかりの堂々とした発言に、ナマエの口からは間抜けな声が出てしまう。

「…交換したいんですか、色」
「おう」
「………」
「どうした?」
「いや、なんか………時々凄い可愛い発言しますよね、お頭って……」
「んん?そうかぁ?」
「そうですよ…もおぉ……」

 努めて冷静に返そうと思っていた言葉は、わずかに小首をかしげたシャンクスを見た瞬間、結局情けないものになってしまった。
 ナマエは熱を持った顔を隠すように箱を抱え込む。その際ほとんど無意識のうちに、赤いボトルが箱のどこにあるのかを探してしまう辺り、自分もまんざらではないのだと気付き。ナマエはますます、いたたまれない気持ちになった。

「色、見せてくれるか?」

 言われるまま、差し出された手におずおずと赤色のボトルを乗せる。シャンクスはそれを確認するように灯りにかざし数秒見つめると、自身の爪先を見つめたときと同じように、満足げな笑みを浮かべた。

「ん。大丈夫だな」

 大丈夫という言葉の意は、自分と同じ赤だから問題ない、ということなのだろう。これがもっと明るかったり、反対に暗すぎたりしたら、そんな表情はしなかったはずだ。
 最初は塗られるのをあれほど躊躇していたというのに。いざナマエの色を身に纏えば、抑えきれない欣幸をその顔に浮かべ。お前も自身と同じように色を纏え、と言う。そしてそれは自分の色でないといけない。
 シャンクスの小さな独占欲を垣間見た気がして、ナマエは堪らない気持ちになり。思わず下唇を噛みしめた。

「でも…私、普段ブーツだから見えませんよ」

 返された赤色を掌で転がしながら、ナマエは恥ずかしさを誤魔化すように呟く。
 大幹部でもないナマエは甲板での作業も多い。サンダルでいることは怪我にもつながりかねないため、なるべく丈夫なブーツを履くようにしていて。シャンクスのように爪先が出ることなどほとんどなかった。
 同じ服装は見慣れ過ぎて日常になってしまう。常に視界に入っていたはずのブーツの存在を指摘され、シャンクスはしまったとばかりに「そういやそうだな」と言った。

「…まあでも、上陸の時にはサンダルになるだろ?」
「夏島であれば」
「それに寝るときだって脱ぐわけだしな」
「…そうですね」
「じゃあ充分だ」

 普段は隠されている女の爪先を彩るのは、美しい赤。そして男の爪先にもまた、美しい海の色。すべてを知っているのは、シャンクスとナマエだけ。
 二人だけの秘密なんて。そんな乙女のような単純なことにナマエの心はこれ以上ないほど踊っている。心臓をわし掴みされるような、どうしようもないほどの多好感。ナマエは小さな声で「…私は自分で塗るんですけどね」と、誤魔化すように呟くのが精いっぱいだった。



「なんだお頭。ずいぶん可愛らしいことになってんな」

 後日。それまでの天候が嘘のような紺碧を携えた空の下。甲板に置かれたテーブルで新聞を読んでいたベックマンは、机上に乗せられたシャンクスの足先が青く彩られていることに気が付き。にやりと笑いながら、からかい混じりにそう言った。

「ああ、いいだろ?俺の大好きな色だ」

 そしてシャンクスも恥じることなく。それどころか、自慢だとばかりに赤銅色の眦を細める。

「確かに綺麗な色だ…なあ?ナマエ」

 名を呼ばれたナマエは、なんともいえない苦々しい顔をしながら、その青い瞳でベックマンを見下ろした。その手には、ベックマンに渡しておいてほしいとホンゴウに頼まれた、次の島で購入する備品を書いたリストが握られていて。ちょうど甲板で話す二人の姿を見つけ、届けに来たところだったのだ。

「副船長、わざと言ってるでしょ…」

 思わずリストを握り潰しそうになりながらも手渡せば、受け取ったベックマンは目を通しながら、「そうだな」と紫煙をくゆらせている。

「なあベック、ナマエの足は赤なんだ。見てみるか?」
「えっ、ちょ…っ!お頭離して…!!」

 言いながら、シャンクスは机上から足を下ろすと、隣に立っていたナマエを抱き寄せ。半ば強引に自身の膝の上へと座らせた。
 逃れようと慌ててシャンクスの腕を掴むも、まったく意味をなさず。まるで子猫が膝の上でじゃれているだけのように簡単に押さえ付けられてしまう。

「…いや、遠慮しとく。お嬢さんは見られたくないみたいなんでね」

 くつくつ笑いながら、ベックマンはリストと新聞をまとめ。「じゃ、俺はホンゴウと話してくるんで」とあっさり立ち去ってしまった。けれどシャンクスはといえばナマエを解放する気はないらしく。相変わらずその膝に抱きかかえたままである。
 甲板の端にいるとはいえ外でこうも人目もはばからず状態というのは勘弁してほしい。二人が恋人なのは周知のことなので今さらではあるが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。心なしか、先ほどまで仕事で甲板を走り回っていたはずの船員たちも周囲から消えている。見ないふりをしてくれているのだろう。ナマエはますます逃げたくなったが、それは絶対に無理なので諦めるしかない。

「そういや、ナマエ。明日上陸する島は夏島らしいぞ」
「…そうなんですか」

 シャンクスはナマエの胸元にぽふんっと顔をうずめると、赤い瞳でじっと彼女を見上げた。顔にかかる髪を退けてやりながら、ナマエは諦念の滲んだ声音で返す。

「しかも今は夏真っ只中らしい」
「じゃあすごく暑いですね」
「ああ。…サンダル、履けるな?」

 美しい赤をふわりと風に揺らし笑う顔は、まるで太陽のように明るく。やはりとても嬉しそうだった。





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