「俺、お前のこと好きやねん」

 途端、わずかに温度を変えたその雰囲気に、ナマエはゆっくりと視線を上げる。
 じっとこちらを見つめる翡翠の瞳、表情、声。それらはやはりいつもと変わらない──はずなのに。
 視た瞬間──やってしまった、とナマエは思った。
 蛇に睨まれた蛙、なんて言葉があるけれど。今の自分はまさしくそれなのだろう。
 長年の殺し屋生活で培われた感覚が、そしてなにより、生き物としての本能が。目の前の男から逃げることはできないのだと、身体中の細胞全てに警鐘を鳴らしていた。



 殺連本部の食堂は一般企業とは異なり、昼だけでなく夜の十時まで開いている。年中多忙を極める本部社内では、残業からの徹夜、結果朝までという地獄のようなコースを歩む人間が少なくない。そういった人のためにも、せめて夜ご飯くらいは、と遅くまで開けているのだそう。
 それならそもそも、さっさと帰らせるように量の調整した方が良いのではとも思うが、それが簡単にできるのなら苦労はしていない。結果、本部側ができるせめてもの労わりが、温かい食事の提供ということらしい。
 分かるような分からないような、微妙なラインの気遣いだと、その制度を初めて聞いたときのナマエは思っていた。──とはいえ今回ばかりは、それに感謝しなければいけないのだが。
 普段は後日でも問題のない報告書を、なるべく早く上げてほしいと頼まれ。任務後に殺連本部へと戻り、時間と戦いながら書類を作り上げた結果ナマエが帰路についたのは、二十一時を少し回った頃だった。
 これから帰宅をすれば確実に二十二時を過ぎてしまう。そこからなにかを食べるよりかは、まだこの時間帯に食事を済ませた方がマシだろう。そう考え、有難くも開いている食堂にて、ナマエはひとり遅い夜ご飯にありついていた。
 ただ、開いているといっても昼とは異なりメニューは一つだけ。今日は醤油ラーメンだった。それでも当然、食べられるだけでも充分だが。

「いただきます」

 手を合わせ小さく呟き、箸をぱきりと割る。
 今日はたまたまそうなのか、それとも常時こうなのかは知らないが、そんなささやかな音がはっきりと聞こえるほど、夜の食堂は静かだった。
 人影がほとんどない。というより、ナマエ以外には誰の気配もない。ただ一人残っていた調理のおばちゃんでさえ、ナマエの分を作り終えるや否や、「食器はコンベアに流しておいてくれればいいから」と言い残し、早々に裏へと引っ込んでしまった。
 半分明かりの落とされた広い食堂に、ナマエが小さくラーメンを啜る音だけが響く。
 醤油味、具はメンマとほうれん草、細く切った長ネギ。店で出すような凝ったものではないけれど、面倒くさがりが家で作るよりは添えられた具が多く豪勢。疲れた身体に染みる、ほっとする一杯だ。
 そうして半分ほど食べ終えたところで、ナマエはふと、食堂の入口の辺りに誰かがいることに気が付いた。
 ──それが誰なのかは、考えずともすぐに分かった。なにせ薄暗い中でもよく映える金色を靡かせながら、迷うことなくこちらへと向かって来たからだ。

「…お疲れ様です、神々廻さん」
「お疲れさん。ここ、座ってもええか?」

 その人物──神々廻は、訊いたわりにナマエの返事を待たず目の前へ座った。そうして、物珍しそうな目をナマエに向ける。

「なんや自分がこんな時間に本部におるなんて、珍しいな」
「報告書、今日中に上げてくれって言われて。急いでやってたらこんな時間なっちゃったんです。…そういう神々廻さんこそ、こんな時間に本部にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「ちょい用があってな」
「ああ…じゃあ、早く用を済ませに行かれた方がいいんじゃないですか」
「まあ、それはもう済んだんやけど」
「…そうですか」

 それはつまり、もう急ぐ必要がなく、ここにいても何の問題もないということで。この状況を打開しようとしたそれっぽい提案も、すぐに意味を為さなくなってしまった。
 それでもせめてと、ナマエは視線だけを軽く周囲に走らせる。いつも彼と共にいるはずの存在を探してだ。

「いーひんで。今日はもう先帰らしたからな」
「………」

 けれどそれでさえ、神々廻はバッサリと切り捨ててしまう。ナマエはまだなにも言っていないというのに。
 不覚にも、逃げ道として大佛を探していたことを言外に指摘されてしまった気まずさを誤魔化すように、ナマエは「そうなんですね…」と呟く。

「それより、早いとこ食わな。伸びてまうで」

 神々廻の長い指が、まだ半分ほど中身の残る丼を差す。正直もう食べる気はほとんど無くなってしまったのだが、それより残す方がナマエ的には嫌なので。仕方なく食事を再開する。

「………」
「………」

 が、何故か神々廻はそれ以降なにも話そうとせず。今度は無言のまま、食事するナマエをじっと見つめ始めたではないか。
 ──食べ辛い。非常に食べ辛い。いくら先輩とはいえ、他人の食事風景をじっと見るだなんて、ちょっと不躾すぎやしないか。
 そもそもORDERである神々廻はただでさえ多忙の身なのだから、用が終わったのなら大佛のように早く帰宅し身体を休めた方がいいと思うのだが。
 一体なにが目的で神々廻はここにいて、そして無言でナマエの食事風景を見ているのだろう。真意がまったく掴めないのが余計に怖かった。
 気まずさに耐え切れず、ナマエはちらりと、神々廻へ伺うように視線を向ける。向けて、目を見開いた。
 神々廻は頬杖を突きながらこちらを見つめていた。翡翠の三白眼はゆるりと細められ、閉じた薄い唇の端が小さく上がっている。いつも気怠げに落ちている眉尻は、さらにその身をやわく下げていた。
 ──なに、その顔。なんでそんな顔をしているの。え、と情けない声を漏らさなかっただけでも褒めてほしかった。

「…ラーメン」
「え…?」
「好きなん?」

 常と変わらぬ声音で、ふいに訊ねられた。唐突なその問いに、結局情けない声で反応したナマエは、そういえばこの人はラーメンが好きだったなと頭の片隅に思い出す。

「いえ…今日はラーメンしかないって言われて…仕方なく」
「あー、そういや夜はメニューも一択なんやったっけ」

 好物だという人の手前こう言うのもなんだとは思ったが、変に嘘をつくのも気が引けて。素直に言えば、なにが面白いのか、神々廻はくつくつと笑っていた。

「ほな、そないに好きやない?」

 続けて、こてんと小首を傾げた。まだ会話は続くらしい。

「嫌いではないです。…スキー場で、カレーかラーメンって言われたら、ラーメン選ぶくらいですけど」
「なんやねんその、分かるようで分かりにくい例え」

 動揺は少なからずまだある。だがあまりに益体のないその会話と、なにより神々廻のどこか緩やかな雰囲気に、もしかしたらただ本当に世間話をしにきただけなのかもしれないとさえ、ナマエは思い始めていた。

「じゃあ、俺のことは?」

 ──心臓が、止まったのかと思った。
 あまりに唐突で、あまりに直球なその言葉に、ナマエの箸を持つ手が止まる。まずい、と思うも遅い。そのあからさまな動揺を、神々廻が見逃してくれるはずもなかった。
 互いの間に流れていた空気が、しんと静まり返る。どうしてこんな流れで言ったのかと考えると同時に、それが神々廻の狙いだったのだとナマエは気が付く。
 ──益体のない会話をして、「もしかすると、ただ世間話をしに来ただけなのかもしれない」そう思い、ナマエが無意識のうちに警戒心を緩めるのを神々廻は待っていたのだ。
 会話の最中、唐突な言葉に沈黙、動揺してしまえばそれは、"言葉の意味を理解した"ことの証明に他ならないのだから。

「…優秀なナマエちゃんのことやから、もうとっくの昔に気ィ付いとるんやろうけど」

 わざとらしく呼ばれた名前に、わずかに肩を跳ねさせ。ナマエはほとんど無意識のうちに、神々廻の目から逃げるように視線を逸らしてしまう。

「俺、お前のこと好きやねん」

 神々廻の声がわずかに強く、そして低くなる。
 それは、およそ告白をしているとは思えない。逃げた視線を叱りつけ、そうして「こちらを向け」と言外に告げるような、そんな声だった。
 言った途端わずかに温度を変えたその雰囲気に、ナマエはゆっくりと、伺うように視線を上げる。
 じっとこちらを見つめる翡翠の瞳、表情、声。それらはやはりいつもと変わらない──はずなのに。
 視た瞬間──やってしまった、とナマエは思った。
 蛇に睨まれた蛙、なんて言葉があるけれど。今の自分はまさしくそれなのだろう。
 殺し屋生活で培われた感覚が、そしてなにより、生き物としての本能が。目の前の男から逃げることはできないのだと、身体中の細胞全てに警鐘を鳴らしている。
 ──ナマエにはずっと、分からないことがある。この神々廻という男が、何故自分のことなどを好きになったのか、その理由が。


 そもそもナマエが神々廻と初めて会ったのは、彼女が殺し屋として殺連に所属することになった最初の日のことだ。
 万年人手不足、そして入れ替わりも激しい殺連に置いて、新人というのは良くも悪くも話題の中心になる。「新しい人がくる」ということは全殺し屋たちにも事前に通達され、その度彼らは新人がどんな性格なのか、どんな殺し方をするのか、どれほどの実力なのか。そういったことに注目するのだ。
「あれ〜?初めて見る子だ」
 事務員に連れられ、社内を挨拶がてら回っていたときのこと。かかってきた電話に対応するためその場を離れた事務員を、ナマエが廊下の隅で待っていたところ、そう声をかけられた。
 歩幅の異なる複数の足音と、廊下に響いた声にナマエが顔を上げれば、そこにはスーツを着た男が三人、こちらを物珍しそうに見ていた。全員背がかなり高く中々の威圧感である。
「スーツじゃないってことは事務の子じゃないよね」
「俺たちと同じ殺し屋だ。新しい子が来るって連絡きてただろ」
「あー、あれ女の子だったんだ。てっきり男かと」
 三人のうち、飄々とした黒髪と、眼鏡をかけた冷静そうな銀髪が話している。そのうち黒髪の方が、「ねえ君、歳は?」とその大きな身体を屈めながら、ナマエの顔を覗き込んできた。
「十八です」
 近くで見ると目大きいな。そんなことを思いながら答える。
「あ、じゃあ神々廻の一つ下か。若いね〜」
 言いながら、黒髪は数歩後ろに立っている金髪の男を見やる。どうやら彼は「ししば」という名前らしい。
「俺たちだって、二つしか変わらないだろ」
 銀髪が黒髪に返す。
「いやいや、この頃の一、二歳は大きいよ〜」
 ほとんど黒髪の方が騒いでいるようなものだが、銀髪との会話はどこか親しさを感じさせた。同僚というより友達なのだろうと、なんとなく二人の関係性を推察しながら、ナマエはそんな二人と対照的に始終黙ったままのもう一人、金髪の男に目を向ける。
 金の長髪を後ろで一つにまとめ、少し眠たげな目をしたその男。積極的に会話に入らない姿勢に加え黒髪の言葉から察するに、ナマエと同じ、二人の後輩といったところだろう。ということはナマエから見ればこの金髪男も先輩になるわけだ。
 目に留めていたら、眠たげな眼が不意にこちらへ向けられた。ばち、と視線が交わる。
 髪に隠れてよく見えていなかったが、整った顎に目立つ大きな傷跡があることに、ナマエはそのとき初めて気が付いた。
「…よろしくなァ」
 抑揚のない音。目が合ってしまったので状況的に仕方なく言った、という感じ。こちらに興味がないのだとすぐに分かる声だった。眠たげだと思っていた眼が打って変わり、胡乱げに細められる。
 仮にも後輩になる人物に対しあからさまな壁の作り方だとは思いつつ──殺連に所属する殺し屋は三桁を超えるとも聞いている。くわえて入れ替わりも激しいとなれば、いつ死ぬかも分からぬ後輩が一人が増えたところで、気に留めても意味はないのだろう。それは、話しかけてきたはずの黒髪と銀髪が名前を訊いてこない辺りでも察せることができた。
 おそらく関わることはこの先ほとんどない。そうすぐに思い直し、ナマエもとりあえずとばかりに小さく頭を下げながら、にこりと笑みを返した。
 ──笑顔というものはこの世における一番の処世術。初対面で笑顔に勝るものはない。殺し屋として生きてきたナマエの持論である。
 といってもこの考えは、未だナマエの頭上で騒がしい黒髪の男──南雲によってあっさり変えられてしまうのだが。今のナマエはそれを知る由もない。
 それでも、よろしくお願いしますと口にせず笑みだけを返したのは、少ない意趣返しのつもりだった。
 覚えても仕方がない、という考えは分かる。だが一応会話をしなければならないこの空気の中、「興味がないです」という態度を隠しもしない神々廻に、社会性を必要とすべき大人、先輩のくせにと、ほんの少しだけ引っかかるところがあったから。
 そんな含みのある笑顔を向けた瞬間、始終興味なさげだった神々廻の目が、わずかに見開かれた。その意外な反応に、ナマエもつられるようにわずかに目を丸くする。
 交わった視線が逸らせず、束の間、互いの間に妙な雰囲気が生まれた。
「ミョウジさん、お待たせ。ごめんね」
 けれどそれは電話から戻って来た職員の声によって瞬く間に壊された。先に気付いたのはナマエの方。すぐに視線を職員へと戻す。
「ああ、南雲さんに坂本さん、神々廻さんも。お疲れ様です」
 職員は三人にぺこりと頭を下げている。ここでようやく、ナマエは黒髪と銀髪がそれぞれ南雲と坂本という名だと知る。と同時に、「お疲れ様です。南雲、神々廻、そろそろ行くぞ」という銀髪の声に、ああ彼が坂本さんかと追加で情報を得て、全員の名前を知ることができた。
 ナマエは坂本、南雲を見やる。そうして最後にもう一度、神々廻に目をやり。小さく会釈をして職員の後を追った。


 それが、約半年ほど前のこと。以来ナマエは神々廻と関わることが増えた。といってもそのほとんどが、神々廻からの接触によるもの。
 たとえば、任務場所が近かったからついでに迎えに来た、とか。まさしく今この時のように、用事を済ませに来たらたまたま見かけたから声をかけた、とか。
 拾い上げればそれはとても些細な、けれど見過ごすには、いささか多すぎる"偶然"が重なり。それが両手の指の数を超えそうという辺りで、勘が鋭い方ではない自覚があるナマエもさすがに気付き始めた。
 ──もしかして神々廻は、自分のことが好きなのではないか、ということに。
 だってそうでもなければ、こんな偶然が何度も続くわけがない。それこそ、意図的でもない限り。
 とはいえそんな自意識過剰なことを面と向かって訊けるはずもなく。決定的なことをなにひとつ得られず、ただ「そうかもしれない」という煮え切らない可能性だけを抱えたまま、今日まできてしまったというわけだ。
 なによりナマエを混乱させたのは、理由がまったく分からないこと。いったい自分のなにが、どこが、彼の気持ちを揺り動かしたのか。いくら考えようとも、その理由が。
 神々廻も神々廻でまた、決定的なことはなにひとつ言わなかった。
 だからいっそ、神々廻は混乱するこちらの様子を楽しんでいるのではとさえ、ナマエは思い始めていた。
 だというのに──それが、どうした。何故今、いきなり「好き」などと、はっきり言葉にしたのか。
 どうしたって読めない神々廻の真意に、ナマエの頭は霧がかかったかのように真っ白になってしまう。

「……知っとると思うけど、俺、ゴチャゴチャと回りくどいの嫌いやねん」

 そんなナマエの動揺を察したように、神々廻は呟く。と同時に、椅子を引きずり立ち上がった。

「せやけど、"これ"ばっかりは、どーしても失敗したくないしなぁ。なるべく慎重にいかなあかん思てたんやけど……、」

 言いながら、大机を回り、神々廻はゆっくりとこちらへ近付いてくる。
 コツコツと革靴が床を叩く音が、まるでなにかのカウントダウンのようで。あれほど逸らせないと思っていた視線は、耐え切れず逃げるように下を向いてしまう。
 音が終わると同時に、落とした視界の端に靴先が映り込む。相変わらず綺麗に磨かれているそれは、仕事終わりだというのに塵ひとつ付いていなかった。

「やっぱ何事もシンプルがいっちゃんええ。やからもう、ド直球でいくことにしたわ」

 直後、自身に影が被さるのをナマエが認めると同時に、神々廻の右手が、そっと彼女の左頬に触れていた。
 綺麗に切りそろえられた爪先が、やわく頬を撫でていく。ナマエの細い肩がびくっと大きく跳ね上がる。
 それを見た神々廻はゆるりと目を細め。撫でる手を止めると、小さく、吐息交じりに喉を震わす。

「…なあ、ナマエ。こっち向いてくれへん?」

 ──それは、好きだと言ったときと似た音だった。命令ですらなく、こちらに委ねるような言い方なのに。それに従う以外の選択肢が用意されていない、そんな声音。
 けれどあのときと少しだけ違うのは、そこに叱りつけるような威圧感はなく。ただ少し寂しそうな、それでいてどこか拗ねたような音が含まれていたこと。
 その声を聞いた瞬間、ナマエの身体からは、ふっと力が抜けていた。
 緩んだ心に促されるように、おそるおそる顔を上げていく。途端、待っていたとばかりに神々廻の手がするりと滑り、顎の下へと添えられる。
 俯いて視線を逃がすことができないようにされたのだと気付いたのは、それから数秒経ったときだった。
 翡翠の瞳と交わる。──ナマエはずっと、あの翡翠の瞳を視ないようにしていた。だって、分かっていたのだ。視れば、自身の想いなど、いとも簡単に見透かされてしまうことが。
 けれど、どうだ。すべてを見透かすと思っていた色は、迷子の子供ような、ひどく不安げな色を漂わせているではないか。
「神々廻さん」驚いて思わず小さく呼んだそれは、ほとんど呟きに近かった。聞こえていたのかは分からない。けれどその瞬間、神々廻は、ふっとこぼすように笑った。眦が優しく、きゅうと細まる。

「もう諦めて、俺んこと好き言うて」

 無意識なのだろう。長い指先は、まるで自身の傷をなぞるかのようにナマエの顎を撫でている。

「やないと俺、そろそろ辛くて死んでしまいそうやわ」
「死ぬ、って…」

 ──まさか、恋煩いでとか言わないよな。そんなことを思い訊けば、神々廻は「それも分かってるんやろ」と、親指でそっと頬を撫でる。

「赤うてやわこい、このほっぺたとか」
「っ、」

 少しかさついた指に撫でられ。くすぐったさに、ナマエはわずかに身を捩る。

「素直やないけど可愛らしい、このお口とか」
「ん、っ」

 形を確かめるように親指が端から唇をゆっくりなぞっていき。そうして最後、あわいを開くように下唇に引っかけられる。

「し、しばひゃ…っ」
「はは、言えてないで」

 それはあなたが指を突っ込んでくるから。そう思ったけれど、口を動かせば指先に舌が触れてしまいそうで。ナマエは舌を奥へ引っ込めながら、ぐっと押し黙る。
 細い喉が言葉を飲み込んだのを認め、神々廻は小さく笑う。

「…そういう、俺のこと好きでしゃあないって言うてる全部を、もう確実に手に入れられるて分かってんのに。それでも触たらあかん、手出したらあかんて我慢させられる辛さで…やな」

 このまま指に噛みつくこともできるし、なんなら爪を噛み剥いでしまうこともできる。させるかどうかは別としても、無体を働かれているも同義のナマエには、その権利がある。
 だというのに。そうしないどころか、ナマエは自ら言葉を呑み込み、神々廻の好きにさせている。
 自身を好いているのだと追い詰めてくる男に、委ねているのだ。その健気な姿に、どうしたってもう、神々廻は想いを止められる気がしなかった。
 ──手に入れたい。その衝動が、心臓をやわく甘く締め付けていく。

「は…、」

 神々廻の言葉に、ナマエは唇から間抜けな声が漏れるのを、今度ばかりは抑えられなかった。
 ──まさか本当に、恋煩いなのか。あの神々廻さんが?私に?
 そう理解した瞬間、ナマエは自身の顔が、ひどく熱を帯びていくことに気が付いた。それは添えられた神々廻の手にも伝わっているようで。神々廻は「まあ言うて、もう触てもうてるけどな」と笑っていた。

「あとは…そうやな、」

 ふと、神々廻はわずかに声を潜め。なにを思ったのか身を屈めると、そのまま床に片膝をついたのだ。
 ずっと見上げていた神々廻の顔を今度は見下ろすようになり。ナマエは驚きで目を見張る。
 高いスーツじゃないのか、とか。そもそも先輩に膝をつかせるなんて、とか。そんな考えが浮かんでは消え。戸惑いに泳いでいた視線を、無意識のうちに神々廻の膝へと向けてしまう。
 けれどそれはすぐに、頬を撫でる手に戻され。じっとナマエを見上げる翡翠の瞳と、再び交わる。

「理由もなんも訊けへんで避けられるんが、いっちゃん辛うて死んでまうよ」

 わずかに落ちた声が鼓膜を揺らす。あ、とナマエは思う。
 分かっているのに触れられないだとか、そういう部分はきっと、半分冗談も混じっていたのだろう。けれどこれは違う。これは神々廻の、心の底から叫びだ。
 ──神々廻が何故自分のことを好きなのか、分からないから。理由を訊ねるなんてできない。でも分からないままは怖いから、目を逸らし続けた。
 いざ言葉にしてしまえば、なんとも子供みたいな理由。そんな理由で神々廻に向き合わず逃げていた。
 ナマエのそんな葛藤を、当然神々廻は知ることもできないわけで。そうなれば、ただ彼には"避けられている"という、事実だけが残されるわけで。

「…ご、ごめんなさ、」

 浅はかだった。露骨に避けるという行動が、神々廻にどんな想いをさせているかも考えずに。
 途端、心臓がぎゅうと握り潰されるような痛みを覚え。とにかくまずは謝りたいと、ナマエが言いかける。
 けれどすべてを言い切る前に、神々廻の手が、再び唇の端を撫でて止めた。神々廻はただ、ゆるりと首を横に振っていた。

「……神々廻さんは、」
「ん?」
「その…どうして私のこと…、」

 とはいえ、申し訳ないとは思いつつ。「私のこと好きな理由は?」と自信満々に訊くのは、やはり少し羞恥が生まれるのも事実で。
 言い淀んだナマエに、けれど神々廻はすべて分かっているようで。「そらまあ、あれや」と眉尻を下げ笑う。

「一目惚れちゅうやつやな」
「え、ええ…?」
「なんや疑うてるん?」
「だって、神々廻さんほどの人が…?」
「俺ほどてなんやねん。俺かて人間やから、そういうことだってあるわ」

「あの坂さんかて奥さんに一目惚れしとるんやから」と説得力があるような無いような返しをされるも、やはり理解はできなかった。

「でもそれは、きっかけっちゅうだけで…確信したんはもっと別のところやで」
「別…?」
「うん」

 どこで、と小首を傾げるナマエに、神々廻はふっと笑う。

「食べ方が綺麗やなって、そう思ったんよ」

 言いながら、神々廻の視線が一瞬、先ほどまでナマエが食べていたラーメンに向けられる。追うようにそちらを見やったナマエの口から、「え…、」とこぼれる。

「食べ方…?」
「うん」
「そんなことで…?」
「そんなことで」

 一瞬、またからかわれたのかとも思ったが、ナマエを見る神々廻の目はひどく柔らかく。それが嘘ではないのだと語っていた。
 確かに神々廻とは、まだそれほど警戒心を抱いていなかった頃、何度か食事に行ったことがあったが。まさかそれらすべてで、綺麗だなと見られていたとは。
 ──恋煩いといい、食べ方が綺麗だったからといい。もしかすると神々廻は、少し乙女チックなところがあるのだろうか。
 まさかの返答にすっかり力の抜けたナマエに、今度は神々廻が「それで?」と首を傾げる。

「ナマエは言うてくれへんの?」

 神々廻は頬を撫でる右手をそのままに、左手をそっと、膝の上で握り締められていたナマエの手に重ね。促すように優しくその甲を撫でる。
 普段ハンマーを強く握り締めているからだろう。覆う掌は少しだけ硬く分厚い。男の人の手だ。そこから伝わるのは、ひどく温かく、優しい温度。今まさにナマエを見つめる翡翠の瞳と同じ。
 ぎゅうと心臓が締め付けられる。けれど今度は痛みではなかった。

「…私も…好き、です……」

 ナマエは一度、下唇を噛み締め。そうして小さく開くと、声を震わせながらそう呟いた。
 小さなそれに、神々廻は「うん」と目を細める。

「知っとる」

 言って、神々廻は丸めていた背を伸ばし。ナマエの頬に添えていた手を後頭部に回すと、絹髪に指を絡ませながら、自身の方へと引き寄せた。
 身体が傾き、「あ、」とナマエが思った次のときには、唇が重なっていた。

「は……、」
「ふは…醤油味」

 唇はすぐに離される。けれど去り際、神々廻の舌先が、薄く開いていたあわいにわずか差し込まれ。すっかり油断しきっていたナマエの舌先を引っかけるように、小さく撫でていった。
 微かに感じた、自分以外の唾液と、ぬめる生き物のような感触。なにより、神々廻の言葉。──数秒遅れて理解したナマエの顔は、頬どころか額に首、耳に至るまで、瞬く間に赤く染まっていく。

「だっ、だって!ラーメン食べてたから…!」
「せやなあ」

 唇は離れたけれど、ひどく楽しそうに笑う顔はまだ近くて。神々廻がくつくつと笑う度、漏れる息がナマエの肌を撫でている。
 近すぎる距離に慌てて離れようとするも、相変わらず後頭部には手が回されたまま。そのうえ重ねられた手にも力が込められ。逃げることはどうにも叶いそうになかった。

「通じ合って初めてのキスが醤油味てのも、なんや色気ないけど…」

 言いながら、神々廻は額をナマエと合わせる。

「でもたぶん、一生忘れんわ」

 そうして小さく笑うと、淡く濡れる唇に再び噛み付いた。



 ──あの後、際限なく唇を重ねようとする神々廻を、「食堂閉まるから片付けないと!迷惑かかるので!」となんとか制し。食器を片付け荷物をまとめ、二人は本部を出た。
 そのまま、「それじゃあ今日は、お疲れ様でした」と──帰れるわけもなく。「任務で車借りたままやねん。返すん明日やから、このまま送ってったるわ」と笑顔の神々廻に腰を抱かれ、あっという間に助手席に押し込められたのだ。
「住所は?」「えっと…、──駅の近くのマンションで…」「ん、了解」そんな会話から始まり。それからずっと、最近の任務がどうだとか、大佛が会いたがっていたとか。そういえば最近、本部の近くに美味しいラーメン店ができたから今度一緒に行ってみようだとか。他愛もない話をしながら、車はゆっくりとナマエの自宅方面へ走っていた。
 正直なところ、あんなに甘ったるいやり取りの後だ。有無を言わさず車に押し込まれた時点で、もしかしてこのまま、という考えが生まれていたことは否定しない。それが分からないほどナマエとて子供ではないから。
 けれど身構えていたナマエとは対照的に、神々廻は平素と変わらず。それどころか、こちらを伺う素振りも一切見せぬまま、慣れた様子で運転しているではないか。
 ──考えすぎだったか。変に身構え凝ってしまった心身を解すように胸中ため息をつきながら、ナマエは車の窓の外を見る。
 星のごとく煌々と灯るビルの明かりが、薄暗い車内を肌の表面をなぞりながら後ろへと飛んでいく。普段電車から見ることの多い景色を車から見ている事になんとも不思議な気持ちになっていると、

「ナマエさん」

 ふいに名前を呼ばれた。

「は、はい…」

 何故さん付け?と思いつつ。振り向き返事をすれば、横目でこちらを見る神々廻の視線と交わる。
 その瞬間、ぞく、と。ナマエは肌が粟立つのを感じた。

「このあとは、お家に帰るだけですよね」
「そ、うですけど…」
「そら良かった」
「へ…、っ!?」

 ナマエの返答を聞くや否や、神々廻は突然ハンドルを切り返し。対抗車線へ出ると、来た道を猛スピードで戻り始めた。
 ナマエは思わず身を縮め、両手でシートベルトを握り締める。ぐんぐん戻っていく景色に、目をひん剝きながら神々廻の方を振り返る。

「え、なっ、なんで戻ってるんですか!?」
「だって俺ん家こっちやから」
「…おれんち?」
「うん」
「だれんち…?」
「神々廻ん家」

 平時より反応がわずかに遅れたのは、それが先ほどの告白の時のように、さらりと、さも当然のように放たれたから。
 脳内で数秒、単語の意味を思案した後。遅れて戻ってきた意識に、ナマエは慌てて身を翻し扉のハンドルに手を掛ける。

「あ、え…っ!?」

 殺連から貸し出される車はその任務内容のこともあり、ロックを掛けずとも運転ができるよう改造されている。なんなら、攻撃されたとき即座に脱出できるよう、運転中であろうと扉を開け放つことだって可能だ。
 ──の、はずなのだが。いくら押そうとも、何故か扉は開かない。
 慌てるナマエの耳に、「おいおい〜」と神々廻の間延びした声が響く。

「運転中にロックがちゃがちゃやったらアカンで〜、危ないやろ〜。あとそんな簡単に下ろすわけないから、諦めえ」
「騙しましたね…!?」
「いや、最初はちゃんと送ろ思たで。たった今思い直して道変えただけやから、騙してはいないやろ」
「屁理屈…!」

 ──確かに最初は、「その流れかも」と身構えてはいたことは否定しない。けれど普段通りの会話をして、「それは今回ないのだ」と油断させたところで、やっぱりとばかりに持ち込むのは、少しずるいだろう。一度油断してしまった分改められると、余計に恥ずかしさが増すではないか。
 ナマエが叫ぶと同時に車は赤信号で止まる。神々廻はハンドルに身を預けながらナマエを見やり、「ええやん」と目を細める。

「ずっと待っとったんやから。もうええ加減、俺の好きにさせて」




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