「小田切さん、大通りの桜見ましたか?すごく綺麗でしたよ」
「ああ…そういえば咲いてたな」
「もう。本を読むのもいいですけど、たまには外に出ましょう?今の時期なら気候もちょうどいいですから」
「…そうだな。今度一緒に散歩でもするか」
「! 本当ですか?」
「嘘言ってどうするんだ」
「そうですよね…ふふ、じゃあ、約束ですよ」
「ああ」
その日の空は、それまでの晴れが嘘のようにぶ厚い雲に覆われ、いつ雨が降ってきてもおかしくないような天気だった。早く晴れてほしいものだ。桜が散ってしまう。せっかく、今度小田切さんと散歩をしようと約束していたのに。
確認を終えた書類を結城さんの部屋へ運ぶ途中、窓から見上げた空を見てそう思った。
扉を叩こうと上げた手は、中から聞こえた声によってすんでのところで止められる。どうやら先客がいたらしい。つい先日まで小田切さんに協力する形で続いていた任務がようやく終わると三好さんが言っていたから、その報告だろう。邪魔をする訳にはいかないので仕方なく外で待っていると、しばらくして開いた扉から出てきたのは小田切さんだった。てっきり三好さんだと思っていたから、少し驚く。
小田切さん。会えたことに少し喜びを感じつつ声をかければ、今気づきましたと言わんばかりの勢いでこちらを振り向く。その瞳が私の姿を捉えた瞬間僅かに揺らいだのを、私は見逃さなかった。
まるで警戒心丸出しの動物にでも近付くかのように、いつもよりゆっくりとした動作で歩み寄る。普段から口数は少ない人だけれど、今日の雰囲気は、とても重い。
「…どうかしました?体調でも悪いんですか?」
それに気づかないふりをして触れようと伸ばした手は逆に掴まれ、ぎゅう、なんて効果音がつきそうなぐらい握り締められる。どうしたんですか、なんて声をかける暇もなく、気付いた時には彼の腕の中にいた。あまりの勢いに鼻をぶつけてしまったけれど、そんなこと関係ないとばかりに抱き締められ、彼らしからぬその行動に驚いてしまう。
「小田切さん…?」
「……すまない」
名を呼べば、力が弱められる。弱々しく私を抱く小田切さんは、酷く泣きそうな声で謝罪の言葉を口にした。
彼の手から落ちた書類。目に入ってきた単語。機関において、軍に報告としてあげる以外の書類は一切持ち出されることはない。頭の中でそれらのことが駆け巡り、そこで分かってしまった。彼が今から何をしようとしているのかも、何を考えているのかも。
──彼、野上百合子にご執心でしたよ。
数日前、嫌味ったらしく耳元で囁かれた言葉が頭に響く。三好さんは分かっていたのだろうか。彼が最後に、何を選ぶかを。
止めて。思っていても口に出してはいけないその言葉を、背に回す手に込める。彼がその想いを感じ取ったかはわからない。けれど、ゆっくり体を離し、私を見るその目には、もう迷いはなかった。
「ありがとう」
その言葉はなにを示しているのか、その視線の先に見据えているものがなんなのか、もはや私に聞く意味などなくなってしまった。体を離し、くるりと背を向け歩き出す。その背中に手を伸ばすけれど、触れることは、もうできない。
「小田切さん」
足が止まる。けれど、振り向いてはくれない。
「…いってらっしゃい」
自分でも驚くぐらい、淡々とした声だった。彼はその言葉に返事をすることなく、ゆっくりと私の視界から消えていった。
ふと視線を向けた先。雨は降っていないけれど、雲は相変わらずそこにいた。 洗濯物が乾かなくて困るから早く晴れてほしいと福本さんが呟いていたけれど、今はこの天気が少しだけ有難かった。
新聞をめくる。最近の一面はほとんどが戦争のことだ。『満州 前線へ新たに増員』大きく書かれたその文字の横には、立派に戦ったであろう兵士一人ひとりと、新たに送り込まれたと思しき若者達の名前が記されている。その中に知った名前は無い。当たり前だ。私が呼んでいたあの名前は偽物なのだ。
こうして考えてみると、私があの人について知っていることは何一つなかった。名も、生きてきた軌跡も、なにを思い、なにを成し、なにがあの人を突き動かしていたのかも。
「…………」
不思議と涙は出てこなかった。薄情な女だと思う。けれどいくら彼を思い出そうとしても、虚無感だけが私を包み込み、なんの感情も湧いてこないのだ。
立ち上がり、彼らが共同で使用している寝室へ向かう。あの人がいなくなってから私に与えられた最初の仕事は、"小田切"という人物の痕跡の抹消だ。いつまでも執着するなという、結城さんなりの警告なのだろう。あの人も、なんだかんだ私に甘いんだなと思った。
並べられたベッドの一つに目をやる。そこは几帳面なあの人らしく、最後の時までシーツには皺一つなかった。サイドテーブルには、普段読んでいた本が置かれたままだ。持ち主がいなくなったそれは少し埃を被ってしまっていて、何だか可哀想になった。
埃を払い、手に取る。その時、ほんの少し開いたページの間から、はらり、と何かが落ちていった。
薄く汚れたその紙は、よく見たら封筒だった。けれど消印は押されていない。それどころか宛先すら書いておらず、ほんの少し端が折れてしまっていた。
もし誰かに宛てたものだとしたら、私は開けるべきではない。けれどここに置いていったということは、もう処分をしなければいけないということで。
どうしたものかと迷っていると、裏返した隅の方。折れてしまった部分に、小さく書かれた文字を見つけた。それは、水でも溢したのだろうか少し滲んでしまっていて。よく見ればかろうじて読める、その程度のものだった。
その文字がなんなのか。目を凝らし確認した途端、それまでの躊躇が嘘のように急いで開いていく。幸い封はされておらず、傷つけることなく開くことができた。
中には二つ折りにされた紙が一枚。几帳面なあの人にしては珍しく角が揃っておらず、時間がない中で書いたのだとすぐに分かった。おそるおそる開けば、たった一行。真っ白な紙の真ん中に、書かれていた。
──今までありがとう。愛してる。
まるで機械で打たれたかのように綺麗なその文字は、間違いなくあの人のもので。よく見れば、封筒と同じように少し滲んでしまっている。
気付けば、熱いものが頬を濡らしていた。グラスから水が溢れるようにとめど無く流れていき、手紙にいくつものシミを作ってしまう。
小田切さん、小田切さん。呼びたいはずなのに、音にならず涙と共に落ちていく。破れそうなその紙を抱きしめ、汚れるのも気にせずしゃがみこむ。彼のベッドに顔を埋めれば、まだ残る、汗と煙草と、わずかな香水の香り。けれどあなたはもう、どこにもいない。いくら名を呼んでも、涙を流しても、あなたは私を抱きしめてはくれない。
桜の花はとうに散ってしまった。あの約束は果たされないまま、今も私の心に居座り続けている。
たとえ季節がいくつ巡ろうとも、桜を見る度思い出すのだ。戸惑いながらもまっすぐ前を見据えていた目も、柔らかいシーツの上で重なった逞しい体も、いつも遠慮がちに私に触れていた、あのあたたかい手も。
どれか一つだけでもいいから、置いていってほしかった。
逢いたい。逢って、抱きしめて欲しい。そうして、私の今までを全て話して、あなたのことも全て知りたい。あなたと一緒にあの桜並木を歩いて、どちらからともなく手を繋いで、二人で笑い合って、名前を、呼びたかった。
なめらかなシーツの上。重なり合ったあの日のように涙を拭ってくれる手は、もうどこにもいない。
窓から入る生ぬるい風だけが、馬鹿な女だと笑っていた。
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