あの日。全てが終わったあの夏の日に、彼は現れた。
 くたびれた軍服、あの頃よりずっと日に焼けた肌は、一見すると別人のようだった。再び丸められていた頭では、きっと背広は似合わないだろう。驚きよりも先にそんな考えが頭に浮かんでしまう辺り、私はこの事実をどう受け止めればいいのかわからないほど混乱していたのだと思う。
 彼は名を、飛崎弘行といった。



「おだぎり、さ、」

 顎に添えられた手に後ろを向かされ、そのまま唇が重なる。容赦なく侵入してきた舌が口内で好き勝手に暴れ、息をすることすらままならなくなる。

「ん、んぅ、んんん、ふぅ、」
「っ、はあ…ナマエ、」
「んっあ、ん、っんぐ」

 粘つく唾液が行き来して、もうどちらのものかなんてわからなくなってしまった。まるで互いの体温を混ぜ合わせるように、ただひたすら舌を絡ませる。

「あ、っあ、ん、んぅ、おだぎ、さっ」
「ナマエ、ナマエ…っ」

 未だに慣れないでいる。彼が小田切ではなく、飛崎弘行という名で、私のことを、名前と呼ぶことも。
 ──名前なんてただの記号だ。よく言われていたその言葉は、孤独の中で生きることを決めたあの日から私の中に刻み込まれていたもので。与えられた新しい経歴と人生。彼が必死に呼ぶ名は、とっくに捨てていたはずだった。未練なんて、どこにもなかったのに。
 心のどこかで喜びを感じているのは、何故なんだろう。

「は、ひぅ、やらっあ、あ」
「好きだ、ずっと、ずっと、」
「っ、」

 嘘つき。あの頃からずっと、私のことなんて一度も見てくれなかったくせに。あなたはそうやって、簡単に私の心を潰してしまう。あの後私が、どんな想いでいたのかも知らずに。

「ナマエ、」
「ひっ、」

 耳にぴったりくっつけられた唇から吐き出される彼の低い声は、最早毒といっても過言ではないと思う。甘い声は全身を駆け巡り、記憶を呼び起こす。
 うだるような暑さに、流れる汗。開けられた窓から聞こえる騒がしいぐらいの蝉の声と、生温い、風。
 ──似ていると思った。わずかな灯火の中身体を重ねた、あの時と。

「っい、!」

 髪を払われ晒された肩口に噛みつかれる。ほんの少し感じる痛みに声をあげるけれど、彼の力が弱まることはない。

「い、はあ、」

 噛んだ後、労わるようにそこを舐められる。そのまま首筋を伝う汗を舌が辿り、強く吸われた。何度も何度も、まるであの頃できなかった、自らの痕跡を残していくように。

「っ、あ、汗臭いから、やめ、」
「は、ん…」

 噛んで、舐めて、吸って。ずっとそれを繰り返す姿は、まるで獣のようだった。これで彼に制止の声を聞くだけの理性が残ってくれていればそんな例えもしなかったのだけれど、皮肉さえも届かないようでは同じだと頭の片隅で思った。
 腰に添えられた手に力がこもる。あ、と思った直後、まるでタイミングを見計らったかのように腰の動きが早められ、いよいよ口からは言葉にならない声しか出てこなくなる。

「ひ、っう、や、んあ、あ!」
「ナマエ、」
「っお、だぎり、さ、」

 呼んでなんかやるものかと、かろうじて残る理性の糸を必死に手繰り寄せる。自らの名前が呼ばれないことをこの人が気にしているのは知っている。だからこそ、あの時私を捨てたせめてもの報いとして、本当の名は絶対に呼ばないと決めている。情けない私の、最後の足掻き。

「あ、あ、ああっ…!」
「っ、」

 耳元で小さく息を呑む音がした直後、身体を駆け巡る快感に形がわかるくらい小田切さんのものを締め付けてしまう。小さく息を零すと同時に、中のそれもどくどくと脈打ち熱い欲を吐き出した。刻み込むように奥に注がれる熱とは裏腹に、頭はどんどん冷静になっていく。
 くるりと体勢を変えられ、初めて彼の顔を真正面から見る。靄がかかったような、熱のこもった黒い瞳が私を見下ろしていた。何かを言おうと彼が口を開いた瞬間、遮るように言葉を重ねた。


「想い人には、会えませんでしたか」

 途端にクリアになった黒が大きく見開かれる。混乱をしているのが目に見えてわかるなんて、あの頃だったら怒られていただろうななんて、場違いなことを思った。

「それとも…死にましたか。野上百合子は」

 たった数ヶ月だった。想いが通じたと錯覚してしまうぐらい、幸せだった。
 けれどその想いは無残にも打ち砕かれた。驚くぐらいあっさりと、彼は姿を消してしまった。ほんの少し振り返ることもなく、私のいない、知らない、過去の世界と思い出を選んだ。

「…一人は、寂しかったんでしょう?」

 哀れんだような声色のそれは、誰に向けたものだったのか。
 私の言葉に眉間にぐうっとしわを寄せ何かを耐えるように下唇を噛む彼の姿は、以前一度だけ見たことがあった。そう確か、ああ、それも、最後のあのときだった。

「ずっと、そう、思っていたのか」

 人は誰かに愛されていないと生きていけない。化物になりきれなかった彼はあの頃からずっと、誰かに、他でもないあの人に、愛されたがっていた。幼い頃の、美しい記憶のように。

「思ってましたよ。あの頃からずっと」

 "飛崎"という男の近くにいたのが、たまたま私だった。ただ、それだけのこと。
 ──酷い人。それすらも気付かぬまま、私に触れていたのだから。

「もういい、喋るな」

 喋らないでくれ。そう懇願しているようだった。この言葉がどれだけ彼を傷つけるかなんて、考えなくても分かることだ。でも、これだけは言わせて欲しい。

「先に私を捨てたのは、あなたでしょう」

 小さく呟いたその言葉も、きっと彼には聞こえている。けれどそれ以上何も言わなかったのは、何故だかわからない。徐々に歪んでいく視界で、古びた畳が大粒の雫を吸い込んでいくのを、ただ見つめていた。


BACK | HOME