それはまだ小さかった頃に見た映画でのワンシーン。春の穏やかな日。柔らかな日差しを受けて光る海はとても静かで。まるで二人しか世界には存在しないと錯覚してしまいそうになるほどだった。
男性が跪く。抱えた大きな薔薇の花束を、愛の言葉と共に女性へ渡す。感激のあまり女性が流した涙が、陽の光に反射して海にも負けないくらい輝いていて。幼い私が愛というものに夢をみるには、充分なものだった。
錆び付いた音を立てて扉を開く。途端に肌を撫でた風は、春とはいえ少し冷たかった。
昼間、甘利さんの上げた報告書に小さく挟まれていたメモ。二十二、屋。簡潔に書かれたそれは、二十二時に屋上で会おうという、いわゆる逢い引きの誘い。といっても、私たちの関係は周知の事だからわざわざ書かなくても済む事だ。けれどこうして誰にも知られないように、二人だけの秘密として共有することが私たちの在り方をほんの少しだけ忘れさせてくれる魔法のようで、実は結構気に入っている。
だから今日も嬉々として此処に来たのだけれど…呼び出したはずの張本人である甘利さんの姿はどこにもない。いくら暗いとはいえさすがに人の姿が認識できないほどではないのだけれど。まさか、忘れてる?いやいや彼に限ってそんなこと。
「…甘利さ、」
「ナマエ」
ふいに、耳元で声がした。驚いて振り向こうとするも、肩に置かれた彼の手がそれを許さない。こんな完全に気配を消せるなんて、ここに来た当初は考えられなかったことだ。訓練を早々にものにしているなと場に似合わないことを思った。
「甘利さん?」
「じっとしてて」
「…いつもはカフェとかなのに、今日は屋上になんて呼び出してなんて。いったいどうしたんですか?」
「ナマエ、鳩の世話もしないし、あんまり屋上来ないだろ?」
「え、ああ…そうですね」
「だから見せてやりたくてさ」
「何をですか?」
「こっち来て。あ、目はつむっといてね」
「え、この暗闇の中で目をつむれと…」
「大丈夫。俺がちゃんと誘導してあげるから」
ね?と小首を傾げる甘利さんに仕方ないなと目を閉じる。しっかりと両手を握られ、引かれるままにゆっくりと歩みを進めていく。
「段差あるから気をつけてね」
「う、怖い…」
「大丈夫、だいじょーぶ…よし、ここでストップ」
「ち、近いですね」
「うん、まあ少し移動したかっただけだから…あ、もう目開けていいよ」
ほんの少しの不安を感じながら言われた通りゆっくり開いていけば、飛び込んできた景色に思わず声が漏れた。
赤、青、黄色に桃。協會から少し歩いた所にある歓楽街の灯りがいくつも重なって、まるで星のように輝いている。
「綺麗だろ?」
「はい。凄いですね、ネオンがあんなふうになるなんて…」
「まあ、普通は気づけないよな」
決して綺麗とは言えないこの街も、案外捨てたものじゃないなと思う。昼夜問わず賑やかで近寄れば人の欲望しか感じない光も、離れてしまえば分からない。
「鳩の世話なんて、って三好とかは嫌がるけど、これが見られるなら鳩の世話も捨てたもんじゃないなって思うよ。…こんなこと言ったら田崎に怒られるかな」
「あはは、たしかに」
背後から包み込むように抱きしめられる。背中から全身へじんわりと伝わってくる温もりに、肌寒さなんてどこかへいってしまった気がする。
「ナマエ」
「はい」
「実は今日はもう一つプレゼントがあるんだ。ていうか、むしろそっちが本命」
「本命?」
「うん。だからもう一度、目つむって?」
こんな景色を見せてもらっただけでも十分だというのに、まだ何かあるのか。私は彼になにも用意していないから、逆に申し訳なくなる。そんな私の考えを察したのか、いいから早くと大きな手に目元を覆われた。言われるがまま瞳を閉じれば、敏感になった耳が背後で鳴る音を捉える。
「…甘利さん?なにして、」
「あ、もう開けていいよ」
ぱっと離された手に引きずられるように瞼を上げれば、ガサ、と音を立てて、ネオンに重なるように真紅が目の前を覆った。甘い香りを漂わせ、名残惜しそうに数枚の花びらが落ちていく。
「…え?」
「ほら、固まってないで。受け取って」
空いた片手が私の手を掴み、大きなそれを握らせる。重たくてバランスが保てなくて、慌てて優しく抱き込むように持てば彼が背後で笑ったのがわかった。
「な、なんですか、これ…」
「赤い薔薇が欲しいって言ってただろ?」
「え…」
その言葉と共に脳裏に蘇る、数日前の会話。珍しく街へ出なかった彼らと食堂で飲んでいた時に、なんとなしに言ってしまったのだ。
──誕生日には海へ連れて行って、大きな赤い薔薇の花束をプレゼントして、愛を誓って欲しい。
聞いた途端、皆さん笑ってたっけ。ずいぶん可愛らしい夢をお持ちですね、なんて。あの馬鹿にした三好さんの顔。子供の頃の夢ですって否定したら、皆そこそこ酔っていたから、分かってますよって返してきて。そこで終わったはずなんだ。今はもうどう足掻いても叶わない、そんな夢を見ていた時もあった。ただそれだけ。もし生まれ変われたら、来世あたりで叶えばいいな。叶ってほしいな。そう言い聞かせてた。それなのに。
まさかあなたが本気にするだなんて、本気にしてくれるだなんて、思ってもいなかったんですよ。そんな大きな花束持って、目立ったでしょう。恥ずかしくなかったですか。なんで、皆さんみたいに、馬鹿にしないんですか。
「さすがに誕生日と海ってのは無理だから、せめて花だけでもって思って」
そう言って笑う甘利さんの顔が、徐々にぼやけていく。つん、と鼻の奥が痛くなって、目尻が熱くなって。あ、私、泣いてる。拭うことを忘れてしまった涙は、ネオンの光を浴びて輝きながら落ちていく。
「ほらほら、泣かないで。ここは笑って欲しいんだけどな」
前髪をかき上げられ、額に優しいキスが降ってくる。嬉しいとか、愛おしい、とかをそういう気持ちがいっぱいになると、人間ってなにも言えなくなるんだ。
勢いよく彼の胸へと飛び込めば、少しもよろけることなく受け止めてくれる。好き。大好き。愛してる。言葉にできないこの思いが少しでも彼に伝わるようにと、背に回した腕に力を込める。
それはまさしくあの時見た光景。けれど決定的に違うのは、映画のヒロインよりずっと、今の私は幸せで満ち溢れているということだ。
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