ダンスホールへ行くという機関生にナマエがついて行ったのは、ほんの気まぐれだった。たまたま夜までかかる雑務もなく、たまたま結城から仕事を言い付けられず、たまたま講義の終わりが仕事の終わりと重なった。そんな偶然がいくつも起きた末での暇つぶしだった。
 はずなのだが、ナマエはすでにその選択を後悔していた。先程から隣に座り、声をかけてくる男によって。
 ──話はほんの数十分前に遡る。到着早々女を漁りに行った神永につられるように何杯か酒を飲んだ後徐々に喧騒の中へと全員が消えていき、なんとなくぽつりぽつりと話していた福本もナマエが二杯目のウイスキーを飲み終えると同時に姿を消した。その直後、タイミングを見計らっていたのだろう、声をかけてきた男がいたのだ。
 踊らないのですか、となんとも紳士的な声かけから始まったのは良いものの、踊りは得意でないとやんわりと断るナマエに対し、得意げに教えてやると言い出す始末。嬉々とした様子に、ナマエは心中深いため息をついた。言ってしまったことを後悔しても今更どうしようもないが、面倒くさいことこの上ない。こみ上げる不快感に、ナマエは内心舌を打った。

「きちんとリードいたしますので、ご心配しなくとも大丈夫ですよ」
「お言葉はとても嬉しいですが…あなたに迷惑をかけるわけにはいきません」
「迷惑だなんて、そんなこと。私はあなたのような方と踊れるだけで嬉しいですから」
「あら、お上手ですね」

 鬱陶しい。たしかに顔立ちは整っているものの、女性の扱いにいささか問題があるようだ。引き際を見極めずに声をかけるとはまだまだだなと心の中で暴言を吐いたところで、それが目の前の男に通じるはずもなく。煮え切らないナマエを照れているとでも勘違いをしたのか、やや強引に肩を抱き寄せ歩き出そうとした。これにはさすがにナマエも静止の言葉をかけようとしたその瞬間、誰かがナマエの腕を掴んだ。

「申し訳ありません。私の連れが、なにか?」

 普段より幾分か低い声ではあったが、ナマエはそれが誰のものなのか瞬時に気がついた。振り返ればそこには予想通り、人当たりの良い顔を浮かべた田崎の姿があった。ただその顔は少しばかり怒りを含んでいるようにも見える。あくまでナマエに分かる程度ではあるが。

「大丈夫か。お前は酒に弱いんだから、飲みすぎるなとあれほど言っただろう」

 まるで亭主のような言い草にナマエは思わず笑いそうになるが、ここで笑ってしまっては演技ということが相手に分かってしまうかもしれない。そこまで頭の良い男には見えないが、念のためだ。
 ごめんなさい。しおらしく答え男の手をやんわり振り払うと、代わりと言わんばかりに田崎の胸へと寄り添う。亭主の迎えで安心しきったような妻を演じれば、それまで軽快に話していた男も口を噤んでしまう。田崎もそれに気づいたらしく、呆然とする男から奪うようにナマエの腰を抱いた。
 そこまで経ってようやく、自信満々に女を口説いたが惨めにふられたという事実に気づいたのだろう、男は慌てた様子でナマエの腕を掴もうとした。しかしその手は逆に田崎によって掴まれてしまう。

「何か?」

 威圧感に押された男は喉が鳴るような情けない声を出し、慌てながら人の中へと消えていった。予想通りの弱気と哀れみのため息を胸中吐いたナマエは、お礼を言うため田崎から離れようとする。しかし田崎はナマエの肩を抱く力を弱めず、それどころかむしろ離れることを許さないとでも言いたげに体を密着させる。

「田崎さん…?」
「どうしてさっさと断らなかったんだ」

 ほんの少し怒気を含んだ声が自身に向けられたことに、今度はナマエが驚く番だった。どうして田崎さんが怒るんですか。そんな彼女の視線と自身の言葉の意味に気がついたのか、ばつが悪そうに田崎はナマエから体を離し、目線をそらす。

「…いや、すまない。ナマエは悪くないんだ、責めても仕方ないよな」

 田崎にしては珍しく、気弱そうに眉間にしわを寄せそう呟いた。それでも先程の男のように情けなく見えないのは、惚れた弱みというやつだろうか。
 田崎さん。ナマエが今度は少し震えた声で名を呼べば、腹をくくったのか田崎は、困惑や、それでいて決意がこもったような瞳でナマエを見つめた。

「ナマエが俺以外の誰かと踊るなんて、考えただけでも嫌なんだよ」

 期待、という言葉がナマエの頭をよぎる。これも彼の遊びなのか、それとも本気でそう言っているのか。田崎という熱にとっくの昔に侵されているナマエにとってこの言葉は、ひどく甘美な響きをもって全身へと伝わる。
 いつもはただひたすらに隠しているこの気持ちも、今ならば誰も見ていない。皆一様に自らの目の前にいる相手に夢中なのだから。たった一時なら、自身もその熱に身を任せても許されるのかもしれない。きゅう、と胸の辺りを刺激する甘さに、ナマエは思わず下唇を噛んだ。

「…私、ダンスホールなんてめったに来れないから、あまり上手に踊れないんです」

 先ほどの男とは違い、田崎はナマエの含んだ意図には気づける男だ。それが分かってるからこそ、ナマエはあえて先程と同じ言葉を選んでみせた。田崎はほんの数秒驚いた顔をして、そうしてすぐに目を細め微笑む。

「じゃあ、今から一曲、俺と踊ってもらえるかな」
「…喜んで」

 物語の騎士のように差し出された手に自身の手を重ねると、そのまま強く引かれ、再び田崎の胸元へと寄り添う。優しく腰に添えられた手に今度は躊躇うことなく、ナマエは溢れる想いと共に静かに身を委ねた。


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