「ナマエ、これから時間あるかな」
「一応仕事は終わったので、大丈夫ですけど…」
「よし。じゃあ行こう」
「…え?」
春の陽気が心地よいある日の午後。久方ぶりに結城からゆっくり休めという言葉をもらったナマエは、突然開いた午後をどう過ごそうか考えていた。そんな時、ちょうど食堂から出てきた田崎に誘われ訳も分からぬまま連れて行かれた先は、協會から歩いて二十分程の所にある土手だった。
「はい。ここ座って」
ポケットから取り出したハンカチを敷き、ナマエに座るよう促す。対して自分は汚れるのも気にせず腰を下ろし、戸惑うそっちのけで持っていた袋から何かを取り出している。いくら連れてこられたとはいえそこまでしてもらっては申し訳ないと敷かれたハンカチを返そうとしたナマエであったが、言葉が出る直前でふと思い出す。
田崎という男は意外と頑固だ。けれどそれは誰にでもというわけでは決してなく、特にナマエに関する事柄でだけ発揮されるものだった。
例えば、敷いたハンカチをナマエ以外の女性が申し訳ないという思考から断ったとしよう。そうなったら、田崎はあっさりそれを受け入れ即座にそれ退かしていただろう。興味のない相手に社交辞令で行ったことを断られたら、それをありのまま受け入れる。彼はそういった、ある意味でとても冷たい男だ。
しかしことナマエに関しては話が別となる。ナマエが一度ならず何度も、自身のためにしてもらうにしてはあまりに申し訳ないとそれを断ろうとも、上に座らせ、なおかつ「虫は大丈夫か」「まだ春とはいえ冷えるな…寒くないか?」など心配をしていだろう。それぐらい田崎はナマエに甘く、彼女への好意を隠していなかった。
確かに恋人という仲ではあるものの、ここまで過保護にされたことがないナマエにとっては、気恥ずかしさやら戸惑いやらで複雑な気持ちであった。しかしそれらに対し嫌悪感を感じてない辺りがナマエもそうとう田崎に甘いということなのだが、それについて周囲が言及をしないためナマエ本人は気づいておらず、それがまた田崎の過保護を助長させる一因となっていた。
閑話休題。とにかくナマエは田崎が頑固だと理解しており、さらに言えば彼の主張には素直になった方が良いと最近になりようやく学ぶことができたのだ。事実田崎の主張はナマエにとって決して悪いものではないため、聞いておいた方が今後の関係や所謂そういった行為において自身を助けるものにもなるからだ。
「…ところでそれ、何なんですか?」
「ん?んー…」
大人しく腰を下ろしたナマエは、田崎がやけに丁寧に包装紙を開けていることに少し疑問を感じそう質問をする。しかし田崎は楽しげに笑うだけで、ナマエの質問に答えることはない。これは教えてくれないなとこれまた早々に察したナマエは、大人しく包装紙が開かれるのをじっと待つ。ずっと気になっていたものの正体がようやく分かるとあって、ナマエの視線には無意識のうちに力が込められていく。そんな犬のような仕草を微笑ましく思いつつ、田崎はゆっくりとした手つきでようやくその中身を取り出した。
たっぷりのホイップクリームと紅が鮮やかな苺。そしてそれらを包み込む、真っ白でふわふわしたパン生地。それが何かを理解した途端宝石のように目を輝かせるナマエに、田崎はまだ食べてもいないのにここまで喜んでもらえるのならわざわざ買ってきた意味があるものだと、嬉しさを感じる。
「駅向こうで買ってきたんだ。美味しそうだろう?」
「美味しそうです、すっごく」
会話をしつつもナマエの視線はフルーツサンドに釘付けで。あらかじめ持ってきておいたおしぼりで手を拭き、形を崩さないように優しく一切れ渡してやる。ナマエは小さな手でそれを受け取り、ありがとうございますと言い終わるや否やかぷりと食いついた。
その瞬間、幸せに顔をほころばせうっとりとその味を堪能するナマエに、予想通りだと田崎も満足げに微笑む。
「ちなみに福本に頼んで紅茶も用意してもらったんだ。専門店のものだから、すごく美味しいよ」
「…ずいぶん準備万端だったんですね」
「ナマエと出かけられるのが嬉しくて」
そう言いながら少し古びた水筒の蓋を開ければ、風に乗ってその香りがナマエの鼻をくすぐる。「そ、うですか…」とぎこちなく視線をそらすことしかできない自身に情けなさを感じつつも、本当に好意を寄せる相手にこうなってしまうのは仕方のないことだと、言い訳染みたことを誰に言うでもなく思う。
「あ、ナマエ。クリームついてる」
「んぐっ、」
雰囲気を誤魔化すように口へ詰め込んでいたものを、田崎の言葉により慌てて飲み込む。いくら食べられたことが嬉しかったとはいえ、まさかそんな典型的な、子供のようなことをしてしまうとは。他人に、何より田崎に指摘された事に恥ずかしさを感じ、ナマエは慌てて自身の口元へと手を持っていく。
「ど、どこです、っ!」
ぺろり。ナマエの指先がそれを拭う前に、生温かいものがそこへ触れる。驚きで見開かれたナマエの瞳に映るのは、自身の舌先についたそれを口内へ含み「子供みたいだな」と笑う田崎の顔だった。
「た、ざき、さ、」
「美味しかった。ごちそうさま」
口付けをしたわけでも、ましてや舌を絡めたわけでもない。たった一瞬、かすめるように触れただけだった。それなのに、ナマエの全身は一気に熱を持ち始める。
それを見た田崎は、まるでナマエがそう反応するとわかっていたとでも言いたげに、くすりと笑う。
「苺みたいだな。可愛い」
細くしなやかな指先が、赤く染まるナマエの体温を確かめるように頬へ触れる。そのままするすると滑り、先程とは反対の口端からゆっくりと下唇を撫ぜた。ナマエがまるで金縛りにでもあったかのように固まって動けないでいるのをいい事に、田崎は動揺で薄く開いた唇へと指先を軽く押し込む。びくりと震えるナマエの温度で溶けた生クリームが指先に触れた瞬間、田崎は全身に甘さを含んだ妙な高揚感が襲うのを感じた。そして同時にナマエも、熱の込められた田崎の視線と遠慮のない指先に、身体が溶け出すような感覚を覚える。
全身にどろどろと広がるこの甘さはクリームのせいなのか、それとも田崎のせいなのか。その答えなどとうの昔に知っているナマエは、 徐々に近づく熱い視線から、今度は目を逸らささなかった。
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