「よかったら飲みませんか」
「…ナマエか」
そう声をかけられると同時に目の前に置かれたティーカップに、小田切は追っていた文字から視線を上げた。足音で誰かは分かっていたものの、本を読んでいる最中に声をかけられることはあまりなかったため、珍しいこともあるものだという意味を込めてその人物の名を小さく呼べば、ナマエはにこりと微笑み小田切の隣へと腰掛けた。
「今日は何を読んでらっしゃるんですか?」
「詩集だ」
「…珍しい。小田切さんもそういった物をお読みになるんですね」
「どういう意味だ」
「いえ、普段は文学作品が多いので、少し意外だっただけです。決して悪い意味ではありませんよ」
言葉の通り馬鹿にしているわけでは無いということは小田切も理解はしているものの、柄では無いと自身でも薄々感じていたことを改めて指摘された事で少し気恥ずかしくなってしまったのもまた事実だった。
気を紛らわすように出された紅茶を飲む。たちまち広がる甘い香りに、そういえばこの間いい茶葉が手に入ったと田崎と喜んでいたなと思い出した。
「ところで、なんの詩集なんですか?」
身を乗り出し、密着するような形でナマエは小田切の手元を覗き込む。突然の事で驚いた小田切は思わずカップを落としそうになるが、すんでの所で持ち直し机の上へと戻した。
中身が少なくなっていてよかった。もう少し多く残っていたら、確実に零してしまっていただろうから。
「…書庫に置いてあったのをたまたま見つけた。愛、がテーマらしい」
たまたま、などと誤魔化すように呟けば、ナマエは「そういえば前に読んだ気がします」と面白そうに笑った。
埃臭い書庫の中に何故か一冊だけ置かれていた詩集の内容は、なんともありきたりなものだった。愛は美しく、永遠に続くものであり、そしてそれを愛する人へ表現する事は何よりの幸福だと叫ぶ。詩ということもあり直接的ではないとはいえ、意味が分かればたちまち見ているこちらが苦い顔をしてしまうようなものばかりだった。
それをナマエが読んでいたのは意外だったが、スパイとはいえナマエも一人の女性だ。そう言ったものを読んでいてもなんら不思議ではないとは思う。しかし同時に、小田切は妙な気まずさを感じた。恋人という立場にいながらそういった事を行動を自身は何一つ起こしていないと自覚があったからだ。
「…ね、小田切さん」
「なん、っ、」
名を呼ばれ返事をする前に、左半身に柔らかいものが当たる感触がした。頭の中を駆け巡っていた思考は一気に吹き飛び、小田切は漏れそうになった声を、またすんでの所で押し戻す。
そんな小田切の様子に気づいてなどいないナマエはぴたりと肩を寄せ、さらには膝同士を合わせてみせた。情事でぐらいしかここまで密着をしたことがないせいか、小田切は柄にもなく緊張をしてしまう。
「おい、ナマエ…」
「ふふ」
ぎこちなく名前を呼べば、ナマエは楽しげに小田切へと微笑む。その屈託のない、至極嬉しそうな笑顔に小田切はますます何も言えなくなってしまった。
いくら人より恋愛に対して淡白とはいえ、恋人にこんな仕草をされては男としてたまったものではない。白昼堂々そんな欲が自身の中に渦巻くのを感じ、小田切は溜め息混じりに本を閉じた。そしてそれを無造作に机の上へと放り投げる。咄嗟にそれを追ったナマエの視線を、腰に手を添えることで自身へと戻させる。そのやや強引な仕草に、今度はナマエが驚く番だった。
「囁いて欲しいと思うのか、お前も」
何を、とは聞かなかった。その言葉に含まれた意味をすぐに理解したナマエは、細い腰を少し曲げ小田切の顔を覗き込む。
「それが貴方の本心なら」
ナマエは一言だけそう呟くと、小田切の胸元へと顔を埋めた。瞳を閉じ心地良さそうに自身へと寄り添うその姿に、小田切は胸が締め付けられる感覚がした。それこそ、まるであのくだらない詩のように。
真っ黒な艶のある頭をひと撫でし、僅かにかかる前髪を退かす。現れた額に唇を落とせば、小さく笑う声が聞こえた。
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