ぐうと鳴ったお腹に、それまで動かしていたペンを止めた。深く息を吐き、固まっていた肩を解す。横目で時計を見れば、短針は2を示していた。
 しまった、もうこんな時間になっていたとは。いつもなら生徒と共に夕飯を食べるから書類整理も自然と区切りをつけられていたのだけれど、今日は四時間程前に全員街へと出て行ったのだ。そのおかげで止める者も無く、ずるずるとこんな時間になってしまった。
 集中力があるのは良いことだが、根を詰め過ぎるなと、この間結城さんに怒られたばかりだというのに。
 ちょうどグラスの飲み物も無くなった事だし、一旦休憩を入れそのまま最後までやってしまおう。幸い明日は誰にも任務は入っていないから、書類が増えることも無い。
 空になったグラスを持ち、食堂へと向かう。誰もいないせいか、廊下は静かだ。一人寝ているであろう佐久間さんを起こさないようゆっくり階段を下りると、ふと食堂から明かりが漏れていることに気が付いた。
帰ってきていないと思っていたのだけれど、いつの間にか誰か帰ってきていたのだろうか。
 ドアノブに手をかけゆっくりと扉を開けば、そこにはその長身には似つかわしくない割烹着を着た福本さんがいた。

「福本さん…」

 私の声に、それまで食器を洗っていた手を止めこちらを見た。何故彼がここにいるんだ。いや、ここは彼の家でもあるんだから、いるのは当たり前なのだけれど、何故この時間にここにいるのか。出掛けたのではないのか。疲労と眠さで若干回らない頭で何とか考えるけれど、とんと検討がつかない。
 私の考えていることが分かったのかそうでないのか。視線を手元に戻し、いつもの低い声で問い掛けてきた。

「書類整理、終わったのか」
「あ、まだです。今日の分はあと少しなんですけど…」
「あと少しなら、明日に回してもう寝ろ。一気にやっても良い事ないぞ」
「は、はい…あの、福本さん、街へ行かれなかったんですか」
「いや、行ったがすぐに帰ってきた」
「そう、ですか…」

 良かったです、なんて言葉は飲み込んで。無難な言葉しか返せない自分がなんとも情けない。言う勇気はないくせに、嫉妬する心だけは一丁前なのだから。
 その感情に気付くのに、時間はかからなかった。恋はするものでなく落ちるものだと誰かが言っていた気がするけど、あながち間違いではないと思う。いつの間にか目で追っていて、その手に触れたい、触れて欲しいと何度も思った。拾われ、スパイとして育てられて十数年。まさか自分にもこんな感情が備わっていただなんて。驚きだ。

「ナマエ」
「は、はい」
「飯、まだだろ。作ったけど食べるか」
「え、」
「いらないか」
「い、いります!」

 突然の申し出に一瞬理解が出来ず間抜けな返事をしてしまう。そういえば、誰も食事はしていないはずなのに良い香りが漂っている。まさか、作ってくれたのか。私のために。いやでも、自分が食べるからついでに、かもしれない。普段あまり使わないカウンター用の椅子を引っ張り出す。埃を払い座れば、目の前に次々と料理が置かれていく。

「簡単なもので悪いけど」
「そんな事…作って下さっただけで嬉しいです」

 肉じゃがに蕪のお味噌汁に白米。それに冷や奴と、漬物。以前私が好きだと言っていた献立ばかりで、思わず笑みがこぼれる。覚えていてくれたのだろうか。いやでも、肉じゃがは簡単だと言っていたから、たまたまかもしれない。
 先程から自分にも都合の良い事ばかり浮かんですぐに否定の言葉が出てくる辺り、まさに恋する乙女のようで、自分でも薄ら寒くなる。そんな考えを振り払うようにいただきますと手を合わせ肉じゃがを口へと運ぶと、その温かさに舌やお腹が喜んでいるのが分かった。

「はああ〜」
「…そんなに好きなのか、それ」
「好きです。だいっすきです…!福本さんの味付けがなんとも私好みで…もう毎日でも食べたいぐらいです」

 誰かに作ってもらう食事というのは、とても心が温かくなる。その人の気持ちが伝わってくるから。けれど、この胸の高鳴りはそれだけじゃない。作ったのが、他でもない福本さんだからだ。

「…本気か?」
「え?」
「毎日食べたいって」
「…え、私そんな事言いました?」

 嘘でしょ。そんな恥ずかしい発言する訳ないって。だってそんなの、そんなのまるで、

「プロポーズ」
「そうそう…え、」
「そう受け取ってもいいのか」
「は、」

 こんな状況でも相変わらず何を考えているのか分からないあの目が、逸らす事を許さないとでも言いたげに私を見ている。否定しなくては。スパイとして生きていく以上、この感情は必ず邪魔になる。否定する事が彼の為、ひいては私の為になる。
 そう頭では理解しているの、言葉は喉に詰まってしまい、出てこない。
痺れを切らしたのか、ゆっくりと此方に伸ばされた手が、頬に触れた。洗い物をしていたせいか少し冷たい。思わず跳ねる肩を気にする様子もなく、親指が唇に触れ、感触を楽しむようになぞっていく。

「…………」
「…っ、」

 心臓が飛び出そうだ。何事にも動じるなと教わっていたけれど、これは、許してほしい。言葉を発しようにも、口を開けば彼の指を噛んでしまう可能性がある。それは何としても避けなければ。じゃあどうすれば。半ばパニックになりながら考えるが、当然の如く何も浮かばない。

「……残念。ここまでだ」
「え、」

 その言葉に、廊下から話し声が聞こえる事に気が付く。どうやら出ていたメンバーが帰って来たらしい。離されていく手を追って視線を彼へと向ければ、私の唇へ触れていた指に、優しくキスをした。驚いて目を見開く。交わったその視線が先程よりもずっと、熱を帯びている様に感じた。

「っ福本さ、」
「あれ、ナマエさんこんな時間にご飯ですか。太りますよ」

 扉の開く音と共にさらりと腹の立つ発言をしながら、三好さんが食堂へ入ってきた。後に続くように他のメンバーも入ってくる。

「ふ、太りませんよ」
「どうだか。貴方最近、頬の辺り丸くなってきてますよ」
「そんな事ないです!」

 たしかに、最近皆さんに合わせて夕飯を食べているから、必然的に時間は遅くなっているけれど。無駄なものは食べていないし一度の量は少ないから太ってはない、はず。そもそもそれが本当なら、福本さんの手が触れていたなんて大問題だ。
 私が動揺している横で、ふっくらしてるなとか、そんな事考えていたとしたら、私は、私は…!あの夜の様に再びポーカーを始めた彼等の声を聞きながら、自らの頬に触れる。…い、言われてみれば、ふっくらしている、ような…?

「ナマエ」

 流れる水の音と、背後からの声にかき消されてしまいそうなほど小さな声で、名前を呼ばれた。驚いて顔を上げれば、微かに口角を上げる福本さん。わ、笑ってる。

「別に太ってないと思う。柔らかかったけどな」
「!」

 手から箸が滑り落ちた。その音に背中へ視線が集まるのを感じたけれど、正直それどころではない。何も考えてないと思っていたのに、私がどうするべきか必死で考えていたあの時に、まさかそんな事を考えていたのか。あの無表情で、柔らかい、とか。

「まったく…何やってるんですか」
「あ、す、すいません…」

 呆れた声で落ちた箸を拾ってくれた三好さんにお礼を言う。任務に着かなくなって、更に言えば福本さんに好意を抱いてからというもの、動揺を隠す事が下手になっている気がする。スパイとしては相当駄目な状態だろう。いやでも、好意を寄せている相手にあんな事をされて、あんな事を言われたら、誰だってこうなると思う。
 そもそも、あの発言だって。受け取っても、いいのか、なんて。まるでそれが嬉しいという様な言い方。そんなの、期待してしまうじゃないか。ちらりと横目で福本さんを見るけれど、こちらに背を向け棚に食器を片付け始めてしまい、その表情は分からない。
 食べ終わったら、聞いてみようか。きっと福本さんは、私が迷った挙句何もしないと思っているだろう。確かに、僅かな期待にこの先の事を託すだなんて、以前の私だったら考えられない事だけれど、今はなんだか、それも怖くないと思える。そうしてあの無表情を、少しでも崩せばいいんだ。スパイとしてではなく、一人の人間としてその表情を私に見せてくれたなら、その時は、本当の気持ちを言える。そんな気がするから。


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