「ナマエ、これを結城課長に渡しておいてほしいんだが…」
「はい、大丈夫ですよ。お預かりします」
「ありがとう。あと、これも資料室に戻しておいてくれるか」
「わかりました。では、ついでに次の会議に使う資料もお持ちしますね」
「ああ、そういえば必要だったな。よろしく頼む」
「………」
「田崎さん、顔が酷いですよ」

 呆れた声色の実井に指摘をされてようやく、田崎は自身がどんな顔をしているのかに気がついた。バツが悪そうに眉間によっていたしわをなんとか伸ばしてみるものの、耳に入る上司と恋人の会話に再びしわを作ってしまう。
 そんな田崎の様子に実井はわざとらしく溜め息を吐き、その隣に座っていた波多野もからかいの表情で話に加わり始めた。

「おいおい、いつもの余裕はどうしたんだよ。色男」
「男の嫉妬は醜いですよ。せめて隠していただけませんか」
「…分かってる」
「嘘つけ」
「いやだって、よく見てみろ。さっきから佐久間さん、ナマエにばかりものを頼んでいるだろう」
「まあ資料室はナマエの領域だから、必然的に頼む回数は多くなるよな」

 他のメンバーとて、狭い資料室のどこに何があるかといったことは当たり前に覚えている。だが前世の名残なのか雑務処理の能力に関してはナマエが他よりも頭一つ抜きん出ており、また資料室の掃除をするのももっぱら彼女の役目なため、現在は書類整理の一切を任せているといった状態だ。
 そしてなにより彼女の立場は係長補佐であり、その仕事の主は佐久間のサポートなのである。これが仮に佐久間の私的な指名で手伝わせているのであれば文句の一つも言えたのだが、役職である以上はそれに文句を言うことは誰もできない。
 しかしだからと言って、はいそうですかと納得ができていたら田崎は指摘されてしまうほど酷い顔をしなかっただろう。嫉妬で仕事を否定するほど子供でないとはいえ、恋人が自身以外と四六時中共にいるともなれば、面白くないのもまた事実というわけだ。

「…そういえばナマエさん、資料室に行ったんですよね」

 ぼそりと小さく、けれど確実に個人に向けて呟かれた言葉に、田崎はわかりやすいぐらい反応を示す。そして少し迷ったような素振りを見せた後、勢いよく立ち上がり相変わらず眉間にしわを寄せたまま訝しげに呟いた。

「…ちょっと煙草吸ってくる」
「ごゆっくり」

 言うや否や慌ただしく出て行った田崎の背中を見つつ、波多野は隣の涼しげな顔をした男へと視線を戻す。

「お前もなんだかんだあの二人には甘いよな」
「あんな空気でいられては迷惑だからですよ」

 再び呆れたように言いつつも、その顔がどこか安心したように見えるのは気のせいではないのだろう。
 いわゆる前世とやらにおいて、田崎とナマエはスパイという立場でありながら互いに深く愛し合う仲でもあった。それは見ていた周りが、愛する相手がいると人とはこうも変わるのかと感心するほどのもので。もしも全てが終わったのならきっとこの二人は共にいるのだろうと、柄にもなく羨ましく思ったこともあった。
 しかしそんな二人も、抗えぬ時代の波にのまれ結局最期は互いに知らぬところで死んだと聞いた。今生の田崎が過剰なほどナマエに執着をしているのは、きっとそれがあるからなのだろう。そしてそれを実井を含め機関生だった者たちはわかっているからこそ、呆れつつもこうしてほんの少し背中を押してやっているのだ。まあ雰囲気が鬱陶しかったというのも決して間違いではないのだが。
 田崎の机にぽつんと置き去りにされた煙草の箱から二本ばかり拝借し、実井へと渡す。喫煙者ばかりのD課は換気さえすれば部屋のどこでも吸って良いことになっている。下手な言い訳も意味がないというわけだ。
 空になった箱をゴミ箱へと投げ捨て、波多野はぼんやりと浮かんだかつての二人の姿と、リア充爆発しろとネット廃人の同僚のような悪態を煙と共にゆっくりと吐き出した。


「ナマエ」

 一つ深呼吸をし、焦る声を悟られぬよう狭い資料室で器用に動く背中に声をかける。長い睫毛を伏せ資料に釘付けになっていた視線が、ぱっと田崎の方へと向けられた。

「あれ、田崎さんも何かお探しですか?」
「あ、あー…まあ」
「でしたら、教えてくだされば持って行きますよ」

 まさか上司とのやりとりに嫉妬して追ってきましたとは言えるはずもなく。深呼吸虚しく言い淀んだ田崎をナマエは少しも疑うことをせず、あまつさえ資料探しの仕事まで請け負おうとしていた。その優しさに癒され一瞬目的を忘れそうになった田崎であったが、即座に浮かんだ先ほどの光景に奥歯を噛み締め、狭い資料室の通路を塞ぐように一歩踏み出した。

「田崎さ、」

 一瞬。戸惑わせる間も持たせないまま重なり合って、そしてすぐに離れていく。あまりに突然で何が起きたか理解できてないといった様子のナマエの瞳に写る自分の顔が、実井の言っていた通りとても酷い、嫉妬深い男の顔をしていたことに気づいてしまい、田崎は内心苦虫を噛み潰したような思いになった。

「…ナマエ、口、開けて」

 ごまかすように耳元で囁くと、ナマエの肩はびくりと跳ねる。ほとんど無意識なのだろう、距離を取るように胸を軽く押す細腕を掴みその身体をやや力任せに引き寄せる。抱えていた資料がばさばさと音を立てて散らばった。

「で、でも、」
「いいから」
「っ、ん…」

 返事も聞かず半ば強引に唇を重ねる。わずかに開いた隙間から舌を差し込み戸惑う小さなそれと絡めれば、静かな資料室に二人の吐息だけが響いた。

「は、あっ…んん、」
「ん…」
「ふっ、んあ、」

 軽い酸欠と、職場でこんなことをしているという羞恥も相まってか、ナマエの瞳にはうっすらと涙の膜が張り始める。そのことに気付きつつも、もう少しとまるでわがままを言う子供のように、田崎はナマエの咥内で好き勝手に暴れまわる。

「ん、んんっふ、んん、っ」

 しかしいよいよ限界がきたのか、掴まれたナマエの腕が振り払うような素振りを見せる。これ以上やれば怒って話を聞いてくれなくなるな。そう頭の片隅で思い、名残惜しさを感じつつも田崎はようやく唇を離す。けれどやはり物足りなさはあるのか、せめて最後にとばかりに音を立てて真っ赤な耳へ口づけ、ようやく田崎はナマエの身体を解放した。
 散々好き勝手にされすっかり力の抜けてしまったナマエは、驚きと困惑と、ほんの少しの怒りが含まれたような目で田崎を見上げる。濡れた唇がひどく蠱惑的だった。

「な、なんでいきなり…」
「…したくなって」

 咄嗟に出たとは言えこの言い訳はどうなんだと、後になって田崎は少し後悔をする。まるで抑えの効かない若造のような言い訳だ。実際そうだということには気づかないふりをして、一つ咳払いをする。

「…ごめん、嘘。佐久間さんに嫉妬した」

 ここではっきりと言わずにいたら、今後また同じことをしてしまうだろう。当たり前ではあるがようやくその考えに行き着いた田崎は、しかしどこかばつが悪そうにそう言った。
 せめて情けない顔を見られないようにとナマエの肩口に顔を埋める。狭いのをいいことに隙間なくその身体を抱き締めれば、ナマエは戸惑ったような声で田崎の名を呼んだ。

「あ、あの、田崎さん…」

 仕事だから仕方ないでしょう。てっきりそんな呆れた言葉をかけられると予想していた田崎の耳に入ってきたナマエの声色は、わずかな戸惑いと、そしてほんの少しの喜びを含んだようなものだった。
 驚いて顔を上げれば、濡れた唇をわずかに噛み締め耳まで赤く染めたナマエと目が合う。

「嫉妬してくれたのが嬉しい、なんて言ったら…お、怒ります、か……」

 資料室が狭くて、そして抱き締めていてよかった。そうでなければ、古びた空調機の馬鹿みたいに大きな音にかき消されてしまいそうなほど、小さな呟きだったから。

「っえ、あ、田崎さ、!」

 もう駄目だと、誰にでもなく降参の旗を田崎は上げる。勢いに任せ、今度は少しも気遣うことなく、薄く開いたその唇に再び自身のそれを重ねた。

「っん、ふ、あっんん、ん!」
「はっ、ナマエ…」

 くちゅりと音を立てて舌を絡めながら、田崎の左手は性急にナマエの腰を滑り、臀部まで下りていく。そしてスカートのチャックに手をかけた瞬間、ナマエは拘束を振りほどき田崎の胸を強く押し返した。

「まっ、て!ください!」

 呼吸を乱しながらもなんとか言葉を発発すれば、田崎の動きはようやく止められた。しかし添えられた手には未だに力が込められており、早く次の言葉を紡がなければまたすぐにでも体を這いずり回りそうな勢いだった。

「こ、こんな所では、嫌です…」

 眉間にしわを寄せ余裕なさげに熱い視線を送ってくる田崎に一瞬ぐらりと揺るぎそうになるも、ナマエは震える唇でようやく言葉を紡ぐ。それを聞いた田崎は瞳を閉じ、なんとか深く呼吸をする。落ち着け、と自身に言い聞かせ、目の前で縮こまるナマエの耳元で低く囁いた。

「今日定時で上がって、そのままホテル行こう」
「…ず、ずいぶん直球ですね」
「家まで我慢できる気がしない」

 音を立てて赤い耳へと唇を落とし、乱れたナマエのスーツを戻してやる。少ししわが寄ってしまったが、おそらくそれに触れるものは誰もいない。同僚の艶が入った惚気など誰も聞きたくないというものだ。
恥ずかしそうに目線をそらしつつも拒絶をしない様子見ると、夜の誘いには了承したということだろう。
 散らばった資料を拾い集め、先ほどの余裕のなさはどこへやら。すっかり「なにもありませんでした」とでも言いたげな普段通りの装いでナマエの手を引き部屋を出た田崎であったが、結局この後「遅いですよ馬鹿ども」という包み隠さない暴言を吐く実井にナマエと共に平謝りすることになるのだった。


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