「あー、くそっ」
水を吸って重たくなったジャケットを乱暴に脱ぎ床へと叩きつけるように放り投げる。形が崩れてしまうとは分かりつつも、突然のことに苛立ちを隠せないのは事実だった。
──時刻はほんの一時間前に遡る。ナマエは福本に頼まれた物を、波多野は煙草を買いに行くため共に街へ出た。
煙草屋は協會から歩いてほんの数分の所にあるのに対し、ナマエの目的地である八百屋は十分ほどの場所にある。講義終わりで疲れているだろうからとナマエは波多野に先に帰宅するよう促したが、波多野はついでだから同行をすると言って聞かなかった。
というのも、女性が一人で出歩くのは危ない時間帯というのもあるが、なにより波多野はナマエと共に出かけられることを密かに喜んでいたからであった。
世間一般で言われる恋人というもになってから早4ヶ月。共同生活でなおかつ仕事というものがある以上二人が共に過ごせる機会はなかなか無く、だからこそ波多野はこれ幸いとばかりにそれらしい理由をつけて同行してきたというわけだ。
そしてデートというような甘い内容ではないとはいえ、二人での外出に胸を踊らせていたのはナマエも同じで。なんとなくゆっくりになる歩幅に互い疑問を持つことはなく、取り留めもない会話をしながら目的地まで歩みを進めていた。
しかし、そんな二人を突然の悲劇が襲う。一滴、二滴。大きな粒が波多野の鼻先に落ち、まさか鳥の糞かと顔を上げた瞬間、まるでバケツでもひっくり返したかのような雨が降り始めたのだ。
当たり前だが傘なんて持ち合わせていない二人は突然の雨に対処ができるはずもなく。大慌てで近場の建物に入ったはいいものの、そこはまるでお約束とでもいうような場所で。薄暗いライトに簡易の料金表、顔の見えない受付がいるそこは性行為を行うための場所、円宿であった。
「はあ…」
さすがにワイシャツまで脱いではまずいかと一瞬迷いつつも、濡れたものを着たままの不快感を放っておく気にもなれず。ええい儘よとサスペンダーと共にジャケットの上へと投げ捨てる。不快感はなくなったものの、今度は違う意味で胸を支配する感覚を薙ぎ払うように波多野はため息を吐いた。
当たり前のように敷かれている布団からあえてずれた位置に腰を下ろし、たった一時間の間に嵐のように過ぎていった出来事を思い出す。心を落ち着かせるために煙草を吸おうとポケットを漁るも、出てきたものはすっかり湿気ってしまい使い物にならなず、思わず舌を打つ。その音に視界の隅で、未だ扉付近で立ち尽くすナマエが肩を跳ねさせたのが見えた。
「…ナマエ、んな所突っ立ってると寒いだろ」
体を繋げたことは、まだない。互いの置かれた立場、行動時間のわずかな違い、見逃してもらっているとはいえあまり公にできない関係。様々な要因が重なり、二人はいまだ恋人として行為に至ってはいなかった。
しかし波多野も男。好いた相手と成り行きとはいえこうした状態になれたとあっては、チャンスと思わないわけではない。
けれど呼びかけにもナマエは返事をせず、先程からその視線を床へと向けたままである。そんな状態の相手を抱けるほど波多野は無神経ではない。優先すべきは自分の欲ではなく好いた女の幸せだ。それは男として当たり前で、さらに言えば互いに特殊な立場にいる以上、最も大切にすべきことだと波多野は常々思っていた。
布団の脇にあらかじめ置かれたタオルを一枚手に取り、未だ立ち尽くすナマエへと声をかける。
「…当分止みそうにないから、とりあえず風呂入ってこい」
こんな時に風呂などますますまずい状況になるのではないかと言ってから思ったが、あの極寒の海を泳いだ自分はともかくとしてナマエはすっかり任務から遠のいている人間だ。濡れたままでは風邪をひく可能性もある。そんなことにでもなってみろ、帰宅した時男の自分がすっきりした顔をして、女のナマエが風邪を引いているとなってしまっては機関生からの非難は免れないだろう。そもそも仕方がないとはいえ、男としてどうなんだ、それは。
「…おい、ナマエ?」
しかしどうしたことか。先程不安げに肩を跳ねさせはしたものの、それ以降ナマエの反応が一切ない。こんな状況とはいえ波多野の言葉を無視するほどナマエは性格が悪いわけではない。聞こえないなんてことはないはずだ。どうしたのかと、髪から雫を滴らせるナマエの頭にタオルを被せ、縮こまるその肩を掴みやや乱暴に自身の方へと向かせる。
──しとしとと雨が降る。灯りもつけていない部屋の中は暗く、相手の顔なんて輪郭程度しか見えない状態だ。本来の目的である性交を行うだけならばそれでもいいのかもしれないが。
けれどそんな薄暗い闇の中で見えたナマエの顔はおそらく灯りの元であったら、林檎や苺のようだと揶揄えたかもしれないほど、真っ赤に染まっていた。
胸を張るようなことではないけれど、初心な女の誘惑に簡単にのるほど脆い理性を持ち合わせている気はなかった。それは置かれた立場というのももちろん理由の一つではあるが、そうでなくとも好いた女以外の誘惑など、波多野にとっては道端に転がった石のようなものだったからだ。
しかしそれは裏を返せば、好いた女からのものには、強固な理性は砂の城のごとく簡単に崩れ去ってしまうということでもあった。例えそれが意図的なものであろうと、そうでなかろうと。
「っあ…!」
細い腕を掴み、薄い布団へと放り投げる。驚いて起き上がろうとするナマエを遮るように覆い被されば、暗闇の中で大きな瞳が丸くなるのが見えた。
「は、はたのさ、ん」
ようやく発せられたナマエの声は、困惑したような、けれど期待を隠しきれないような蕩けたもので。
まるで餌を目の前にした犬のように、波多野の喉がごくりと音を立てる。目の前の獲物に夢中になって、男として、スパイとして持つべき余裕などとっくにどこかへ消え去ってしまった。
どろどろと溢れ出す想いを共有するかのように、二人は唇を重ねる。すぐに侵入を果たす舌に抵抗することなく、ナマエは自らも舌を差し出し熱を受け入れた。
「っふ、んん…」
「は、あ…っ」
「んぅ、ん…は、たのさ、っん、ふ…」
唇は離さないままに、波多野は器用にナマエのワイシャツのボタンを外していく。そして全て外し終えたところで、ようやく唇を離した。
鼻先が触れ合いそうな距離で見つめ合う。酸欠からか、それともそれ以外か。窓から差し込む月明かりに照らされたナマエの瞳は、星を散りばめたように輝いていた。
綺麗だと、ただ純粋に波多野は思った。触れるのすら躊躇いそうな細くしなやかな肢体。シワの寄ったシーツに散らばる髪は、濡れてその艶やかさを増していて。4本の指の背でナマエの頬を撫ぜ、顔にかかる髪を払う。そのまま耳に触れ輪郭をなぞれば、恥ずかしさからかナマエは視線を彷徨わせたけれど、その手を振り払うことはしなかった。
想い人との行為は、どれほどの快感と幸福をもたらしてくれるのだろうか。未知のものに対する元来の好奇心とそれ以上の期待が、くらりと眩暈さえ起こさせる。
「…ナマエ」
再び呼んだ名がやけに甘さを含んでしまったのは、気のせいではない。
すっかり熱を帯びた手を薄い腹へゆっくりと這わせれば、応えるように細い腕が首へと回わる。うなじを撫でる小さな手は、ひどく熱かった。
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